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滝山城(別称:布引城・多芸山城・多喜山城)兵庫県神戸市中央区創設年代・・・・鎌倉末期創設者・・・・・赤松則村形態・・・・・・山城遺構・・・・・・堀切・土塁・郭・石垣新神戸駅のすぐの裏山、ハイキングコースにポイント西方の再度山城、東方の摩耶山城を両翼に置き、海辺に近く、大阪湾を往来する舟を監視出来る戦略上重要拠点。縄張りは東曲輪群・中央曲輪群・西曲輪群の三つから構成され、これらの曲輪群は大規模堀切で区画されている。中央曲輪群
北山方城(和気郡和気町北山方)城主や築城時期などの伝承はない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北東四郭北東四郭の北東土塁南東五郭南腰曲輪上段南腰曲輪下段南東帯曲輪土塁のある北東三郭北東二郭素戔嗚神社山門素戔嗚神社の鎮座する主郭主郭北帯曲輪西二郭西二郭西帯曲輪南西帯曲輪上段南西竪堀南西帯曲輪下段西堀切西三郭西三郭の東土塁西四郭北西帯曲輪上段北西帯曲輪中段北西帯曲輪下段北山方城遠望軌跡ログ和気郡佐伯町・和気郡和気町の城
所在地〒515-3536三重県津市美杉町太郎生特徴北畠氏の配下にあった中世の山城で、北西麓から入山すると、堀切の先に土塁と堀に囲まれた広い郭が残る。更に南の高台が主郭で、祠があり手水鉢には元禄の年号が見られる。感想かなり魅力的な遺構が残るが、ほとんど整備されていない。
本太城(倉敷市児島塩生)本太城は永禄年中(1558~1570)には毛利氏の支配下となった。永禄11(1568)年には讃岐国の国人で阿波三好氏の配下であった、香西氏と毛利氏の合戦がこの城を舞台として勃発している。この際9月29日付で小早川隆景から、本太城の在番であった村上武良あてに、香西一族を討ち取ったことに対する感状案が残る。ただ、この時、武良自身は本太城に籠っていたわけではないようで、武良配下の島(嶋)吉利が在番を務めたという。しかし、武良は元亀2(1571)年までには毛利氏と手を切り、浦上
生石城(岡山市北区門前)別名:報恩寺山陣生石城は生石氏が築城したと伝わるが、詳細は不明である。天正(1582)10年、高松城水攻めの際には加藤清正が陣を敷いたという。備中高松城水攻めにおいては、足守川を堰き止めて水を築堤内に取り入れたのであるが、関連する堤防遺構が足守川西岸、生石城跡の南約200mの地点にあり、生石城跡には土堤の防備という役割が想定されている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)生石神社生石神社脇の祠南西四郭南西三郭南西二郭西横堀西横堀からの西
立喰そばうどん会津葛飾区堀切7-3-1立喰そばうどん会津の営業最終日名残惜しむ客だらけラーメン二郎小岩店を思い出す看板綾瀬側から撮影堀切菖蒲園側から撮影今日で閉店なので両サイドから撮影しました隣のラーメンショップは今日は休みでした券売機メニュー天ぷらを頼む時は種類言うスタイル閉店のお知らせ特大きつねそば宗田節、鯖節、鰹節で出汁をとった優しい味わいのつゆ麺は小幡製麺で金沢直送のおあげおあげは薄いがでかいのでボリュームを感じる31年間ありがとう
育野古城(新見市哲西町大野部字山平)別名:育野城『備中府志』、『備中集成誌』には育野之城として登場する。また、城主として斉藤長門守景忠の名を挙げている。これによると斉藤氏はもともと摂津国西成郡津村の領主であったとされ、姓を津村氏と改めてたという。その後、慶長年間までに監物忠尚が相続したことを記すが、育野城主を継承したかについては明らかではない。そのため、廃城時期については不明である。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北三郭北三郭の南土塁北堀切北二郭北二郭からの主
黒山城(倉敷市福田町浦田)これだけの優れた縄張りを持つ城ながら、一次文献には一切記述がみられない。一方、岡山大学付属図書館所蔵池田家文庫にある『内田玄綾先祖書』には天正2~3(1574~1575)年に勃発した備中兵乱に際し、三村方として戦った国侍、内田牛介が本城に居住し、毛利方の攻勢により戦死したとされる。以後、毛利方の在番として塩津三河守が入城し、内田九郎兵衛が相番を務めたとする。しかし、『新修倉敷市史2』ではこの城の技巧的縄張りから、その築城は天正7(1579)年に勃発した宇喜多氏・毛利氏