ブログ記事4,624件
寺上山城(玉野市滝)児島郡滝村の城館として、『備前記』・『備陽記』・『吉備温故秘録』には城主不詳の「古城山」が記載される一方、『備陽国誌』には城主不詳として「寺上山城」と「鍛治山城」の2城が記されている。ただし、城名の由来となった「正蔵院」は本城の東麓に建立されていることから、「寺上山城」は本城跡を示すものと推測され、地元でも現在このように呼ばれている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)箱堀状の北西八郭北西八郭の北土塁北西七郭北西六郭北西五郭北西四郭北帯曲輪
1月21日は松本城の見学だけでなく、松本市内を散歩。城を中心とした周辺地域も見て回るのです。松本は北アルプスから来る伏流水からの湧き水が豊富で、松本城の堀の水の他、多くの井戸が人々の生活用水もまかなっている。この井戸を探して散歩スタート。松本駅をスタート。まず目指すは松本城だが、松本山雅FCのマンホール1.西堀公園井戸早速1つ目の井戸を発見。大きな土塁が残されています。西総堀土塁公園ロールケーキのように切られた土塁の一部です。新井家の腕木門
西山城(新見市哲西町八鳥字要害山)別名:要害城『備中村鑑』には、八鳥村にあり市川別當行房が在城したと書かれる。また天文年間に宮高盛が改修を行い、名称を「要害城」とした。同年間には大内氏や尼子氏の抗争が、当城を含んだ八鳥・二本木において二度の合戦があったとされる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)西八郭帯曲輪状の西七郭西六郭西五郭西二重堀切(西)西二重堀切(東)堀切状の西四郭西帯曲輪西四郭帯曲輪状の北西三郭北西二重堀切(東)北西二重堀切(西)北三重堀
葛木城(赤磐市上仁保)『備陽記』では「村ノ乾に古城山跡アリ城主不知」と記載されているが、『吉備温故秘録』では城主を葛木左京進時景とする。『山陽町史』は、平安末期にこの上仁保地域を含む鳥取庄を開発した領主の葛木氏によって築かれ、貞治年間(1362~1368)には葛木四郎次郎左衛門茂綱が居城したと記す。『西山村史』には、曲輪Ⅰに「東南に幅2間、長さ3間半で礎石が残っており、その後に続いて長さ4間余の天守台の跡とする屋敷跡がある」と記述されているが、今回の調査では礎石等は確認されなかった。また、鉄製
鼓山城(岡山市北区吉備津・立田)別名:鼓山陣『中国兵乱記』によると、天正10(1582)年3月12日に備前入りした羽柴秀吉は、15日に備前一宮に着陣するが、その際に羽柴秀長が板倉郷の鼓山に陣を敷いたとする。「備中国高松城水攻図」などに「鼓山陣所東西十九間南北十八間□見切場豆腐ヶ平ト名付、東西二間半、南北一間半、秀吉公始此山ニ陣取給ヒ、毛利方ノ旗下五ヶ城ヲ見切テ、攻城ノ策ヲ運レ給フト云」、「初ハ秀吉此山本陣アル後、龍王山本陣営有アリ」という記述がみえ、秀吉が最初に本陣を構えた場所とされる。
同じ摂津国の難読地名やさしい編「吹田市」に、遺構は残らず、場所も定かではない山田城跡てありますが、同じ摂津でも毎度お馴染みの大阪府のいちばん上、いわゆる北摂(ほくせつ)の城跡です。ちなみに吹田市も北摂になります。そしてわしは自称・北摂守である大阪府豊能郡能勢山田摂津・山田城(やまだじょう)別名能勢山田城、亀ノ屋城山田城は、治安2年(1022)多田満政の五男である山田忠国(清和源氏経基流、源忠国)と、兄忠重が在城してたと記録があり、その時期に築城されたと推測される。山田氏代々の
河津桜が咲く松ヶ埼城跡へ。土塁と桜が楽しめる幸せいっぱいの場所。こんなににぎわっているとは。「幸せ絶好調」とか言いながら、写真を撮る人々。桜を見るのも嬉しいですが、嬉しそうな人々を見るのもお花見の醍醐味です。帰り道、大堀川レクリエーション公園に謎の土盛り発見。その東、あけぼの三丁目の野馬土手の下を通り、二重土手?土手見も楽しいです。桜の春が始まっています。
大阪府豊能郡能勢町山辺摂津・山辺城(やまべじょう)別名鷹爪城、小富士の城山辺城は、建久二年(1191)能勢氏の祖国基が当郡に来注以来、能勢氏の詰城であつた。戦乱期の天文年間(1532~55)能勢氏の一族である大町右衛門尉宗長が在城し、水原氏らと能勢西郷衆の雄として摂丹群雄の間に陣を張つたが、天正七年(1579)大町豊後守宗清・弥太郎宗治兄弟は織田信澄・塩川長満連合軍に、栗栖で戦い敗死して落城した。古来「能勢富士」といわれる城山は、標高428m、比高210mの険峻な円錐状の