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※.本文にグロテスクな内容が含まれます。ご注意ください。朱雀操の死についてはいくつか疑問点があります。ひとつは所持していた刀(兼元)の刃だけでなく、裏側の峰にも無数の傷があること。これは、たとえば彼が刀を落として、慌てて拾い上げたものの無我夢中であったので峰打ちのまま切り合ったというのならば、あり得ない話ではないと思われます。しかし、実際には朱雀の方が優勢で中井弘蔵を押しており、ついには中井は袴を足に絡ませて尻餅をついてしまったというので、朱雀が刀を落としたというのは考えにくいと
尊王攘夷というのは、中国語の四字熟語です。もともとの意味は「異民族の侵略に抵抗するために、皇帝のもとに団結しよう!」という、南宋時代に流行った中華思想です。つまり、「皇帝のために夷狄をはらう」のではなく「夷狄をはらうために皇帝の求心力を利用しよう」という思想なんです。「尊王」は「攘夷」の手段であり、「王」は道具なんですよ。そもそもの意味からして。目的はあくまて「日本国の独立を守ること」です。天皇を御神輿に担いで目的達成のためのシンボルにしよう、てのが、尊王攘夷の正しい解釈です。「天皇と
文吉を連れ去ったのは土佐勤王党でした。その一員であった五十嵐幾之進がのちにこんな談話を残しています。(閏)八月末日の晩の目明し文吉の絞殺一件、これには少し私も関係しております。瑞山(武市半平太)先生の木屋町の宿所に集まりまして協議をしましたが、斬りに行くという人が多くて仕方がない。そこで籤(くじ)取りをして決めますと、清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人が当たりました。島村恵吉が、あのような犬猫同然の者を斬るのは刀の汚れである。絞め殺すがよろしいと申しますと、皆それが良いということ
風街散歩新選組ゆかりの地⑥芹沢鴨【せりざわかも】新選組筆頭局長✳芹沢鴨⁉文政10年(1827年)、常陸国行方群玉造町芹沢村(現茨城県行方群玉造町)、芹沢城主の末裔で36代目にあたる豪士、芹沢貞幹の三男に生れる。幼少の頃より力が強くワンパクであったが、人望厚く、剣客であり、絵が上手く、子供たちに大人気だった。青年時代は、水戸学と尊王攘夷思想を延方(のぶかた)郷校で学び、剣術は岡田十松の神道無念流を戸賀熊太郎の元で鍛え、免許皆伝の腕前であった。安政6年(1859年)
押小路高倉上ル目明し文吉右の者、先年より島田左近に随従いたし、種々奸謀の手伝いたし、あまつさえ去る戌午年已来姦吏の徒と心を合し、諸忠士の面々苦痛をさせ、非分の賞金を貪り、その上島田所持いたし候金子を預り過分の利足を漁し、近来に至り候ても尚又様々奸謀を相企み、時勢一新の妨をなし候間、かくの如く誅戮を加え死骸引き捨てに致し候。文吉殺害の理由については、斬奸状に「(安政の大獄で)島田左近に従って勤王の志士を苦しめ、更に島田左近の所持していた金を利用して金貸しを営み暴利を貪っていた」と書か
天誅組とは?幕末の動乱期に幕府を倒し天皇中心の国家にしようと志した尊王攘夷派の集団です文久3年(1863)に天誅組は大和国(現在の奈良県)の五條代官所を襲撃しましたそして五條御政府という政治機関を設置し討幕の狼煙を上げましたしかし天誅組は逆賊として討伐されてしまい現在の奈良県東吉野村で天誅組は壊滅しましたこのあと起こる明治維新は1868年です天誅組の決起は明治維新の5年前になりますそれゆえに天誅組は明治維新の魁といわれておりますまた天誅組が襲