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中村城(隠岐郡隠岐の島町中村)城主は足利氏を祖とする河渡氏だったという。一之森神社東三郭東三郭の北土塁東三郭東腰曲輪東三郭南帯曲輪東三郭西腰曲輪東二郭と東三郭間の東堀切東二郭主郭東腰曲輪北竪堀主郭主郭西腰曲輪西二重堀切(東)西二重堀切間の西二郭西二重堀切(西)西三郭西三郭の西側に西堀切自然地形の西四郭中村城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図隠岐の城
訪問日:2021年4月16日所在地:千葉県市原市訪問人数:単騎参考文献:『日本城郭大系』参考サイト:余湖くんのホームページ歴史吉沢城は平蔵城の支城。伝承では、承平年間(931〜938年)に土橋平蔵によって築かれた城ですが、巨大岩盤堀切で尾根を断ち切る構造から見て、戦国期の里見氏、正木氏関連の城郭と判断していいかと思います。当日のルートです。鳳来寺観音堂を見学した後に、1の場所から侵入して南方へ進み、2の位置から下山しました。先ずは鳳来寺観音堂を見学。この観音堂は
下万願寺城(加西市下万願寺町小池・熊谷)詳細不明。主郭北西二郭北西三郭北西二重堀切(南東)北西二重堀切間の北西四郭北西二重堀切(北西)自然地形の北西五郭下万願寺城遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ加西市の城
5/17(水)~18(木)にかけて、「青森・秋田のお城巡りの旅」に出かけました。2日目の午前中に「檜山城」を登城した後の2城目(通算3城目)は、続日本100名城に指定されている「脇本城」(秋田県男鹿市)に向かいました。「八郎潟跡」の東側と「日本海」の間を通る道を南下して約1時間のドライブでしたが、進行方向に向かって左側の「八郎潟」を開拓した田園風景は、そこが嘗て日本で2番目の面積を誇る「湖」であったことが全く分からない情景でした。快調に走っていくと、風力発電の3枚羽の大きな風車が見え
播磨国の山城を攻めました。ちょうど1年前の矢筈城地獄登山が蘇る。兵庫県たつの市播磨・城山城(きのやまじょう)別名:亀山城、木山城城山城は、同一の山の上に7世紀末の古代山城と、正平7年/文和元年(1352)に赤松則祐(村上源氏・播磨守護)が築城した中世(南北朝時代)山城が複合する珍しき山城です。馬立登山口。国道179から県道724へ。来栖川に架かる橋を渡り、この先に墓地の駐車場があり、そこに本陣を敷きました。標高458m、比高400m揖保川の西岸にある山塊の亀山
宮田城(隠岐郡隠岐の島町東郷)宮田城の築城は、鎌倉時代にさかのぼるとも伝えられている。その当時、隠岐を管轄した守護佐々木氏によってその原形が造られ、後に守護代となった隠岐佐々木氏によって整備されたとされる。室町時代に入って、尼子の一族が守護代となり、隠岐国の領主となっていった。後に本拠地を「国府尾城」に移転したが、その後も宮田城は引き続き城塞としての機能を持ち、「山中鹿介」らが「尼子勝久」を報じて但馬から隠岐に渡ってきた時も、隠岐佐々木氏はこの宮田城を提供した。(「出雲史記」「隠岐視聴合紀」「
亀山城(総社市下林・法蓮)『備中誌』では城主を佐野和泉守忠綱とし、永禄2(1559)年に落城とする。『吉備郡誌』では、天正年間の城主を佐野和泉守忠職とする。「吉備津宮文書」には、幸山城主石川氏の家臣として忠職の名が見える。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)東三郭の東横堀と帯曲輪東三郭南帯曲輪上段東三郭南帯曲輪下段東三郭東三郭の西土塁東堀切東堀切からの南二重竪堀(東)東堀切からの南二重竪堀(西)南帯曲輪中段南帯曲輪中段の東土塁南帯曲輪下段の東下段南帯曲
2025年の初記事です。今年も細々とやって行きますので、適度にお寄りいただければ嬉しゅうございます。この正月、近場のちょっと名の知れた神社なんですが、初詣に行きました。正月の初詣自体何十年かぶりぶりでして、近年は初攻めのついでに人気のない神社で初詣を済ますという事にしてきましたが、南斗!詣でるのに参道から拝殿まで大行列できてますやんまぁTVで紹介してるような有名な神社の比程でもありませんが、いや~神さんもようさんの人の願い聴き入れるの大変やのう。そんな要らぬ心配しながら詣でてきま
虎倉城(岡山市北区御津虎倉)『和気絹』によると、伊賀守、岡左衛門久隆らが代々居城していたとされる。また、文明年中(1469~1487)には松田氏家臣、天正年中(1573~1592)には宇喜多氏の重臣長船越中の後、蟹江彦左衛門、鎌田五郎兵衛、長船越中守、石原新太郎、楢崎左近将監が在城したと伝える。さらに、天正8(1580)年の虎倉合戦(加茂崩れ)に関わる史料があるほか、城主伊賀氏と毛利氏の合戦、宇喜多氏との関係などについて記した『虎倉記』・『虎倉物語』をはじめとする軍記物にもたびたび登場する。
段ノ城上段(多可郡多可町中区門前・加美町)別名:段ノ城城主の有田(在田)氏は加西郡有田(在田)荘に本貫をおいた赤松範資の子、有田肥前守朝範より出たもので、その南部に隣接する野間城主有田氏の同族と思われる。城主は源之丞朝行、主馬頭朝祐、そして源八郎朝勝と続き、天正三年(1575)に加東郡東条谷豊地城主別所孫右衛門重棟の攻撃により、野間城をはじめとする多可郡内の諸城とともに落城したという(『多可郡誌』)。また、「野間系図」(八千代町)によれば、天正三年八月十四日に自刃したという野間城主は「源之丞
瓜生原城(津山市瓜生原)明治十三年(1880)の「美作国勝南瓜生原村誌」(大岡家文書)は「相賀市兵衛宅趾」として、村の山根の地の北にあり、十二間四方、市兵衛は宇喜多氏に仕え三十石、荒神山城(津山市荒神山)の城主花房職之に与力、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦で行方不明と記す。(※美作国の山城より)墓地となった西五郭西四郭西三郭西二郭主郭西帯曲輪南堀切南二郭主郭主郭中央上段北東堀切北東二郭北東二郭の南西土塁北東三郭北東四郭北東五郭瓜生原城遠望軌跡ログ津山市の
空手の会報編集、M城の論文、コンサートの準備と立て込んでいるのですが、令和6年ラスト突入の城がおもいがけずヒットだったのでブログします。越後の城は冬季は雪に埋もれてシーズンオフと考えるのが真っ当な思考であるが、雪があるから到達できる城もある。今年の始まりの神戸山、終わりのこの泉城がそうである。この城、主郭の北下方が大字赤沢字城ノ腰で(吉川町史p.567)、天正6年6月17日景勝の書状(上越市史別編1549)で景勝が鉄炮2丁を派遣した赤澤ではないだろうか。そこはだいたい岩手城とされること
端谷城(神戸市西区櫨谷町寺谷)衣笠氏は明石の奥、櫨谷町の寺谷にあって、別所・魚住・間嶋氏などと共に播磨赤松氏の旗頭として、よく神を敬い、仏閣を建立した。そのことは「文応元申年枦谷保司衣笠法眼祈祷所而呉道士ノ筆ノ十六善神弘法ノ筆ノ三尊大不動並大般若経六百内絹旗三流当山ニ寄付其後文永年中ニ信州ヨリ諏訪大明神ヲ勧請シテ氏神トシ且亦満願寺宝福寺新長谷寺衣笠氏親族ノ菩提寺トシテ建立シ」と記してある『如意寺旧記』等の古文書から伺える。この衣笠氏がいつ頃この櫨谷の地に居住し、どこにその居館を定めたかは
加那女岐城(真庭市惣・草加部・日名)別名:金砕山城『作陽誌』は「加那女岐山」とし、真島郡惣村の西境にあり、かつて神林寺(真庭市神)の僧徒が篠向城の城主との戦いに陣したと記す。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第3冊美作編より)北西八郭南帯曲輪下段北西八郭南帯曲輪上段自然地形の北西八郭北西畝状竪堀群(最西)北西畝状竪堀群(西2)北西畝状竪堀群(西3)北西畝状竪堀群(中)北西畝状竪堀群(東3)北西畝状竪堀群(東2)北西畝状竪堀群(最東)北西七郭北西七郭と北西六郭間の南竪
高丸古城(総社市久代)『備中誌』には「高丸古城」として、大高丸と小高丸にその跡があり、かつて久代殿という人が居住したという地元の伝承を載せる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北西堀切北西六郭北西五郭北西四郭北西三郭北西二郭非常に浅くなっている堀切主郭主郭の東土塁主郭上段主郭東腰曲輪東に下り溜池のような東二郭(現在、水が溜まっている)同じく東二郭東二郭の東上の帯曲輪古墳状の東三郭東三郭東腰曲輪高丸古城遠望軌跡ログ総社市の城
三津田城(三木市志染町三津田字城ノ腰)三津田城は、赤松氏の一族で有馬郡有馬荘を領した有馬義祐を先祖とする有馬法印則頼の居城である。則頼の父有馬重則が大永年間(1521~1528)の初めに築城したと伝えられている。ここに城を築いた理由としては、有馬郡から美嚢郡に進出してきた重則が、別所村治(三木城主)の攻撃に備えるためと考えられる。湯山街道(京・有馬温泉と姫路を結ぶ街道)を見下ろす三津田の城山に築かれ、三木城から7kmという近距離にある。重則は、天文二十三年(1554)に畿内をほぼ制圧した四国
『弁慶門前仲町店』前回食べたのは半年前くらいかな?とにかく、スープのパンチもまったり感も薄くてがっかりした記憶ありじゃぁ行かなきゃいいのにそれでも足を運んじゃうのが弁慶グツグツと音をたてる寸胴からは豚骨スメルが届いてきますこの臭いが無いと寂しいと思うのは私でだけでしょうか?今回も豆板醤とニンニクを入れちゃうことにしました背脂系でも入れない店もあるし入れる店もあるのが不思議なことwネギらーめん(醤油)1120円
早い早いと毎年同じことを言いながら年が暮れていきます。自称城攻めブロガーの私としましては、今年は地獄の城攻めが多かった印象。地獄登山の「城山城」に「白旗城」。山違いの「余野本城」。激夏日の「霧山城」。直登地獄の「今西城」。恐怖のスズメバチ地獄の「北之庄城」。今後更新するであろう記事でも約3城で地獄な目に遭いました。地獄や恐怖と言いながらも、振り返れば楽しき思い出として?そんなことにささやかな幸せを感じてる次第です。2024年は遠方へ行けず日帰り出陣だけの30城の攻城戦となりました。年々
大久城(隠岐郡隠岐の島町大久)詳細不明。南出丸東六郭南出丸東五郭南出丸東四郭南出丸東三郭南出丸東二郭南出丸主郭南出丸南二郭南出丸南三郭南出丸南四郭南出丸南五郭南出丸主郭の北堀切南出丸主郭西帯曲輪進んで主郭部へ入り、南東四郭南東三郭南東二郭主郭西二郭の溜池跡?この南側にもいくつか溜池跡のような窪みが見られた西二郭上がって西三郭上がって西四郭北西五郭北西六郭天然の石塁のある北西七郭大久城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図主郭部概略図隠岐
本日、所要により、京成線の千住大橋駅を利用!すると、券売機の上に貼ってある「きっぷ運賃表」がダイヤ改正後のものになっていて、ダイヤ改正後と同時に運賃を改正する区間だけ現行運賃を上からシールで貼ってあるので、どの路線が値上げするのか一目瞭然!まずは東武スカイツリーライン。例えば、堀切までは現行270円ですが、280円にアップですね。続いて東京メトロ。千駄木までは現行は290円ですが、300円にアップですね。最後にちょっとわかりにくいのが新京成線。今年10月に一律20円値上
「だい★あっきーの活動日記」を読んでくださっている皆さん、こんばんは!お正月いかがお過ごしでしょうか?僕は正月二日と三日は地元の神社に初詣に行きました!1月2日堀切天祖神社しょうぶ七福神堀切十二支神1月3日葛飾氷川神社明日は新春恒例の七福神めぐりをする予定です!毎年違うコースをめぐっています。平成21年千寿七福神平成22年日野七福神平成23年八王子七福神平成24年深川七福神平成25年雑司が谷七福神平成26年下谷七福神平成27年隅田川七福神平成28
上月城を後にして仁位山城に向かいます。佐用川を渡り仁位の集落に向かいます佐用川より上月城跡仁位公民館より舗装路を登る。現在工事中だが上まで登れます。頂上付近、右側に畝状竪堀群天正5年(1577).羽柴秀吉が赤松政範が籠る上月城を攻めた際に付城として築いたとされ、『赤松家播備作城記』では天正5年(1577年)の上月合戦で安藤信濃守が拠ったと記載があるが詳しい事は不明。縄張り図南東部を中心に竪堀だらけですねしかし多数存在する畝状竪堀群から毛利軍が、天正6年(1578年)に尼子勝久が籠も
上月駅から約30分。国道373沿いに案内板があり細い道を入ってゆくと佐用(福原)城があります。以前来た事があるので場所は知っています。民家の間を登ると、まずは1番上の主郭部。周辺の田畑は全て曲輪跡でよく遺構が残っている元弘3年(1331年)4月28日に淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将であった名越高家を討ち取った佐用範家が建武年間(1334年-1338年)に築城した。その後、赤松氏36人衆のうちの福原氏がこの城を継いだため、福原城とも呼ばれる縄張り図西側堀切🐍がニョロニョロ
4月1日に行きました。竹中半兵衛の山城跡快晴の中、片道約1.5㎞ひたすら登山。竹中半兵衛居館跡のパーキングにあった縄張図菩提山城跡ハイキングコース案内図パーキングからこの階段を登って行きます。階段の次は、おなじみの石段。白山神社鳥居山つつじかな。きれい菩提寺説明板石畳の向こうに見えるのが菩提寺白山神社。ニ礼ニ拍手一礼。どうやら神社のあるあたりも曲輪跡のようです。白山神社横から菩提山城へと登ります。この道を登ります。登城路には必ず出現します。古木の巨木。大地にへばりつく
稲荷山城(隠岐郡隠岐の島町南方小字殿ヶ内)詳細不明。常盤神社南五郭南四郭南三郭南帯曲輪堀切状地形南三郭南堀切南堀切からの東竪堀南二郭南二郭からの東帯曲輪主郭北西二郭北西二郭北腰曲輪北西二郭と北東二郭を繋ぐ北帯曲輪北東二郭北竪堀北東三郭北東四郭北東五郭稲荷山城遠望軌跡ログ隠岐の城
今回は今年2月に訪れた埼玉県皆野町の千馬山城の後編です余湖くんのホームページより、今回は本郭からとなります北側は開けていますが・・・先は崖でした余湖くんのホームページより、北側の尾根にも降りてみます命‼︎・・・ではなく、堀切を表現してます滑落が怖い堀切です滑ったら一巻の終わり⁈先はやっぱり崖でした北側の風景余湖くんのホームページより、東側へ行ってみましたさらに進むとロープが必要な堀切が登場岩盤を削った堀切ですえぐってますね〜さらに進むと二重堀切が現れました余湖く
11/25今日はそろそろ見頃を迎える“佐用の大銀杏'を見に行く事にしたのですが、ついでに近くの上月城から後山へのハイキングと仁井山城を見てから夕方頃に大銀杏を見る事にしました。まずは姫路駅に着きました。ここから姫新線に乗車する訳ですがローカル線の為40分程時間待ちです途中、播磨新宮駅で一回乗り換えて約1時間で上月駅に到着。駅から少し南下すると城山が見えて来ました😙上月城は4回も落城した悲劇の城🏯上月城は鎌倉時代頃に赤松氏の一族・上月景盛によって築かれたとされています。当時はすぐ北側の太
おはようございます。DAYTODAYtruecolors佐藤です。今日は商材の紹介です。【メテオコネクター】銀座ノットのカリスマ美容師、長門政和氏がプロデュースした最強のトリートメント、処理剤です。この商材は実際のサロンワークに活用しているモノになります。カラー、パーマー、縮毛矯正、トリートメント。何にでも使用可能です。当店でも様々なメニューで活躍してくれています。主な効果は、・毛髪構造強化・毛髪内のタンパク質補給・ハリ、コシ、ツヤの改善・抜け毛予防・毛髪のねじれ
丹波地方日帰り出陣の儀。京都府船井郡京丹波町三ノ宮丹波・三之宮城(さんのみやじょう)別名:三之宮西城、三ノ宮城、三ノ宮西城三之宮城主は江戸時代に土佐藩の祖となった山内一豊の祖父山内孫太郎久豊とされる。その一豊から数えて十三代前の宗俊の次男家俊が兄時俊との間に争いが起こり、ここ丹波国三ノ宮に備後国地毘荘より移り住み、土佐山内家を興したと伝えられている。その後、一豊の祖父久豊までの間は詳細は不明である。土佐山内家は備後国甲山の山内家から丹波へ分かれ、祖父久豊あるいは盛豊(一豊の父)
葛飾区で活動するキッズチアダンスチームK’sCheerFamilyです。Amebaのプロフィールはこちらここからとべます亀有⭐︎八潮⭐︎チアダンス⭐︎K’sCheerFamilyK’sCheerFamily亀有🐢八潮チアダンスさんのブログです。最近の記事は「MiniminiMonsterチアコンペティション2024(動画あり)」です。ameblo.jpInstagram他の投稿はこちらからViewthispostonInstagramApostshare