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丸山城(真庭市下呰部字丸山)築城は永正年間で城主は福井重之であったと言われ、『備中村鑑』では庄太郎家名が在城とある。庄勝資が城主時の元亀元(1570)年に、尼子・宇喜多勢の攻勢により落城する。天正2(1574)年に勝資は毛利と結び、斎田城攻略の功で城主に返り咲く。天正9(1582)年に勝資が児島麦飯山合戦で討ち死にすると、庄信資が城主となった。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)光合寺(庄氏屋敷跡)南東堀切南東二郭南東下段南東二郭北西上段南東二郭北西帯曲輪北西帯曲
広浜城(笠岡市広浜・浅口郡里庄町新庄)『笠岡市史』は、『萩藩閥閲録』に収蔵された文書に、天文21年(1552)小早川隆景が、家臣小寺十郎左衛門尉に広浜の畠2町7反を与えたと記されているとする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北東出丸南西三郭北東出丸南西二郭北東出丸主郭主郭の南土塁北東出丸北二郭北東出丸主郭東帯曲輪金平神社南観山普門寺主郭北二郭北帯曲輪上段北帯曲輪下段北東二郭北東三郭北東四郭広浜城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図
愛知県春日井市上条城址で行われた発掘調査現地説明会に行ってきました。上条城は当地の土豪・小坂氏の城で、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いでは、羽柴方の池田恒興軍が数日滞在した城といわれています。小雨の中の説明会でしたが40人ほどの方が参加しており、地元でも関心の高い城址だったことが伺えます。いろんな説明があった中、印象的だったポイントは次の3つです。小石の層がある理由土塁を切って断面の説明がありましたが、小石などを含んだ礫層(れきそう)について。これは土塁の強度を
丸山城(高梁市宇治町穴田小字丸山)『川上郡誌』には天正年中にに赤木忠直が築城した伝承が紹介されている。周辺には「根小屋」という屋号を持つ家もあり、構造から見ても戦国時代後半に成立した赤木氏一族の山上居館と見ることが可能性か。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)現地説明看板西櫓台主郭主郭の西土塁主郭の北東土塁主郭の南土塁図には無いが、主郭の南東側は少し下がっている南東二郭(曲輪Ⅱ)南東二郭の北土塁南三郭(曲輪Ⅲ)南四郭(曲輪Ⅳ)西上段南四郭(曲輪Ⅳ)東下
石蟹山城(新見市石蟹・長屋)『備中村鑑』には、「石蟹山城」と書かれ、哲多郡石蟹村に位置したとある。城主は三村山城守元宣であったとされる。元々は石蟹氏の居城であったが、永禄13(1570)年毛利氏と三村氏に攻められ落城し、以後三村氏が在城することになったようである。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)図に無い帯曲輪状の北東十五郭帯曲輪状の北東十四郭帯曲輪状の北東十三郭帯曲輪状の北東十二郭土塁状の北東十一郭北東堀切北東十郭北東十郭北帯曲輪上段北東十郭北帯曲輪下段
午前中にPCのメモ帳にブログの下書きして、別のことしていてそのままPCを閉じたらPCが強制終了されていて、後はブログに投稿ってところまでいってたのに全ての内容が消えてしまいました。名前を付けて保存してなかったのがいけないけど、最初から書き直しています。内容すら忘れちゃっています。今回も、川越城の続きです中ノ口前のブログで城内の玄関を紹介した、規模の小さな玄関を外側から撮影しています。規模が小さいとはいえ、十分に立派なんですけどね台所(料理之間)緑の塀に囲まれていて、中
やっとのことで過ごしやすくやすくなった今日この頃。9月半ばというのに激暑日和性懲りもなくまたまたなそんな日に山城攻めてしまいました。滋賀県高島市マキノ町森西近江・田屋城(たやじょう)別名:下の城城攻めの前にまず「マキノ駅観光案内所」に寄り田屋城のパンフをいただき、登城口までの道程を詳しく教えていただきました。案内所のお姉さんが申すには「熊の心配はない」とのこと。マジっすか?北近江やでぇ山ばっかやでぇの一頭や二頭出てもおかしゅうないとは思いますが、案内所のお姉さんが
小森城(加賀郡吉備中央町小森・三谷)本城を示すかは特定が難しいが、『東備温故秘録』に「小森城。小森村の未の方にあり。城主しれず。」とある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南東二郭の南土塁南東二郭南東二郭の南虎口南東二郭南腰曲輪南東二郭からの主郭西帯曲輪主郭主郭北西腰曲輪小森城遠望軌跡ログ旧御津郡加茂川町の城
おはようございます。昨日は風が強く出船中止しました。お天気最高な本日は定休日です🚢お休みになると凪る……嫌なルーティンですね(⊙ө⊙)15日のお詣りに行ってきました。今年最後の氏神さまへのご挨拶してきました。丁寧に草刈りがされていて、木々の剪定もされていて、気持ち良い小浜八幡神社です。年内釣りに来られた方は、是非お詣りに行ってみてください。まずは、この階段を登ってそしてこの階段登って❤大好きな阿吽が待っています。この勇ましさが大好きです。阿吽について口を開けた「阿形(あ
寒狭川からの帰途、「あら、医王山?武田勝頼の陣跡よね?登ったことがあったわよね?」「あら?長篠城跡?何度も来たけど、ここなら熊は出ないわ。寄りましょう!」とにかく城跡は、何度訪れても飽きない。さまざまに学習してから行くことで、新しい発見ができるので。今回も、新しく感じられたことがありました。大規模な土塁の下方にある空堀は、以前から知っていましたが、その形状が気になりました。長篠城趾右側が本丸を守る土塁真ん中が屏風折れのような空堀縄張り図この
生石城(岡山市北区門前)別名:報恩寺山陣生石城は生石氏が築城したと伝わるが、詳細は不明である。天正(1582)10年、高松城水攻めの際には加藤清正が陣を敷いたという。備中高松城水攻めにおいては、足守川を堰き止めて水を築堤内に取り入れたのであるが、関連する堤防遺構が足守川西岸、生石城跡の南約200mの地点にあり、生石城跡には土堤の防備という役割が想定されている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)生石神社生石神社脇の祠南西四郭南西三郭南西二郭西横堀西横堀からの西
岡山市100名称未定(岡山市北区牟佐)別名:岡山市1562故事来歴は不明である。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南東三郭南東三郭の溜池跡?南二郭(曲輪Ⅱ)南二郭の南土塁南二郭の東土塁南二郭南西腰曲輪西二郭(曲輪Ⅲ)西二郭南帯曲輪上段西二郭南帯曲輪下段主郭主郭の北東土塁北東二郭北東三郭岡山市100名称未定遠望軌跡ログ岡山市北区の城