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新月と満月は祈りの時期ですが、新月と満月では祈りの種類が違うといいます。満月の時は、エネルギーが増大することを祈り、新月の時は新しく始めることを祈るのだといいます。もしかしたら、そんな祈りが込められた詔が、昔々に発せられました。本日は旧暦では三月十七日となりますが、天武天皇十年(681年)三月十七日は、「帝紀及び上古の諸事を記し校定せよ」と詔があった日です。(当時の暦と何度も改暦された後の現在の旧暦は同じではありませんが、単純に旧暦で考えています。)十五日は満月、あるいは満月の時期となって
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その8)として、「国史編纂編」をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)から⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)までののお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇とし
大河ドラマ『光る君へ』は、次回(というか明日!)いよいよ「寛和の変」が描かれます。「寛和の変」は、寛和2年6月23日夜(986年)、時の帝・花山天皇が、元慶寺において突如として出家し、勝手に皇位を下りてしまった事件。↑この予告のサムネールが秀逸すぎるww最愛の寵姫を失ってしまった悲しみにくれる天皇を「后さまのために出家されては」と言葉巧みに連れ出した、藤原氏による政変であったとされています。黒幕は、藤原兼家。これによって次期天皇となる一条天皇の祖父にあたる人でした。
みなさんは次のような伝説を耳にしたことがありますか?「天智天皇の御代に薩摩国から献上した采女の一人に玉依姫(開聞姫・大宮姫とも)がいた。景行天皇の御代に一夜にして噴火し出来た頴娃郡開聞岳の山頂の岩穴で鹿の口から誕生したのが玉依姫だった。仙人に育てられた姫は美人であったので13歳で宮中に上がり天智天皇の寵愛を受けていた。他の后たちはこれを嫉んで、ある時、雪の路を素足で歩かせたところ足跡が鹿にそっくりだと悪口をいった。姫はこれを恥じて、15歳の時、郷里の頴娃に帰ってしまった。天皇は表向きは薨去
ご訪問ありがとうございます。予告通り天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)の間柄を・・・というと、兄弟じゃないの?と思われる方も多いと思いますが、それで正解ですσ(^◇^;)現在、伝えられている書物では、すべて天武天皇は天智天皇の弟(同母弟)になっています。天武天皇は舒明天皇と皇極天皇の子供なのです。古くは井上靖さんの「額田女王」や宝塚歌劇の「あかねさす紫の花」、里中満智子さんの「天上の虹」天智天皇と天武天皇というあまりに偉大な君主の兄弟どうしの確執は、幾多の物語にな
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第23回近親婚ネットのなかでは、朝鮮は毎年美女3000人を2000年に渡って中国に貢いでいたので、女性不足になって強姦民族になり、近親婚を繰り返したので遺伝子が劣化して、世界最悪の劣等民族になったとされていますが、実際には朝鮮のような儒教の倫理で長年運営されていた国は近親婚を嫌います。なにもしなかったのに名前だけは有名な厩戸皇子の父親は用明天皇で、母親は穴穂部間人皇女ですが、このふたりは舒明天皇の子で異母兄妹なのです。用明天皇の母は
白村江の戦いの後、百済の民が近畿地方に渡来した。彼らは現在の関西弁にあたる言葉を喋り現在に至っている。ヤマト政権の中枢を占めたであろうことは既に述べた(参考)。天智天皇と中臣鎌足(藤原鎌足)が起こした乙巳の変(大化改新)以来、現天皇家と主流派公家の藤原氏は車の両輪のように、また表裏一体の存在であった。すなわち、藤原氏は百済からの渡来人で、百済王家の者達だったと推測しても不自然では無い。ちなみに、現在に至る公家系統の旧華族のほとんどは藤原氏の分家である。雑談1長州の毛利氏のルーツの大江氏や
こんにちは。キュアサロンマナです。先日の記事の「和太鼓奉納演奏」まで、だいぶん時間が有りました。行った事の無い神社さんを廻る事に致しました。まず向かったのは、近江神宮さんです。以前から、これがナマで見たかった。近江神宮。主祭神:天智天皇社格:旧官幣大社、別表神社、勅祭社創建:昭和15年(西暦1940年)所在地:滋賀県大津市神宮町1-1以外や以外。新しい神社さんだったんですね。飛鳥から大津に遷都なされた天智天皇をご
しぶしの日(4月24日記念日)2006年(平成18年)1月1日に鹿児島県内の志布志町、松山町、有明町の合併により誕生した志布志市が制定。この「しぶし」という地名は天智天皇が人々の志が篤いことを喜ばれて命名されたと言われる。市では「志あふれるまちづくり」を推進することを掲げ、「し(4)ぶ(2)し(4)」(志布志)と読む語呂合わせからこの日を記念日とした。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。志布志市について志布志市は、鹿児島県東部の人口約3万人の市。市の南部は志布志
基山きざん佐賀県基山町(きやままち)と福岡県筑紫野市にまたがる山日本最古の本格的な山城基肄城(きいじょう)が有りました史跡めぐりコースを歩きます石塁(水門跡)古代山城の構造や土木技術を知る上で貴重ですここから歩き始めます米倉礎石群急な階段を登った先にありましたホウチャクソウつつみ跡付近に奇妙な巨樹が・・・奇妙に折れ曲がった樹に腰掛けた山友を基山東峰通過点と言った感じ東北門跡アオキの花北峰(北帝)412mで
「奈良街歩き」のスタートは、白毫寺付近からです。古都奈良にあって珍しい建物?です。右・かすがちか道…でしょうか。路傍に忘れかけられた薬師如来石仏が祀られています。右手は人々に安らぎと勇気の施無畏印を、左手には病苦を除く薬壺を持つお姿です。坂を登ると、真言律宗のお寺「白毫寺(びゃくごうじ)」があります。奈良市東部若草山・春日山の南に連なる高円山の西麓にあり、その草創については、天智天皇の第七皇子、志貴皇子(しきのみこ)の離宮があり
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきますみなさんこんばんは(´Д`)。本日は歴史好きなぶたさんの大好物!楽しい歴史系図でございます(´Д`)!ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。本日取り上げるのは、天智天皇と天武系の天皇たちとの血縁関係です。皇統の呼び方として、天智系と天武系という言い方があります。天智天皇の崩御後、天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子との間で皇位継承を巡る壬申の乱が勃発、結果大海