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特攻神社2020.2.8(土)鹿児島県出水市知識町に鎮座する特攻神社に行ってきました特攻基地として一般的に知られているのは、知覧基地かと思いますが、実は出水にも特攻基地があったのです。特攻神社は、昭和18年(1943)に開隊された出水海軍航空隊の守護神として建立されました。当初は教育航空隊でしたが、戦争に敗北の色が濃くなるにつれ、特別特攻隊の基地として、使用されるようになり、特攻隊員の全員が使命の成功と、国家の安泰を祈願して、出撃したと伝えられています。
[松島航空基地]松島要塞(牛網隧道)昭和13年から矢本飛行場の基地の工事が始まり、昭和17年に第1滑走路・第2滑走路が完成。後、2本の滑走路が追加された。昭和17年10月21日、館山海軍航空隊松島派遣隊(対潜哨戒)が開隊。昭和18年、霞ヶ浦海軍航空隊松島分遣隊(戦闘機搭乗員教育)が開隊。昭和19年8月1日、横須賀鎮守府隷下松島海軍航空隊(中攻搭乗員実機教育)が開隊。宮崎海軍航空隊が当地に移動してからの開隊だった。昭和年20年4月1日より出水海軍航空基地より特攻作戦を含む航空
十三崖のジオラマ中野市の十三崖地下壕のジオラマも展示~「平和のための信州・戦争展in中野」中野市の中野陣屋・県庁記念館で、3日から始まった「平和のための信州・戦争展in中野」へ行ってきました。この「戦争展in中野」は、終戦の日を前に、戦争の悲惨さや平和の尊さを改めて考えてもらおうと、「平和のための信州・戦争展in中野」開催実行委員会が企画されまたものです。会場には、満州開拓団での体験、中野市のあった戦争、学童集団疎開などのパネル展示を始め、本土決戦に備え、弾薬を貯蔵するために中野市の
海軍平得飛行場の海軍壕群沖縄県石垣市大浜フルスト原石垣島には3つの飛行場があった(海軍が2、陸軍が1)。1933年(昭和8年)につくられた簡易的な飛行場「平喜名飛行場」があり、これを海軍が拡張工事を開始して、海軍平喜名飛行場(海軍石垣北/石垣第1飛行場)とした。用途は補助飛行場。現在は国際農林水産研究センターになっている。メインの海軍平得飛行場(海軍石垣南/石垣第2飛行場)の新設工事は、沖縄本島から派遣された海軍設営322部隊(萩原部隊)によって防衛陣地の建設も同じくして
【24年4月7日探索・25年3月13日公開】現在地はこの辺何か前方に意味不明の梯子があり、手前側にも・・・梯子が立てかけられていた。せっかくのお誘いなので上がってみたが、特に何もなかった。最初の画像の梯子の近くではペットボトルにより何かが区切られていた。花壇でもあったのか?謎のポリ浴槽もあった。未知の水生生物が出てきたら困るので近づくのはやめておいた。前方、道があるっぽい。その道に出て左を見た。フェンスの向こう側は六浦
福知山海軍航空基地(石原飛行場)飛行隊指揮所京都府福知山市土内陸部につくられた航空基地。京都府天田郡西中筋村(福知山市)は舞鶴鎭守府から40キロ前後にある盆地。鉄道の便がある要衝で横長の平坦な土地があった。設営目的は、本土決戦に備える/川西航空機の試験飛行用飛行場/訓練用飛行場、と諸説あるが、どれも該当しているのかもしれない。詳細は後述。現在、戦跡(遺構)は飛行場指揮所壕、格納庫と言われている工場の建物が残る程度。飛行場指揮所壕は平地と丘の際にある竹藪の中に現存している。
千葉県の大原漁港に面する八幡岬に、(人間魚雷)回天小浜基地がある。横須賀鎮守府第7特攻隊所属(本部は勝浦)の第12回天隊73名(諸説あり)が配備された。1945年(昭和20年)7月30日に小浜基地は完成したが、回天を運搬する第21号1等輸送艦が輸送中に触雷して到着せず(諸説あり)、そのまま終戦になった。海に向かって3本の格納壕が並列につくられている。当然だが3本とも坑口はあるが、現在は中央に位置する1本の坑口のみ開いており、両側の坑口は戦後の擁壁工事で塞がれている。擁壁工事
8月、ご縁をいただき、硫黄島へ行ってまいりました。硫黄島島はご存知の通り、太平洋戦争後期に激戦地となった場所。日本兵およそ2万2000人、米兵およそ7000人、島民82名が亡くなったそうです。1泊2日のスケジュールで、初日は靖国神社で参拝し、遊就館へ。遊就館では、硫黄島についての事前研修を受けました。その後、埼玉のホテルへ移動し、結団式と再び研修。翌日は朝早くホテルを出発し、入間基地
【24年4月7日探索・25年3月12日公開】現在地はこの辺フェンスの間から一番端の水槽を見た。戦時中の建造らしく、コンクリートも不足気味だったので壁が石垣製だった、という事か?一見ドキッとするような看板があった。目のやつは火の用心で・・・キケンを喚起する看板だが、水槽が危ないのか犬が危険なのか、よくわからなかった。この近くに地下壕があるらしいとも聞いていたので、ちょっと探してみよう。オイル缶らしきものが転がっていた。キ
硫黄島①はこちらから。『硫黄島①』8月、ご縁をいただき、硫黄島へ行ってまいりました。硫黄島島はご存知の通り、太平洋戦争後期に激戦地となった場所。日本兵およそ2万2000人、米兵およ…ameblo.jp史料館の次は、遺骨収集実施現場の見学です。こちらは、前日までの遺骨収集で発見された壕。今回の2週間の作業では17柱のご遺体が発見されました。日本人の骨なのか?アメリカ人の骨なのか?もしくは動物の骨なのか?と見分ける鑑
『DerUntergang(英題:Downfall/邦題:ヒトラー〜最期の12日間〜』(2005年)ヒトラーのその最期の日に至る…地下壕での“失意”の12日間をリアルに描いた2005年公開のオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督作が『DERUNTERGANG(英題:Downfall)/ヒトラー~最期の12日間~』である。原作はヨアヒム・フェスト著書の『InsideHitler'sBunker:TheLastDaysoftheThirdReich(総統官邸地下壕
渡喜仁の陣地壕沖縄本島、国頭郡今帰仁村字渡喜仁826周辺海岸(運天港)から西北西に直線で約2キロ、渡喜仁の丘陵(標高10メートル)に海軍の陣地壕がある。海軍第226設営隊(山根部隊)が造営した。一説には特殊潜航艇「蛟龍」か甲標的丙型の秘匿壕?と言われているが、この壕は迷路だし、奥行きは足りているなれど高さが足りず。魚雷なら全長約5.5メートルなので、頭部を取り外して台車に積載すれば、壕内の通路を行き来は出来る(と思う)。昭和19年10月頃から基地は米軍艦載機の標的になって
【沖ノ島戦争遺構群】千葉県房総半島の戦争遺跡続いては沖ノ島。上記写真、館山航空基地の周辺も含めて取材をさせて頂きました。元々は四方が海に囲まれた無人島だった沖ノ島ですが、関東大震災の際の地盤隆起と隣接した同じく無人島の鷹ノ島(現,鷹ノ島公園)が、航空基地建設の為、本土に取り込まれたことによる周辺の海流の変化等、幾つかの要因が重なり現在の様に陸繋島(地続き)になったそうです。※陸繋島(りくけいとう)以前は島だった陸地の事。館山航空基地が完成した昭和5年以降、沖ノ
[航空総軍]屯鶴峯地下司令部壕(戦闘指令所)奈良県香芝市穴虫大阪と奈良の県境に近い屯鶴峯(どんづるぼう)。二上山の火山活動により火山岩屑が沈積→隆起で凝灰岩が露出→風化・侵食して奇岩群になった。この奇岩群から程近い南北の小さな尾根の裾、東側と西側に地下壕が格子状に張り巡らされている。本土決戦を目前にして、昭和20年4月に全国の陸軍航空部隊を統一指揮するための航空総軍が編成された。地下壕の北西10kmの地点にある大正飛行場(大阪府八尾市)は、本土決戦(決号作戰)の中核となる飛行
午前中で大阪の仕事を終え、奈良への帰路は国道25号を走行しているのですが、午後よりスキマ時間が出来てしまったので、柏原市国分より国道165号を走行し香芝市方面に向かいました。目的地は、奇勝・屯鶴峯(どんつるぼう)景色が優れているところを「景勝」とか「名勝」と副詞修飾しますが、屯鶴峯は”奇勝”と修飾されます。由縁は、真っ白い奇岩群が山肌に広がり、まるで異世界のような景観だから。県道703号香芝太子線で大阪方面左手、どんづる峯専用駐車場、もちろん無料駐車場
海上自衛隊の横須賀教育隊の場所は、海軍武山海兵団の跡地ですが、先日同地で太平洋戦争末期に造られた横穴式地下壕が発見され、調査と読売新聞の取材が行われました。私も参加させていただきました。基地内唯一の丘陵「岩崎山」全体が地下壕と言っても過言ではありません。空襲時の退避と陸上施設の地下移転のための地下壕です。他の地下壕と比べて造りこみが丁寧な場所が多かったです。また他にはない構造のエリアもありました。地下壕掘削の人員を豊富に持っていたからでしょうか。読売新聞HPで動画が掲載されています。
松代大本営(舞鶴山地下壕)長野市松代町西条3511松代大本営は大日本帝国陸軍において計画・推進されたもので、太平洋戦争末期、皇居・大本営・政府中枢機能移転のために長野県長野市松代地区などの3山(象山=イ、舞鶴山=ロ、皆神山=ハ)を中心に掘られた地下壕群を指す。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。陸軍は昭和19年4月より本土決戦態勢に入る。特に「東京から大本営および政府機関を地方(松代)に移さなければ、本土決戦は行えない」との立場を貫く中堅将校たちは地方への大本営の建設を推進した。中堅
【所在地】千葉市緑区【建設時期】1945年頃?【延長】400m超(推定)【訪問日】2019年6月23日千葉市緑区某所にて。尾根道から斜面を降下中。この付近は東金牛久崖線とよばれる地形で、それゆえなのか、他の下総台地外縁部によくみられる谷津に比べて斜面が急峻だ。20メートル程降下したところに壕口がある。悩まず突入するガチと自称ガチじゃない怖いおじさん達。なんか、埋まりかかってるぞ(;´Д`)、と思うと、内部から感嘆の声が聞こえてきた。続いて入
[航空総軍]屯鶴峯地下司令部壕(戦闘指令所)②奈良県香芝市穴虫大阪と奈良の県境に近い屯鶴峯(どんづるぼう)。この奇岩群から程近い南北の小さな尾根の裾、東側と西側に地下壕が格子状に張り巡らされている。本土決戦を目前にして、昭和20年4月に全国の陸軍航空部隊を統一指揮するための航空総軍が編成された。その司令部諸施設として、屯鶴峯近くの山中に同年6月〜8月の2ヶ月間で掘られた、とされる。だが8月15日の敗戦(停戦)により、地下壕は未完成のまま放置された。NPO法人屯鶴峯地下壕
大本営陸軍部の地下壕東京・市ケ谷の防衛省(市ヶ谷台)のA棟庁舎玄関前の儀仗場。ここに面する雑木林(かつては日本庭園)の地下に掘られたのが大本営陸軍部地下壕。現在の防衛省図:大本営陸軍部は建屋は縮小改悪され「記念館」として移設され、跡地には庁舎A棟が建つ。大本営陸軍部の地下壕は、建設開始は真珠湾攻撃(太平洋戦争の開戦)の4カ月前の1941年(昭和16年)8月。翌年12月に完成した。この地下壕の造られた理由、掘削方法もはっきりは分かっていない。地下壕が3本並列に掘られ