ブログ記事3,674件
金室城(久米郡美咲町行信)正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は英田郡行延村の「金ふろ」として、城主を浦上左馬助行信、別に「金室」として城主不詳とする。元禄二年(1689)の書上(『美作古城史』所収)に、城主は浦上左馬丞、本丸(長さ十間、横十五間)、外に一間半の土塁あり、二丸(長さ十四間、横十一間)、三丸には「弓とり場屋敷」(長さ十間、横八間)が、山の西に堀切(幅三間、深さ一間半)、山内に井戸(約一間四方、深さ不詳)とある。「美作鬢鏡」は「金室城」として城主不詳、別に「金風呂城」として城主を浦
二十数年ぶりに訪ねてみました記憶に残っていた「ひようたん池」も「おろちの松」も上書きされちゃった「あ~あ、でも・・・まいっか」とそんな心境です。十年一昔と言いますが、二十年は大昔ってホント。ちょっと自慢しますが記憶力はいい方で( ̄Oノ ̄時々思い出しては懐かしんでいたあの木、あの径、あの池、あの広場が、もう一切合切が昔と違うの。そりゃあそうでしょうとも。。。イトトンボ自然教育園を初めて訪ねたのは大学時代。押入れの奥に仕舞ったアルバムを引っ張り出せばサ
4/17クロスバイクで巡る館林龍雲寺➡️雷電神社➡️神明宮➡️夜明稲荷神社➡️館林城趾(尾曳城趾)八幡宮と巡り、向かったのは同じく館林城内にあった尾曳稲荷神社千糸繍院御朱印帳ケース/御朱印帳保管用高級ロッキング組仕様総桐箱20冊用Amazon(アマゾン)4,980円鳥居社号碑由緒尾曳稲荷神社は、第105代後奈良天皇の御代天文元年(1533)尾曳城(後の館林城)城主・赤井照光が城の鬼門にあたる稲荷郭の地に守護神として創始されました。大袋城(城沼南岸)城主赤井
天下を統一した豊臣秀吉が、現在の京都市内に多くの土木・建築工事を行うようになったのは、周知の事実ではないだろうか。1568年には聚楽第(じゅらくてい)を完成させ、その後は多くの社寺の再建などを行っている。その後、1591年に大土木工事である、御土居(おどい)の造成を始め、きわめて短期間で完成させたと文献には書かれてある。その頃が、秀吉政権の最も華やかな時期だったようだ。その秀吉が命じて造成させた”御土居”とは、いったいなんなのだろう。ブラタモリでも放送されたとあるが、うっかりと見逃し
三重県お城廻りの五番目は、「久居陣屋」(三重県津市久居町)です。久居陣屋城下図(「高通公園」内に掲出、公園は左下の赤い地点)事前調査では、「久居駅」からは歩くと25分位だったのでバスで最寄付近まで無いか調べると、三重交通榊原温泉線の「新家バス停」が最寄ということが判り、バスの時間も少し待てば乗れそうでしたのでそのように計画を立てていました。バス時間待ちの間に、駅から少し離れていますが藩主の菩提所である「玉せん寺(ぎょくせんじ)」に行きました。このお寺の「長屋門」は美しい形
明日からゴールデンウィークですね。明日から9連休という方もいますでしょうか。さて今回は、現在の千葉県佐倉市にあった城、小篠塚城です。小篠塚城跡は現在、正慧寺(しょうけいじ)の境内に小篠塚城址園として整備されていて、JR東日本総武本線(成田線直通含む)の物井駅北口から佐倉市コミュニティバスの南部地域ルートに乗り、小篠塚城址園前バス停で下車するとすぐのところにあります。ただ、本数も少ないので、車で行くのがいいと思います。駐車場。小篠塚城址園前の看板で案内された通りに行くと、とても狭い道を
唐櫃(からと)越えというのは、亀岡(馬堀)から京都(上桂)への山越えの道で、明智光秀軍が本能寺を攻めるとき軍勢の一部が通った道と言われています。近くに住んでいるのですが、フルで歩いたことはありません。だいぶ前に妻とコース途中の沓掛山(415m)に登り、そこから亀岡方面に向かって歩いたけど馬堀までは行けずに、老ノ坂の手前からバスに乗って帰ったこともありました。そして最近ずっと気になっていたのが峰ケ堂城趾と西芳寺川古墳群です。両方とも唐櫃越えが絡むというか沿道近くにある遺跡なのですが、行っ
千葉県酒々井町本佐倉城跡その1攻城49(2023年2月14日再攻城)日本続百名城No.12121/100グーグルマップの航空写真で、城跡のありそうな森、高台を見ていたところ、本佐倉城に駐車場らしき空地が確認されたので、見ると、案内所が出来ていたので、2018年1月13日に攻城した本佐倉城跡を再攻城しました。本佐倉城は、千葉県酒々井町の将門山に築かれた平山城で、千葉氏後期の本拠地となったようです。千葉氏は、某大河ドラマで異色の味のある特徴をかもし出していたのを思い出します。
茨城県…思えば2年間だけの生活でしたが、その職場は過去最高で初めて「この職場で一生働きたい…」と思えるものでした。東京からも近く、色々な意味で過ごし易かった茨城での生活…今となっては懐かしく感じています。そんな常陸国は城跡巡りの方も2年間で多く回ってきました。これまで旅行の中では比較的関東の中では少なかった茨城県…しかし「地元」として過ごしてみると色々なこれはこれで茨城らしい特徴ある多くの城跡と歴史がありました。今回からはそれを紹介していきます。まずは一つ目は県南部の城から。〇北関
GWは5日と6日に珍しく連休がもらえましたディズニーパレードを見た翌日は、青岸へ粗大ごみを持っていきました。GW中は年末の大掃除を季節の良いこの時期に済ませる方も多いので、粗大ゴミの搬入の車も多いんじゃないかな?と思っていたのですが、スムーズに搬入できて良かったです。このまま帰るのも勿体ないので、青岸からは、ちょっと遠回りして雑賀崎(さいかざき)をドライブしてきました。訪れたのは久々のトンガの鼻ですトンガの鼻とは和歌山市雑賀崎にある岬の名前です。ニュ
神代城(一年前の2020.12撮影)小さい城ですが、切岸と堀が鋭く、強固な城です。縄張図を富山県中世城館遺跡総合調査報告書(1)より引用し、茶番号・線を加筆した。佐伯先生(2)は、3を土橋を防御する馬出と評価している。また、西は飯久保城に約1km、東は堀田城に約500mと近接し、西の尾根筋に遮断線が無いことから、飯久保城との親密性を指摘し、飯久保城の支城とする仮説を提起している。私は、飯久保、堀田に近接し、鋭い切岸と箱掘、小馬出(戸張)があることから、天正4年(1576)、氷見に進
新宮城(津山市新田・福井)正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は英田郡新田村の「神宮之城」として、城主は木下道光、別に勝田北郡福井村の「新宮山」として城主不詳とし、同一の城を別々に掲げる。城山は東南から北西にかけ約百五十間、横は西南から東北にかけて約六十間で、高さ約八、九尺の土塁の跡が残り、嶺々には段々があるとする。「美作鏡」は両城を同一と指摘する。「東作誌」は「真宮山」とも表記し、一説に木下道光の家臣木下勘四郎が居城し、城の麓に神宮の小祠がある、西の城(丸)は新田村に、東の城(丸)は福井村に
前回からの続きです蓮如上人御廟所の近くの公園にGoogleマップを見ていたら気になったものがあったので行ってみました山科中央公園園内図それがここ御土居の森です御土居って洛中だけのはずで、山科には無いはずなのに⁉と不思議に思い行きました階段もあり登ることも出来ます根のスゴい木(゚Д゚;)下から見たらこんな感じ土塁の高さは7mこの御土居の正体は、山科本願寺がお寺及び寺内町を土塁で洛中と同じように囲んでいたようです地図を見るとこちらもかなり広大だったことが分かります御土居という
昨日の午後、と一緒に車で四王寺山(福岡県の太宰府市と大野城市と糟屋郡宇美町にまたがる標高410mの山です)へ行ってきました。登山口から車で10分ほど上がっていくと、大野城跡の駐車場に到着です。真ん中あたりに見える屋根は、九州国立博物館で、その手前の木々で覆われているところが太宰府天満宮です。大野城跡からの眺め黒白の散歩がてら道端に目的のものを見つけました。よもぎです。4月に京都へ行った際にお灸体験をし
北近江出陣のつづきです。虎御前山城攻略した後は「道の駅浅井三姉妹の郷」で腹ごしらえ。道の駅に建っていた三姉妹の像。これってお市、茶々、初、江でしょ前の座ってるの万福丸かぁと、思ったけど、三姉妹の郷だけにそれはないな。指差してるの茶々にしては大人すぎるしな。実はこの後にここから車で20分位の北近江の紅葉の名所「鶏足寺」へ向かいました。近くまで来ると駐車場の前に「満車」の看板持った警備の人が・・・まんしゃやで~次の駐車場も「満車」。まんしゃです~
小佐城(養父市八鹿町小佐字石堂)承久の乱以前の小佐郷地頭は、朝倉高清の弟小佐二郎大夫盛高の子、小佐大夫頼重であったろう。乱後、小佐氏は地頭職を失い、代わって為安、次いでその妻とも思われる尼常陸局が任じられている。ところが弘安八年(1285)頃には4人の地頭に分割される。すなわち安原兵衛入道、尾張入道、伊達五郎三郎、阿波孫五郎。伊達五郎三郎は伊達系図の時綱であろう。山田村と呼ばれていた彼の所領分は今井・石堂の辺りで、居館は現洞泉寺が建っている丘ではなかったか。元弘の乱にあたって貞綱・義綱は後醍
攻城日:2019年4月13日↑遠景↑神崎城は、千葉県香取郡神崎町にある城址で、"西の城""中の城""東の城""田向城""小松城"といった複数のお城から成る、いわゆる一城別郭の城址デス♪"神崎城郭群"という表現の方が的確かもしれません。↑わくわく西の城↑まずは車で、"西の城"へ。ここは現在、"わくわく西の城"という複合施設になっています。ちなみに、冒頭に記述したように城域はかなり広いのですが、案内板や解説板の類いは一切ありません(˘•ω•˘).。oஇ施設名称が"西の城"となっ
佐賀県唐津市にあり、白山の山頂(標高228m)に位置し、城の周囲は急な崖となっています。有明海(佐賀県の西部にある海域)と玄界灘(福岡の北部に広がる海域)の分水界に近く防衛の拠点。二の丸は周囲を天然の岩の上にあり、見どころ!登れる箇所を探すのも楽しい♪【獅子ヶ城】有明海と玄界灘の分水界に近く防衛の拠点佐賀県唐津市にあり、白山の山頂(標高228m)に位置し、城の周囲は急な崖となっています。有明海(佐賀県の西部にある海域)と玄界灘(福岡の北部に広がる海域)の分水界に近く防衛の拠点。二の丸は
葛下城(苫田郡鏡野町山城・中谷)正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は苫西郡山城村の「葛下之城」として、城主を「中村大炊助槍沢頼宗」、頼宗の家臣桜井越中の末流が山城村へ今にあるとする。「作陽誌」は、山へは五町半、城主は初め大河原大膳太夫、のち中村大炊介頼宗、事跡不詳で、落城の日、頼宗に仕える浅山図書は城を焼き死んだ、城の西南、東には桜井越中・加藤豊後・木村菅兵衛・浅山図書・一柳平次・茅山将監・田中八右衛門・大蔵如真らの屋敷跡があると記す。「美作鬢鏡」「美作鏡」は城主を「中村大炊助頼宗」とする。
到達石都々古和気神社〒963-7858福島県石川郡石川町下泉296三芦城みよしじょう三芦城は石川有光が藤田城に代わる居城として築いた城です。陸奥石川氏代々の居城でしたが、佐竹氏ら諸勢力の圧迫から伊達氏の庇護を求めるため、1563年(永禄6年)に24代当主・石川晴光が伊達晴宗の四男・親宗(のちの石川昭光)を養子に向かえて家督を譲りましたが、1567年(永禄10年)に佐竹義重に攻め落とされました。その後、佐竹
松岡城址に来ています龍子山城とも呼ばれています慶長7(1602)年に封入した戸沢政盛が整備して松岡城と改めたそうですそのあと水戸藩御附家老中山信政に与えられたと書かれていましたが・・・が・・・・しかし・・・ここを進むには時間が夕刻・・・山で迷えば拙者遭難・・・近くに人影なし・・・やばいかもと言うことで本丸跡に行くのはあきらめて丹生神社(三神社)へ向かいます松岡城
7世後半(約1350年前)にヤマト政権が築いた山城。復元した建物が有名だが、何百mもある土塁の上を歩け、2つの門の防御力の高さには目を見張ります!【鞠智城】7世後半にヤマト政権が築いた山城7世後半(約1350年前)にヤマト政権が築いた山城。復元した建物が有名だが、何百mもある土塁の上を歩け、2つの門の防御力の高さには目を見張ります。【アクセス】バス①熊本駅・C1-3菊池温泉行⇒90分⇒菊池温泉・市民広場前下車②バス乗り換え:michi-kiwa.com▼山城関連記事です。是非、ご覧
5/17(水)~18(木)にかけて、「青森・秋田のお城巡りの旅」に出かけました。2日目の午前中に「檜山城」を登城した後の2城目(通算3城目)は、続日本100名城に指定されている「脇本城」(秋田県男鹿市)に向かいました。「八郎潟跡」の東側と「日本海」の間を通る道を南下して約1時間のドライブでしたが、進行方向に向かって左側の「八郎潟」を開拓した田園風景は、そこが嘗て日本で2番目の面積を誇る「湖」であったことが全く分からない情景でした。快調に走っていくと、風力発電の3枚羽の大きな風車が見え
南砺市文化芸術アーカイブズ寺家新屋敷古舘跡南砺市文化芸術アーカイブズculture-archives.city.nanto.toyama.jp南北朝時代に築かれた館跡のようです。戦国期には、改変、リユースされたようで、庄丿城の支城だったようです。城って、リユースされているパターンが多いですね。せっかく都合よくあるものなら、改変して、さらに防御、攻撃性を高め、人件費と工期に無駄がないようにしたいでしょう。南北朝時代の城跡の印象は、静岡県の勝間田城跡が思い返されます。勝間田城跡
細川城(三木市細川町高篠字かまへ)細川城は細川荘を支配するために公家が造った城である。細川荘は、藤原定家を先祖とする歌道の名門下冷泉家代々の荘園で、歴代の当主は細川と京を往反する生活をしていた(『公卿補任』)。応仁の乱勃発に伴う京都の荒廃により、冷泉政為(下冷泉家の当主)が細川に下向、細川荘を治める拠点として細川城を築いたようである。細川城は、政為以後の当主(為孝-為豊-為純-為勝)の居館で、在荘の期間を通じて徐々にこの居館の城郭化を進めている。最後の城主冷泉為純は、子為勝と共に三木合戦開始
「上野城」と呼ばれた館址の周囲を囲んでいた土塁と水濠跡で、鎌倉時代後半頃の築造と考えられる。徳川時代に幕府の直轄地として代官が居り、その後、旗本の知行所となって明治に至った。(現地説明標柱より)土塁が素晴らしいです。2019.2.3
日向神社の境内ですが宇留野城の遺構を探しながら歩いています境内社もあります本殿を見に行こうシックな本殿ここにお城があったのだから・・・奥にあるのは堀かな森の配色に溶け込んでいるここからだと高低差がわかります土塁でしょう下りながら土塁が幾層かになっているみたい案内板がありましたへー
今川氏貞の次男関口氏広が桶狭間の戦いで今川が敗れたのち関東へ落ちのび移り住んだ。その後この地に館を築いた関口氏の館で現在も子孫の方の住む屋敷になっております。(民家のため見学は出来ません)築山殿の実家門堀跡土塁水路遠景関口氏の菩提寺『宰住山正明寺[杉戸町]』正保年間に関口氏広の子孫長文が開基と創建した曹洞宗宰住山正明寺。関口家が祖先供養のために地蔵菩薩と観世音菩薩を安置している[元文6年(1741年)と延享4年(…ameblo.jp
歴古河城出城付近を散策&御城印次に古河城址を見に行こうと思ったのですがどうやら、城址はほとんどないらしい…それでも遺構が少しでも見られる!!という場所に向かいます古河のこの辺りはレンガ敷きの道路が多く、情緒があふれていましたいろいろな歴史的な建物も多く素敵な景色が広がります古河城下総国の渡良瀬川東岸にあった城。室町時代に古河公方・足利成氏が本拠とし、戦国時代には関東における中心の一つに。江戸時代になると譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭とし
12月9日(土)は日本城郭史学会の2023年度第3回城郭史セミナーがありました。テーマは「小牧山城の最新の発掘調査から」です。今回は小牧市教育委員会小牧山課の田中芳樹さんを講師にお招きしました。田中さんは今年放送されたNHKBSプレミアム「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城徳川家康の城(後編)」に出演して小牧山城を案内しています。小牧山城土塁小牧山城が信長の居城だったのは永禄6年(1563)から永禄10年(1567)の5年弱でした。その後、天正12年の小牧・長久手の合戦の時は