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風街散歩新選組ゆかりの地⑥芹沢鴨【せりざわかも】新選組筆頭局長✳芹沢鴨⁉文政10年(1827年)、常陸国行方群玉造町芹沢村(現茨城県行方群玉造町)、芹沢城主の末裔で36代目にあたる豪士、芹沢貞幹の三男に生れる。幼少の頃より力が強くワンパクであったが、人望厚く、剣客であり、絵が上手く、子供たちに大人気だった。青年時代は、水戸学と尊王攘夷思想を延方(のぶかた)郷校で学び、剣術は岡田十松の神道無念流を戸賀熊太郎の元で鍛え、免許皆伝の腕前であった。安政6年(1859年)
文吉を連れ去ったのは土佐勤王党でした。その一員であった五十嵐幾之進がのちにこんな談話を残しています。(閏)八月末日の晩の目明し文吉の絞殺一件、これには少し私も関係しております。瑞山(武市半平太)先生の木屋町の宿所に集まりまして協議をしましたが、斬りに行くという人が多くて仕方がない。そこで籤(くじ)取りをして決めますと、清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人が当たりました。島村恵吉が、あのような犬猫同然の者を斬るのは刀の汚れである。絞め殺すがよろしいと申しますと、皆それが良いということ
江戸での医学修行を終え、安政四年(1857)に兄顕二と共に故郷下野に戻った河野顕三ですが、それから2年後の安政六年(1859)の秋頃、二十二歳の顕三は目の病に冒されてしまいます。顕三の目の病、それはトラコーマでした。トラコーマはナポレオンのエジプト遠征によってヨーロッパにもたらされ、その後世界に広まった感染症で、ナポレオン率いるフランス軍の兵士はほぼ全員感染していたといわれています。日本での感染拡大は明治維新後のこととされているので、河野顕三はかなり初期の感染者であったと思われます。
坂下門外の変で老中安藤信正を襲撃し、返り討ちにあって死亡した6人の浪士のひとり、河野顕三(こうのけんぞう)は下野国河内郡吉田村本吉田(現・栃木県下野市本吉田)に、医師の甲田顕雄(号・意伯)とその妻・千世(幼名キヌ)の次男として天保九年(1838)に生まれました。母方の祖父は石崎(河野)守弘といい、吉田村とは鬼怒川をはさんだ対岸の芳賀郡長沼村大道泉(現・真岡市長沼)に住し、代々一橋家領の名主をつとめる家柄でした。ちなみに、守弘の父、すなわち河野顕三の曽祖父にあたる石崎音次郎は地元で知られた
天誅組とは?幕末の動乱期に幕府を倒し天皇中心の国家にしようと志した尊王攘夷派の集団です文久3年(1863)に天誅組は大和国(現在の奈良県)の五條代官所を襲撃しましたそして五條御政府という政治機関を設置し討幕の狼煙を上げましたしかし天誅組は逆賊として討伐されてしまい現在の奈良県東吉野村で天誅組は壊滅しましたこのあと起こる明治維新は1868年です天誅組の決起は明治維新の5年前になりますそれゆえに天誅組は明治維新の魁といわれておりますまた天誅組が襲