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和歌山県西牟婁郡白浜町紀伊・安宅大野城(あたぎおおのじょう)別名:大野城大野城は安宅氏執事であった大野氏の居館である。安宅氏は、氏族の一つで、熊野水軍の一員で、紀伊安宅荘に起源を持つ紀伊安宅氏や、その分流で三好氏から安宅冬康を養子を迎えた淡路安宅氏などが知られる。安宅氏本城はだいぶ以前に攻めましたので。↓紀伊・日置八幡山城(前編)|大野城南山麓にある春日神社。大永2年(1522)創建と伝わるので城があった時期から存在していたと云われる。この一
日曜日に体験会を行います!(四つ木ジャガーズ体験会)日程:12月14日㊐時間:10:00~12:00場所:荒川河川敷堀切橋少年Bグラウンド対象:年中さん~小学5年生迄の男女服装:運動できる服、運動靴、帽子など持ち物:水筒、汗ふき用タオル、グローブ・9:50迄によつぎ小学校正門にご集合下さい・雨天時は当日朝ブログでご案内します・野球道具は貸出し品があります【今週末の予定】いよいよ年内の活動も終盤を迎えました。体調管理に十分気を
鳴戸城(高梁市川面町鳴戸)本城に関する、文献、伝承等は知られていない。だが、その立地から見て、天正2~3(1574~1575)年に勃発した「備中兵乱」に関連する城であるか。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北西三郭下がって、北西二郭主郭西腰曲輪主郭東二郭東三郭東堀切鳴戸城遠望軌跡ログ高梁市の城
生石城(岡山市北区門前)別名:報恩寺山陣生石城は生石氏が築城したと伝わるが、詳細は不明である。天正(1582)10年、高松城水攻めの際には加藤清正が陣を敷いたという。備中高松城水攻めにおいては、足守川を堰き止めて水を築堤内に取り入れたのであるが、関連する堤防遺構が足守川西岸、生石城跡の南約200mの地点にあり、生石城跡には土堤の防備という役割が想定されている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)生石神社生石神社脇の祠南西四郭南西三郭南西二郭西横堀西横堀からの西
龍ノ口山城(岡山市中区祇園・四御神)上道郡湯迫村に所在した城館として『和気絹』では最所修理允元常、山口与一が居城した「龍口城」、『備陽国誌』は穝所修理亮元常、山口与市が居城した「龍の口城」、『吉備前鑑』では穝所修理亮元常が居城した竜ノ口村の「竜ノ口」、『東備郡村誌』は最荘治部(サイ所治部)が居城した「龍の口山城」が、段原村に所在した城館として『撮要録』は最所治部少輔元常が居城した「竜口城」が、また、『吉備前秘録』は場所不詳(旭川の上)で最庄(穝所)修理亮元常、最庄治部元忠が居城した「龍口
杉山城(浅口市鴨方町小坂東)別名:要害山城別名「要害山城」と言われる。『備中村鑑』では、東小坂村にあり城主小坂越中守とされる。細川氏が備中国守護の際には、河田紀伊守陸長が在城した。また細川通董が竜王山城から移ったとされる。備中が毛利氏の支配であった時期は、小坂宗左衛門経通が在城した。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)軍神社南西六郭南西六郭背後の堀切南西五郭南西五郭と南西四郭間の堀切南西四郭南西四郭と南西三郭間の堀切南西三郡南西三郭と南西二郭間の堀切長大
鳶ヶ巣城(出雲市西材木町)鳶ヶ巣城は、出雲平野の北方にそびえる、北山山地中央部の標高281mの鳶ヶ巣山に築かれている。この山頂からは、出雲平野はもちろん、遠く西に大社湾、東に宍道湖をも望むことができる。また、山麓には、中世において西流する斐伊川の流れがあり、一大勢力を有する出雲大社、鰐淵寺への参道が通っていた。この城は、十六世紀の初頭の頃から宍道氏の居城であったと言い伝えられているが、永禄五年(1562)毛利元就によって、尼子攻略の拠点として築城された。それは、この地が交通と軍事上の要衝で
茶磨岩城(備前市伊部)城名のみ伝わっている城で、築城時期や城主名などは不明である。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北西五郭(曲輪Ⅳ)北西五郭からの北帯曲輪北西四郭(曲輪Ⅲ)北西四郭の南西土塁帯曲輪状の西三郭(曲輪Ⅱ)西三郭南西帯曲輪北二郭主郭東二郭緩傾斜の東三郭堀切状の東採石跡東物見岩物見岩の西下の緩傾斜尾根西多重堀切?のような地形茶磨岩城遠望軌跡ログ備前市の城