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白村江の戦いの後、百済の民が近畿地方に渡来した。彼らは現在の関西弁にあたる言葉を喋り現在に至っている。ヤマト政権の中枢を占めたであろうことは既に述べた(参考)。天智天皇と中臣鎌足(藤原鎌足)が起こした乙巳の変(大化改新)以来、現天皇家と主流派公家の藤原氏は車の両輪のように、また表裏一体の存在であった。すなわち、藤原氏は百済からの渡来人で、百済王家の者達だったと推測しても不自然では無い。ちなみに、現在に至る公家系統の旧華族のほとんどは藤原氏の分家である。雑談1長州の毛利氏のルーツの大江氏や
大和三山(やまとさんざん)のひとつ畝傍山(うねびやま)です。大和三山ではもっとも高く標高198・8メートルだといいます。耳成山(みみなしやま)とおなじく瀬戸内火山帯に属する火山の名残りであり、火山活動によって生まれた火山岩が浸食されてできた山とされるようですね。火口部がないので火山そのものではないといいますが、さてどうでしょう?ただし、古代では火山とされたようで「火がうねる」という意味の「畝火(うねび)」から「畝傍(うねび)」になったともいうようで
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第23回近親婚ネットのなかでは、朝鮮は毎年美女3000人を2000年に渡って中国に貢いでいたので、女性不足になって強姦民族になり、近親婚を繰り返したので遺伝子が劣化して、世界最悪の劣等民族になったとされていますが、実際には朝鮮のような儒教の倫理で長年運営されていた国は近親婚を嫌います。なにもしなかったのに名前だけは有名な厩戸皇子の父親は用明天皇で、母親は穴穂部間人皇女ですが、このふたりは舒明天皇の子で異母兄妹なのです。用明天皇の母は
【滋賀】滋賀県大津市神宮町の古都大津京を開いた天智天皇をお祀りする近江神宮【近江神宮御朱印帳】【近江神宮御朱印】【近江神宮御朱印】【御祭神】天智天皇第38代天智天皇をお祀りした全国16社の勅祭社の一社。境内地約6万坪にある近江造りと呼ばれる社殿は山麓の斜面に近代建築の代表的な本殿・内拝殿を回廊が取り囲んでおり国の登録文化財になっています。近江神宮の御祭神天智天皇は小倉百人
四国三十六不動霊場第12番札所建治寺(こんじじ)【山号】大瀧山【宗派】東禅寺真言宗【御本尊】金剛蔵王大権現【御本尊御真言】オンバサラクシャアランジャウンソワカ【不動明王名称】身代瀧不動【開山】役行者(神変第菩薩)【創建年】天智天皇の頃(661~671年)【童子名】波羅波羅童子(はらはらどうじ)【御真言】おんはらしつびたまにあんをんそわか【童子の教え】道理をわきまえカンマンボロン【御詠歌】わがむねになやみ苦しむ心をば
講座一覧/ライブツアー詳細/経営コンサル/個人相談今日は、近江神宮で昭和祭に参加させていただきました。若干20歳で昭和天皇に拝謁し10年以上もの間昭和天皇の私的な相談役だったり歴代首相からも助言を求められた三上照夫さんの奥様にお目にかかることができましたにっぽんの真像を追求し続けた最後の国師と呼ばれた三上さんのご本読んでみたいと思います第三の文化の時代へ|三上照夫|本|通販|AmazonAmazonで三上照夫の第三の文化の時代
阿武山地震観測所も見えます今回はこういうお題でいきます。かなり地味な内容になるので、スルーされたほうがいいかもしれません。さて、阿武山古墳は「あぶやまこふん」と読み、大阪市高槻市と茨木市にかけて存在します。阿武山の中腹にあり、阿武山自体は標高300mもない街中の低山です。この古墳、じつは様々な事情から、十分調査されないまま埋め戻されてるんですね。ですから、調査報告書なども出されてはおらず、詳細ははっきりしません。ある意味、不幸な経歴をたどったと言っていいかもしれません。まず
【闇思想諸々】★卑弥呼から大化の改新時代の侵略?No.100670年『新唐書』に『倭国と日本が合併した』と書かれたその3年後の673年に、天武天皇は即位したのである。天武天皇が過去をうまく隠蔽して、自分の倭国乗っ取りが正義であることを示すために『日本書紀』を企画したのである。五彩圏諸国は、垂仁天皇が種子島から隼人町の卑弥呼政権を責めて、邪馬壹国が実権を握った。その後、東を担当していた四道将軍の青龍の国『倭』が先頭に立って東へ拡大した。北へも『高麗』進んで朝鮮半
逢坂の関を過ぎると道は下り坂になっていきます。月心寺この近辺の茶屋があり走井餅が名物でした。大正時代に日本画家・橋本関雪の別荘でした。大阪への追分道標「みきハ京ミち」写真では見えてない左側には「ひたりハふしミみち」とあります。なぜか右部分に「柳緑花紅」って刻んであるのですよね・・・蘇東坡の詩の一節で禅宗の教えでも大事な言葉ですがなぜ道標に?閑栖寺ここの門前に車石が保存されています。大津~京都の東海道には牛車の通行を楽にするため花崗岩の板が敷き
現在、飛鳥時代の古代史の謎を一つ一つ解読して行っています。現在進行形なのでどんどん進化していっているわけですが、今回は舒明天皇とは何なのかを考察して行きたいと思います。まず根本は天智天皇と天武天皇とは実の兄弟ではないという原則からスタートしています。天智天皇は百済の武王の子で義慈王の弟、百済人です。天武天皇はおそらく新羅系。名前まではまだ特定できていませんが、儀鳳暦の名前の付け方からこの暦は新羅から導入されたことがわかります。また泉涌寺には位牌が無いことなどから天智とは系統は違うでしょ
宮原誠一の神社見聞牒(084)平成30年(2018年)12月01日No.84朝倉山田の長田大塚古墳は何を語る⑩福岡県の筑前朝倉の山田に、円墳としては九州一の規模の円墳があります。まだ未調査の古墳です。それが山田の井上集落(字長田、字井上)にある長田大塚古墳です。この古墳は三段丘(?)になっており、頂上は円形で平で、祠が鎮座です。この古墳を中心に、朝倉氏、安倍氏、継体天皇に絡み、朝倉の古代を探ってみました。1.筑前朝倉と越前朝倉氏と継体天皇越前朝倉氏は但馬国を拠点とした豪
滋賀県大津市神宮町別表神社官幣大社天智天皇神道近江神宮にお詣りと御朱印を頂きました🙏
「以下は、旧版『筋権党宣言草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。「はじめに以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編
日本史上、「天皇家の落胤」であると噂された人物として有名なトップ3は、藤原不比等、平清盛、豊臣秀吉です。この3人の共通点は、「一代で成り上がって国の支配者に登りつめた人物だ」ということです。どうしてそんな大出世ができたのか、「本人が優秀だから」って理由では、昔の人は納得しないんです。そこで「実は天皇の隠し子だからなんだよ」と言われると、みんな「ああ、道理で」となります。となれば、本人もソレを利用して、自分が「ご落胤だ」という噂を、意図的に流したりします。そうすれば、血筋にしがみついて生きて
少し前の記事で、バイクが故障し、断念した飛鳥(明日香村)観光でしたが、本日リベンジしてきました❗️少々長いので、お急ぎの方は飛ばしてお読みください。まずは、家の用事をせねばと、朝から庭の枝切りなど3時間。もう、スッキリ!そして、帰省中の娘も遊びに行ったので、何の憂もなく自由時間が出来、この隙にと、飛鳥リベンジ決行を決めたのです!行程は前回考えてたままで、改めて計画せず。GWで人出はどうかなぁと思いましたが、電車には、行き帰り全て座れまし
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その7)として、壬申の乱編をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの「⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)」のお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)⑤中臣鎌足