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賀田城(飯石郡飯南町下来島)賀田城は飯南町下来島の標高494mの松木山にある。『赤穴家系図』には、石見の国人の佐波実連の弟・秀清が、都賀(美郷町)の高巻城に籠城したものの、後に下来島の高名和城に籠ったという。この高名和城を賀田城とする説もあるが詳細は不明である。永禄五年(1562)、毛利氏は石見を抑え出雲に侵攻してきた。この頃には出雲国人の中にも、湯原春綱や米原綱寛など毛利氏へ味方するものが現れた。瀬戸山城の赤穴氏も議論の末、毛利氏へ味方することとなった。しかし、赤穴氏家臣の島田権兵衛、森田
昨日は蔦屋書店からの帰り、次の予定まで時間があったので、五稜郭公園の満開の桜を見にいきました。ちょうど黄砂が来ていて空はぼんやり霞み、なんとなくムーディな感じ。桜を遠くから愛でていると、樹の下や上から人が現われて、「あ、あそこに行けるんだ」とびっくりしたもの。今は、公園内の構造がわかって散策も自由自在です。園内の外側⇒内側へ順に、歩ける場所を挙げると、➀公園外周の桜並木の下(緑地)②堀の外周(アスファルト)人が多くて迷うことなく安心。③堀のすぐ内側、土塁との
八幡山城(赤磐市仁堀中・仁堀東)畑和良によれば、元禄2(1689)年に書かれた『小坂家記』によると、浦上宗景の家臣小坂弥三郎が「備前ノ内赤坂郡仁保村八幡山と申城」に在城したという。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)八幡宮南東竪堀南西二郭南帯曲輪南西堀切南西堀切からの北竪堀南西二郭(曲輪Ⅲ)南西二郭の西土塁主郭(曲輪Ⅱ)主郭北櫓台(曲輪Ⅰ)主郭東帯曲輪北三重堀切(南)北三重堀切(南)からの西竪堀北三重堀切(南)からの東竪堀北二郭北三重堀切(中)
大戸山轟城(久米郡美咲町大戸下)『古城之覚』によると「とゝめき山」として「城主赤松一族抱ル」とする。『作陽誌』には「轟山」として別名を弾正山といい入江弾正の在城を伝える。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第3冊美作編より)西二重堀切(西)西二重堀切(西)からの南西竪堀西二重堀切(西)からの北竪堀西二重堀切間の西二郭西二郭の東土塁西二重堀切(東)西二重堀切(東)からの北竪堀西二重堀切(東)からの南竪堀南竪堀が二股に別れた南西竪堀二股に別れた南竪堀主郭主郭の西土塁主郭の
主郭と西郭の間に立つ田上山砦説明板「天正11年(1583)4月羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った賤ケ岳の戦いで、秀吉の弟、羽柴秀長が、標高323mに田上山陣城を構えた」羽柴秀長の直筆の書面を見たことがありますが、秀吉より闊達というか、どっしりした書体で書く人だなぁという印象。書いた場所や状況が慌てていたところで書いたのかもしれませんが。秀吉のほうが、丁寧に繊細に書いてあった書面を見たとき、公家文化の中で鍛えられたのかなぁと思ったり。書体は、書いた場所や状況で変わりますから
愛知県春日井市上条城址で行われた発掘調査現地説明会に行ってきました。上条城は当地の土豪・小坂氏の城で、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いでは、羽柴方の池田恒興軍が数日滞在した城といわれています。小雨の中の説明会でしたが40人ほどの方が参加しており、地元でも関心の高い城址だったことが伺えます。いろんな説明があった中、印象的だったポイントは次の3つです。小石の層がある理由土塁を切って断面の説明がありましたが、小石などを含んだ礫層(れきそう)について。これは土塁の強度を
昨日は、低気圧の影響で、頭痛と眩暈と眠気でブログの更新を休んでしまいました。今日は午前中はそれなりにお天気がよかったので、元気を取り戻しました。今回は、神代植物公園の水生植物園の中にある深大寺城跡の散策と御城印の写真です御城印は、春に飛鳥山公園のお土産屋さんで購入していたのでお城の跡だけを見に行ってみました。去年の秋には『スズメバチ注意!!』の張り紙で行けなかったのでリベンジです枚数が凄く多いですがどうぞお付き合いくださいね~水生植物園姫空木や花菖蒲がちょっとだけ咲いて
龍ノ口山城(岡山市中区祇園・四御神)上道郡湯迫村に所在した城館として『和気絹』では最所修理允元常、山口与一が居城した「龍口城」、『備陽国誌』は穝所修理亮元常、山口与市が居城した「龍の口城」、『吉備前鑑』では穝所修理亮元常が居城した竜ノ口村の「竜ノ口」、『東備郡村誌』は最荘治部(サイ所治部)が居城した「龍の口山城」が、段原村に所在した城館として『撮要録』は最所治部少輔元常が居城した「竜口城」が、また、『吉備前秘録』は場所不詳(旭川の上)で最庄(穝所)修理亮元常、最庄治部元忠が居城した「龍口
先日清書した宇津城に行ったとき、メインはこちら。デカンショ街道から天引を園部方面へ。日吉ダムから道風神社~前坂を通って。洛中を車で通りたくなかったので…。なぜこの城が気になったかといえば…櫓台ですよ、櫓台!今年の「中世城郭セミナー」のテーマですよね。「土壇」ですけどね。櫓がそこに建っていたかどうかなんてわかんないじゃん。まあそのほかに横堀、土塁…どれも「あるのはわかっていたが想像以上」でした。画像ではよくわかんないですね、あるある。城はほぼ単郭ですが、土壇abcdと付随
六坊を抜けて、尾根道を歩いていきます。この六坊の北の尾根、さらに途中から回り込んだ尾根上には城砦があります。しかしそれらは、小谷城レポの最後にも書きましたが、全く同じ城とは思えない、縄張りをしています。従って、小谷城という枠ではなく、各城砦という形でレポにしていきます。まぁ、こんな事はどうでもよいんですけどね。という事で、最初は六坊の北の尾根上にある、月所丸のレポです。チラ見レポ『10月とは思えない暑さの中で、過酷な山道は堪えました(-_-;』ここのところ、気温の上がり