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GWも終わってしまいましたね(^-^;当ブログも久しぶりの長編がもう少しで完結…もう少々お付き合い下さい😅2日目の夕飯もホテルのバイキング!飲み放題2,000円を付けつまみ重視でチョイス90分の制限がある中、飲んで食べて大満足朝飯はこんな感じで…アルコールの力かぐっすり眠れて朝もスッキリ8時にホテルを出発して向かった先は但馬の小京都、出石!古い街並みとお城🏯を見ながらゆっくりと散策そして今回のメイン姫路城へ…青空と白いお城、綺麗でした♪天守からの街並みあっという間の2
前回の続きから、「高知城を国宝にする県民の集い」の事務局長、島崎さんに城の中枢本丸を紹介していただきました。高知城は、1611年に初代土佐藩主「山内一豊」が築いた歴史ある城です。本丸に来て、初めてわかることが。島崎さん「天守が基礎になる天守台に乗っていません。下から見ると大きいですけど、ここに来るとあまり大きくないなと。」三山ひろしさん、川辺アナ「確かに!そうですね。」島崎さん「本丸御殿は別名懐徳館とも言いますが、本丸御殿と天守が一緒に残っているのは高知城だけです。」本丸御殿
↑↑↑たくさんのクリックをいただきありがとうございます!(^^)!2024年2月11日(日)の記録です。【備中松山城とは・・・】標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683(天和三)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。この地は山陰と山
『城コレ』姫路城第2弾天守周辺1/850F#フジミ模型姫路城のホの櫓周辺の渡櫓を入れ込みました。#姫路城
5月になりました。今月のカレンダーはフジに彩られる佐賀県の唐津城です。唐津といえば、日本三大松原のひとつ、虹の松原が有名ですよね。お城の東西に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城と呼ばれました。最近では日本のモンサンミッシェルという呼び方もあるそうです。唐津城は寺沢広高によって、慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて築城されました。築城には豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城の部材が多く使われたといいます。広高は築城と同時に潮風や飛砂から農地を守るために浜にク
4/29月曜日真夜中サイクリング後、少し仮眠し7:00起床。ホテルで朝食を済ます。島根だけに、シジミご飯とシジミの味噌汁。シジミご飯は初めて食べたけど美味かった。8:00頃ホテルをチェックアウト。本日は鳥取に向かいます。鳥取県もオジサンは初。下道とゆうか、山陰道の無料区間を東進。大山が大きく見え、道の駅大山てのが有ったので寄ってみたが大山は見えねぇの。ちょいちょい寄り道。道の駅あらエッサお土産物でドジョウ饅頭的なの売ってたのはコレだったのね。11:00過ぎに鳥取砂丘
姫路城に行ってきた。めーちゃくちゃいい天気だった!姫路に行ったことは何度もあっても、姫路城には行ったことがなかった。ちょうど夫が姫路方面でゴルフをするということで、車に同乗して姫路で別行動することにした。天守に登って、お堀で船遊びして、好古園に行って、お抹茶をいただいて、18,000歩!よく歩きました😊帰り道、義実家にも寄り道して義父母にも会ったから偉い。母の日ポイント5倍ギフトおやき詰合せお惣菜お取り寄せ【おやき9種詰め合わせセット】【野沢菜・きのこ・なす・
2日目(5/2)の旅行記です。お宿を後に向かったのは↓松江城です。国宝松江城ホームページ国宝松江城公式サイト。国宝松江城は、全国で現存する12天守のうちの一つで、唯一の正統天守ともいわれています。別名「千鳥城」とも呼ばれている松江城の歴史や天守内外のみどころ、松江城のおすすめの歩き方など紹介しています。www.matsue-castle.jp本当に凛々しいお城です。全国で現存する12天守のうちのひとつで“国宝”です。その内部まで写真撮影OKとは太っ腹すぎます。
姫路城ってお城の天守は、お殿様が望遠鏡で城下を見降ろしているお殿様専用展望台みたいなイメージがあったけれどお殿様が天守に上がることは、ほとんどなかったのだって多くても一年に一度程度だってそんなにも少なかった事知らなかった。
高知城の魅力を再発見!!続いて、『追手門』から『杉の段』へ。森澤さん「あそこにある木はカヤの木と言って樹齢600年ほど経っています。」森澤さん「高知城より歴史が古いです。高知城の歴史を見守ってきた、そういう木になります。」森澤さん「すごく高価な木で、碁盤や将棋盤などを作る木なんです。」森澤さん「時価1億円と言われています。」ひろしさん、川辺アナ「えっ⁉️すごーい❗️1億⁉️」(ナレーション)カヤの木は、長い年月をかけてゆっくり成長する木。木が硬いため、碁盤や将棋盤にも使
『城コレ』姫路城天守1/800D#童友社姫路城をケースに入る範囲で調整して入れてみました。#姫路城
二日目混雑する前に弘前城公園の桜を見ましょうとホテルを7:30出発今日も曇り空で一寸寒いセーターを羽織り弘前城公園の120分の自由散策です朝から大型観光バスが何台も訪れており特に外人観光客が多かったです日本三大桜名所の1つの弘前公園弘前城公園の桜は「桜守り」の管理により1つの花芽から咲く花の数が4個から5個と多いのが特徴で他の桜より花の密度が濃いです弘前城天守と枝垂桜晴れていれば遠くに「岩木山」が望めますが残念でした弘前公園内の約2,600本の
「お城」の「天守台シリーズ」第16弾は、「高田城」「春日山城」です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」
2021年3月28日満開の桜咲く大阪城を散策しています。いまにも雨が降ってきそうなどんよりとした天気でした。お濠を飾る淡いピンクの桜が綺麗です。雨が降る前に、写真を撮りまくりです。天守から退出するのは山里口出枡形からでした。ここにも桜がありました。お城と桜もいい感じです。お濠巡りの大阪城御座船が見えてます。お濠の外側は、近代ビルが建ち並ぶ都会の世界です。それでは、大阪城とお別れして
先日千葉城に行ってきました😃「今年はお城の天守と桜の写真を撮る❗」という念願がついに叶いました😆あいにくの雨模様のお天気でしたが、綺麗な桜とカッコいい天守を堪能できました🙂千葉城(別名亥鼻城)は平安時代後期に千葉常重が築城したとされ、千葉氏13代(およそ330年間)にも渡り千葉氏の拠点として城を構えていた。千葉氏はその名の通り、今の千葉県を礎を築いた氏族で平安時代〜鎌倉時代には源氏、戦国時代には北条氏に仕えて活躍するも内部分裂や下総原氏、安房里見氏らの攻撃を受けて衰退していき、
愛知県刈谷市が、亀城公園に以前あった「刈谷城」の復元を進める計画この計画に対して、刈谷市民が「刈谷城一部復元を延期し、見直す会」を結成し、これまでに集めた署名1311人分を20日、刈谷市に提出したそうです刈谷城は、徳川家康の母方の祖父に当たる水野忠政が築城されました。天守は当初からなく、石垣なども明治期に解体され遺構はほとんど残っていません。刈谷市は「子供達ちに市への愛着や誇りを育む」として事業費約30億円をかけ「辰巳櫓(たつみやぐら)」「多門櫓」と石垣を復元する計画を進めてい
松山城は、愛媛県松山市の中心部、勝山(標高132m)にある平山城。日本で12か所しか残っていない「現存12天守」のうちのひとつ、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つ。日本100名城の一つ。別名、勝山城、金亀城。築城したのは加藤嘉明。案内板外堀南堀端付近南側広場から天守閣を望む東御門付近から天守閣を望む東御門櫓台石垣跡待合番所跡案内板大手門跡より天守を望む戸無門筒井門
旅館で朝食を食べ『丸岡城』柴田勝家の甥で養子となった「柴田勝豊」によって築かれた「丸岡城」は、天守だけが残っています。北陸地方の唯一の天守でありながら、「現存天守(現存十二天守)」の一つです天守は、1948年の福井地震によって倒壊した後、1955年に部材を70%以上再利用し、組み直して修復再建された。この急角度の階段は日本一とか2番目は、彦根城の階段らしいです『東尋坊』断崖がなんと1kmにもわたって続いていて、国の天然記念物に指定されています。2時間サスペンスドラマのお馴染みの
城の基礎知識、no.12唐破風唐破風について紹介します。天守閣の種類、構造など記事に登場するお城など唐破風豊国神社(京都府)、和歌山城(和歌山県)、今治城(愛媛県)、松本城(長野県)、丸亀城(香川県)、宇和島城(愛媛県)、福山城(広島県)、明石城(兵庫県)豊国神社。伏見城からの移築門です。寺社やお城にある上図のような形状の門を唐門と呼びます。天守閣において、唐門のような装飾を施した破風を唐破風といい、唐破風には、軒唐破風(のきからはふ)と向唐破風(むこうからはふ)の二種類があり
2020年11月21日土曜日名古屋駅から「ワイドビューしなの」で松本へ、そこから観光バスで高速道路を乗り継いでやってきた最初の観光地は、会津若松の鶴ヶ城です。感染者の多い東京を経由せずにここまでやってきましたので、比較的安全なルートだと思えますが、ずいぶんと大回りしましたね。難攻不落の鶴ヶ城と言われています。戊辰の戦役で新政府軍の猛攻の前に籠城一ヵ月するも、城は落ちませんでした。黒船が現れ世間が揺れる幕末で、日本最後の内戦「戊辰戦争」があったのです。
名古屋城の本丸御殿(後半)本丸御殿の廊下や天井などにも見どころはたくさんあります。次は徳川家光上洛時に増築された上洛殿です。絢爛豪華に飾られた城内から外に出ました。金のシャチホコが見えます。不明門。御殿椿。名残惜しいので何回も天守を仰ぎ見ます。足もとにこんなものがありました。(撮影:2023.10.16)
今日は、5月9日。母が1週間ぶりにショートステイ先より帰宅を果たしました\(^o^)/母にとって、1週間という時間の流れは意味が無く、ただ、いつものように息子が迎えに来てくれて自宅に帰った、というだけかもしれません。それでも、自宅でくつろぐ母を見ているとホッとします。咳もほとんどしなくなっています。猫たちも喜んで母にまとわりつきます。日常こそが、最高。①~③赤穂城の紹介も最後です。天守台です。しかし、結局、天守そのものは作られなかったようです。平和な時代に作
伊予国から始まりしまなみ海道を通り備後国は三原城を攻略。そして最後は備前国へ。岡山県岡山市北区岡山城(おかやまじょう)別名:烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)岡山城を攻めるのは二度目です。今回は前来たときに見れてない箇所を見ておきたいのと、建造物が見たくて出陣した激暑盆連休の遠征を岡山城天守で締めくくるというどうでもええ理由からです。ほな、ちゃっちゃと行きます。往時は旭川を背に五重の堀に囲まれていたが、現在は本丸南西部を囲む内堀(濠)を残すのみ。しか
🍜岐阜県大垣市の味付けは東西どちら寄り?今日、天気も良いしドライブをしたくなったので松尾芭蕉の奥の細道の最終地、岐阜県大垣市に行きました。名古屋市南部に住んでいますが名古屋市高速のすぐ側なのでほぼ高速を使い1時間くらいで着きました。ところがお昼を食べるお店がないのです。とはいってもどこの町にでもあるチェーン店はありますがせっかくドライブに来たのだからどうしても地元の味を楽しみたいのは誰でもですよね。そしてやっと探したのが、お蕎麦屋さんです。そこはにしん蕎麦屋さんでした。お蕎麦はとても
名古屋城の本丸御殿(前半)現在天守閣には入れません。そこで2018年に復元された本丸御殿の中を見学しました。玄関を入ると、虎だらけ。ビックリします。謁見場所だった表書院です。藩主の身内や側近だけが入れる対面所です。復元後、間もないこともあって、装飾の色も鮮やかで見ごたえがあります。(撮影:2023.10.16)
こんばんは〜とうとうゴールデンウィーク始まりましたね!実は私はひと足先に火曜日の日お母さんと姫路に行く予定がありついでに観光して帰ってきました🎶姫路城は何回か行ったけど天守で登ったのは初めての経験しかしまずはドトールでランチを🎶私は大豆ミートのバーガー🍔ハンバーグの大きさに驚き!Σ('◉⌓◉’)某バーガーショップとはえらい違い!笑ボリュームすごくてなかなか口に入らなかった🤭笑ジューシーで美味しい〜❤️また機会があればドトール行きたいなぁ🎶近くにないのが残念😢コー
現在の小倉城天守です。小倉城再建天守は、「小倉城」「小倉城天守閣」「小倉城復興天守」「現小倉城天守」など色々な名称があるかと思います。正式名称は「小倉城」のようなのですが、本質的な意味での小倉城と混同してしまうので、ここでは小倉城再建天守として呼ぶことにします。はじめに現在の小倉城天守と昔の小倉城天守の外観は異なる点がたくさんあります。1番大きなところは、大ぶりな破風をいくつも設けたことです。これにより、当時最新式であった層塔型天守が当時時代遅れとなりつつあった望楼型天守と
天守にはこのような柱が沢山ありました。これは天守最大柱。かっこに東とありますが、東西2本あります。この看板には、上記の柱は地下から1階に伸びている柱で、木材を囲うように補強されている様な、包板がない柱だそうです。祈祷札もこの柱に打ちつけてあったそうです。そしてこちら。階を登るところにある床の間に引き戸をつけられています。この赤マルの板ですね。少し出してて欲しかったなあ。。。加工して明るくしてありますが、もう少しくらい二階部分。
日本100名城のひとつで国宝天守&世界遺産の姫路城はいろんな時代の石垣がありますが、その中でもチェックしておきたい古い石垣があります。それが黒田官兵衛が普請したとも考えられる天正年間(1573~93)の石垣です。>>黒田官兵衛普請の石垣の地図🖕それがこの石垣。場所は上山里(かみやまざと:お菊井戸がある曲輪)下段。現地看板には天正八年(1580)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の姫路城改築の時に積まれた石垣と推定されています。当時、黒田官兵衛は秀吉に従い姫路城を明け渡して
(前日に続く)そこは、山道を歩いて20分ばかりで松山城天守へ行ける「二之丸史跡庭園」。二之丸は、本丸(天守など)を防備するための施設で、高い石垣と強固な櫓や門などによって囲まれ、藩主の生活や政務のための二之丸邸があった。▼明治5年に火災により焼失し、庭園に様変わり。その後、2013年に「恋人の聖地」に認定され、今日に