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東武の通勤形車両では8000系に次ぐ勢力で、伊勢崎線浅草口や東上線池袋口ではいつ行っても見ることが出来た10000系列ですがその中でも車体がコルゲート仕上げの10000型は2両固定と6両固定が伊勢崎線・日光線系統、8両固定と10両固定が東上線系統と配置を分けていたため全固定編成の撮影と乗車をするのは大変で、「1日ではしんどいな」って思ったこともあった程でした。現在は8両固定が伊勢崎線・日光線系統に移ったため東上線系統は10両固定だけになり、修繕工事のタイミングを逃したため未修繕のまま活躍を続け
本日は、「高天神城(後編)」(静岡県掛川市)の「西峰」をお届けします。「前編」の歴史と城主についてお話ししたように、このお城は「武田方」と「徳川方」との激しい攻防戦が繰り広げられましたので、攻防から守る或いは阻止する仕掛けが、本日お届けする「西峰」には満載です。「前編」はこちらからご覧ください↓『<高天神城(前編)>”城友”の案内でまずは”東峰”から登城開始』新春初お城廻り、「青春18きっぷ」による静岡県内の4城(横須賀城、掛川城、高天神城、諏訪原城)巡りのブログをお届けしていま
下万願寺城(加西市下万願寺町小池・熊谷)詳細不明。主郭北西二郭北西三郭北西二重堀切(南東)北西二重堀切間の北西四郭北西二重堀切(北西)自然地形の北西五郭下万願寺城遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ加西市の城
宮田城(隠岐郡隠岐の島町東郷)宮田城の築城は、鎌倉時代にさかのぼるとも伝えられている。その当時、隠岐を管轄した守護佐々木氏によってその原形が造られ、後に守護代となった隠岐佐々木氏によって整備されたとされる。室町時代に入って、尼子の一族が守護代となり、隠岐国の領主となっていった。後に本拠地を「国府尾城」に移転したが、その後も宮田城は引き続き城塞としての機能を持ち、「山中鹿介」らが「尼子勝久」を報じて但馬から隠岐に渡ってきた時も、隠岐佐々木氏はこの宮田城を提供した。(「出雲史記」「隠岐視聴合紀」「
播磨国の山城を攻めました。ちょうど1年前の矢筈城地獄登山が蘇る。兵庫県たつの市播磨・城山城(きのやまじょう)別名:亀山城、木山城城山城は、同一の山の上に7世紀末の古代山城と、正平7年/文和元年(1352)に赤松則祐(村上源氏・播磨守護)が築城した中世(南北朝時代)山城が複合する珍しき山城です。馬立登山口。国道179から県道724へ。来栖川に架かる橋を渡り、この先に墓地の駐車場があり、そこに本陣を敷きました。標高458m、比高400m揖保川の西岸にある山塊の亀山
標高238mの山城真下に飛騨川や飛騨街道が通る交通の要衝通称城ケ洞「[七宗町史通史編]によれば「最後の城主は飛騨の金森家で、その基地は樫原にあり、城は見張り場所の役をしていたらしい。……」なお、[七宗のあゆみ]によれば、城跡に金の茶釜やその他の宝物、金森氏の軍用金が埋まっていると言う伝承があると記載している。中世城郭報告書より抜粋↓がR41沿いにある碑ですが・・・確かにこの上の山に遺構碑を見ると直登したくなりますね~フェンスの向こうには高山本線が走って
加那女岐城(真庭市惣・草加部・日名)別名:金砕山城『作陽誌』は「加那女岐山」とし、真島郡惣村の西境にあり、かつて神林寺(真庭市神)の僧徒が篠向城の城主との戦いに陣したと記す。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第3冊美作編より)北西八郭南帯曲輪下段北西八郭南帯曲輪上段自然地形の北西八郭北西畝状竪堀群(最西)北西畝状竪堀群(西2)北西畝状竪堀群(西3)北西畝状竪堀群(中)北西畝状竪堀群(東3)北西畝状竪堀群(東2)北西畝状竪堀群(最東)北西七郭北西七郭と北西六郭間の南竪
亀山城(総社市下林・法蓮)『備中誌』では城主を佐野和泉守忠綱とし、永禄2(1559)年に落城とする。『吉備郡誌』では、天正年間の城主を佐野和泉守忠職とする。「吉備津宮文書」には、幸山城主石川氏の家臣として忠職の名が見える。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)東三郭の東横堀と帯曲輪東三郭南帯曲輪上段東三郭南帯曲輪下段東三郭東三郭の西土塁東堀切東堀切からの南二重竪堀(東)東堀切からの南二重竪堀(西)南帯曲輪中段南帯曲輪中段の東土塁南帯曲輪下段の東下段南帯曲
三津田城(三木市志染町三津田字城ノ腰)三津田城は、赤松氏の一族で有馬郡有馬荘を領した有馬義祐を先祖とする有馬法印則頼の居城である。則頼の父有馬重則が大永年間(1521~1528)の初めに築城したと伝えられている。ここに城を築いた理由としては、有馬郡から美嚢郡に進出してきた重則が、別所村治(三木城主)の攻撃に備えるためと考えられる。湯山街道(京・有馬温泉と姫路を結ぶ街道)を見下ろす三津田の城山に築かれ、三木城から7kmという近距離にある。重則は、天文二十三年(1554)に畿内をほぼ制圧した四国
2025年の初記事です。今年も細々とやって行きますので、適度にお寄りいただければ嬉しゅうございます。この正月、近場のちょっと名の知れた神社なんですが、初詣に行きました。正月の初詣自体何十年かぶりぶりでして、近年は初攻めのついでに人気のない神社で初詣を済ますという事にしてきましたが、南斗!詣でるのに参道から拝殿まで大行列できてますやんまぁTVで紹介してるような有名な神社の比程でもありませんが、いや~神さんもようさんの人の願い聴き入れるの大変やのう。そんな要らぬ心配しながら詣でてきま
「だい★あっきーの活動日記」を読んでくださっている皆さん、こんばんは!お正月いかがお過ごしでしょうか?僕は正月二日と三日は地元の神社に初詣に行きました!1月2日堀切天祖神社しょうぶ七福神堀切十二支神1月3日葛飾氷川神社明日は新春恒例の七福神めぐりをする予定です!毎年違うコースをめぐっています。平成21年千寿七福神平成22年日野七福神平成23年八王子七福神平成24年深川七福神平成25年雑司が谷七福神平成26年下谷七福神平成27年隅田川七福神平成28
本日、所要により、京成線の千住大橋駅を利用!すると、券売機の上に貼ってある「きっぷ運賃表」がダイヤ改正後のものになっていて、ダイヤ改正後と同時に運賃を改正する区間だけ現行運賃を上からシールで貼ってあるので、どの路線が値上げするのか一目瞭然!まずは東武スカイツリーライン。例えば、堀切までは現行270円ですが、280円にアップですね。続いて東京メトロ。千駄木までは現行は290円ですが、300円にアップですね。最後にちょっとわかりにくいのが新京成線。今年10月に一律20円値上
石峯寺城(神戸市北区淡河町神影字聖岡)別名:聖岡城築城時期は不明だが、南北朝時代には南朝に属したため、北朝方の赤松氏からの攻撃に何度もさらされた。南十郭南九郭南八郭南七郭浅い南堀切南堀切からの西竪堀南堀切からの東竪堀南六郭帯曲輪状の南五郭帯曲輪状の南四郭帯曲輪状の南三郭帯曲輪状の南二郭主郭主郭の東土塁主郭中央の櫓台帯曲輪状の西二郭帯曲輪状の西三郭帯曲輪状の西四郭帯曲輪状の西五郭緩傾斜の西六郭腰曲輪程度の北西七郭腰曲輪程度の北西八郭方向を変え、東二
高畑城(神戸市西区伊川谷町前開字高畑山)高畑城は、文明十八年(1486)に伊川荘(山城大光明寺領)の代官職に任命された明石氏が構築したものと考えられている。その初代城主は『蔭涼軒日録』によると、赤松春日部流の明石法眼周防守宗安である。その後百年間、この城の歴史は史料に見えず謎であるが、天正年中(1573~1591)に明石与四郎則真が城主として登場する。その則真は、天正六~七年の三木合戦で羽柴秀吉側に属し、端谷城攻略のための対城として高畑城を守備したとある(『村上源姓衣笠氏族譜』)。三木城落城後
早い早いと毎年同じことを言いながら年が暮れていきます。自称城攻めブロガーの私としましては、今年は地獄の城攻めが多かった印象。地獄登山の「城山城」に「白旗城」。山違いの「余野本城」。激夏日の「霧山城」。直登地獄の「今西城」。恐怖のスズメバチ地獄の「北之庄城」。今後更新するであろう記事でも約3城で地獄な目に遭いました。地獄や恐怖と言いながらも、振り返れば楽しき思い出として?そんなことにささやかな幸せを感じてる次第です。2024年は遠方へ行けず日帰り出陣だけの30城の攻城戦となりました。年々
大久城(隠岐郡隠岐の島町大久)詳細不明。南出丸東六郭南出丸東五郭南出丸東四郭南出丸東三郭南出丸東二郭南出丸主郭南出丸南二郭南出丸南三郭南出丸南四郭南出丸南五郭南出丸主郭の北堀切南出丸主郭西帯曲輪進んで主郭部へ入り、南東四郭南東三郭南東二郭主郭西二郭の溜池跡?この南側にもいくつか溜池跡のような窪みが見られた西二郭上がって西三郭上がって西四郭北西五郭北西六郭天然の石塁のある北西七郭大久城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図主郭部概略図隠岐
段ノ城上段(多可郡多可町中区門前・加美町)別名:段ノ城城主の有田(在田)氏は加西郡有田(在田)荘に本貫をおいた赤松範資の子、有田肥前守朝範より出たもので、その南部に隣接する野間城主有田氏の同族と思われる。城主は源之丞朝行、主馬頭朝祐、そして源八郎朝勝と続き、天正三年(1575)に加東郡東条谷豊地城主別所孫右衛門重棟の攻撃により、野間城をはじめとする多可郡内の諸城とともに落城したという(『多可郡誌』)。また、「野間系図」(八千代町)によれば、天正三年八月十四日に自刃したという野間城主は「源之丞
空手の会報編集、M城の論文、コンサートの準備と立て込んでいるのですが、令和6年ラスト突入の城がおもいがけずヒットだったのでブログします。越後の城は冬季は雪に埋もれてシーズンオフと考えるのが真っ当な思考であるが、雪があるから到達できる城もある。今年の始まりの神戸山、終わりのこの泉城がそうである。この城、主郭の北下方が大字赤沢字城ノ腰で(吉川町史p.567)、天正6年6月17日景勝の書状(上越市史別編1549)で景勝が鉄炮2丁を派遣した赤澤ではないだろうか。そこはだいたい岩手城とされること
端谷城(神戸市西区櫨谷町寺谷)衣笠氏は明石の奥、櫨谷町の寺谷にあって、別所・魚住・間嶋氏などと共に播磨赤松氏の旗頭として、よく神を敬い、仏閣を建立した。そのことは「文応元申年枦谷保司衣笠法眼祈祷所而呉道士ノ筆ノ十六善神弘法ノ筆ノ三尊大不動並大般若経六百内絹旗三流当山ニ寄付其後文永年中ニ信州ヨリ諏訪大明神ヲ勧請シテ氏神トシ且亦満願寺宝福寺新長谷寺衣笠氏親族ノ菩提寺トシテ建立シ」と記してある『如意寺旧記』等の古文書から伺える。この衣笠氏がいつ頃この櫨谷の地に居住し、どこにその居館を定めたかは
徳久城(佐用郡佐用町東徳久)別名:柏原城築城者は柏原弥三郎為永である。為永は宇野氏の出であるが、父頼宗が宍粟郡柏原城主であった事から柏原姓を名乗った。その子永利の時、嘉吉の変(1441)が起こり、山名氏に攻められて亡んだと云われている。その後赤松氏の再興に伴い、この城は間島景綱が居城したが、天正五年(1577)羽柴秀吉の播磨進攻によって落城した。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)西二重堀切(西)西二重堀切(東)帯曲輪状の西九郭西九郭北腰曲輪西八郭西八郭北東腰曲輪帯曲輪状の西七
上月城を後にして仁位山城に向かいます。佐用川を渡り仁位の集落に向かいます佐用川より上月城跡仁位公民館より舗装路を登る。現在工事中だが上まで登れます。頂上付近、右側に畝状竪堀群天正5年(1577).羽柴秀吉が赤松政範が籠る上月城を攻めた際に付城として築いたとされ、『赤松家播備作城記』では天正5年(1577年)の上月合戦で安藤信濃守が拠ったと記載があるが詳しい事は不明。縄張り図南東部を中心に竪堀だらけですねしかし多数存在する畝状竪堀群から毛利軍が、天正6年(1578年)に尼子勝久が籠も
5/17(水)~18(木)にかけて、「青森・秋田のお城巡りの旅」に出かけました。2日目の午前中に「檜山城」を登城した後の2城目(通算3城目)は、続日本100名城に指定されている「脇本城」(秋田県男鹿市)に向かいました。「八郎潟跡」の東側と「日本海」の間を通る道を南下して約1時間のドライブでしたが、進行方向に向かって左側の「八郎潟」を開拓した田園風景は、そこが嘗て日本で2番目の面積を誇る「湖」であったことが全く分からない情景でした。快調に走っていくと、風力発電の3枚羽の大きな風車が見え
湯山城(真庭市湯原温泉)「古城之覚」は大庭郡湯本村の「湯本之城」として、城主を牧野源内、また湯原村の「湯山」として、城主を宇喜多平右衛門盛重と重出する。「作陽誌」は「湯山堡」として、湯本村にあり、南に道があり、山の上四町に浮田平右衛門・牧左馬助らが居城と記す。「美作鬢鏡」は「湯元の城」の城主を「牧源内」、「湯山の城」の城主を「宇喜多平右衛門」とし、「美作鏡」は湯山城のみで城主を宇喜多平右衛門盛重・牧左馬助とする。『湯原町史』は、湯原温泉を麓とする「城山」と呼ばれる山と考えられ、田羽根川を隔てた
葛飾区で活動するキッズチアダンスチームK’sCheerFamilyです。Amebaのプロフィールはこちらここからとべます亀有⭐︎八潮⭐︎チアダンス⭐︎K’sCheerFamilyK’sCheerFamily亀有🐢八潮チアダンスさんのブログです。最近の記事は「MiniminiMonsterチアコンペティション2024(動画あり)」です。ameblo.jpInstagram他の投稿はこちらからViewthispostonInstagramApostshare
11/25今日はそろそろ見頃を迎える“佐用の大銀杏'を見に行く事にしたのですが、ついでに近くの上月城から後山へのハイキングと仁井山城を見てから夕方頃に大銀杏を見る事にしました。まずは姫路駅に着きました。ここから姫新線に乗車する訳ですがローカル線の為40分程時間待ちです途中、播磨新宮駅で一回乗り換えて約1時間で上月駅に到着。駅から少し南下すると城山が見えて来ました😙上月城は4回も落城した悲劇の城🏯上月城は鎌倉時代頃に赤松氏の一族・上月景盛によって築かれたとされています。当時はすぐ北側の太
SSSS.DYNAZENONが来週で最終回ということで、聖地である例の水門を見る為に堀切駅へ来ました。(6.12撮影)東武線で春日部から30分くらいなので、東武線ユーザーとしては非常にアクセスが楽で助かる。堀切橋を渡り、川の反対側へ渡ると、ガウマさんがぶっ倒れていた橋下が見えて来ました。そしてガウマさん宅!!お家をレスしてるリアルガウマさん的な人が仮の住まいを作ってて、めっちゃびっくりした。あと橋の下に先客の方が居て、幼稚園児と思わしき子供が、ガウマさん宅の真下で満面の笑みでピースし
今回は今年2月に訪れた埼玉県皆野町の千馬山城の後編です余湖くんのホームページより、今回は本郭からとなります北側は開けていますが・・・先は崖でした余湖くんのホームページより、北側の尾根にも降りてみます命‼︎・・・ではなく、堀切を表現してます滑落が怖い堀切です滑ったら一巻の終わり⁈先はやっぱり崖でした北側の風景余湖くんのホームページより、東側へ行ってみましたさらに進むとロープが必要な堀切が登場岩盤を削った堀切ですえぐってますね〜さらに進むと二重堀切が現れました余湖く
下大野城(山口県下関市菊川町)とその特異な縄張こんにちは。山口県の城が大好き、松風と仮に申します。本ブログでは、山口のお城に関わる情報を発信していきます。なかなか山口県のお城の本は無いので,,,気楽に気ままに書いていきますが、少しでもお役に立てれば幸いです。m(__)mさて、初回は下関市の下大野城を紹介させていただきます下大野城は下関市中心部と山陽小野田市の中間に位置します(図1)。北には菊川、そして豊田の盆地へ川が続き、交通の要衝と言えるのではないでしょうか。図1下
中村城(隠岐郡隠岐の島町中村)城主は足利氏を祖とする河渡氏だったという。一之森神社東三郭東三郭の北土塁東三郭東腰曲輪東三郭南帯曲輪東三郭西腰曲輪東二郭と東三郭間の東堀切東二郭主郭東腰曲輪北竪堀主郭主郭西腰曲輪西二重堀切(東)西二重堀切間の西二郭西二重堀切(西)西三郭西三郭の西側に西堀切自然地形の西四郭中村城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図隠岐の城
太山寺城(神戸市西区伊川谷町前開)太山寺城の築城時期や歴史を知る史料は不明である。伊川谷に存在した城郭で、直接にその名が記されているものに正平六年(1351)の「後藤基景軍忠状」(『大日本史料』)の「伊川城」がある。この伊川城に比定される城としては、太山寺城と、太山寺城から1.4km程北方に位置する高畑城の2城が考えられる。しかし、第一にこの軍忠状と同じ頃、太山寺衆が活躍していること(「太山寺文書」)、第二に高畑城が15世紀末以降に築城されたらしいことから、この伊川城は太山寺城に比定することが