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戦争遺跡高知県香南市旧陸軍地下壕その2今回は昨年の2015年10月、高知県香南市野市町西佐古方面山中の戦争遺跡調査記事です。この日はT氏(戦跡発掘調査員)との協同調査となりました。ポカポカ陽気…どの山にもある、何気ない風景の中で…ヤブの中に入ると…早速、塹壕を発見!それは上下蛇行を繰り返しながら延々と続いていました。山斜面を縦横無尽にはしる塹壕を造る労力は計り知れません。自然堆積物ありも、しっかり残っています。この地の塹壕は日が当たらない場所にて、深さ最大1.5メートル弱
『DerUntergang(英題:Downfall/邦題:ヒトラー〜最期の12日間〜』(2005年)ヒトラーのその最期の日に至る…地下壕での“失意”の12日間をリアルに描いた2005年公開のオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督作が『DERUNTERGANG(英題:Downfall)/ヒトラー~最期の12日間~』である。原作はヨアヒム・フェスト著書の『InsideHitler'sBunker:TheLastDaysoftheThirdReich(総統官邸地下壕
渡喜仁の陣地壕沖縄本島、国頭郡今帰仁村字渡喜仁826周辺海岸(運天港)から西北西に直線で約2キロ、渡喜仁の丘陵(標高10メートル)に海軍の陣地壕がある。海軍第226設営隊(山根部隊)が造営した。一説には特殊潜航艇「蛟龍」か甲標的丙型の秘匿壕?と言われているが、この壕は迷路だし、奥行きは足りているなれど高さが足りず。魚雷なら全長約5.5メートルなので、頭部を取り外して台車に積載すれば、壕内の通路を行き来は出来る(と思う)。昭和19年10月頃から基地は米軍艦載機の標的になって
8月、ご縁をいただき、硫黄島へ行ってまいりました。硫黄島島はご存知の通り、太平洋戦争後期に激戦地となった場所。日本兵およそ2万2000人、米兵およそ7000人、島民82名が亡くなったそうです。1泊2日のスケジュールで、初日は靖国神社で参拝し、遊就館へ。遊就館では、硫黄島についての事前研修を受けました。その後、埼玉のホテルへ移動し、結団式と再び研修。翌日は朝早くホテルを出発し、入間基地
防衛省市ヶ谷ツアーの第二弾。メインパートに行く前に、大本営地下壕の見学をしました。説明資料によるとこの地下壕は、”第二次世界大戦中に市ヶ谷台に置かれた陸軍中枢機関の防空壕”とのこと。大本営地下壕の「大本営」ってなに?と質問しようかと思ったところ、地下壕内に説明があり:”天皇を補佐する最高の統帥機関”と。なるほど、それを知ってからガイドツアーの話(↓)を聞くと、納得。1945(昭和20)年8月10日、陸軍大臣が幹部を集め、昭和天皇のポツダム宣言受諾決断を伝えた場所が、まさ
[海軍兵学校?]海軍兵学校?地下壕広島県江田島市江田島町宮ノ原計画/竣工:不明出典:国土地理院1948/01/12(昭23)USA-M731-A-4、抜粋・加筆海軍兵学校(第1技術学校)から大原分校(江田島青少年交流の家)へ向かう国道487号線沿いにある地下壕。運転中、左手の竹林にいくつかの坑道が確認できるので気になり行ってみた。妖怪酒隠し様とカエル先生(祐実総軍三等兵さま)=既に探索済み、ご両人に呉滞在時にお会いした時、この地下壕の考察をいただきました。ありがとう
千葉県の大原漁港に面する八幡岬に、(人間魚雷)回天小浜基地がある。横須賀鎮守府第7特攻隊所属(本部は勝浦)の第12回天隊73名(諸説あり)が配備された。1945年(昭和20年)7月30日に小浜基地は完成したが、回天を運搬する第21号1等輸送艦が輸送中に触雷して到着せず(諸説あり)、そのまま終戦になった。海に向かって3本の格納壕が並列につくられている。当然だが3本とも坑口はあるが、現在は中央に位置する1本の坑口のみ開いており、両側の坑口は戦後の擁壁工事で塞がれている。<擁壁工事で塞が
大本営陸軍部の地下壕東京・市ケ谷の防衛省(市ヶ谷台)のA棟庁舎玄関前の儀仗場。ここに面する雑木林(かつては日本庭園)の地下に掘られたのが大本営陸軍部地下壕。現在の防衛省図:大本営陸軍部は建屋は縮小改悪され「記念館」として移設され、跡地には庁舎A棟が建つ。大本営陸軍部の地下壕は、建設開始は真珠湾攻撃(太平洋戦争の開戦)の4カ月前の1941年(昭和16年)8月。翌年12月に完成した。この地下壕の造られた理由、掘削方法もはっきりは分かっていない。<地下壕が3本並列に掘ら
[航空総軍]屯鶴峯地下司令部壕(戦闘指令所)②奈良県香芝市穴虫大阪と奈良の県境に近い屯鶴峯(どんづるぼう)。この奇岩群から程近い南北の小さな尾根の裾、東側と西側に地下壕が格子状に張り巡らされている。本土決戦を目前にして、昭和20年4月に全国の陸軍航空部隊を統一指揮するための航空総軍が編成された。その司令部諸施設として、屯鶴峯近くの山中に同年6月〜8月の2ヶ月間で掘られた、とされる。だが8月15日の敗戦(停戦)により、地下壕は未完成のまま放置された。NPO法人屯鶴峯地下壕
[串良海軍航空基地]地下壕第一電信室鹿児島県鹿屋市串良町有里4963串良基地から飛び立った特攻機の隊員が、突撃前に送る電信を受信していた地下電信室壕。40名の電信員が航空機からの電信を受信していた。出入口部分のコンクリート製爆風避けが重厚。反対側の出入口は土塁が爆風避けになっていた。中に入ります写真右が地下壕の本体(通信室)、左が発電機などが置かれた細長い廊下につながる内部は電信室の1部屋のみ特攻機のうち、単座機は電鍵を押しつづけて
松代大本営(舞鶴山地下壕)長野市松代町西条3511松代大本営は大日本帝国陸軍において計画・推進されたもので、太平洋戦争末期、皇居・大本営・政府中枢機能移転のために長野県長野市松代地区などの3山(象山=イ、舞鶴山=ロ、皆神山=ハ)を中心に掘られた地下壕群を指す。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。陸軍は昭和19年4月より本土決戦態勢に入る。特に「東京から大本営および政府機関を地方(松代)に移さなければ、本土決戦は行えない」との立場を貫く中堅将校たちは地方への大本営の建設を推進した。中堅