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Fw:S水Y一さんのこと2011/06/14K昭さま、Z子父がお世話になったS水先生、以下のように重体の様子です。今奥さまとも電話して、3月から急変して食べられなくなっていると伺いました。今週末は被災地なので、26日日曜日にお見舞いに行くつもりです。皆さんが行く必要はないと思いますが、とりあえずお知らせまで。O橋M明Subject:S水Y一さんのことO橋M明さまマラリア予防薬の件、S田さんルートで入手
一年の活動を締め括ります【今週末の予定】いよいよ年内の活動も最終週を迎えました。今年一年の活動を皆で楽しく振り返り、これまで長い間頑張ってきた六年生たちを楽しく送り出しましょう。12/20㊏(全学年)試合ユニ7:30よつぎ小学校集合堀切B移動8:00~12:00グラウンド練習途中9:30頃~親子大会(低学年選手対ママ軍)全体練習~六年生卒部ノック12:00終了予定【2025年四つ木ジャガーズ納会】*背番号は外して洗濯
神西城(出雲市東神西町)別名:高倉城・竹生城・龍王山竹生城承久の乱(1221)の後に神西(園山)新荘に地頭として入部した古荘氏は、室町時代の初期には在地名を名乗って神西氏と称するようになる。その後、尼子氏が出雲国内を統一すると、神西氏もまたこれを通じて尼子氏の配下に組み込まれる。雲芸攻防戦が始まり、毛利氏が出雲へ侵攻してくると、永禄八年(1565)には神西元通は毛利元就へと降るが、尼子家再興戦(1569~1571)が開始されると、神西元通は尼子勝久・山中鹿介に最後まで従い、播磨国の上月城で切
和歌山県西牟婁郡白浜町紀伊・安宅大野城(あたぎおおのじょう)別名:大野城大野城は安宅氏執事であった大野氏の居館である。安宅氏は、氏族の一つで、熊野水軍の一員で、紀伊安宅荘に起源を持つ紀伊安宅氏や、その分流で三好氏から安宅冬康を養子を迎えた淡路安宅氏などが知られる。安宅氏本城はだいぶ以前に攻めましたので。↓紀伊・日置八幡山城(前編)|大野城南山麓にある春日神社。大永2年(1522)創建と伝わるので城があった時期から存在していたと云われる。この一
高城(出雲市知井宮町)詳細不明。北東麓から登ってすぐの平坦地だが、コンクリート製の基礎があったので遺構ではないと思われる場所北出丸北東四郭土橋状尾根北出丸北三郭北二郭と北三郭の間の堀切北出丸北二郭北出丸主郭北出丸南二郭南二郭の南には切通となった堀切東三郭北腰曲輪北四郭北三郭北三郭の背後には堀切細長い東二郭主郭東腰曲輪腰曲輪から主郭へは石垣のような尾根主郭の東端の山王様碑主郭東上段主郭西下段南堀切南堀切外の南出丸高城遠望軌跡ログ出雲市の城
浄土寺山城(出雲市下古志町地蔵堂)出雲市古志町に所在する浄土寺城は妙蓮寺の裏にあります。古志氏が当地に築城した最初の城とされます。妙蓮寺古墳が有名で案内板も設置されていますが、浄土寺山城については説明はありません。(※源行近のブログより)浄土寺山城碑妙蓮寺沿革久遠山妙蓮寺へ妙蓮寺稲荷社の建つ南西曲輪南西堀切(切通)西竪堀南西二郭主郭北東二郭北東三郭東帯曲輪下段東帯曲輪上段今だ水を湛える井戸曲輪南東二郭南東三郭北西二郭北西三郭西帯曲輪浄土寺山城遠望軌跡
布智城(出雲市下古志町)比布智神社説明看板比布智神社へ北東五郭北東四郭北東三郭北東二郭主郭と北東二郭の間は堀切のような窪み土塁に囲まれた主郭主郭の北土塁主郭の西土塁主郭の南土塁南帯曲輪布智城遠望軌跡ログ出雲市の城
おはようございます。あいにくの雨となりましたので本日ご案内の体験会は中止といたします。今後も随時体験会を開催する予定です。よつぎ小校庭、荒川河川敷グラウンドで皆様のご参加をお待ちしております。(YJ_30)「いくぞ!少年軟式野球四つ木ジャガーズ」https://ameblo.jp/y-jaguars/
高柳城(松江市薦津町)城主は海老山城の新田(仁田)氏と云う。松江市下佐陀町にある八幡宮は、高柳城主の新田右馬頭の勧請と伝わる。北曲輪群北西二郭北西二郭と南西二郭の間の土塁北曲輪群南西二郭北曲輪群主郭墓地となっていて、改変なのか、淵は土塁状だ北曲輪群東二郭…幅の広い帯曲輪で、北側で北西二郭と繋がっている東二郭と南西二郭は南で繋がっていた緩傾斜の南腰曲輪中央堀切…切通となっている南曲輪群北三郭そこには石祠が祀られている南曲輪群北二郭そこには五輪塔が南曲輪群主郭北帯曲輪
鳶ヶ巣城(出雲市西材木町)鳶ヶ巣城は、出雲平野の北方にそびえる、北山山地中央部の標高281mの鳶ヶ巣山に築かれている。この山頂からは、出雲平野はもちろん、遠く西に大社湾、東に宍道湖をも望むことができる。また、山麓には、中世において西流する斐伊川の流れがあり、一大勢力を有する出雲大社、鰐淵寺への参道が通っていた。この城は、十六世紀の初頭の頃から宍道氏の居城であったと言い伝えられているが、永禄五年(1562)毛利元就によって、尼子攻略の拠点として築城された。それは、この地が交通と軍事上の要衝で
日曜日に体験会を行います!(四つ木ジャガーズ体験会)日程:12月14日㊐時間:10:00~12:00場所:荒川河川敷堀切橋少年Bグラウンド対象:年中さん~小学5年生迄の男女服装:運動できる服、運動靴、帽子など持ち物:水筒、汗ふき用タオル、グローブ・9:50迄によつぎ小学校正門にご集合下さい・雨天時は当日朝ブログでご案内します・野球道具は貸出し品があります【今週末の予定】いよいよ年内の活動も終盤を迎えました。体調管理に十分気を
横山城(出雲市鹿園寺町)詳細不明。一畑薬師の南側に所在。図外の北西四郭図外の北西三郭図外の西二郭西腰曲輪図外の西二郭西二郭の北土塁西堀切と土橋西堀切の北側の竪堀?山道?主郭西段北西土塁主郭西段と中央段の間の土塁主郭中央段東土塁北土塁北虎口主郭南帯曲輪北二郭北二郭と繋がっていて、僅かに高い東二郭東堀切北二郭北腰曲輪北東上段北二郭北腰曲輪北西下段横山城遠望軌跡ログ出雲市の城
蛇山城(出雲市大社町遙堪)遙堪は「ようかん」と読む。蛇山城は言い伝えによると松井弾正宗則の城であったようです。1555年頃に松井弾正は片寄筑前守によって討たれてしまうが、その後待ち伏せていた飯島兄弟によって討ち取られてしまいます。(※源行近遙堪蛇山城より)松井弾正正守の居城「蛇山城」は、遥堪北山中腹にある。松井弾正守宗則は、伯耆汗入郡霊山(鳥取県)にいた尼子の武将で、のちに遥堪蛇山城主にとなった。粟津(出雲市)に片寄筑前守という武将がいて、蛇山城の兵が少ない時をうかがい、東篠﨑山か
鵜鷺蛇バン谷城(出雲市大社町鷺浦)詳細不明だが、東側は鵜峠(うど)、西側は鷺浦で、西側直下に鵜鷺コミュニティセンターが所在する。図の④辺りには、記載されていない帯曲輪が複数存在する北東十一郭北東十郭北東九郭北東八郭北東七郭北五郭北帯曲輪北西六郭北帯曲輪図の③、西側の谷間には三段の曲輪が描かれているが、実際には六段あるように見えるその中で一番広い曲輪緩傾斜の北西六郭この曲輪から北五郭の西帯曲輪が伸びている図の②、二段描かれているが、実際には一段しかない北五郭北五郭の付
寄居城(出雲市十六島町)十六島と書いて「うっぷるい」と読む、難読地名である。平成五年度からの島根県中世城館跡分布調査においても確認できず、その後の調査で発見された山城跡である。地名を冠する武士として十六島弥六左衛門がある。大永四年(1524)、佐東銀山城(広島市安佐南区)に後詰めとして向かった尼子方の線死者の中に、岸野新兵衛・朝山七郎と並んで十六島弥六左衛門の名が『雲陽軍実記』に残る。佐東銀山城は安芸武田氏が拠った巨大な山城で、安芸進出を図る周防大内氏との攻防戦が繰り広げられた。武田元繁
あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしていきたいと思います。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。「塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノ
高島城(出雲市十六島町)高島城は出雲市十六島(うっぷるい)町にある十六島氏の居城とされる、辺りを海に囲まれた海城です数年前に風力発電の風車がこの地一帯に建設され、この城の主郭は残念ながら風車により消滅してしまいました。(※源行近高島城より)高島権現が鎮座する南曲輪中央の大堀切西側を風車建設で削り取られた北曲輪ここには土塁なのか、西側に僅な盛上りが見られる北曲輪の東帯曲輪?高島城遠望軌跡ログ出雲市の城
西ノ谷城(出雲市久多見町)現在山麓には玖潭神社があるが、元は城跡のある山頂にあったものが、明応五年(1496)に火災にあい社殿が焼失し、貴女社へ移し、のちに久多見社へ合祀したという。城跡の中腹には、巨岩に掘られた延命地蔵がある。これは松江藩七代藩主である松平治郷が、菩提寺の月照寺にある父宗衍の徳をたたえ建てた「寿蔵碑」の石材が切り出された場所である。この辺りは久多見石の石切り場だが、クタン大神が逗留したと伝わる神石のため、神威を恐れた治郷は、お抱えの絵師に延命地蔵の絵をかかせ、残った岩に線刻さ
下野国宇都宮氏の後裔(?)が信長さまと戦うために当地に築きし城、神田城。後編まいります。登城道から三重堀切を駆け抜けてのⅡ郭虎口。虎口右に櫓台と思しき土塁を備えた平入の坂虎口のようです。が、疑問も残るⅡ郭。奥に見える石段上が主郭になります。Ⅱ郭虎口(?)右側の櫓台状土塁。Ⅱ郭東面の土塁。この外側は超絶絶壁である。土塁に多くの石が見られるのは、土塁に石を混ぜて強固にしてたか、積石で覆われてたかのどちらかと思う。Ⅱ郭西面には土塁モリモリされず切岸下に(前
八幡山城(出雲市野石谷町)八幡山城の城主は大西三河守と伝わるも詳細は不明。近隣の東満寺は大西三河守の開基と伝わる。『雲陽誌』の岡田の項に古城として以下の文が載るり「東郷三河守といふ人の城跡なり、二十間はかり下に井あり、東の方に風呂屋谷といふ所あり、昔出湯ありしを城ちかき所の出湯しかるへからすとて、湯の出口へあめ牛を埋てより温泉たへたりといふ、牛を埋しことゆへありや、又城山の北湯東丸とて小城の跡たり、南に八幡風籠といふ所あり、古木一株あり、社もなく祭壇の日もしれさりしか、ちかき比より九月十七日
葛山城は東駿一帯に勢威を振るった葛山氏の城です。平時の城である「葛山館」と菩提寺の仙年寺の裏山にある詰城で構成されていました。葛山氏は今川氏に属していましたが、今川氏が没落すると武田氏に属し、武田信玄の六男が葛山氏の名跡を継いで葛山信貞と名乗りました。しかし、武田氏の滅亡にともない葛山氏も没落しました。現在も城址には土塁や堀切、曲輪などの遺構が残っています。攻城団紹介文より駐車場からぐるっと回り込むと大手口があります本丸虎口仙年寺居館跡は時
日曜日に体験会を行います!(四つ木ジャガーズ体験会)日程:12月7日㊐時間:10:00~12:00場所:よつぎ小学校校庭対象:年中さん~小学5年生迄の男女服装:運動できる服、運動靴、帽子など持ち物:水筒、汗ふき用タオル、グローブ・当日は9:50迄にご集合下さい・雨天時は当日朝ブログでご案内します・野球道具は貸出し品があります尚、12/14㊐は荒川河川敷グラウンドで体験会を実施予定です【今週末の予定】いよいよ今年も12
桧ヶ仙城(出雲市多久町)地元には、多久義近が長禄三年(1459)に近江水口から桧ヶ仙城に移り、多久秀敷が永禄六年(1563)に毛利元就と戦って落城したという伝承が残されているが、史料適には確認できない。おそらく、多久郷を所領とした在地の武士が、山麓に構えた居館の背後の桧ヶ仙を詰めの城としたのが当城の始まりであろう。その後は、尼子氏を攻める毛利方の城となり、毛利による普請を受けている。(※出雲の山城より)南麓の寺院跡寺院跡の西土塁図に無い南八郭南八郭の西土塁図に無い南七郭図に無い
惣谷山城(備前市吉永町高田)城主について『備陽国誌』などは伊勢新九郎(北条早雲)とするものもあるが、『備前記』・『東作誌』などのように、明石宗運にあてるものが多い。また、『東備郡村誌』のように、高取備前とするものもある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北西堀切北西堀切からの西竪堀北西堀切からの北東竪堀西二郭(曲輪Ⅱ)西二郭の南石積西二郭の北西石積主郭北帯曲輪西下段主郭北帯曲輪東上段主郭主郭の東土塁堀底のような地形の東二郭上がって東三郭(曲輪Ⅲ)土
こんな時間に弁慶かよっ!と言われるレベルの時間に弁慶に行って来ました土曜日のお昼は結構な量を食べることが多いのだが、昨日も例外なく、、、(笑)近所で有名な!?お弁当屋さんのフライなどを買って来て、山盛りご飯でパクパク。昼寝までして日々の疲れを回復そんな休みの過ごし方してるもんだから、夕飯はいつもの時間には食べられません23:30にお腹が空いて来てかみさんに「弁慶行く?」って聞いたら「行く」との返答。サクッと準備して堀切までドライブです。弁慶堀切店23:55到着。タイミン
大股古城(備前市吉永町都留岐)別名:大股城『備前記』・『和気絹』・『備陽記』・『吉備前秘録』・『吉備前鑑』・『吉備温故秘録』には、和気郡大股村の明石大和守の城館として「大股(俣)城」、「大股(俣)古城山」があり、これらは本城跡に比定される。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南西十六郭西帯曲輪南西十六郭南西十五郭南西十四郭南西十四郭奥の土壇南西堀切南西十三郭南西十二郭南西十一郭帯曲輪状の南西十郭帯曲輪状の南西九郭帯曲輪状の南西八郭帯曲輪状の南西七郭
伝説も含め、古くは元亀年間(1570〜1573)武田氏によって奥平氏との和睦の際、合議により築かれたともいわれ、また、奥平氏が作手に来住する以前の米福長者時代に存在したとの推定もされている。いずれにせよ二時期にわたる構築が指摘されており、主郭とその東西の虎口の部分、二の曲輪と堀切を含むその付属部分と普請の程度に明らかな差異が見られる。奥三河観光ナビより文珠山城跡からスタート山道を登ったり下ったり下ったり登ったり。。。もう少しだぁ〜最後の登り
紀伊国(和歌山県)の山城を攻めました。いちおう熊五郎は出没しない山だと踏んでの出陣です。まぁ山であるかぎり絶対出ないとは言われへんのですけどね。和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見紀伊・神田城(かんだじょう)神田城は、すさみ町周参見にある紀伊・周参見城の支城であり、永禄12年(1569)宇都宮勘解由道直によって築かれたと伝わる。その宇都宮氏と言うのは、関東(下野国)の摂関家藤原北家道兼流の流れを汲む下野宇都宮氏の後裔と云われ、織田信長さまに敗れた宇都宮道直が、永禄12年
新入部員を募集中です!年長さんから小学生まで、野球経験の有無や性別は一切問いません。女の子も大歓迎です。よつぎ小校庭、荒川河川敷グラウンドへ是非練習の体験にお越し下さい。11/29㊏全学年)練習着よつぎ小は学芸会で登校日の為下校後希望者のみ参加早目に昼食を済ませてから12:30よつぎ小学校集合木根川Bに移動13:00~16:00グラウンド練習16:00終了予定11/30㊐六年生)試合ユニ・おにぎり8:00よ
茶磨岩城(備前市伊部)城名のみ伝わっている城で、築城時期や城主名などは不明である。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北西五郭(曲輪Ⅳ)北西五郭からの北帯曲輪北西四郭(曲輪Ⅲ)北西四郭の南西土塁帯曲輪状の西三郭(曲輪Ⅱ)西三郭南西帯曲輪北二郭主郭東二郭緩傾斜の東三郭堀切状の東採石跡東物見岩物見岩の西下の緩傾斜尾根西多重堀切?のような地形茶磨岩城遠望軌跡ログ備前市の城