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筒江城(朝来市和田山町筒江)標高30m余の独立丘陵上にある筒江城は居館が城郭を成している館城といってよかろう。諏訪城に似た平城といった姿である。総じて加都・枚田の城は比治城を除けば比較的低い山上にある。打って出やすい城といえよう。(※和田山町史より)南西五郭南西四郭横堀状の西三郭中央堀切からの西堅堀中央堀切の土橋中央堀切からの東堅堀南二郭南二郭南東腰曲輪南堅堀南東堅堀南東三郭東堅堀主郭帯曲輪状の東二郭北東堅堀北東三郭北横堀からの北東堅堀北横堀北横堀からの
堀井城(小野市河合町小字構)堀井城は「明治十六年河合村調査、地詩編纂節目調書」(『加東郡詩』所収)では、承久二年(1220)赤松範景長男景能が創築し、四代廣景の時、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱により一時没落、享禄三年(1530)に堀井兵部長満が再興したとある。一方、『播城志』『播磨鑑』などでは堀井城主として矢野三郎義純の名を挙げている。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)南虎口と土橋南空堀東空堀西空堀北空堀主郭主郭の西土塁西土塁から東へ伸びる仕切土塁北土塁東土塁南土塁
所在地〒403-0032山梨県富士吉田市上吉田特徴市街地の丘陵に残る城郭遺構で、バリケードを進むと主郭には瓦礫が積み上げられている。主郭の奥に大きな土塁があり、その先に連郭式の遺構が残る。感想しかし、縄張りは単純で残存度合いも低い。
一昨日(6/20)、我が家から車で30分位北に向かって走り「余野(よの)本城」(大阪府豊能郡豊能町)という山城に登城しました。「余野本城」の城主と歴史についてですが、1185~1190年間に城主は「能勢氏」の一族だった「余野氏」が築きましたが、応仁の乱によって廃城となり、その後、近くに「余野城」を築いたと伝わります。「余野城」は戦国時代に築かれ、そのころには能勢において「能勢氏」「野間氏」と共に有力惣領となりました。その後天正年間に「余野城」を築いた「余野頼幸」は、近隣の「高山右近」
葛下城(苫田郡鏡野町山城・中谷)正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は苫西郡山城村の「葛下之城」として、城主を「中村大炊助槍沢頼宗」、頼宗の家臣桜井越中の末流が山城村へ今にあるとする。「作陽誌」は、山へは五町半、城主は初め大河原大膳太夫、のち中村大炊介頼宗、事跡不詳で、落城の日、頼宗に仕える浅山図書は城を焼き死んだ、城の西南、東には桜井越中・加藤豊後・木村菅兵衛・浅山図書・一柳平次・茅山将監・田中八右衛門・大蔵如真らの屋敷跡があると記す。「美作鬢鏡」「美作鏡」は城主を「中村大炊助頼宗」とする。
『舞鶴第三火薬廠』すみません・・・少し間が空きましたが・・・まだまだ続きます。大体の説明はコチラで→舞鶴第三火薬廠乾燥谷。。。まででしたね。乾燥谷より少し北西側に移動した場所に1本小さな谷があります。官舎等があったと思われる谷ですが、現在特に目立った遺構はありません。とりあえずね。谷の分岐付近には水槽・・・そこから右手、谷の奥に目をやると土塁を貫く隧道。は、後にして・・・水槽の左手の藪には何かの基礎。当時配置図では「会食所」近くだと思うのですが・・・飯場の様な感じでしょうか
明治維新時に東北諸藩が結成した「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をしているシリーズです。当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。本日は「棚倉城」(福島県東白川郡棚倉町)を訪問します。縄張り図「伊達家
大壇城(真庭市山久世)「作陽誌」は「大壇堡」として、大庭郡山久世村にあり、居主不詳と記す。『山久世小史』によれば、地元では「城ヶ段」と呼ばれ、尼子氏の武将井手六衛門が天文期に築城、同氏はのち高田城(真庭市勝山)の城主三浦氏に属し、天正期にかけて在城したと伝わる。(※美作国の山城)西四郭西三郭西二郭主郭土塁が囲むはずだが、見当たらず北東二郭北東堀切北東三郭南二郭南三郭南四郭大壇城遠望軌跡ログ旧真庭郡勝山町の城
筑西市国指定文化財になっている関城跡に来ています八幡神社からさらに歩いて遺構を探しています庚甲塔浅間大神等々たくさん置かれていますこの辺りも土塁でしょうか近くに点々と石仏も置かれていました通りの名前も関城通りださらに歩くと石碑がありました関宗祐父子墓案内板付きで
本日も晴天筑西市の続きです今回は関城に来ています国指定文化財です鎌倉から南北朝の時代大宝城と同じ時代興国4年(1343)11月11日関城は大宝城とともに落城駐車場に着きました筑西市どこに行っても見える筑波山田畑の広がる大地から良く見えるわ地図あり現在地は・・・ここか坑道跡から行ってみます坑道跡ありました
鉾田市に来ています烟田城跡があるので来てみました烟田城跡には新宮小学校がありましたが今は廃校になっています廃校がどこも増えています見事な土塁良くわかりますね奥へ進むと小学校の校庭にでます奥には鳥居が見えます小学校の校庭に氷川神社小さなお社がありました本殿が見えた烟田城は烟田氏
行方市に来ています木崎城址と香取神社を見に来ました香取神社だよぉおっとぉ木崎城跡じゃぞぉ甲斐の武田氏の一族とな城内の守護神香取神社すてきですねぇ遺構を見ることができます行ってみましょうこれなんだ・・・ほぅ境内は緑が映えてきれいです
境町に来ています次に来たのが長井戸香取神社長井戸城跡でもあります遺構を見ることができるのか・・・こちらも広い境内です創建は不詳のよう長井戸城跡に移築されているよう創建は不詳ですが宝永3年の記録も残っているそうです先へ進みますいつのものか・・・寛政文化天保文久
『海軍第三火薬廠』ザックリと言えば、旧海軍が舞鶴に造った火薬工場です。昭和14年秋・・・海軍高官の朝来村役場訪問から始まる。。。「海軍の施設拡充のため、白屋、岡安、長内の全地域を買収する。1年以内にすべてを撤去せよ」との厳命を受ける。余りに一方的な強制買収です・・・それにより、朝来地区全山林の4割、田畑等の6割、家屋移転は55戸という大規模なものとなったそうです。代々受け継いだ住み慣れた土地や家を失う事となります。第三火薬廠は、当時海軍がすでに稼働さしていた長浜工場の施設拡充移転を目
攻城日:2018年8月11日↑館跡北側の土塁と横堀↑谷津館は、群馬県桐生市にある居館跡デス♪↑"谷津館跡"案内板①↑館跡は、上毛電気鉄道上毛線新川駅の北西およそ800mにあり、現在は雑木林になっています。ちなみに、駅名にもなっている地名の"新川"を""にっかわ"と読むコトをたった今知ったのはナイショデスww"しんかわ"だと思ってマシタ(*ノ∀`*)テヘ↑"谷津館跡"案内板②↑館跡の南側300mには県道3号線が走っており、新川交差点の辺りには"←谷津館跡300m"の案内
朝一に従兄から到着の連絡を受けて一日が始まった。まず朝に母の施設を訪問。私の名前を憶えていた母。横に立っている従兄を見て誰かはすぐに分かったようだが名前が出てこなかった。名前をおしえると「そう!そう!」と、会えたことを心底喜んでいた。でも。さすがに自分の母と父の亡くなった事は従兄は言わなかった。わざわざ悲しませることは不本意だから。ひとしきりおしゃべりして写真も撮って楽しく過ごした。従兄が行きたいところは、勉強して調べて覚えた。
攻城日:2019年4月13日↑城址標柱↑江弁須城は、千葉県成田市にある城址デス♪↑標柱(裏)↑「江弁須城は、戦国時代の城で、千葉氏の族臣馬場氏の代々の居城でした。ここは「珍重」という珍しい地名ですが、古老の話しでは、昔は「珍重城」と書いたということです。左手奥、150メートル程のところに妙見神社があります」とのことです。↑攻城路(城址東側)↑標柱の場所から南側に向かって未舗装の道が伸びています。城址側(写真右手)が若干高くなっています。↑妙見神社参道↑標柱から100m程で、西
4/16鶉長良神社例大祭参列→館林総鎮守長良神社→恩林寺参拝後、向かったのは同じ邑楽町の浮島弁財天がある多々良沼公園へ鳥居藤棚の藤は満開です浮島辨財尊天由来抑当社は鎌倉幕府没落の時執権北条高時の弟四郎慧性が、或る夜日頃崇拝する江の島弁財天が夢枕に立ち「汝等の池上毛の郷に霊地あり、其処え逃れて居住なし、北条家の再興を図るべし」とのお告げに従い、弟荒間五郎友春と重臣三名を伴い主従五名にて多々良沼に辿りつき、恩林寺を建て東林友丘和尚を開山として北条家の菩提寺となし、北条家代々の護り神た
◆鉢形城跡荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁に築城されています。現在は土塁と一部復元された建物があります。◆日本の名城100選18番鉢形城跡資料館前の史跡案内★2つの川に挟まれた天然の要塞北条氏邦による整備・拡張により堅牢な城郭になった!と書いてあります。★資料館入場料は200円資料館の中に名城スタンプがあります。櫓門の再建が展示されています。城郭模型と櫓門が展示品です。(寂しい展示品です)★土塁城趾公園
こちら前々から目論んでた城跡なんですが、一部立入が制限されてるとのことで、後回しにしてたんです。全面解除になった情報もないまま、辛抱たまらず椿尾上城を攻めた後に突撃してしまいました。奈良県生駒郡平群町椿井大和・椿井城(つばいじょう)別名:椿井山城椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないものの、当初は在地土豪の椿井氏が室町時代から戦国時代の間に居城として築いたとされる。天正期には大和国で筒井氏と松永弾正さまの抗争が続いており、弾正さまは滅亡する天正5年10月まで椿井
前回まで、上京と下京の主な建物と、室町期の京都で盛んに活動していた武将や宗教家と各宗徒、商人たちについて触れてきました。一回りしたところで、もうひとつ、この時期の京都の街の特徴として重要な施設についてお話しします。それは、「惣構」です。惣構(そうがまえ)とは、街を囲うように作られた堀や土塁・塀を指します。室町期、京の都市域は平安京の範囲を超えて北方向に拡張しました。その後、ごく限られた範囲が「惣
裏門橋方向の土塁と雲青空だと気持ちいいね。満開じゃないけど、ソメイヨシノもきれいだな~風が強いから、箱館奉行所を取り巻く、旧建物の跡がある場所に行ってみる。いつもなら、あの土塁の上の道を歩いたりするんだけど・・・緩やかな坂、冬はそり遊びをしてる親子の姿を見かけたことがある。☆☆☆4/23(火)今日は無事、義母が退院して、家の近くの施設に入居。午後、仕事を終えて面
9月の半ばのまだ残暑のころ、に太宰府を訪ねて、古代~中世の太宰府政庁の防衛線である大野城(おおのじょう)、水城(みずき)、基肄城(きいじょう)と連なる水城(みずき)や土塁を「鳥の目」で眺めてから1ヶ月、もう朝は暖を取りたくなってきましたが、まだ日中が過ごしやすいうちにと、今度は「虫の目」で山城を歩いてみることにしました。【前回の「古代太宰府の国防をゆく」は、「こちら」からご覧ください。】大野城、基肄城は、所謂、「朝鮮式山城」と云われる形式で、歩いて周れば相当な時間がか
★道後温泉の隣にある湯築城跡です公園になっています。★湯築城跡土塁に囲まれた史跡です。◆伊予の国守護だった河野通盛氏の築城★資料館は無料です。資料館にはボランティアの方が居て楽しく史跡の説明をしてくれます。(名城100選スタンプは資料館にあります)★武家屋敷武家屋敷を復元してあります。土壁も史実に忠実に再現されています。★武家屋敷入り口門構えは現代に通じています。重厚な作りです。★武家屋敷内部
◆続日本の100名城菅谷館へ向かいます。嵐山町役場から2km程です。★菅谷館跡縄張り図◆菅谷館跡比企丘陵のほぼ中央、都幾川の清流を眼下に望む菅谷館跡(すがや・やかたあと)は、鎌倉時代に武蔵武士の畠山重忠が住居した所と伝えられています。重忠以後は、わずかな文献[「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」や「東路の津登(つと)」など]に記されているだけで、詳しい変遷を明らかにしませんが、戦国時代には数度にわたる改築を受けて城郭として整備拡大したものと思われます。今日見られる遺構は、戦国
攻城日:2019年4月13日↑主郭Ⅱ郭間空堀↑寺台城は、千葉県成田市にある城址デス♪↑城址標柱↑城址は、JA成田のすぐ南側にあります。JA成田の駐車場は広いので、推奨はしませんが短時間であればご迷惑にならないとは思います。駐車場から南側へ登る道があり、3分程度で城址標柱と石碑があるⅣ郭に到達出来ます。。。"8-(*o・ω・)o↑城址標柱(裏)↑「寺台城は、千葉氏の族臣馬場氏代々の居城でした。天正十八年馬場伊勢守勝政の代に亡び、のちに海保甲斐守三吉が徳川家康よりこの城を賜りまし