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雪が融けて道が出現してたのもあり、尿意を我慢しつつ潟上城の城構を下から見学分かりにくいですが、山の方へ上っていく道が例の堀切の跡だと思われます今は民家が建ち並ぶ潟上城下の平原ここに久知・吉住の連合軍が押し寄せたと思うと胸アツですねこの先の牛久神社では御七日祈願で車がいっぱい停まってました
堂坂対岸の陣(岡山市北区粟井・苔山)別名:岡山市0122故事来歴は不明。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北尾根の土塁緩傾斜の北東二郭北東堀切北東堀切からの北竪堀北東堀切からの東竪堀主郭東帯曲輪南東二郭主郭の全周を囲む帯曲輪主郭西曲輪群東二郭西曲輪群主郭西曲輪群西二郭堂坂対岸の陣遠望軌跡ログ岡山市北区の城
こんばんはマイナス4℃💦そりゃ寒いさ…もう少ししたら春がやってくる☘️さむくてもいつものように頑張る皆さま💪😤今日は「堀切さん歌謡ショー」を開催しました♪今日もたくさんのCDや機材を持って、堀切さんが歌いに来てくださいました😊まずは、堀切さんが撮り溜めて編集してくださった、昔懐かしい歌の映像鑑賞からスタート。「懐かしいね〜」「この歌知ってる!」と、皆様あちこちから声が上がり、思い出話にも花が咲いていました。映像鑑賞のあとは、待ちに待ったカラオケ
鬼山城(新見市唐松字位田)『備中府志』には当城の開基として伊達一族の杉右衛門尉重國及びその弟の重春の両名を挙げている。重國は尼子方の武将として、重春は備中兵乱に際して毛利方として戦い、それぞれ軍功を成したとする。しかしながら本城の縄張りは戦国時代でも最末期の様相を見せるものである。天正11(1583)年当時、本城の所在する唐松は、安国寺恵瓊発給文書により毛利氏と宇喜多氏の間でその帰属が定まっていなかったことが知られる。本城の築城背景として、そうした軍事的緊張を想定さることもできよう。(※岡山
麦飯山城(玉野市槌ヶ原字麦飯山)天正10(1582)年の八浜合戦の際に毛利方の穂田元清が布陣したと伝えられる城であり、主戦場とされる常山城跡、両児山城跡方面をよく見通すことができる。一方で、城主について、『和気絹』・『備陽国誌』・『中国太平記』などでは明石源三郎とし、天正4(1576)年に毛利方と戦ったとあるが、それを裏付ける同時期の資料に欠ける。なお、西郭を横田山城(または雨乞山城)、東郭を麦飯山城と呼び分ける見解もある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)西出丸?尾根
『続』日本100名城スタンプラリー第12城№115名胡桃城(なぐるみじょう)沼田城から名胡桃城まで車で数分。こちらのお城も真田家のお城です。郭がいくつも繋がっている、連郭式の山城ということで楽しみにしていましたが。なんと!!ここにもクマの被害が!もう歩道も通行止めになっています。スタンプは名胡桃城案内所で。名胡桃城に関する資料や近隣の施設のパンフレット等がたくさんありました。パンフレットを収納する用にと、案内所の方が名胡桃城柄の袋を渡してくれました。ありがとう
和田谷7城館群の北端の公方屋敷支城跡(『甲賀の城郭Ⅰ和田城館群』パンフレット)公方屋敷支城跡縄張図和田川公方屋敷支城跡お屋敷敷地内を登城することになりそうですお屋敷のご主人が外で作業をしていらっしゃったので、赤い屋根の倉庫脇から許可を得て登城させていただきました。お忙しいところ、ありがとうございました芝がきれいにお手入れされていたので、形状がはっきりわかります。が、急傾斜なので、ツルっと滑った御仁がおりましたのよ和田川の方を振り返ると、殿山