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2024年最後の出陣。12/30兵庫県相生市若狭野町下土井播磨・下土井城(しもどいじょう)別名:下土居城、岡城、太田林山城下土井城は代々岡氏の居城で、戦国時代には宇喜多氏に属し、「関ケ原の戦い」で西軍に属した宇喜多秀家が改易されると、岡氏も没落し、12代・岡光顕は八洞村に閉居したと伝わる。ちなみに関ケ原での「西軍」「東軍」という呼び名は明治になってからそう呼ばれた。ほんとうは「輝元動かぬ総帥、治部少実戦大将」VS「家康と家康に豊臣家を乗っ取られるとはその時は分からなかったマ
亀山八幡山城(山口県山口市阿東徳佐)の縄張と特殊な堀こんにちは!松風です最近だいぶ寒いですね...朝起きるのが大変ですさて、今回は山口市の亀山八幡山城を取り上げます。位置については、図1・図2を参考に!城は島根県との県境近くに位置します。図1亀山八幡山城位置概要図2亀山八幡山城位置詳細亀山八幡山城の詳しい歴史は不明です。西麓に14世紀の宝篋印塔があり、地域に根差した勢力が城を築いた可能性は否定できません。しかし、亀山八幡山城の道路を挟んで東側には大将陣山城
稲荷山城(隠岐郡隠岐の島町南方小字殿ヶ内)詳細不明。常盤神社南五郭南四郭南三郭南帯曲輪堀切状地形南三郭南堀切南堀切からの東竪堀南二郭南二郭からの東帯曲輪主郭北西二郭北西二郭北腰曲輪北西二郭と北東二郭を繋ぐ北帯曲輪北東二郭北竪堀北東三郭北東四郭北東五郭稲荷山城遠望軌跡ログ隠岐の城
上月駅から約30分。国道373沿いに案内板があり細い道を入ってゆくと佐用(福原)城があります。以前来た事があるので場所は知っています。民家の間を登ると、まずは1番上の主郭部。周辺の田畑は全て曲輪跡でよく遺構が残っている元弘3年(1331年)4月28日に淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将であった名越高家を討ち取った佐用範家が建武年間(1334年-1338年)に築城した。その後、赤松氏36人衆のうちの福原氏がこの城を継いだため、福原城とも呼ばれる縄張り図西側堀切🐍がニョロニョロ
下大野城(山口県下関市菊川町)とその特異な縄張こんにちは。山口県の城が大好き、松風と仮に申します。本ブログでは、山口のお城に関わる情報を発信していきます。なかなか山口県のお城の本は無いので,,,気楽に気ままに書いていきますが、少しでもお役に立てれば幸いです。m(__)mさて、初回は下関市の下大野城を紹介させていただきます下大野城は下関市中心部と山陽小野田市の中間に位置します(図1)。北には菊川、そして豊田の盆地へ川が続き、交通の要衝と言えるのではないでしょうか。図1下
中村城(隠岐郡隠岐の島町中村)城主は足利氏を祖とする河渡氏だったという。一之森神社東三郭東三郭の北土塁東三郭東腰曲輪東三郭南帯曲輪東三郭西腰曲輪東二郭と東三郭間の東堀切東二郭主郭東腰曲輪北竪堀主郭主郭西腰曲輪西二重堀切(東)西二重堀切間の西二郭西二重堀切(西)西三郭西三郭の西側に西堀切自然地形の西四郭中村城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図隠岐の城
上月城を後にして仁位山城に向かいます。佐用川を渡り仁位の集落に向かいます佐用川より上月城跡仁位公民館より舗装路を登る。現在工事中だが上まで登れます。頂上付近、右側に畝状竪堀群天正5年(1577).羽柴秀吉が赤松政範が籠る上月城を攻めた際に付城として築いたとされ、『赤松家播備作城記』では天正5年(1577年)の上月合戦で安藤信濃守が拠ったと記載があるが詳しい事は不明。縄張り図南東部を中心に竪堀だらけですねしかし多数存在する畝状竪堀群から毛利軍が、天正6年(1578年)に尼子勝久が籠も
加那女岐城(真庭市惣・草加部・日名)別名:金砕山城『作陽誌』は「加那女岐山」とし、真島郡惣村の西境にあり、かつて神林寺(真庭市神)の僧徒が篠向城の城主との戦いに陣したと記す。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第3冊美作編より)北西八郭南帯曲輪下段北西八郭南帯曲輪上段自然地形の北西八郭北西畝状竪堀群(最西)北西畝状竪堀群(西2)北西畝状竪堀群(西3)北西畝状竪堀群(中)北西畝状竪堀群(東3)北西畝状竪堀群(東2)北西畝状竪堀群(最東)北西七郭北西七郭と北西六郭間の南竪
大久城(隠岐郡隠岐の島町大久)詳細不明。南出丸東六郭南出丸東五郭南出丸東四郭南出丸東三郭南出丸東二郭南出丸主郭南出丸南二郭南出丸南三郭南出丸南四郭南出丸南五郭南出丸主郭の北堀切南出丸主郭西帯曲輪進んで主郭部へ入り、南東四郭南東三郭南東二郭主郭西二郭の溜池跡?この南側にもいくつか溜池跡のような窪みが見られた西二郭上がって西三郭上がって西四郭北西五郭北西六郭天然の石塁のある北西七郭大久城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図主郭部概略図隠岐
11/25今日はそろそろ見頃を迎える“佐用の大銀杏'を見に行く事にしたのですが、ついでに近くの上月城から後山へのハイキングと仁井山城を見てから夕方頃に大銀杏を見る事にしました。まずは姫路駅に着きました。ここから姫新線に乗車する訳ですがローカル線の為40分程時間待ちです途中、播磨新宮駅で一回乗り換えて約1時間で上月駅に到着。駅から少し南下すると城山が見えて来ました😙上月城は4回も落城した悲劇の城🏯上月城は鎌倉時代頃に赤松氏の一族・上月景盛によって築かれたとされています。当時はすぐ北側の太
宮田城(隠岐郡隠岐の島町東郷)宮田城の築城は、鎌倉時代にさかのぼるとも伝えられている。その当時、隠岐を管轄した守護佐々木氏によってその原形が造られ、後に守護代となった隠岐佐々木氏によって整備されたとされる。室町時代に入って、尼子の一族が守護代となり、隠岐国の領主となっていった。後に本拠地を「国府尾城」に移転したが、その後も宮田城は引き続き城塞としての機能を持ち、「山中鹿介」らが「尼子勝久」を報じて但馬から隠岐に渡ってきた時も、隠岐佐々木氏はこの宮田城を提供した。(「出雲史記」「隠岐視聴合紀」「
2025年の初記事です。今年も細々とやって行きますので、適度にお寄りいただければ嬉しゅうございます。この正月、近場のちょっと名の知れた神社なんですが、初詣に行きました。正月の初詣自体何十年かぶりぶりでして、近年は初攻めのついでに人気のない神社で初詣を済ますという事にしてきましたが、南斗!詣でるのに参道から拝殿まで大行列できてますやんまぁTVで紹介してるような有名な神社の比程でもありませんが、いや~神さんもようさんの人の願い聴き入れるの大変やのう。そんな要らぬ心配しながら詣でてきま
「だい★あっきーの活動日記」を読んでくださっている皆さん、こんばんは!お正月いかがお過ごしでしょうか?僕は正月二日と三日は地元の神社に初詣に行きました!1月2日堀切天祖神社しょうぶ七福神堀切十二支神1月3日葛飾氷川神社明日は新春恒例の七福神めぐりをする予定です!毎年違うコースをめぐっています。平成21年千寿七福神平成22年日野七福神平成23年八王子七福神平成24年深川七福神平成25年雑司が谷七福神平成26年下谷七福神平成27年隅田川七福神平成28
国府原館(隠岐郡隠岐の島町下西)国府尾城の居館跡。図中、国府尾城の北西に位置している館跡南東堀切館跡の南東土塁南土塁北帯曲輪国府原館の位置隠岐の城
国府尾城(隠岐郡隠岐の島町港町・下西)別名:甲尾城・甲ノ尾城国府尾城は戦国時代に隠岐道後を統一した守護代の佐々木氏(隠岐氏)が本拠地とした山城です。それまで、西郷湾東部の一番奥まったところに位置した宮田城を居城としていましたが、1400年代後半ごろに西郷湾の中央に面した交通の要衝に島内最大規模の城郭を設けました。『陰徳太平記』(享保二年(1717))によると、天文元年(1532)より島内と反尼子勢力の台東区に対抗するため、出雲国守護代尼子経久の援軍を得て柰森城の佐々木豊後守宗林と義秀父子、中
諏訪山城(倉敷市真備町妹)故事来歴は伝わっていない。『真備町史』には遠景写真が掲載されている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北出丸北五郭北出丸北四郭北出丸北三郭北出丸北二郭北二郭からの主郭北西帯曲輪北出丸主郭主郭の西土塁北出丸南西二郭北出丸南西三郭南へ進み、北六郭北五郭北四郭北四郭の北西竪堀北四郭の南東竪堀北二重堀切(北)北二重堀切(南)北三郭北二郭北上段北二郭南下段北西堀切主郭主郭南東帯曲輪主郭南西腰曲輪南二郭南三郭
虎倉城(岡山市北区御津虎倉)『和気絹』によると、伊賀守、岡左衛門久隆らが代々居城していたとされる。また、文明年中(1469~1487)には松田氏家臣、天正年中(1573~1592)には宇喜多氏の重臣長船越中の後、蟹江彦左衛門、鎌田五郎兵衛、長船越中守、石原新太郎、楢崎左近将監が在城したと伝える。さらに、天正8(1580)年の虎倉合戦(加茂崩れ)に関わる史料があるほか、城主伊賀氏と毛利氏の合戦、宇喜多氏との関係などについて記した『虎倉記』・『虎倉物語』をはじめとする軍記物にもたびたび登場する。
空手の会報編集、M城の論文、コンサートの準備と立て込んでいるのですが、令和6年ラスト突入の城がおもいがけずヒットだったのでブログします。越後の城は冬季は雪に埋もれてシーズンオフと考えるのが真っ当な思考であるが、雪があるから到達できる城もある。今年の始まりの神戸山、終わりのこの泉城がそうである。この城、主郭の北下方が大字赤沢字城ノ腰で(吉川町史p.567)、天正6年6月17日景勝の書状(上越市史別編1549)で景勝が鉄炮2丁を派遣した赤澤ではないだろうか。そこはだいたい岩手城とされること
鍛治山城(岡山市北区足守・大井)『備中集成志』には城主として大森次郎左衛門盛清の名が見える。天正年中は宇喜多領とあるが、『中国兵乱記』には羽柴秀吉の播磨攻めに際して小早川隆景が備前備中国境近くに普請等を命じた諸城に鍛治山城がみえる。しかし、天正8(1580)年宇喜多直家が冠山城を攻撃した際、宇喜多勢の信原内蔵允、岡平内は鍛治山城に敗走していることから、この頃には鍛治山城が宇喜多勢の勢力下にあったことが窺える。「宇喜多直家書状」には、9月17日には鍛治屋を修築したことが見え、書状作成は天正7年と
早い早いと毎年同じことを言いながら年が暮れていきます。自称城攻めブロガーの私としましては、今年は地獄の城攻めが多かった印象。地獄登山の「城山城」に「白旗城」。山違いの「余野本城」。激夏日の「霧山城」。直登地獄の「今西城」。恐怖のスズメバチ地獄の「北之庄城」。今後更新するであろう記事でも約3城で地獄な目に遭いました。地獄や恐怖と言いながらも、振り返れば楽しき思い出として?そんなことにささやかな幸せを感じてる次第です。2024年は遠方へ行けず日帰り出陣だけの30城の攻城戦となりました。年々
八代市古麓(ふるふもと)歴史公園を歩こう。ほたるの川こと、水無川の堰を渡ると、地蔵尊と観音堂への入り口。古麓山の新城跡へ・・・。新城跡というのは、こちらを参照していただければ、ある程度のことが記してある。古麓城-Wikipedia昔の山城において仕事をする人たちは、登山者の如くだなぁ。いつもそんな風に思いながら歩く。遊歩道の直ぐ下に鉄道の線路がある。高圧電線の鉄塔が立っている。木立の隙間から見下ろせば、間近に球磨川の流れを俯瞰して見る。かつ
井山城(総社市井尻野)『古戦場備中府志』は城主八尾入道とするが、『備中誌』はいずれの紀伝に因るか不明のため信じがたしとする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)西竪堀南八郭南七郭南六郭南五郭南東帯曲輪登り土塁長大な南五郭長大な南四郭南三郭南二郭南腰曲輪東帯曲輪南上段東帯曲輪中央下段東帯曲輪北上段緩傾斜の南二郭主郭北二郭細長い北三郭北堀切自然地形の北四郭北東堀切井山城遠望軌跡ログ総社市の城
丹波地方日帰り出陣の儀。京都府船井郡京丹波町三ノ宮丹波・三之宮城(さんのみやじょう)別名:三之宮西城、三ノ宮城、三ノ宮西城三之宮城主は江戸時代に土佐藩の祖となった山内一豊の祖父山内孫太郎久豊とされる。その一豊から数えて十三代前の宗俊の次男家俊が兄時俊との間に争いが起こり、ここ丹波国三ノ宮に備後国地毘荘より移り住み、土佐山内家を興したと伝えられている。その後、一豊の祖父久豊までの間は詳細は不明である。土佐山内家は備後国甲山の山内家から丹波へ分かれ、祖父久豊あるいは盛豊(一豊の父)
荒平山城(総社市泰)別名:荒平城・山根城『備中集成志』には城主は川西三郎左衛門之秀入道と記される。『備中兵乱記』に記された「荒平の城」であると想定できる。1575年、三村氏と毛利氏の争いの時、川西氏は三村方として戦い、一度は毛利氏の大軍を退ける。しかし毛利方は輝元の檄により力押しではなく調略に切り替えたため、川西氏はこれに応じ備前児島に流され、城は毛利方に下る。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)登城口の石畳神社北東二郭(一ノ壇)北東二郭北東櫓台?北東二郭の北竪堀
亀山城(総社市下林・法蓮)『備中誌』では城主を佐野和泉守忠綱とし、永禄2(1559)年に落城とする。『吉備郡誌』では、天正年間の城主を佐野和泉守忠職とする。「吉備津宮文書」には、幸山城主石川氏の家臣として忠職の名が見える。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)東三郭の東横堀と帯曲輪東三郭南帯曲輪上段東三郭南帯曲輪下段東三郭東三郭の西土塁東堀切東堀切からの南二重竪堀(東)東堀切からの南二重竪堀(西)南帯曲輪中段南帯曲輪中段の東土塁南帯曲輪下段の東下段南帯曲
麓からよく見える特徴的な城山恒屋に着いたのが15時半くらいだったので城山にも急いで登る事にしました。民家の間の細い道を入ると登山口です。狭いながら駐車場もあります。昔はもっと狭かったけど整備されていました。この辺りに城主の居館があったらしい室町時代頃に国人領主だった恒屋光氏により築城されたと言われますが詳細は不明。恒屋氏は播磨守護の赤松氏の被官。嘉吉の乱(1441)〜長禄の変(1451)頃の築城との説あり。嘉吉の乱の際に赤松満祐に呼応して書写坂本城(書写山の麓にあった赤松氏の城)に参上したと
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円応寺山城(佐用郡佐用町円応寺)別名:北山城詳細不明。自然地形の北東五郭北東四郭北三郭と北東四郭間の堀切北三郭北東帯曲輪北三郭北二郭と北三郭間の堀切北二郭主郭と北二郭間の堀切南に土塁のある主郭主郭と南二郭間の堀切南二郭南二郭と南三郭間の堀切南三郭南三郭と南四郭間の堀切南四郭南四郭と南五郭間の堀切南五郭最高所の南六郭詳細が不明ながら、明かに古墳群を利用した城郭と思われる円応寺山城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図旧佐用郡佐用町の城
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志良計城(総社市宍粟・見延)別名:白毛城『備陽国誌』では宍粟村の「米城山」とし、城主を赤木但馬守とする。『古戦場備中府』では、「しらけヶ城」として、城主を赤木左衛門尉忠興とする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北東曲輪群北東三郭北東曲輪群北東二郭北東曲輪群主郭北東帯曲輪下段北東曲輪群主郭北東帯曲輪上段北東曲輪群主郭北東曲輪群主郭西帯曲輪北東曲輪群西二郭南西曲輪群北二郭北二郭の北腰曲輪南西曲輪群主郭南西曲輪群南二郭南西曲輪群南三郭南西曲輪群南四郭