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麦飯山城(玉野市槌ヶ原字麦飯山)天正10(1582)年の八浜合戦の際に毛利方の穂田元清が布陣したと伝えられる城であり、主戦場とされる常山城跡、両児山城跡方面をよく見通すことができる。一方で、城主について、『和気絹』・『備陽国誌』・『中国太平記』などでは明石源三郎とし、天正4(1576)年に毛利方と戦ったとあるが、それを裏付ける同時期の資料に欠ける。なお、西郭を横田山城(または雨乞山城)、東郭を麦飯山城と呼び分ける見解もある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)西出丸?尾根
前回から播磨攻めが続きますが別日です。兵庫県三木市福井播磨・鷹尾山城(たかおやまじょう)別所氏のよって築かれた鷹尾山城は三木城の支城の1つであった。三木合戦の際、三木城主別所長治の弟・彦乃進友之が、この城を守備していた。駄菓子菓子!天正8年(1580)1月11日、羽柴筑前方の攻撃によって落城した。落城後は、秀吉がこの城に入り、三木城の別所長治と対峙し、三木城開城交渉が行われた。鷹尾山城は三木城二の丸の南東の丘陵上に築かれており、三木城からは直線距離でだいたい300mくらい
小丸山城(岡山市北区辛川市場・一宮)別名:岡山市1121『備前記』にみえる辛川市場の「宮山古城山」が比定される。このほか、本城は元治元(1864)年の第一次長洲征伐の際に池田茂政が小丸山の北側に土塁を築いたとされるほか、空間的にみて辛川城跡との関連が注視される。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)現地説明看板南東四郭南東四郭からの東帯曲輪下段南東三郭からの東帯曲輪上段南東三郭南西帯曲輪南二郭主郭北東帯曲輪北東帯曲輪の北土塁北西帯曲輪北西帯曲輪と南西帯
7月9日神代植物公園散策日記のつづきです。こちらからのつづきになります。『神代植物公園(2026.7月9日)④深大寺風鈴、オオムラサキ、ほおずきのハッピーゲート』7月9日神代植物公園散策日記のつづきです。こちらからのつづきになります。『神代植物公園(2026.7月9日)③桔梗、ムクゲ』7月9日神代植物公園散策日記…ameblo.jp雀のお宿にはいります。外で注文の順番待ち秋色紫陽花が綺麗でした。注文はおすすめのもりそばとくずもちとみそおでんの深大寺セ
愛知県春日井市上条城址で行われた発掘調査現地説明会に行ってきました。上条城は当地の土豪・小坂氏の城で、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いでは、羽柴方の池田恒興軍が数日滞在した城といわれています。小雨の中の説明会でしたが40人ほどの方が参加しており、地元でも関心の高い城址だったことが伺えます。いろんな説明があった中、印象的だったポイントは次の3つです。小石の層がある理由土塁を切って断面の説明がありましたが、小石などを含んだ礫層(れきそう)について。これは土塁の強度を
蛇山城(出雲市大社町遙堪)遙堪は「ようかん」と読む。蛇山城は言い伝えによると松井弾正宗則の城であったようです。1555年頃に松井弾正は片寄筑前守によって討たれてしまうが、その後待ち伏せていた飯島兄弟によって討ち取られてしまいます。(※源行近遙堪蛇山城より)松井弾正正守の居城「蛇山城」は、遥堪北山中腹にある。松井弾正守宗則は、伯耆汗入郡霊山(鳥取県)にいた尼子の武将で、のちに遥堪蛇山城主にとなった。粟津(出雲市)に片寄筑前守という武将がいて、蛇山城の兵が少ない時をうかがい、東篠﨑山か
年が明けて2週間ほどが経過しようとしています。広島から千葉に戻ってもうそんなに経つのかと、驚きしかありません。さて今回は、現在の広島県佐伯区(旧佐伯郡五日市町)にあった城、海老山(かいろうやま)城です。「えび」って読みたくなるんですが、「かいろう」だそうです。海老山城跡は現在、海老山公園となっていて、五日市駅南口から徒歩7~8分程度で行くことができます。五日市駅南口。JR西日本の山陽本線と広島電鉄の宮島線が乗り入れています。駅舎はJR西日本の駅と広島電鉄の駅が一体化していて、乗り換
イスタンブール滞在3日目、朝早くのグランドバザール見学を終えて、10時ごろに向かったのは「テオドシウスの城壁」と呼ばれる、古代にイスタンブールを外敵から守るために造られた城壁の跡だった(地図1)。(地図1、イスタンブールの中のテオドシウスの城壁の位置)〈テオドシウスの城壁へトラムに乗る〉まずグランドバザール前の駅からトラムに乗り、城壁が見える乗換駅へ向かった。(旧市街のグランドバザールの前からトラムに乗る)(トラムの中でこれから行くテオドシウスの城壁の案内を見る息子)(ト
興国寺城は、長享元年(1487)伊勢新九郎守時(北条早雲)が今川氏親より興国寺と富士郡下方十二郷を与えられ、伊豆韮山へ攻め込む足掛かりとした場所として伝わります。伊豆を平定した彼はその後約100年間続く戦国大名、北条氏の祖となりました。それから約半世紀、天文18年(1549)に城地は今川氏のものになり、興国寺を移転させて、その跡地に本格的な城を築きました。さらに今川氏衰退後も興国寺城は東駿河の要地として、武田氏、徳川氏、中村氏、天野氏と引き継がれていきました。興国寺城は愛