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前回からの続き(9月6日のこと)です鷹峯街道を北上して行きますすると、左手にフェンスに囲まれた所がありました!?🤔ナニカナ史蹟御土居(鷹ヶ峯北)住所・京都市北区鷹峯旧土居町2-22駐車場・なし解説史跡御土居御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は22
昨日は、低気圧の影響で、頭痛と眩暈と眠気でブログの更新を休んでしまいました。今日は午前中はそれなりにお天気がよかったので、元気を取り戻しました。今回は、神代植物公園の水生植物園の中にある深大寺城跡の散策と御城印の写真です御城印は、春に飛鳥山公園のお土産屋さんで購入していたのでお城の跡だけを見に行ってみました。去年の秋には『スズメバチ注意!!』の張り紙で行けなかったのでリベンジです枚数が凄く多いですがどうぞお付き合いくださいね~水生植物園姫空木や花菖蒲がちょっとだけ咲いて
惣谷山城(備前市吉永町高田)城主について『備陽国誌』などは伊勢新九郎(北条早雲)とするものもあるが、『備前記』・『東作誌』などのように、明石宗運にあてるものが多い。また、『東備郡村誌』のように、高取備前とするものもある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北西堀切北西堀切からの西竪堀北西堀切からの北東竪堀西二郭(曲輪Ⅱ)西二郭の南石積西二郭の北西石積主郭北帯曲輪西下段主郭北帯曲輪東上段主郭主郭の東土塁堀底のような地形の東二郭上がって東三郭(曲輪Ⅲ)土
静岡県袋井市にある岡崎城跡。説明文によると、小笠山丘陵の南西山麓端にあった二つの曲輪からなる小さな城。城主は地元の武将、四ノ宮右近と伝わっており、横須賀城や馬伏塚城(まむしづかじょう)とともに高天神城攻略のための補給基地だったとされる。天正9年(1581年)高天神城が落城した後は廃城になった。土塁の横を進んでいくと二の曲輪。二の曲輪にある北八雲神社本曲輪には、土塁や空堀が残っている。
2025年2月8日東海道本線で巡る城の三城目は静岡県沼津市にある興国寺城に向かいます。2月7日:清洲城→大垣城→掛川城ライトアップ2月8日:掛川城→諏訪原城→興国寺城諏訪原城で長く滞在したので、やや時間は押していましたが、ほぼ計画通り。興国寺城は北条氏旗揚げの城として有名です。戦国時代の小田原北条氏の祖となる伊勢盛時(北条早雲)が今川氏より与えられて城主となったので、小田原北条氏はここから始まったとされています。北条と名乗ったのは二代目氏綱からです。よって、
小見山城(井原市高屋町寺中)別名:小宮山城『古戦場備中府志』は、高屋村「小見山城」、当城開基を小見山二朗行忠とし、天正年中(1573~1592)、毛利方の領主三原豊後守広吉が在城、その後、鳥越佐兵衛・猪木惣蔵が城代となったとする。『井原市史』は、現在も芳井町三原に字名・家系伝承を伝える家々があるとする。『太平記』は小見山二朗元忠は陶山氏らと後醍醐天皇の籠る笠置山の城を夜討ちしたとする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北出郭北西帯曲輪下段北出郭北西帯曲輪中段北出郭北
黒山城(倉敷市福田町浦田)これだけの優れた縄張りを持つ城ながら、一次文献には一切記述がみられない。一方、岡山大学付属図書館所蔵池田家文庫にある『内田玄綾先祖書』には天正2~3(1574~1575)年に勃発した備中兵乱に際し、三村方として戦った国侍、内田牛介が本城に居住し、毛利方の攻勢により戦死したとされる。以後、毛利方の在番として塩津三河守が入城し、内田九郎兵衛が相番を務めたとする。しかし、『新修倉敷市史2』ではこの城の技巧的縄張りから、その築城は天正7(1579)年に勃発した宇喜多氏・毛利氏
高屋城(井原市高屋町石谷)『備中村鑑』では、高屋村にあり城主藤井能登守皓玄と伝わる。永禄11年(1569)、皓玄が、尼子氏残党の蜂起に呼応して毛利氏と敵対する。藤井氏は備後の神辺城を奪取に成功し、毛利氏の反撃に対しては高屋川流域を防御線と考えていたようだ。当流域には数多くの山城が存在しており、当城はその中でも最も防御力が高い山城である。また当城は、『萩藩閲閥録』の毛利方小早川隆景の書状に「高屋要害」として登場している。当時当城は、皓玄の息子の広吉が守備したと言われ、善戦の末落城し、以後毛利氏方