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第三回:江戸時代編江戸時代は、庶民の文化が花開き、暮らしの中から「日本らしさ」が芽生えた時代。次回は、江戸を通して「国家と民の融合」を考えます。🌸第三回:江戸時代―静かなる繁栄と終焉戦乱の世を経て訪れた、長い安定の時代――江戸。徳川家康が幕府を開いてから、およそ260年。日本は、世界でも稀な「平和の持続」を実現しました。武士は剣を置き、町人は商いを磨き、農民は土地を耕し、この時代に“日本の文化の基礎”が完成していきます。🌾【江戸の豊かさ】江戸時代は、身分制度
今年の秋は山口県(長州)を2回訪れました10月に萩と津和野11月に下関と門司私は観光目的で訪れることはあまりなくて現地の博物館に入って気になる人物や出来事の歴史資料(展示)をじーっと見てます(これも観光?)さてさて萩といえば吉田松陰✨松陰神社の至誠館と松陰歴史館で吉田松陰に関する本を3冊買いました(留魂録と松陰先生のことばと吉田松陰人とことば)下関の市立歴史博物館は長州戦争や下関戦争のことが詳しくまとまっていました途中で小学生達がゾロゾロ入ってきたけど😅そして下関と
山縣大弐生誕300年。車の点検の合間の時間で山縣神社に久しぶりに参拝してきました。山縣大弐(やまがただいに)は、江戸中期の思想家・尊王思想の先駆者として知られ、後世の明治維新にもつながる精神的土台を築いた人物として知られています。武田24将として知られる猛将山縣昌景の子孫として知られ、サンリオの創業者である辻さんも同じく山縣昌景の子孫ということで、山縣神社には寄進された案内板が建っておりました。明年3月には、双葉地区にサンリオの施設ができるということで、先祖伝来の地域に被益する辻さん
変わらぬ風景と息子の質問私が生まれ育った京都・伏見の京橋界隈を歩きました。実家があった場所は今は駐車場ですが、息子が昔の間取りや曾祖父母のことを覚えていてくれたことは嬉しかったです。『息子と歩く伏見区京橋界隈は私のルーツ』息子と歩く、五年ぶりの我が故郷生まれ育った伏見京橋町界隈は懐かしくてテンション上がりました。「一緒に写真撮ろうよぉ。」息子よ、照れなが…ameblo.jp↑そのことはここに記録しました。実家のすぐ裏手には、坂本龍馬が襲撃されたとして名高い「寺田屋」があります
こんな本を読みました。なるべく簡単に感想を纏めたいと思いますが、あまりうまくいかないかもしれません。一応前置きしておきますが、物好きな素人に過ぎない僕が言うことなので、学問的な厳密さに欠けているのはご容赦ください。まずは、著者の津田左右吉について。津田左右吉wiki昭和14年の、いわゆる「津田事件」の当事者として有名です。この事件は、帝紀の系譜は全て史実ではなく、少なくとも15代応神天皇より以前(14代仲哀天皇や13代成務天皇以前)の天皇は創作された非実
元記事「こうやって男に散々媚びてきたんだろうな」柴田淳トランプ大統領をノーベル平和賞に推薦した高市首相を揶揄した投稿が物議-ライブドアニュース高市首相がトランプ米大統領をノーベル平和賞に推薦するとの報道。これを受け、柴田淳がXで高市首相を揶揄したと「女性自身」が伝えた。「男に散々媚びてきたんだろうな」などとつづり、投稿は物議を醸しているnews.livedoor.com男に媚びる、というのを、「権力に媚びる」に変えて解釈すればいいだけだな。ただ、今の日本にできるのは
ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。歴史ランキングにほんブログ村いつも応援ありがとうございます。膳所藩は滋賀県大津市膳所町にあった藩です。領地は近江国各地に分散し合計で7万石ありました。実はこの記事を書いたのもYOUTUBE歴史系動画がきっかけで、膳所藩本多家が本多一族のうち一番石高が高かったことを知ったからです。本多宗家は意見が分かれるところですが、一応平八郎忠勝家とすると、伊勢桑名10万石から播
【政治考察】令和維新【新たな日本の夜明け】表題の件、なにかあらためて“歴仕は繰り返す”をまじまじと実感している。自分は歴史も政治もプロではないのでこんな考察も素人考えもいいとこなのも承知している。でも、今の状況が“明治維新”のときとそっくりだと思ってしまう。そんなことが気になり、チャットGPTにこんなことを聞いてみた。【問】“歴仕は繰り返す”と言いますが、今まさにそれを感じます。例えば、この“外国人優遇”については多少違いはあれど“日米通商修好条約”、そこから“尊王攘夷”に
幕末ふたたび壬生義士伝雪組壬生義士伝スカステで見たけど原作読んでないので挑戦します開国佐幕尊王攘夷など難しい
こんばんはー。高市さんが総裁になってから自民党員への申し込みが16000人を越えたと昨日のXでは話題になっておりましたが、この流れからは解散総選挙を選択する可能性も高くなって来ましたかね。維新との連立+無所属でも過半数ギリギリですし、高市さん人気と立憲、国民に対する批判の声が大きくなって来ている事を考えると解散して選挙し直しした方が安定した議席数の確保が見込める算段を自民党はしているかも知れませんね。ただ、やはり気になるのは高市さんを支持する人達の中に移民反対を相変わらず叫ぶ声が大きい事で
参議院選から急に話題となった移民問題。参政党の「日本人ファースト」というスローガンが、実は多くの日本人が思っていたことを代弁していたので、一気にこの問題が中心となった(なってしまった)印象がありますが、移民反対を叫ぶ人たちがやたらと感情的で、ヒステリックでさえある様子が、どうも僕は受け付けないんですよね。もっとも僕も移民には反対なので大枠ではそのような人たちに真っ向から反対しているわけではないのですが、ただ、そんなにヒステリックになる必要があるでしょうか。そこにはとても違和感があるんです
水戸光圀が編纂した「大日本史」が、幕末水戸藩の尊王攘夷思想のバックボーンとなった。それはもう誰もが知ってる、そのとおりの話なんですが。ポイントは「徳川の御三家にもかかわらず」つまり幕府を守るべき徳川一門の藩が、なんで反幕府思想の温床みたいになっちゃったのか、でしょう。まず前提として、「尊王攘夷=反幕府」では全然ない、ということを確認してください。ここのところを類型的に考えている人が多いですが。尊王攘夷というのは「正統な君主のもとに団結し、外国に屈するな」という思想であり、「いや、それは
三条大橋を東から西へ渡る。鴨川の納涼床も見えるが、納涼にはならない気候だ。最初に橋が架けられた時期は、室町時代だ。もちろん、木製の橋で、天正17年(1589)、豊臣秀吉の命で、五条大橋と共に石柱の橋に改修された。江戸時代には、五街道整備の折の東海道五十三次・西の起点となった。東海道は、京都から、大阪まで続き、大阪までは、京都から四宿の宿場があるので、東海道五十七次と言われている。幕府直轄の公儀橋とされている。架け替えは、江戸時代の元禄年間、明治、大正に行われている。現橋本体が、昭和25年に鋼
三条通を進むと三条大橋東詰南側・京阪三条駅側に、大きな銅像が見える。京都人は土下座像と呼び、待ち合わせ場所に指定する。「土下座に何時ね!」というように。ただ、見てわかるように土下座をしているのではない。ある方向を見つめているのだ。「高山彦九郎皇居望拝之像」という。もちろん、皇居とは、今の皇居ではない。京都御所方面に拝礼をしている像だ。高山彦九郎は、江戸時代の勤王思想家で、京都に出入りするときに、必ず、御所に向かい、拝礼していた。高山彦九郎は、延享4年(1764)上野国新田郡(現在の
多十郎殉愛記2019年4月12日(金)公開巨匠・中島貞夫監督が「極道の妻たち決着」以来、20年ぶりに撮り上げた長編劇映画。幕末。上洛した長州脱藩浪人・清川多十郎は好意を寄せるおとよの想いにも気付かない。そんななか、京都見廻組が新選組に先んじて手柄を立てようと、多十郎捕縛に動き出す。あらすじ幕末の京都。そこは尊皇攘夷を叫ぶ長州や薩摩脱藩志士が、新撰組や見廻組と血で血を洗う抗争を繰り返していた。そんななか、親の残した借金から逃げるように長州を脱藩した清川多十郎は、かつての尊皇攘夷の夢もど
JamesSetouchi2025.9.10島崎藤村『夜明け前』に対する批判的感想文第一部(上下)第二部(上下)新潮文庫にある。1島崎藤村1871(明治5)年長野県木曽郡馬籠(まごめ)に生まれる。14才で東京に遊学(銀座の泰明小学校で北村透谷の後輩)、高輪台町教会で受洗、明治女学校の英語教師となるが、明治26年教え子との恋愛事件で学校を退く。教会も退会。関西旅行。『文学会』創刊に参加。明治29年東北学院の作文教師として仙台へ。明治30年帰
【現代の尊王攘夷】外国人を受け入れたい日本政府の中途半端な意識と体制[R7/9/05]※自演防止@jien1:■忍【LV33,しんりゅう,JK】第13艦隊◆IpxlQ2BXrcdb:25/09/05(金)10:16:06ID:???(抜粋)私は無条件に開国せよとは一言も申し上げていないのです。なぜなら私はカナダに住み、就業を許される為に自分をカナダのやり方に合わせたことをよく知っているからです。「郷に入れば郷に従え」なのです。私はカナダに来た当時よく言われたのが「カナダにはカナ
★第五代孝昭天皇は、我国建国後の国造りの時代の天皇です。御父は懿徳(いとく)天皇、御母は第三代安寧天皇の皇子、息石耳命(いきしみみのみこと)の女(むすめ)である皇后、天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)。御名は観松彦香殖稲命(みまつひこかえしねのみこと)。在位は紀元前四七五年から紀元前三九三年。『日本書紀』によれば、観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)は、懿徳天皇の崩御により即位、都を掖上池心宮(わきがみのいけごころのみや:御所市池之内)へ遷し、世襲足媛命(よそたらしひめ
徳川家康の晩年の子である、9男の義直は尾張で50万石、10男の頼宜は駿河で50万石、11男の頼房は水戸で25万石を与えられて三家となります。頼宜は紀伊へ移って55万5千石になり、義直は木曽と木曽川筋の美濃を加増されて61万9千石になります。頼房には加増はなく、尾張家や紀伊家との差が大きすぎると文句を言って、35万石に高直しをしますが、領地が増えたわけではなく、世間的な見せかけの石高を引き揚げただけでした。石高が少ない状態のなかで、当主が江戸定府だったので江戸屋敷の経費が大きくなって、光
アメリカとの条約が結ばれると、尊王攘夷と呼ばれる運動が起きますが、本来は尊王と攘夷は別のものです、この概念は中国からの輸入であり、国学者が嫌いな儒教から来ています。嫌いな中国の儒教の概念を借りないと自分たちの主張が表現できない、日本の文化の底の浅さを現わしているような状況です。尊王は、儒教の名分論に基づく王室絶対崇拝の思想であり、攘夷は、中華たる自国との対比に於いて外国を夷狄として排斥する主張であって、一体のものではありません。天皇制など廃止して、徳川家が日本国王になっておけば
中村彰彦氏の「孝明天皇毒殺説の真相に迫る」を読んだ。氏は、幕末の皇居のにおける人間関係、及び孝明帝崩御に至る病状を克明に解読し、孝明帝は病死ではなく、明らかに毒殺との説を唱えた。当時、宮廷では、大久保と岩倉があらゆる手段を使い幕府から国権を奪い、暴力革命で大政の権を奪わんとしていた。その最大の障壁が、公武合体による大政の運営を主張していた孝明帝である。帝がこのまま帝位にいると、日本最大の武装集団幕府がいつまでもその国権の主体を手放さない。そこで、岩倉を主犯とする毒殺が行われた。氏は
Sさんは守護霊さんから、品川あたりに縁があるはずだといわれました。カミサンが前世を視ると笑いだしました。江戸時代末期に品川宿から仲間と繰り出している。写真で出回っている幕末の有名人「高杉晋作」が一緒だといいます。高杉晋作は長州藩士で、奇兵隊を組織して幕府軍に対抗した幕末の「英雄」です。品川宿といえば土蔵相模。徒党を組んで御殿山のイギリス公使館に火をつけに行ったのです(1863年)。この時のイギリス公使館はまだ建設途中だったようですが、彼らとしては「尊王攘夷」で外国人排除の口
黄金の簒奪者たち:その63古今東西、「戦争」というものには常に金がかかる。幕末の戦いに勝った長州(藩名は「萩藩」)も当然のごとく維新の戦争で大金を使っている。1865年(慶応元年)から翌年にかけての2年間でミニエー銃4300丁、ゲーベル銃3000丁、木造蒸気船3隻、鉄製蒸気船1隻、その他の武器弾薬などを購入し、そのための資金として最低でも15万205両の支出があったことが『防長回天史』によって判明している。もちろん出費はこれだけでは済まず、それ以前から「攘夷」の決行を唱えていたため、武器
今夜は、刑事ゼロのスペシャル第2弾を観ながら寝ます・・・・。京都府警の優秀な刑事だった時矢暦彦(沢村一樹さん演)は、犯人を追跡中に高所から落下。刑事として復帰したものの、刑事としての20年間の記憶を全て失くしてしまっていた。時矢に憧れ、晴れて総務課から刑事課に移った佐相智佳(瀧本美織さん演)は、時矢の戸惑いと変化に気づき、記憶喪失を見破る。そして、佐相は「(秘密裏に)時矢の取説兼外付けハードディスクになる!」と宣言し、時矢とパートナーを組んで様々な事件を解決していく・・・
大正時代の面影を色濃く残す矢立峠の誇りの日景温泉から出発♪硫黄質の源泉かけ流しお風呂が皮膚病に効くので女子垂涎♪こんなミシュランミ三ツ星でも足らんガチの高級旅館に‼美貌の国民的アイドルにして財閥総帥の梨子嬢と二人きりの激アツ‼勿論着替えや充電器等を凝縮した特大リュックに加え痛バも持参‼矢立峠の深奥でも魂迄紫塗れのラブライバー精神を貫き通します‼何せ、料理を運んでくれた中居さんが重度のダイヤ様推しライバーだった‼フツーにお配膳時の軽い世間話感覚で推しトークに華が咲きますた‼まさか矢
早朝は涼しかったタオルケットをかけるほどではなかったが昼もこのまま続いてほしいと願わざるを得なかった太陽が雲に隠れているせいで気温は上がらずにいたのだが太陽はたった一つなのにその影響力は凄まじい日本の国旗は太陽を現していて、太陽は良きものとしているが(天照大神も太陽の扱い)ここ最近の夏の気候を思うと太陽を無邪気に賛美できない中東の国旗に月が多いのは、太陽の光では強すぎて却って困りその分、優しい月の光を崇めるためらしい(その気持わかる!)ところで、読みかけの本があるにもかかわ
遂にアキバの象徴たるGIGO一番館が賃貸契約満了で8月末に閉館‼私と梨子の邂逅の地なので確り館内を探索&写真も撮って名残納め‼このタイミングでμ´sコラボ開催も来れば行くっきゃない‼丁度この看板入れの前で梨子ちゃんにナンパされましたからね‼本館三階の某クレゲでりんぱな二名のくりぱんが獲得出来ます‼敬虔なμ´s教徒は大枚叩いて一日潰してでも獲得せねばですわよ‼atre秋葉原もラジオ会館に面した壁一面が蓮の空&瑞河勢でジャック‼今回遂に進藤あまね演じる桂城泉&三宅美羽演じるセラス柳田が
声高に外国人排斥、外資排斥を叫ぶ政党?尊王攘夷かよ!?ジャンボタニシばら撒き政策を忘れさせようとしてますか?
保坂正康氏の「近代日本の地下水脈シリーズ」を読んだ。近現代史の第一人者として氏の考察に感服した。明治維新の薩長のスローガンの「尊王攘夷」は表向きで、その実は薩摩が徳川に代わって政権を運営したかっただけである。徳川が倒れた後は、尊王攘夷の攘夷は早々と捨て国を運営して行く。大久保が紀尾井坂で暗殺された時、岩倉は「幕末の大久保との密談はとても人に話すことが出来ない」と語った。孝明帝の崩御も岩倉による毒殺との疑いが消えていない。維新そのものが、暴力と陰謀に拠ってなされた。西郷でさえ、幕府と
舛添要一氏「歴史を学ばない国は滅びる」ナチスに触れ、排外主義政党の支持拡大に警鐘「歴史を学ばない国は滅びる」それは理解できるけどもね・・・。別にナチス・ドイツ、ヒトラーを例えにしなくても日本の歴史にも、排外思想、排外主義はあったよね。「尊王攘夷」江戸末期(幕末)、明治維新の時にさぁ~どっかの政党名でもあるよね「維新」どっかにあるよねその思想・主義に対立する幕府側の組織名だった「新選組」なぜ、それらの名前を政党名にしているのか?日本の政治、社会、世の中