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こんにちは。今日は飛鳥時代に起こった日本最古の南海トラフ地震についてですが、これは「確実に記録された日本最古の大地震」でもあります。これが起こったのが、飛鳥時代の天武天皇の御代でした。この天武天皇というのは、現在の日本のアイデンティティを作り上げた大改革をしているのですが、この背景にはいったい何があったのかは、今では知る由もありません。ですが、「人間の意識変容」というのは、なかなか簡単に起こることではなく、何かのきっかけで「国がひとつにならなければ」と思ったのであれば、それもまた、時代の
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その8)として、「国史編纂編」をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)から⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)までののお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇とし
おはようございます出雲大社の系列の神社の巫女を経まして。教派神道の神職の資格を習得した占い師、白川葵です本日も、お忙しいところ、ご訪問ありがとうございます。初めての方も、よろしくお願い致します。「古事記」と「日本書紀」は、ほぼ同時期に成立した実在する日本の歴史書ですが、両者には、内容に「違い」があります今回の記事は、どのような「違い」があるのかなぜ「違い」が生まれたのかについてです。「古事記」が成立したのは、奈良時代の初頭、712(和銅5)年
奈文研藤原京跡資料館に展示の持統天皇像◆「真の持統女帝」顕彰~反骨と苦悩の生涯~(23)ゆっくりボチボチと…鸕野讚良(持統天皇)の激動の生涯をあらゆる資料から細かく吟味しつつ進めていこうと始めましたが…およそ2年が経ち、遂に即位するところまで進みます。もうここまで来てしまったのか…ちょっぴりとそんな思いに。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~◎過去記事一覧『◆「真の持統女帝」顕彰【過去記事一覧】』持統天皇像(奈文研藤原京跡資料館)◆「真の持統女帝」顕彰【過去
桜木神社(吉野町)大和国吉野郡奈良県吉野郡吉野町大字喜佐谷423(P有)■旧社格村社■祭神大己貴命少名彦命天武天皇「吉野川」を挟み「宮瀧遺跡」の対岸方向に流れる支流、「喜佐谷川(きさだにかわ)」沿いに鎮座する社。◎「喜佐谷川」はかつて「象の小川(きさのおがわ)」として、万葉歌にも歌われた風光明媚な名所(後ほど万葉歌とともに別記事を上げます)。また上流から流れ留まった巨岩は、まさに磐座の如し、美しいだけではなく古代からの霊地と考えられていたようにも思えます。◎「象の小川」
☆象の小川(桜木神社周辺)(きさのおがわ)大和国吉野郡奈良県吉野郡吉野町喜佐谷(桜木神社駐車場を利用)「吉野川」の支流、「宮瀧遺跡」のちょうど対岸方向へ流れるのが「喜佐谷川」(きさだにかわ)。その古名が「象の小川」。万葉歌にも多く歌われた風光明媚な名所。天武天皇、持統天皇の思い出深い地であり、また以降聖武天皇まで続いた「吉野宮(離宮)」は、「宮瀧遺跡」にありました。また源義経や、近年では万葉集研究の第一人者故犬飼孝氏なども、この美しさに魅入られた人たち。今回は桜木神社境内
昨年10月に九州南部を訪れ、【日向三代】を祀る神社をシリーズで記事にしましたが、まだご紹介していなかった神社があります2019年10月8日(火)、旅の最終日に訪れました。月讀神社です桜島港ターミナルより徒歩2分。桜島最大の神社です創建は、和銅年間(708~715年)。大正3年の桜島大爆発🌋により、社殿が熔岩の下に埋没。その後昭和15年、現在地に遷座しました。石段を上ったところに一の鳥居。鳥居の左手に社号碑。その先に、上り坂の参道が続きます。参道の左右に、門守神社。【御祭
【闇思想諸々】★卑弥呼から大化の改新時代の侵略?No.100670年『新唐書』に『倭国と日本が合併した』と書かれたその3年後の673年に、天武天皇は即位したのである。天武天皇が過去をうまく隠蔽して、自分の倭国乗っ取りが正義であることを示すために『日本書紀』を企画したのである。五彩圏諸国は、垂仁天皇が種子島から隼人町の卑弥呼政権を責めて、邪馬壹国が実権を握った。その後、東を担当していた四道将軍の青龍の国『倭』が先頭に立って東へ拡大した。北へも『高麗』進んで朝鮮半
実は、昨夜、↓の詳細についての情報を紀皇女やオッパイ巫女から色々教えてもらったのですが、オッパイ巫女から「わらわのことを巫女と呼んだのはそなたが初めてじゃ」と、怒られました(@Д@;…本当は斎宮(いつきのみこ)と呼ばないといけないのはわかってますが。面倒臭いし、自分の前世なんだから別にいいじゃん(-。-;)で、↑の記事の続きなのですが、寺尾玲子さんの「闇の検証」の第三巻霊能者・寺尾玲子の新都市伝説闇の検証第三巻古代~飛鳥~奈良時代編Amazonの高松塚古墳のくだりを
天武天皇持統天皇檜隈大内陵◆「真の持統女帝」顕彰~反骨と苦悩の生涯~(22)前回の記事にて、「大津皇子事件」の真祖を突き止める作業を行いました。あくまでも数多存在する諸説の一つに過ぎないのでしょうが、自身では大いに自信を持っています。(過信家…?)これで鸕野讚良への疑いを晴らせたのではないか…などとも考えています。私個人的な中では、やれやれ大仕事を終えた!などとも感じていますが…例え姉を失おうとも、父を失おうとも、夫を失おうとも、甥を失おうとも、鸕野讚良は常に前を向きます
『天照大御神(アマテラスオオミカミ)』神々の国「高天原(たかまがはら)」を統べる太陽神であり、皇室の祖『皇祖神』と言われた最高神である。女神とされているが、元々は男神だった説も。最高神なのになぜ、そんなフワッとした存在なのだろうか。実は、天照大御神が最高神とされたのは明治時代だという(割と最近❗)。そして、天照大御神を女神に仕立て上げてしまった人物がいる。『持統天皇』。7~8世紀の女帝。史上3人目となる女性天皇である。そう。持統天皇の旦那様は、その先代天皇『天武天皇』。日本の
古代の都は鳥取県にあった結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。今までの調査の結果です。1天照大神と徐福⑴天照大神の名の由来第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し米子市尾高の大神山神社本社で大神と出会った。徐福は「東南の蓬莱山」(大山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿(鳥取県大山町大山の大神山神社奥宮)や「銅色の龍形の使者」がいて光が天を照らしている「光上照天」のを見た。第2次の徐福(紀元前210年)は多くの少年少女を大神の国に連れて
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。留守から戻って参りました。実は旅に出ていました。奈良県の吉野山へ行ってきました。以前より、桜の時期に吉野山へ行ってみたかったので、今回思い切って訪れてみました。桜も見たかったのですが、もう一つ理由があります。それは第96代の天皇である後醍醐天皇が、この吉野の地で朝廷を樹立し南朝の初代天皇として、京都で北朝の天皇を擁立していた足利尊氏の室町幕府と相対したからです。後醍醐天皇は
丹生川上神社中社:奈良県吉野郡東吉野村小968八年振りの奈良だ。インバウンド観光客でごった返す京都駅で近鉄特急に乗り換え、橿原神宮前駅へ。レンタカーを借りて明日香村から吉野川沿いを行く。途中、対岸の「平宗」という柿の葉寿司の店に寄る。江戸時代末期、文久元年(1861年)に創業。昭和天皇に献上された鮎の寿司が看板商品のようだが、ここは迷わず好物の焼鯖寿司を頼む。金峯山寺参道の柿の葉寿司はかなりしょっぱいが、この酢飯の味付けはほどほどで、甘味もあってたいへん美味である。丹生川上神社下社には天川村
『日本の神様の物語~縄文時代の指導者たち』(仮題)の編集をしてくださっている某大手新聞社の編集記者さんから、形容詞にたよらず、もっと具体的に表現することを心がけるよう、ご指導いただきましたそれで、もっと勉強しなきゃと、本棚にある童話作家さんの本を眺めていたら、梨木香歩さんの『丹生都比売』が目にとまりました。丹生都比売とは、ワカ姫さまのことです本を抱えて、体をすっぽり包み込んでくれるシングルソファーにすわり込み、いそいそと読み始めたら、胸のときめきがとまりませんそれは、天智
前回の記事はこちら。『橘逸勢に導かれて京都を巡るvol.4藤原氏が書き換えた歴史編序』このシリーズを書き始めたのが9月。。。そして完了したのが11月末。。。私は遅筆なのでしょうか?それとも度々脇道に逸れるのがいけないのか?火星ふたご座なので致し…ameblo.jpこちらの本を元に話します。日本を不幸にした藤原一族の正体(PHP文庫)Amazon(アマゾン)513円この本に挙げられている、藤原氏が行った悪行のほんの一部を挙げてみましょう。年代は順不
東京五輪2020、閉会しましたね。このブログでも書きましたが、ワタクシにはスポーツ観戦するっていう習慣がなくて。なので、ほぼ見ないまま終わりましたが、twitterで見る限り、楽しんだ方が多くいるようで、良かったですねーと、そんな気分です。一方で、新型ウイルスの疫病が流行る中では、ほとんど楽しめなかったという人も、やっぱり大勢いるんでしょうね。それは残念でしたございましたね。…と、とりとめのない時節の挨拶はこれくらいにして…(笑)今日は「系図で見てみよう」シリーズを
三栖神社(みすじんじゃ)の創建年代は不詳であるが、旧下三栖村の産土神として古くからこの地で信仰されており、天武天皇、伊邪那岐大神、応神天皇を祀っている。現在の社殿は、慶長八年(1603年)に旧幕臣・角倉了以、加藤清正公の家臣・横地助之丞、郷士・藤林時次、等により造営したとのことである。御祭神:天武天皇、伊邪那岐大神、応神天皇所在地:京都市伏見区横大路下之三栖城ノ前町83鳥居イチョウの巨木京都市指定の保存樹で、高さは22mを超える巨木で、秋は一斉に黄葉
縄文文化に憧れる皆様へ朗報です!同じアメブロで記事を上げておられる方の天皇家に付いての詳細な研究と論拠による記述です。私達が日本の教科書の歴史で学んだ【大化の改新】は朝鮮人による天皇家への乗っ取りとクーデターであった!と以下は縄文の神さんの書かれた内容の一部抜粋です日本書記に記されている中大兄皇子と中臣鎌足が、実際は朝鮮人(百済王族)の入れ替わりであったと、私が推定した根拠を挙げていきたいと思います。日本書記が誰によって、どの様な意図をもって改ざんされたのかが、明確になってきたと思い
『日本書紀』を読んでいると、不思議な数字に気が付くことがあります。『日本書紀』編纂時に現れるのは、天武天皇の崩御日と川嶋皇子の薨去日が同じ9月9日という不思議な一致です。川嶋皇子は、天武天皇が国史編纂の詔を出されたときに、筆頭に名前を記されている皇子です。その川嶋皇子が、天武天皇が崩御された5年後の同じ日に亡くなっています。神武東征に関連して、神武天皇が東征出発前に語られた言葉の中に、1792470年という数字が登場します。東征出発の年が、瓊瓊杵尊が天孫降臨してから17
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきますみなさんこんばんは(´Д`)。本日は歴史好きなぶたさんの大好物!楽しい歴史系図でございます(´Д`)!ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。本日取り上げるのは、天智天皇と天武系の天皇たちとの血縁関係です。皇統の呼び方として、天智系と天武系という言い方があります。天智天皇の崩御後、天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子との間で皇位継承を巡る壬申の乱が勃発、結果大海
三栖神社御旅所(みすじんじゃおたびしょ)は三栖神社の御旅所であるが、創建年代は不詳で、神社は金井戸神社(かないどじんじゃ)と呼ばれているそうだ。天武天皇元年(672年)に起こった壬申の乱の際に、大海人皇子が大津へ向かう途中に、三栖の地を通った時に、村人たちが篝火を焚いて夜道を照らしたと伝えられている。これが、「炬火祭(たいまつまつり)」として、毎年、三栖神社の秋季祭礼の「神幸祭」に行われている。「炬火祭」は京都市登録無形民俗文化財に指定されている。御祭神:天武天皇所在地
天武天皇・持統天皇陵檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)40代天武天皇(てんむ)41代持統天皇(じとう)所在地:奈良県高市郡明日香村大字野口「古事記」は天武天皇が日本の神話や古代史を後世に伝える為に、太安万侶(おおのやすまろ)を中心に編纂を命じ、稗田阿礼(ひえだのあれ)と共に始まりました。しかし天武天皇の崩御により、一度中断しましたが、元明天皇(げんめいてんのう)が再開を命じて712年に献上したそうです。なので、言いだしっぺ・の夫婦でもあ
賣太神社(めたじんじゃ)前回に続き古事記ゆかりの人びで、今回は賣太神社稗田阿礼(ひえだのあれ)です。稗田阿礼は太安万侶と共に古事記編纂を行う為に全国?を回り各地の神話や伝承を暗記し太安万侶が記録して編纂されました。阿礼は記憶力抜群の人だったらしいです。ちなみに、阿礼は世間的にも男性説が有力ですが、個人的には女性と思っていました。で、尋ねたら賣太神社では男性との事です。やっぱり、男性なんですね!所在地は奈良県大和郡山市稗田町319ここは、周囲に堀をめぐらせ
【前書き】今回は、いよいよ本題に入ります。朝鮮人(百済王族)が、日本の支配層にどの様に入り込み、藤原不比等がどの様に日本支配を完成させていったか、その過程をお話して行きたいと思います。それにしても、現在の、日本と日本を取り巻く世界の状況は、日々刻々と、目まぐるしく変化しています。のんびりと、この様な昔の話をしている場合か、とも思いまが、奈良時代から日本がどの様に朝鮮人(百済王族)に支配されてきたかの歴史を知る事は、・現在も日本人を支配する隠れた悪を正しく見抜く目を持つため・私たちが日本
太安万侶(おおのやすまろ)今回は古事記ゆかりの人びで、太安万侶です。前回も紹介しましたが、天武天皇の命より稗田阿礼(ひえだのあれ)と共に編纂に掛かりました。まずは、太安万侶墓から・・・1979年に奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見されて、中から火葬された骨や真珠・木片に貼り付けられた銅板の墓誌などが出土したそうです。これにより太安万侶は実在の人物と証明されたそうです。レンタカーで奈良市郊外の道を走ると標識が・・あいにくの雨。。。標識か