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短距離利用!サンライズ瀬戸・出雲を横浜から東京まで!サンライズの意外な使い方高松・出雲方面に行く定期列車唯一の夜行寝台列車となった「サンライズ瀬戸・出雲」は、最近では旅行者からも人気です。そんな「サンライズ瀬戸・出雲」ですが、実は横浜~東京の短距離区間でも利用が可能です。普段、「サンライズ」に乗れない、JR西日本の電車に乗りたいという方にはおすすめです。※注意事項サンライズをご利用の場合は、就寝中の方のご迷惑にならないよう、ご乗車ください。基本的には東京行き上りサ
大阪駅に到着した「彗星」1981年頃撮影夜行列車の代名詞ともいえるブルートレイン、1980年頃がいちばん賑やかでした。この頃、関西からの夜行特急といえば九州方面への「明星」「あかつき」「彗星」「なは」、北陸方面「つるぎ」「日本海」の運転があり、夜行急行を含むとかなりの本数がありました。朝は5時30分ぐらいから9時ぐらいまでの3時間ちょっとでフィルム1本が無くなるぐらい多かったですねー。写真は大阪駅でのひとコマです。。この頃は編成も長く貫禄がありましたね、、、この他にも「懐かし
青森行き寝台特急列車「はくつる」1号は、定刻22時20分に上野駅13番線を発車した。ホームの照明が煌々と照らし出す売店やベンチ、そして見送りや次の列車を待つ人々といった雑然とした光景が、ゆっくりと後方に流れ始め、速度が増すにつれて溶けるように輪郭がぼやけたかと思うと、一瞬にして暗転した。僕は乗り出していた身を沈めて、ほっと溜息をついた。上野駅に駆け込んだのが、案外ぎりぎりの時間だった。既にホームに入線し、扉を開けている列車のデッキに慌ただしく足を踏み入れると同時に、『「
大阪駅に到着した「つるぎ」1981年頃撮影この頃、関西からの夜行列車といえば九州方面へのイメージが強かったのですが、1980年代は北陸・東北方面や信州方面などへの夜行特急や急行が運転されていました。当時の日本海縦断の夜行特急といえば「日本海」と「つるぎ」で「日本海」は青森行き「つるぎ」は途中の新潟行きでした。現在は北陸新幹線の列車名として活躍しています。ちなみに「つるぎ」の列車名は、立山連峰の剱岳(つるぎだけ)から採用されています。この他にも「懐かしい鉄道」をちょっとだけyo
21:30頃東京駅に地下鉄で戻ってきました。サンライズ瀬戸・出雲が回送されてきました。余裕を持って入線し、静かに出発を待つ寝台列車の風格は格別です。車両基地でよく洗浄された車体が艶めかしく光を映し、これからの旅に臨んでいる…新幹線でははるかにこの電車より長距離を走り回っているのですが、その感慨をあまり感じられません。サンライズ瀬戸が琴平へ試験的に延長運転された頃。それを事前に知っていれば琴平まで乗ったのですが、既に崩せな
今日もごろ合わせ!2021年5月6日でゴーロクの日......で、EF56!旅客列車を記録した唯一のコマです急行おが55号EF56-4この時のシャッターの感触は今も、右手人差し指に.......ダイヤグラムなどは、手に入るものとは思っておらず時刻表を頼りに、ひたすら待ってた日偶然の賜物でしたこの日はEF56の荷物列車と夏臨にEF57が入る期待を持ち、出かけた日で東大宮駅からてくてくと歩いてきたけど今思えば蓮田の方が近かったように思う?
昨年末にあった、KATOさんの製品化発表。その中には、かつて山陰本線の夜行普通列車として走っていた、「山陰」号の製品化がありました。製品化発表の詳細を見てみると、寝台車はありがちなオハネフ12、普通座席車は40系客車、荷物車や郵便車も、60系の茶色の客車ということで、発売されるセットを買う買わないはひとまず置いといて、単品と一部旧客夜行のセットをバラして、一足先にこの普通列車「山陰」であそんでみました。なお、牽引する機関車もDD51とは言いつつも、後期暖地型の1000番台で、今も実車が京キ
昭和の日、東北地方の夜行列車をテーマに運転会。GW前半は、数十年ぶりに親戚が集まっての法事。法事前からホテル前泊で大騒ぎ、お互いにこれが最後の機会になるかと惻隠の情。親戚の中でも話が合う好きな叔父、米寿になった叔父の繰り言を遮ったり否定せずに聴き続ける…おそらくこれが最後になろう。静かになった夜更けにやろうと思っていたら、酒に負けて寝落ちしていて、早朝起きだして母屋の納屋へ。もうネコは入っていませんでした…EF81が牽く客車シリーズで。前回に引き続いてフルディ
青森行きの夜行急行列車「八甲田」は、定刻21時18分に上野駅15番ホームを後にした。14系客車を9両に荷物車を最後尾に繋ぎ、電気機関車に牽引される編成であるから、電車に比べれば行き足は鈍い。がたん、がたがた、と客車が動き出す音が前方から順々に伝わってきて、ごとり、と自分が乗る車両が動き出すまでに瞬時の間が生じているような感触、というのは若干大袈裟な表現かもしれず、実際は全車両がほぼ一斉に動き出しているのだろうが、それでも動力が分散している電車や気動車とは大いに異なる独特の感覚である。
本日は10系寝台車の思い出ということで、しばし、お付き合いいただきたいと思います。10系客車も分類上は、旧型客車に属する車両であり、改造を含めて以下の車両を一般的には10系客車と呼称しているようです。座席車3等座席車(後の2等座席車)ナハ10日本初の軽量客車ナハ10ナハ112等座席車室内灯を蛍光灯化するなど改良が施された、ナハ11(後の1等座席車)ナロ10その後冷房化されて、オロ10となった食堂車普通食堂車オシ17外観は近代的ですが、レンジは旧型と同じで石炭レンジでした
皆さまお疲れさまでございます。『かめひゃん』でございます。4月21日(日)にご乗車いたしました、しなの鉄道『観光列車ろくもん〜姨捨ナイトクルーズ』ご乗車レポもエンディングでございます!!。前記事:『しなの鉄道『観光列車ろくもん』2days2日目♪〜その1。』皆さまお疲れさまでございます。小諸市動物園の『かめひゃん』でございます~♪。いやあ、“地獄の連勤”が終わりましたので、早くブログに着手せねばと焦っておりますっ…ameblo.jp『しなの鉄道『観光列車ろくもん』2days2日目
家が自営業だから、ゴールデンウィークと言っても、どこかに行くことも無くて、思い出もない。たまたま、ゴールデンウィークに休みがとれた時に、鳥取とか倉敷や松山に行ったことを思い出す。あの頃は、夜行列車に乗って、新大阪から新幹線に乗って行くのだけど、指定席がとれなくて、大変だった記憶しかない。懐かしいと言えば懐かしいけど、もう、あんな思いはしたくないから、ゴールデンウィークは、よほどのない限り、どこにも行かない。その方がいいかなぁ〜ちょっと、落ち着いてから出かけるのがいいかなぁ〜と思っている。年末は出
大阪と紀伊半島の間は、かつて夜行列車で行き来する距離であった、と言えば驚く方々もいるかもしれない。今ではJRの特急「くろしお」が4時間たらずで行き交っている天王寺と新宮の間に、21世紀を迎える直前の平成12年まで、夜行列車が走っていたのである。紀伊半島をぐるりと1周する紀勢本線は、紀伊山地が海の間際まで迫る峻険な地形のために、全通したのは昭和34年と比較的遅かった。紀伊半島の南部には、豊かな景勝を抱く観光地や釣り場、温泉が多く、紀勢本線の全通前から関西を結ぶ直通列車が多数運転され、
WESTEXPRESS銀河紀南夜行の旅その20~晴天の紀勢本線を新宮へ~の続き。前回はこちらから『WESTEXPRESS銀河紀南夜行の旅その20~晴天の紀勢本線を新宮へ~』WESTEXPRESS銀河紀南夜行の旅その19~本州最南端串本駅~の続き。前回はこちらから。『WESTEXPRESS銀河紀南夜行の旅その1…ameblo.jp楽しい一夜を過ごした夜行列車もとうとう終着新宮に到着してしまいました。ゆったりとした座席&寝台がとても良かった
このブログでも、ずっと追ってきた、民間の鉄道運行会社、ヨーロピアンスリーパー社の国際列車が、2024年3月25日からチェコの首都プラハに乗り入れを開始しました。ひとまず、おめでとうございます!下記は、プラハ乗り入れを速報としてブログにまとめていた分。『ヨーロピアンスリーパー、2024年春からプラハに乗り入れ開始!』2023年5月に運行開始した、ヨーロピアンスリーパーですが、いよいよ2024年3月からベルリンから更に南下し、ドレスデン、プラハに到達します!ブリュッセル…amebl
夜行快速「ムーンライト信州」は、定刻23時54分に新宿駅10番線を発車した。日中からどんよりと雲が垂れ込めて蒸し暑かった、平成29年7月中旬の週末の夜である。自販機やkioskなど、眩しく照明に照らし出されたホームのもろもろが、ゆっくり後方に流れ出したかと思うと、速度が上がるにつれて、溶けるように輪郭を失っていく。最終列車を送り出して脱け殻のようになった長距離ホームには、数人の駅員以外に人影はなく、向こうのホームにぎっしりとひしめいて電車を待っている帰宅客の方が目につく。見慣れた光景であ
どの駅にも、昼と夜が移り変わる時間帯がある。帰宅ラッシュの潮が引く時間帯に相当することが多く、ホームやコンコースを歩く人々の姿が目に見えて減り、大量の乗降客を捌き終えた駅員や売店の店員がホッと緊張感を緩めて、構内全体がまったりした表情を見せる。夜行列車が発着する駅ならば、大きな荷物を抱えた長距離客の姿が目立つようになる。ところが、新宿駅は、昼と夜の境が判然としない。日付が変わる頃合いを迎えても、なお膨大な数の乗降客が駅の隅々までひしめき合い、駅の外の繁華街へ出ていく人も、駅に
現役蒸機が走っていたころ、山陰線東部地方ではDL補機の付く勾配区間や蒸気機関車の交番検査や廃車回送の貨物列車を撮ると意に反して当時の主力機であったDD54が写り込んでたりして、何とかDD54が目立たないように蒸気機関車を主役に撮れるように苦心したものです。今回は形式消滅が決定的になって急に人気が出てきたDD54の、そんな縁の下の力持ち的存在だった頃の写真を集めてみました。交番検査だったのでしょうか?ナンバープレートを付けたまま西舞鶴のC12がDD546に牽かれて西舞鶴へ
本日をもって、アメブロ開設10周年を迎えることができました。これも皆様の日々のご愛顧のおかげであり、この場をお借りして感謝申し上げます。特に、今年の1月16日には39,000件以上のアクセスを頂き、反響の大きさに驚いております。一番人気の記事は「夜行列車の運用拡大案」です。他にも、未発表の記事を30本ほどストックしておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。書籍のご案内【新・関空アクセス鉄道の復興計画】(詳細)データ本:330円(税込)/紙本:616円
前回は、カヤ21のお話をさせていただいたのですが、もっと面白い車両がありました。それは、ナハ21です。20系客車にはもともとナハ20という座席車がありました、ナハフ20と一緒に「あさかぜ」に組み込まれていました。「特急あさかぜ」を20系化するときに、全車寝台にしても寝台が埋まらないのでは無いかと危惧して、座席車を二両最後尾に連結したと言われています。実際には、杞憂に終わり、「みずほ」置換えまでは座席車が連結されましたが、昭和40年になると九州特急では寝台車化が進められ、最後まで残ったのは
カートレイン沼にハマってみた第6回はカートレインではないのですが、エンジン付きの二輪車を運搬した歴史として、オートバイとそのオーナーを一緒に運んだMOTO(モト)トレインを紹介したいと思います。MOTOトレイン(モトトレイン)筆者所有のオレンジカードの接写より運行時期、区間運行年とシーズン1986年〜1998年全13シーズンとも夏休みのみの運行運転区間上野〜函館全13シーズン→寝台車の運転区間について、1986年、1987年シーズン
北海道に初めて足跡を印した昭和62年初夏から半年が経った師走に、僕は、再び北の大地に向けて旅立った。握りしめているのは「道南ワイド周遊券」、上野駅から乗り込んだのも21時18分発の夜行急行「八甲田」と、何から何まで半年前の焼き直しであるけれども、それで北海道旅行の魅力が薄れるということはない。北海道への汽車旅は子供の頃からの憧れであったが、1度体験したことにより、熱が冷めるどころか何度行っても良いとまで魅了されている。ただ1点異なるのは、今回は連れがいることで、僕の隣りには同じ大学に通うJ
中石見カーブをゆく寝台特急です。4031M朝から強烈な紫外線が降り注ぎます。サンライズ出雲(後追い)日本では最後の定期夜行列車です。上石見ー下石見(信)にて
昨年「来てほしい」と言われた、モンゴル第二の都市エルデネトにプールの講習会と実技、デモンストレーションと大忙しでした。ウランバートルから夜行列車で13時間。とてもきれいで50年前に出来た都市だそう。幼稚園のプールを使って二日にわたって7人の子ども達とプールを楽しみました。一番最後に入った、緊張性アテトーゼ型くん。対称性を作りながら浮き身がどこでとれるかを探っていきました。ぶかぶかの浮き輪に背浮きになると、目を浸水しながらリラックスしていき、シザース
・下りの「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」をそれぞれ単独運転に変更します。・下り「サンライズ瀬戸」の東京発車時刻を1時間繰り下げて大阪と三ノ宮にも停め、かつ「みずほ601号」との接続時間を短縮して九州方面へのアクセスを改善します。・臨時の「サンライズ出雲91号」を「サンライズ瀬戸」に併結して所要時間を短縮します。・「サンライズ出雲91号」には285系の予備編成と117系「WESTEXPRESS銀河」を交互に充当し、帰省シーズンに毎日運転します。・「サンライズ出雲
上野-金沢間を結んだ夜行急行列車「能登」の歴史を時刻表で振り返る。今回は国鉄時代の「能登」をまとめた。「能登」は上野-金沢間を上越線(長岡)経由、または信越線(長野)経由で結ぶイメージが強い。それは私が子供の頃、1980年代に「能登」という列車名を覚えたからである。この記事を書くにあたり、私が生まれる前の1967年の時刻表(復刻版)を調べると、意外なことに「能登」は東京駅から東海道線を下り、米原から北陸線を金沢へ向かうルートで運転されていた。交通公社の時刻表1967年9月
場所はふたたび高梁川第2橋梁。定時にやって来たサンライズ出雲です。4031M狙っていた訳でなく不意打ちに対して咄嗟に構えたローアングルです。バックショットどうも脳内の優先順位が低いみたいで伯備線では見る鉄が多い列車です。この日は線路端にいて何とか撮れました。木野山-備中川面にて
おはようございます。本日は過去の乗車レポートからの写真を投稿致しております。こちらは189系電車の車内。昼行特急の他にも、夜行列車として急行アルプス、急行妙高、さらにムーンライト信州で活躍した実績がありました。その時、確か室内灯の減光があったと記憶しています。自由席は消灯せず、指定席は減光し、グリーン席は客室内のみ完全消灯であったと思います。そこで気になったのが、こちらの373系。ムーンライトながら号として走っていた頃、客室の減光はあったのでしょうか。当店
たまたま昔の写真を整理していたら、懐かしい写真が出てきました。1982年11月15日のダイヤ改正の時だったと思いますが、「寝台特急金星号」のラストランに乗るためだけに、「名古屋とんぼ返り」を決行しました。その記録です。それではどうぞ!--------------------------------------------------------------------------------仕事が終わってから福岡空港へ、名古屋空港行の飛行機に乗ります。定刻に着いた名古屋空港からバスで名
急行銀河とカヤ21急行銀河が昭和51年2月に、特急つるぎが、24系25形に置き換えられることとなり、「寝台特急つるぎ」の編成を譲り受けて、銀河が、急行で初めて20系使用を使用することになりました。これが、20系の急行使用の最初になります。(ちなみに14系寝台車は、試作編成が急行瀬戸で先行使用しています)20系と客車は、元々95km/hでしたが、ヨンサントウの改正で、ブレーキ装置を改造、110km/h運転が可能となりました。実際の改造は、1965年度新製の20系特急客車からには取付けら