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観音寺山城兵庫県朝来市和田山町創設年代・・・・嘉吉三年(1443)創設者・・・・・山名持豊形態・・・・・・山城遺構・・・・・・郭・石垣・堀切・竪堀ポイント竹田城の出城。竹田城の北千畳から谷を隔てた北側にある観音寺山に築城。竹田城が総石垣造りの近世城郭に改修されたが、当城は中世城郭の姿をとどめる。縄張りは主郭を山頂に置き、三段の郭が設けられている。竹田城に面する西側は防御が甘く、東側には竪堀・土塁・石塁等で固めている。竹田城からの遠望
亀石山城(岡山市北区粟井)地侍層の盟主とされる長門右衛門景成ないし土師刑部少輔の居城とされ、備中戦役の際に足守川上流域の地侍層が結集したことが畑和良氏により明らかにされている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)自然地形の北東六郭自然地形の北東五郭自然地形の北東四郭東三郭主郭北帯曲輪主郭南東二郭主郭西腰曲輪西堀切西二郭帯曲輪状の西三郭帯曲輪状の北西四郭北西四郭北帯曲輪北西四郭西帯曲輪帯曲輪状の北西五郭北西六郭北七郭南下段北七郭北上段北八郭
海老山城(松江市鹿島町名分)千光寺の裏山の海老山城(標高九〇M)は、城主新田右馬頭泰国が、長享元年(一四八七)から二年の歳月をかけ築城したと伝えられています。新田氏(仁田氏)は、佐太神社の神領島根分三百五十貫を領していた地頭でありました。天文十九年(一五五〇)に、佐太神社の兼神主でもあった朝山越前守綱忠と佐太神領を巡って争いになり、海老山城は五月二十日に落城し、新田氏は討ち死にし滅んだとされていました。落城したこの日に海老山に入ると鯨波声や轡の音、黄金の鶏の声を聞いた者は不幸になると山に入
大橋山城(笠岡市大宣・城山)『笠岡市史』は、『備中誌』に城主高田河内守正重、『備後太平記』に小田郡大宣村大橋山城主高田豊後守の後裔重近入道常閑等の名が見えるとする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)主郭同じく主郭南堀切跡?大橋山城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図笠岡市の城
一年の活動を締め括ります【今週末の予定】いよいよ年内の活動も最終週を迎えました。今年一年の活動を皆で楽しく振り返り、これまで長い間頑張ってきた六年生たちを楽しく送り出しましょう。12/20㊏(全学年)試合ユニ7:30よつぎ小学校集合堀切B移動8:00~12:00グラウンド練習途中9:30頃~親子大会(低学年選手対ママ軍)全体練習~六年生卒部ノック12:00終了予定【2025年四つ木ジャガーズ納会】*背番号は外して洗濯
杉山城(浅口市鴨方町小坂東)別名:要害山城別名「要害山城」と言われる。『備中村鑑』では、東小坂村にあり城主小坂越中守とされる。細川氏が備中国守護の際には、河田紀伊守陸長が在城した。また細川通董が竜王山城から移ったとされる。備中が毛利氏の支配であった時期は、小坂宗左衛門経通が在城した。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)軍神社南西六郭南西六郭背後の堀切南西五郭南西五郭と南西四郭間の堀切南西四郭南西四郭と南西三郭間の堀切南西三郡南西三郭と南西二郭間の堀切長大
布広城(仁多郡奥出雲町三沢小字鞍掛)現地説明看板登城口南四郭南三郭西四郭西三郭主郭と北二郭の間の堀切土塁状の北二郭主郭主郭の北土塁西二郭北大堀切下から見た北大堀切北三郭民家の建つ南八郭布広城遠望軌跡ログ仁多郡奥出雲町の城
小見山城(井原市高屋町寺中)別名:小宮山城『古戦場備中府志』は、高屋村「小見山城」、当城開基を小見山二朗行忠とし、天正年中(1573~1592)、毛利方の領主三原豊後守広吉が在城、その後、鳥越佐兵衛・猪木惣蔵が城代となったとする。『井原市史』は、現在も芳井町三原に字名・家系伝承を伝える家々があるとする。『太平記』は小見山二朗元忠は陶山氏らと後醍醐天皇の籠る笠置山の城を夜討ちしたとする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北出郭北西帯曲輪下段北出郭北西帯曲輪中段北出郭北
常山城(高梁市有漢町有漢字土居)鎌倉時代初頭に地頭職を努めた秋庭三郎重信により築城されたと伝える。これだけの規模の城ながら一次資料にはその名は見えず、地誌である『備中集成誌』にも城主として肥田五兵衛尉の名を挙げるのみである。ほかにも『備中府志』には城主として新山玄蕃亮家健の名が挙げられている。家健は天正2~3(1574~7575)年に勃発した備中兵乱時に松山城に籠城したという。なお、常山城修築の契機は不明ながら、北4kmに位置する天正7(1579)年に毛利・宇喜多氏間で勃発した四ツ畝城を巡る争
堀切と言えば、江戸時代に開園された堀切菖蒲園が有名ですが、そんな堀切菖蒲園駅降りると目の前は小さな商店街先ずは八百屋さんです安くてびっくり!看板は新しいですが、きっと古い店なんだろうなその隣りには、絶滅危惧種のレトロな化粧品屋さん並ぶ資生堂の男性化粧品は、昭和のオトーサンたちには定番だったモノたちですが、2年前に既に生産中止されたものだそうそして、魚屋さんや本屋さんもいい感じ「婦人生活」これ1986年に廃刊だそうですということは、このワゴン50年は使ってる?!ん?一階が居酒
須恵竜王山城(浅口市金光町大谷・別所)本城に関する文献、伝承等は知られていない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)帯曲輪状の南東二郭南堀切南二郭の北土塁南二郭主郭帯曲輪状の北二郭帯曲輪状の北三郭帯曲輪状の北四郭帯曲輪状の北五郭北堀切北六郭北西堀切北西六郭北西七郭須恵竜王山城遠望軌跡ログ浅口市・浅口郡里庄町の城
所在地〒517-0604三重県志摩市大王町船越特徴在地領主が居城とした海沿いの丘城で、登城口から段・帯郭や堀切を越えて進む。一番東側は広い郭で、少し戻って登ると土塁の残る主郭で、神社跡の石塁がある。感想そこそこの遺構が残るが、ほとんどが藪に埋もれている。
丹波地方日帰り出陣の儀。京都府船井郡京丹波町三ノ宮丹波・三之宮城(さんのみやじょう)別名:三之宮西城、三ノ宮城、三ノ宮西城三之宮城主は江戸時代に土佐藩の祖となった山内一豊の祖父山内孫太郎久豊とされる。その一豊から数えて十三代前の宗俊の次男家俊が兄時俊との間に争いが起こり、ここ丹波国三ノ宮に備後国地毘荘より移り住み、土佐山内家を興したと伝えられている。その後、一豊の祖父久豊までの間は詳細は不明である。土佐山内家は備後国甲山の山内家から丹波へ分かれ、祖父久豊あるいは盛豊(一豊の父)