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北山方城(和気郡和気町北山方)城主や築城時期などの伝承はない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北東四郭北東四郭の北東土塁南東五郭南腰曲輪上段南腰曲輪下段南東帯曲輪土塁のある北東三郭北東二郭素戔嗚神社山門素戔嗚神社の鎮座する主郭主郭北帯曲輪西二郭西二郭西帯曲輪南西帯曲輪上段南西竪堀南西帯曲輪下段西堀切西三郭西三郭の東土塁西四郭北西帯曲輪上段北西帯曲輪中段北西帯曲輪下段北山方城遠望軌跡ログ和気郡佐伯町・和気郡和気町の城
NewYorkerずセレクト(?)画像からもお察しいただけるかと思いますが本体を地べたに撃墜させた衝撃で恐らく蓋がひしゃげ容器との噛み合わせが悪くなった都合により開栓工事に暫時手こずりましたがようやくたどり着いたNY魅惑の褐色コーティングゾーン沁みた。。コーン久々食べたかも、なんちゃって煙管おじさんエフェクト研究部やはり線刻的描線に惹かれるやはりbasementは土。土塁。彩色土器遊びたくなってくると不思議な紋様が出現してくるみらーりんぐで煙管ブリッジ。テーマは文明の揺らぎで
今日の「今昔さんぽ」は、とても見応えのある回でした。JR二条駅前から始まり、1952年に撮影された一枚の古い写真を手がかりに、京都の街を歩きながら謎を解いていく展開は、まさに番組タイトル通りの“今”と“昔”が交差する内容でした。写真に写る達筆すぎて読めない看板や暖簾、そこに書かれていた「㐂」の文字。通行人への聞き込みを重ねる中で、「陣屋」「新谷」といった言葉が浮かび上がり、少しずつ正体に近づいていく過程がとても面白かったです。そして辿り着いたのが、大宮通りにある重要文化財小川家住宅(二
雪の降り方が激しくなり、辺りが暗くなる中、戸切地陣屋を後にして、志苔館へ向かう。函館市に入る辺りで雪は止み、空も明るくなってきた。一安心。あずまやに置いてあるスタンプを押し、入り口に到着すると、数時間前に見た風景が再び現れる。上ノ国勝山館と同じように、二重の空堀の向こうに高めの土塁。勝山館では土塁の上にあった柵が志苔館には無い程度の違い。志苔館の方が敷地は狭いが、全体的に平坦。西側を志海苔川、南側を標高差のある海岸が囲む地形を生かした縄張りなど、勝山館との共通点が多い。道南十二館はこの型を
岩槻愛宕神社にやって来ました。にゃんこ先生に遭遇!逃げられちゃったけど、探索中に先生に逢えると和みます。相変わらずのマイペースぶり。まぁ、猫に「先生!」と呼び掛けても振り向いてもらえないのは当然か。その姿を見れただけで充分です。お互いどうにかこうにか生きていきましょうね。社標から二つの鳥居を経て、境内に入ります。苔生した狛犬に歴史を感じますね。創建年代は不明ですが、十六世紀頃と推定されています。あ、なんか水が溢れる手水鉢は久々に見たかも。水が冷たいシーズンになりまし
神西城(出雲市東神西町)別名:高倉城・竹生城・龍王山竹生城承久の乱(1221)の後に神西(園山)新荘に地頭として入部した古荘氏は、室町時代の初期には在地名を名乗って神西氏と称するようになる。その後、尼子氏が出雲国内を統一すると、神西氏もまたこれを通じて尼子氏の配下に組み込まれる。雲芸攻防戦が始まり、毛利氏が出雲へ侵攻してくると、永禄八年(1565)には神西元通は毛利元就へと降るが、尼子家再興戦(1569~1571)が開始されると、神西元通は尼子勝久・山中鹿介に最後まで従い、播磨国の上月城で切
和歌山県西牟婁郡白浜町紀伊・安宅大野城(あたぎおおのじょう)別名:大野城大野城は安宅氏執事であった大野氏の居館である。安宅氏は、氏族の一つで、熊野水軍の一員で、紀伊安宅荘に起源を持つ紀伊安宅氏や、その分流で三好氏から安宅冬康を養子を迎えた淡路安宅氏などが知られる。安宅氏本城はだいぶ以前に攻めましたので。↓紀伊・日置八幡山城(前編)|大野城南山麓にある春日神社。大永2年(1522)創建と伝わるので城があった時期から存在していたと云われる。この一
こんばんわ、貴女のリョウセイです。イドルで立ちっ放しだったので腰が痛いです。正直立ち上がるのも辛い。ガラスの腰です。小田城は素晴らしい。何たって平らだから攻め易い。タマ姉しっくすのFTMMが悩ましい。「タマ姉しっくすは平城ぢゃ」「ふふ、平城でも縄張次第で難攻不落の城塞になるのよ」「タマ姉しっくすは攻め辛いのか?」「夜になったら攻めて来なさい」本曲輪北側の土塁の上です。初めて来た時はここはまっ平らな原っぱでした。よくもここまで土塁と堀を再現
今回の「お役立ち芸人・浅越ゴエ」は、**「うどん出汁の飴を作りたい」**という、一見ちょっと変わった依頼でしたが、観ていくうちに、とても共感できる内容でした。依頼者の木本めぐみさんは、過去に胃腸をこわし、病院で「2日間絶食」と言われた経験があるそうです。また同じような状況になるかもしれないという不安から、胃腸にやさしく、常備できる“お守り”のような飴を作りたい、その思いが今回の依頼につながっていました。ヒガシマルのうどんスープを使って自作した飴は、香りは良いものの、味は「砂
運転免許センターのすぐ隣りにある城跡です。免許更新に行くと、終えた後に必ずここに登るのが恒例になっています。私は誕生日が12月なので、登る時は必ず冬。蚊もいないし、空気は澄んで、紅葉なども美しい季節です。寒いので人もいません。天守があるわけではなく、城の跡地。若い頃は天守や櫓などの建物が残っているところが好きでしたが、最近は土塁などから昔を想像するのが好きになりました。「夏草や兵どもが夢の跡」という感じに涙を落とすということはありませんが、しかし、どんな思いで
さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら、岩手県二戸市にある『九戸城』に接する機会がありました。壮絶な最後をであったとの話しは、他資料で目にして居りましたが・・・今日は、改めて同城を見て参ろうと思います。以下、二戸市の公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。<九戸城跡>市の中心部にある九戸城跡は昭和10年(1935年)に国の指定を受けた史跡です。この城は九戸政実の4代前の光政が築いたとも言わ
今日の散歩おじさん地域は青空が広がり朝から日差しタップリで、最高気温は「12月上旬並」の13.2℃でした🌡さて今日の記事は「日本100名城」めぐりで訪れた、栃木県足利市にあります「足利氏館(あしかがしやかた)」です!城内に氏寺として建立された「鑁阿寺」の本堂が国宝に指定されていることもあり、お寺として認識されている方も多いかと思いますが、足利氏の2代目義兼が居城として築城したという、れっきとしたお城なのです!・・・ということで、まずは正面にあたる南側から「入城」することにしましょう(* ̄0
おはようございます。昨日は風が強く出船中止しました。お天気最高な本日は定休日です🚢お休みになると凪る……嫌なルーティンですね(⊙ө⊙)15日のお詣りに行ってきました。今年最後の氏神さまへのご挨拶してきました。丁寧に草刈りがされていて、木々の剪定もされていて、気持ち良い小浜八幡神社です。年内釣りに来られた方は、是非お詣りに行ってみてください。まずは、この階段を登ってそしてこの階段登って❤大好きな阿吽が待っています。この勇ましさが大好きです。阿吽について口を開けた「阿形(あ
昨日は予定していた長崎大学の学生寮が分からず、昨年の北海道苫小牧駅以来の長崎駅での野宿となりました。駅が開くとバックパックの人はどこかへ行ってしまいました。態度もよそよそしい。もしかして「訳アリ」の人だったのか??ワタクシも早々に長崎駅を出発しました。良い天気です。佐賀県に入りました。西有田町は現在は有田町と合併しています。同じ場所を見つけました。なんでこんな変な道を走るのだろう?我ながらよくわかりません。さらに北上を続け、海にでました。ここは虹の松原です。異世界
布智城(出雲市下古志町)比布智神社説明看板比布智神社へ北東五郭北東四郭北東三郭北東二郭主郭と北東二郭の間は堀切のような窪み土塁に囲まれた主郭主郭の北土塁主郭の西土塁主郭の南土塁南帯曲輪布智城遠望軌跡ログ出雲市の城
国吉城レポ第3弾です。その2のレポ『22.10.02国吉城[朝倉軍の攻勢を幾度も耐えた粟屋氏の居城]その2』国吉城レポ第2弾です。その1のレポ『22.10.02国吉城[朝倉軍の攻勢を幾度も耐えた粟屋氏の居城]その1』小谷城の激闘(というか山登りなどで疲れただ…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル現存建築
高柳城(松江市薦津町)城主は海老山城の新田(仁田)氏と云う。松江市下佐陀町にある八幡宮は、高柳城主の新田右馬頭の勧請と伝わる。北曲輪群北西二郭北西二郭と南西二郭の間の土塁北曲輪群南西二郭北曲輪群主郭墓地となっていて、改変なのか、淵は土塁状だ北曲輪群東二郭…幅の広い帯曲輪で、北側で北西二郭と繋がっている東二郭と南西二郭は南で繋がっていた緩傾斜の南腰曲輪中央堀切…切通となっている南曲輪群北三郭そこには石祠が祀られている南曲輪群北二郭そこには五輪塔が南曲輪群主郭北帯曲輪
年8月の長雨で、弘前城二の丸丑寅櫓の土塁下の中濠護岸が損壊。その上の土塁や櫓にも影響があることから、整備工事費が補遺予算に盛られました。文化財なので文化庁補助を受けることになるかと思いますが、どのような工事になるのか質問します。
小谷城出丸(長浜市湖北町伊部)城主真柄備中守遺構土塁・堀小谷城主郭尾根最先端の独立した砦二段の曲輪で構成三方を土塁で囲む↓現地案内板本丸側から降って出丸に↓出丸北側の間柄峠の碑↓出丸北側登り口の看板う~ん徒歩跡以外は・・・( ̄▽ ̄;)奥に土塁が展望あり↓下段の曲輪↓下段曲輪の土塁
今回から筑前大野城(日本100名城)の紹介です。私はこれで100名城をすべて訪問出来ました。11月7日の夜行バスで、大阪から福岡に行きました。次の8日朝8時ころに福岡に到着して、駅前でレンタカーを借りて、午前10時前に大野城へ出発しました。今回は大野城の歴史です。天智天皇のとき665年『日本書紀』には、「・・・大野と椽、二城を築かしむ」と、記載されています。基肄城については『基肄(きい)城1歴史』今回から基肄(きい)城の紹介です。佐賀県の基山町にある
鳶ヶ巣城(出雲市西材木町)鳶ヶ巣城は、出雲平野の北方にそびえる、北山山地中央部の標高281mの鳶ヶ巣山に築かれている。この山頂からは、出雲平野はもちろん、遠く西に大社湾、東に宍道湖をも望むことができる。また、山麓には、中世において西流する斐伊川の流れがあり、一大勢力を有する出雲大社、鰐淵寺への参道が通っていた。この城は、十六世紀の初頭の頃から宍道氏の居城であったと言い伝えられているが、永禄五年(1562)毛利元就によって、尼子攻略の拠点として築城された。それは、この地が交通と軍事上の要衝で
前回、R7年8月30日に訪れましたが、その時には夏草が生い茂って突入をためらった場所がありました。(前回の記事から)夏草と危険な暑さのため、今回はここまでとし、早々に撤収しました。帰り際に案内所にお礼方々挨拶に行くと、冬枯れになった頃が見通しが効いて良いそうですから、その頃を見計らって再訪したいと思っています。『本(もと)佐倉城へ』前回、佐倉城に行ったときに、案内所の方に「近くに佐倉城よりも古い本佐倉城という城跡があり、まだ整備中ですが見学できますから、是非、行ってみてくださ
横山城(出雲市鹿園寺町)詳細不明。一畑薬師の南側に所在。図外の北西四郭図外の北西三郭図外の西二郭西腰曲輪図外の西二郭西二郭の北土塁西堀切と土橋西堀切の北側の竪堀?山道?主郭西段北西土塁主郭西段と中央段の間の土塁主郭中央段東土塁北土塁北虎口主郭南帯曲輪北二郭北二郭と繋がっていて、僅かに高い東二郭東堀切北二郭北腰曲輪北東上段北二郭北腰曲輪北西下段横山城遠望軌跡ログ出雲市の城
神田城から移動すること少し。和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見紀伊・周参見中山城(すさみなかやまじょう)この城は「安宅一乱記」のみに登場するが、それによると大永5年(1525)周参見氏一族で内紛があり、周参見太郎が城主であった中山城に一揆衆の旗頭周参見兵衛とそれに同調した大阪少輔らに攻められ、立野城に退去したが、その翌日、その急を聞いた安宅氏の支援を得て一揆衆を鎮圧した。この戦いで大阪少輔は討ち取られた。ちなみに『安宅一乱記」という古文書(旧家で発見された古写本)は軍記物で
蛇山城(出雲市大社町遙堪)遙堪は「ようかん」と読む。蛇山城は言い伝えによると松井弾正宗則の城であったようです。1555年頃に松井弾正は片寄筑前守によって討たれてしまうが、その後待ち伏せていた飯島兄弟によって討ち取られてしまいます。(※源行近遙堪蛇山城より)松井弾正正守の居城「蛇山城」は、遥堪北山中腹にある。松井弾正守宗則は、伯耆汗入郡霊山(鳥取県)にいた尼子の武将で、のちに遥堪蛇山城主にとなった。粟津(出雲市)に片寄筑前守という武将がいて、蛇山城の兵が少ない時をうかがい、東篠﨑山か
気になってた岩槻城址公園へ散策してきました。室町時代末に築かれた城郭~江戸時代~明治以降廃城約500本の桜が咲く桜の名所第1駐車場へ車を停めて散策開始(第3駐車場まである)城址公園に黒門と裏門が移築され残っている。(撮影日12月7日日曜日)黒門裏門室町時代の岩槻城と城下町の地図現代の岩槻城址公園地図空堀の土塁堀障子戦国時代、両方から矢を射られたら、やられてしまう。
宇龍城(出雲市大社町宇龍)当城は、尼子氏か毛利氏の管轄下に、宇龍港と島根半島西岸を制圧する海城として築城されたものと思われる。遺構の特徴から見ると、毛利配下の武将によって最後の改修が行われたのではあるまいか。(※出雲の山城より)主郭主郭の南東部には土塁溜池のような窪みや、複雑な形状の土塁のような物のある北東二郭主郭から北東へ伸びる登り土塁北四郭北西二郭主郭と北西二郭の間の横堀北西二郭西帯曲輪上段北西二郭西帯曲輪下段図では二段だが、実際には段差がなく一段の北西三郭その突き
今日は、地元の家康公ゆかりの地に行ってきたよ。赤坂お茶屋屋敷跡徳川家康が、京都を往復するにあたって造営した、将軍家専用の休泊施設の遺跡。今まで、行ったことも、(ごめーん💦存在も知らんかったわ)なくて。紅葉も🍁綺麗と知ったので、行ってみました。徳川家康が、京都に行く時、途中に宿泊した施設の跡地なんだね。建物はないけれど、土塁や空豪が残っていて、真ん中は牡丹園になってて、春は見頃になるそうです。残ってる空豪なんかを見たり、大木を見たりすると、家康公もここを眺めたり、したのかなあなん
国吉城レポ第2弾です。その1のレポ『22.10.02国吉城[朝倉軍の攻勢を幾度も耐えた粟屋氏の居城]その1』小谷城の激闘(というか山登りなどで疲れただけ)の翌朝は、福井県へ向かいます。でもこの日は、目的地の城一発で終了という気持ちだったので、それほど早い出発をした記…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル現存建築
寄居城(出雲市十六島町)十六島と書いて「うっぷるい」と読む、難読地名である。平成五年度からの島根県中世城館跡分布調査においても確認できず、その後の調査で発見された山城跡である。地名を冠する武士として十六島弥六左衛門がある。大永四年(1524)、佐東銀山城(広島市安佐南区)に後詰めとして向かった尼子方の線死者の中に、岸野新兵衛・朝山七郎と並んで十六島弥六左衛門の名が『雲陽軍実記』に残る。佐東銀山城は安芸武田氏が拠った巨大な山城で、安芸進出を図る周防大内氏との攻防戦が繰り広げられた。武田元繁