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こんにちは、philosophiaですポルシェボクスター981の納車後は、徳川四天王の一人本多忠勝公が築城した大多喜城へ向かいます。K132を南下しながら、ワインディングのコーナーを抜けるたび車重の軽さとミッドシップ特有のコーナリングの良さを実感!自分を中心に旋回していく気持ち良さはたまりませんねぇ~(^^♪途中からK128へ入り、大多喜城の天守が見えてきました。城下町に入るところに大手門(歓迎門)すぐに<観光本陣>(観光協会)がありまずは名城スタンプを
布智城(出雲市下古志町)比布智神社説明看板比布智神社へ北東五郭北東四郭北東三郭北東二郭主郭と北東二郭の間は堀切のような窪み土塁に囲まれた主郭主郭の北土塁主郭の西土塁主郭の南土塁南帯曲輪布智城遠望軌跡ログ出雲市の城
蛇山城(出雲市大社町遙堪)遙堪は「ようかん」と読む。蛇山城は言い伝えによると松井弾正宗則の城であったようです。1555年頃に松井弾正は片寄筑前守によって討たれてしまうが、その後待ち伏せていた飯島兄弟によって討ち取られてしまいます。(※源行近遙堪蛇山城より)松井弾正正守の居城「蛇山城」は、遥堪北山中腹にある。松井弾正守宗則は、伯耆汗入郡霊山(鳥取県)にいた尼子の武将で、のちに遥堪蛇山城主にとなった。粟津(出雲市)に片寄筑前守という武将がいて、蛇山城の兵が少ない時をうかがい、東篠﨑山か
壇原城(安来市伯太町母里)壇原城は、「郷土母里」第一集によると、廣江兵庫の城であったとし、「鐘撞跡」「櫓跡」の地名が残るという。また西八幡宮(伯太町西母里)の伝承によると、応永年間(1394~1428)に、山名氏の配下、廣江氏が母里へ入った。治部、兵庫、市弥の三人の兄弟があり、そのうち市弥は合戦で討ち死にしたが、治部、兵庫は八幡宮に祈願し勝利したという。後に兵庫は西母里の卯月に分家し、壇原に居を定めたという。『雲陽誌』には応永十二年(1405)に、西母里の八幡の項に、「廣江兵庫遠壇原に城郭を築
槻下豪族館(東伯郡琴浦町槻下)槻下は古代、中世と八橋郡の中心となったところであり、交通の要点にもなっていた。ここ槻下部落の東側台地に、堀をめぐらした約50メートルに30メートル、約50メートルに40メートルと並ぶ一段高い二つの敷地が残っている。西側の大きい方の敷地には、周囲に高さ約2メートルの土塁がある。ここは今でも大堀(おおぼれ)と呼ばれているが、近くには陣馬野と呼ばれて、その当時主従とも常に武芸の訓練に励んだであろう馬場の跡もある。この頃の農民は「いざ鎌倉」という時には武器を取って領主のた
秋葉山城(雲南市木次町木次)秋葉山は標高90.8mで、その昔、佐々木兵庫守の居城があった(1394~1427)ところです。また、洞光寺は佐々木兵庫守が開基した寺院と言われています。(※現地説明看板より)東四郭東三郭南出丸西出丸南三郭南二郭主郭現地説明看板主郭の櫓台?土塁?主郭より一段高い北二郭秋葉城碑北三郭東二郭北四郭北出丸秋葉山城遠望軌跡ログ雲南市の城
智伊館(出雲市智井宮町)当地は現在真幸ヶ丘公園(まさきがおか)となっています。公園に隣接する真幸山福知寺は小野氏(後の神西氏)の開基と伝えられています。また智伊神社は地頭の智伊館とされ、遺構が残されています。(※源行近のブログより)館跡と推定される智伊神社物見曲輪主郭主郭西二郭西三郭西四郭西五郭北東二郭北東二郭の東土塁智伊館遠望出雲市の城
城戸城(雲南市大東町西阿用小字城戸)西堀切南主郭から東へ下る登り土塁南主郭南主郭の南西土塁中横堀東二郭中横堀東三郭東三郭東腰曲輪東四郭北主郭北主郭の西土塁北二郭登り土塁東五郭東六郭東七郭東六郭北腰曲輪城戸城遠望軌跡ログ雲南市の城