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🌸稗田阿礼は日本最初の女性作家2⛳宣長は最先端の言語学者☆『古事記』の編纂に乗り出した天武帝の意図*諸家に伝わる帝紀(天皇の系譜)と本辞(神話・伝説・歌物語)には*異同が多く、間違いも少なくない*これを正しくする事は、大事業の基礎となる*偽りを削り実を定めて、後世に伝えたいと考えた☆諸家に伝わる帝紀と本辞にも、祭事等に欠かせない猿女君*朝廷ばかりでなく、他の諸豪族も抱えていた☆猿女君の巫女の役割*神楽を舞うほか、多種多様の物語歌をうたい*主たる者は、憑依
🌸稗田阿礼は日本最初の女性作家1⛳阿礼は猿女君か?☆稗田阿礼は男か女の議論はずいぶん昔からあった*女性説を唱える人も多い☆天武天皇が朝廷の公式の修史事業である『日本書紀』と別に*天武天皇、自分のおもい通りに『古事記』を編もうとする*個人的な作業に取りかかった*阿礼は、不可欠の助手として選ばれた☆宣長は「稗田の老翁」と形容した(男性と考えていた)⛳踊りの上代のストリップティーズ(じらし)表現☆阿礼は男性とする説が大勢を占めていた時代*伊勢・神宮皇學館の第五代
聖徳太子、蘇我氏と協力して仏教の教えで天皇中心の国づくり。中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足と大化の改新645蘇我氏を倒す。天智天皇の死後壬申の乱672で弟大海人皇子が息子の大友を倒し天武天皇に。天武の妻が持統天皇に、藤原京。701大宝律令。710納豆ネバネバ平城京。中学歴史聖徳太子から平城京(問題編)聖徳太子、蘇我氏と協力して仏教の教えで天皇中心の国づくり。中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足と大化の改新645蘇我氏を倒す。天智天皇の死後壬申の乱672で弟大海人皇子が息子の大友を倒し天武
浄見原神社(きよみはらじんじゃ)奈良県吉野郡吉野町南国栖■御祭神天武天皇古い画像を整理していて見つけた、2014年の浄見原神社。当時の参拝記録を見ると、この神社にたどり着くのには相当苦労したようです。ナビには掲載されておらず、現地では神社への案内板なども一切なかったようです。天皇淵壬申の乱前夜、追手から逃れて吉野に入った大海人皇子(おおしあまのみこ・清見原天王=天武天皇)。皇子に老夫婦が根芹と国栖魚(鮎)を献上し
新月と満月は祈りの時期ですが、新月と満月では祈りの種類が違うといいます。満月の時は、エネルギーが増大することを祈り、新月の時は新しく始めることを祈るのだといいます。もしかしたら、そんな祈りが込められた詔が、昔々に発せられました。本日は旧暦では三月十七日となりますが、天武天皇十年(681年)三月十七日は、「帝紀及び上古の諸事を記し校定せよ」と詔があった日です。(当時の暦と何度も改暦された後の現在の旧暦は同じではありませんが、単純に旧暦で考えています。)十五日は満月、あるいは満月の時期となって
奈文研藤原京跡資料館に展示の持統天皇像◆「真の持統女帝」顕彰~反骨と苦悩の生涯~(23)ゆっくりボチボチと…鸕野讚良(持統天皇)の激動の生涯をあらゆる資料から細かく吟味しつつ進めていこうと始めましたが…およそ2年が経ち、遂に即位するところまで進みます。もうここまで来てしまったのか…ちょっぴりとそんな思いに。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~◎過去記事一覧『◆「真の持統女帝」顕彰【過去記事一覧】』持統天皇像(奈文研藤原京跡資料館)◆「真の持統女帝」顕彰【過去
賣太神社(めたじんじゃ)前回に続き古事記ゆかりの人びで、今回は賣太神社稗田阿礼(ひえだのあれ)です。稗田阿礼は太安万侶と共に古事記編纂を行う為に全国?を回り各地の神話や伝承を暗記し太安万侶が記録して編纂されました。阿礼は記憶力抜群の人だったらしいです。ちなみに、阿礼は世間的にも男性説が有力ですが、個人的には女性と思っていました。で、尋ねたら賣太神社では男性との事です。やっぱり、男性なんですね!所在地は奈良県大和郡山市稗田町319ここは、周囲に堀をめぐらせ
女帝である持統天皇との密約説も見逃せません。彼女は天武天皇の皇后で、夫の死後、息子の草壁皇子に皇位を継がせようとしましたが、皇子が若くして亡くなったため、中継ぎとして自ら即位し、孫の文武天皇にバトンを繋ごうとし、成し遂げます。その企てに不比等が協力したのです。こちらは証拠があります。「正倉院宝物」の黒作懸佩刀の由緒書に「草壁皇子が常に身に着けていたものだが、それを不比等が賜り、文武が即位した際に不比等があらためて天皇に献上した」とあるからです。これすなわ
「ネオ東京」お散歩から帰って来たら、目に留まり。🌸(๑ーㅅー๑)🌸✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼こんにちは。今日は飛鳥時代に起こった日本最古の南海トラフ地震についてですが、これは「確実に記録された日本最古の大地震」でもあります。これが起こったのが、飛鳥時代の天武天皇の御代でした。この天武天皇というのは、現在の日本のアイデンティティを作り上げた大改革をしているのですが、この背景にはいったい何があったのかは、今では知る由もありません。ですが、「人間の意
こんにちは。今日は飛鳥時代に起こった日本最古の南海トラフ地震についてですが、これは「確実に記録された日本最古の大地震」でもあります。これが起こったのが、飛鳥時代の天武天皇の御代でした。この天武天皇というのは、現在の日本のアイデンティティを作り上げた大改革をしているのですが、この背景にはいったい何があったのかは、今では知る由もありません。ですが、「人間の意識変容」というのは、なかなか簡単に起こることではなく、何かのきっかけで「国がひとつにならなければ」と思ったのであれば、それもまた、時代の
おはようございます出雲大社の系列の神社の巫女を経まして。教派神道の神職の資格を習得した占い師、白川葵です本日も、お忙しいところ、ご訪問ありがとうございます。初めての方も、よろしくお願い致します。「古事記」と「日本書紀」は、ほぼ同時期に成立した実在する日本の歴史書ですが、両者には、内容に「違い」があります今回の記事は、どのような「違い」があるのかなぜ「違い」が生まれたのかについてです。「古事記」が成立したのは、奈良時代の初頭、712(和銅5)年
【中大兄の殺戮の先にある天皇家の安定政権】中大兄の殺戮のうち、蘇我倉山田麻呂事件、有間皇子事件の密告者は蘇我氏系だった。言うまでもなく乙巳の変で中大兄は蘇我氏本宗家を滅ぼした。この時も蘇我倉山田麻呂を味方につけている。蘇我氏の内部分裂を利用して乙巳の変を起こし、弱体化した蘇我氏残党を配下に入れて次々と政敵を倒していく構図が見えてくる。天武天皇は八色の姓を制定したが、最上位の「真人」を側近13氏で固めて、次位の「朝臣」に蘇我氏の血脈に近い氏族の多くを配当している。依然として強
『日本の神様の物語~縄文時代の指導者たち』(仮題)の編集をしてくださっている某大手新聞社の編集記者さんから、形容詞にたよらず、もっと具体的に表現することを心がけるよう、ご指導いただきましたそれで、もっと勉強しなきゃと、本棚にある童話作家さんの本を眺めていたら、梨木香歩さんの『丹生都比売』が目にとまりました。丹生都比売とは、ワカ姫さまのことです本を抱えて、体をすっぽり包み込んでくれるシングルソファーにすわり込み、いそいそと読み始めたら、胸のときめきがとまりませんそれは、天智
32歳でようやく裁判官になった藤原不比等がどうやって朝廷で力をつけていったのでしょう。まず彼が天智天皇の隠し子だという説があります。不比等の母、車持国子君(くるまもちのくにこのきみ)の娘与志古(よしこ)は、天智天皇の胤を宿した後に鎌足に下げ渡されたという伝承があります。『竹取物語』で、かぐや姫に求婚する車持皇子のモデルが不比等だとされるのは、この天皇落胤説にもとづいています。しかし、これを史実とするだけの確実な証拠がありません。次は、県犬養橘宿禰三千代(
今回はこういうお題でいきます。日本史の内容ですね。さて、当ブログでは歴史の謎をめぐる話もあれこれ書いてるんですが、資料としては、できるだけ『日本書紀』のほうを使うようにしてます。理由はもちろん『日本書紀』が正史だからです。『古事記』と『日本書紀』では、固有名詞の用字がほとんど違っていて、例えば、スサノオノミコトは『古事記』では「須佐之男命」、『日本書紀』だと「素戔男尊」になります。「ミコト」を「命」につくるのが『古事記』、「尊」とするのが『日本書紀』と覚えておけばわかりやすいか
丹生川上神社中社:奈良県吉野郡東吉野村小968八年振りの奈良だ。インバウンド観光客でごった返す京都駅で近鉄特急に乗り換え、橿原神宮前駅へ。レンタカーを借りて明日香村から吉野川沿いを行く。途中、対岸の「平宗」という柿の葉寿司の店に寄る。江戸時代末期、文久元年(1861年)に創業。昭和天皇に献上された鮎の寿司が看板商品のようだが、ここは迷わず好物の焼鯖寿司を頼む。金峯山寺参道の柿の葉寿司はかなりしょっぱいが、この酢飯の味付けはほどほどで、甘味もあってたいへん美味である。丹生川上神社下社には天川村
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。留守から戻って参りました。実は旅に出ていました。奈良県の吉野山へ行ってきました。以前より、桜の時期に吉野山へ行ってみたかったので、今回思い切って訪れてみました。桜も見たかったのですが、もう一つ理由があります。それは第96代の天皇である後醍醐天皇が、この吉野の地で朝廷を樹立し南朝の初代天皇として、京都で北朝の天皇を擁立していた足利尊氏の室町幕府と相対したからです。後醍醐天皇は
アルコール:18度精米歩合:90%原材料:米(国産)米麹(国産米)使用米:製造:中本酒造店購入価格:先日東京キモノショーで購入した日本酒。奈良時代の酒造りのレシピを再現したものだそう。奈良時代、天武天皇の孫・長屋王の邸宅跡から出土された1300年前の木簡に記載されたレシピ。今の時代で入手できる素材で蘇らせたとか。全然古臭くないお味、1300年前も本当にこの味出せるの…?当時の米や水でだいぶ違うかな??酸味がありつつ、香りが良い。長屋王やこの邸宅に
今日は漫画家で漫画協会理事長でもあられます里中満智子先生新刊が発売となりました。嫁さんが一番大好きな漫画家さんです。漫画家というより歴史漫画家さんです。嫁さんまだまだ要介護状態なので気分転換には里中満智子さんの本はぴったりだと思います。😪つい最近桓武天皇の番組にも里中満智子さん出演してはりました。🔻英雄たちの選択これまた漫画界の大御所のちばてつやさんからお知らせを頂いたので🔻ちばてつやさんさっそくほぼ新車の電動アシスト自転
いつの時代も政府あれば、反政府派が生まれる。往古の反政府派は天皇崩御を機に、政権を握るチャンス到来とばかりに、乱を起こしてきた。家の繁栄のために。第40代天武天皇から、第48代称徳女帝(孝謙女帝)までは、天武皇統を保持してきたが、781年、とうとう天智天皇の孫である光仁天皇が即位し、皇統は天智に移る。これは藤原百川の仕事だった。称徳女帝の遺言を偽造し、光仁天皇を即位させたのだ。そして光仁天皇の信頼を勝ち取り、娘を皇太子山部親王に嫁がすことに成功。娘は後の淳和天皇を出産し
4/8御釈迦様の誕生日『灌仏会』かんぶつえ薄墨桜の西法寺へお参りをして、甘茶を頂きました。御釈迦様の像に甘茶をかけてお祝い㊗️します。薄墨桜はこちら。満開🌸🌸薄墨桜とは今から約1300年前の話天武天皇が道後温泉に行幸されたおり皇后が病気になられた。病気平癒の勅命を受け、西法寺の薬師如来の御祈祷を行うことに。その後皇后がご回復され、喜ばれた天武天皇より薄墨の綸紙と一本の桜を賜った。この桜がのちに薄墨桜と称されるようになる。学名イヨウスズミヤマザクラ系の八重桜です。
『光る君へ』急速に出世して藤原道長のライバルとなる甥の伊周はどんな政争を繰り広げるのか(JBpress)-Yahoo!ニュース『源氏物語』の作者、紫式部を主人公にした『光る君へ』。NHK大河ドラマでは、初めて平安中期の貴族社会を舞台に選び、注目されている。第13回「進むべき道」では、一条天皇が即位して4年の月日が過ぎて、news.yahoo.co.jp再放送なう。後々伊周vs道長になるのらしいのよね〜まるで草壁皇子と天武天皇のように。この時代は子供も妻も沢山いるから何で
『日本書紀』を読んでいると、不思議な数字に気が付くことがあります。『日本書紀』編纂時に現れるのは、天武天皇の崩御日と川嶋皇子の薨去日が同じ9月9日という不思議な一致です。川嶋皇子は、天武天皇が国史編纂の詔を出されたときに、筆頭に名前を記されている皇子です。その川嶋皇子が、天武天皇が崩御された5年後の同じ日に亡くなっています。神武東征に関連して、神武天皇が東征出発前に語られた言葉の中に、1792470年という数字が登場します。東征出発の年が、瓊瓊杵尊が天孫降臨してから17
愈々桜も満開を迎えた。ここは元伊勢の小夫天神社。崇神天皇6年9月23日に神人分離され神器は皇女・豊鍬入姫によってこの地に遷された。これが神宮の始まり。この事業は長い年月を要し次代の倭姫に託され、遂に天照大神は伊勢に永久に鎮座された。斎宮を制度として確立された天武天皇2年4月、初代斎王として伊勢へ下向する皇女・大来皇女は元伊勢であるこの地で潔斎、禊で使われた化粧川も今も現存しており、神国日本に想いを馳せられる聖地だ。
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その8)として、「国史編纂編」をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)から⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)までののお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇とし
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その7)として、壬申の乱編をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの「⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)」のお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)⑤中臣鎌足
こんばんは‥(^_-)-☆今の奈良は曇っていますが、19℃と暖かく春を思わせる日です。。昨日に病院に行き腕の痛みがだいぶ良くなったが親指にしびれが残るというとそれはもう直らないかもと?・・一寸ショックを受けましたが?・・マリア猫は今朝は枕元に来て楽しく遊んでくれました・・(^_-)-☆だけど、手を噛んだり、引っ掻かれるので、手が痛いです。私が一階に行くとどこからか現れ餌だけを食べてまた姿を消します?・・今日も餌を食べた後にどっかに?・・今日から
名作の語りべ芙美のブログにお越しくださいましてありがとうございます「万葉集」その三をYouTubeにアップしておりますので下のサムネイル画像をタップしてお聞きくださいませ今後ともどうぞよろしくお願いいたしますスタンドエフエムにも朗読をアップしておりますそちらものぞいていただけると嬉しく思いますスタンドエフエム画像はネットよりお借りしました私の好きな万葉歌人は額田王に続きましては大伴坂上郎女額田王以降最大の女性歌人で万葉集には84首が収録されてい
こんにちは!本日はお立ち寄りくださりありがとうございます。伝統文化研究家発酵ふしき通販部運営伏木さなえです^^************わたしは人類の根本神話である『古事記』をやまとことばで紐解きお伝えする語り部の一員としても活動をしているのですが、先日やまとことばの師でもあります林英臣先生、そして語りべ協会の皆さまと共にやまとことば神話の奉納をしながら聖地巡礼✨をするという素晴らしい会に参加して参りました。最初の巡礼訪問地は、古事記という素晴らし
【壬申の乱から平城京遷都まで】壬申の乱で、大海人皇子が天智天皇が営んだ近江朝廷を滅ぼして天武天皇となり、飛鳥に浄御原朝廷を築いたが、天武天皇の崩御後持統天皇が即位し、藤原鎌足の息子不比等を参謀として藤原京を設営し、元明天皇の時代に平城京に遷都した、という流れが正史に記されたことである。【不改常典と天智天皇】元明天皇は即位の宣命の中で、即位の正当性の根拠として天智天皇が制定した「不改常典」をもちだし、先帝(所生の文武天皇)の指名によって即位したことを述べている。持統天皇も元