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<第23回>――私がお金のことをあれこれ考える人で、すべてをスポンサーに提供してもらおうなんて思ったら、きっと北極点に行くことはなかったと思います。お金を出していただくと、その方に気を使って無理してでも突っ込んでいくと思ったの。ですから、絶対自分のお金でやろうと思っていたのね。誰でもチャンスがあったのに、私が選ばれたのは神様が選んでくださったのかなと思っているんです。芸能人が本物のことをするハシリになったんじゃないでしょうか。いずれにしても、生まれて初めて裏方の仕事をすることになりまし
和泉雅子さんを悼む「マコちゃん」と「舟木クン」スポーツ報知が大きく報道舟木一夫、「青春の一部だからね」和泉雅子さん死去に涙…映画6作共演、60年来の友人「マコちゃん」-スポーツ報知日本人女性で初めて北極点に到達した冒険家で女優の和泉雅子(いずみ・まさこ)さんが9日午後1時3分、原発不明がんのため自宅で死去した。77歳。所属事務所が18日に発表した。約10年前に生前葬を営んだこhochi.news7月9日(水)に原発不明がんのため77歳で亡くなった和泉雅子さん。
1966/9/17公開舟木さんが自ら制作を希望した映画です。小林旭・浅丘ルリ子共演による映画のリメーク作品で、話が暗い事や、ヒットを得られなかったこともあり、日活は企画を拒みますが、舟木さんの熱意で映画化される事になります。当初は、主題歌の予定はなかったのですが、急遽、作詞を西條八十先生にお願いし、主題歌の「絶唱」が出来、レコードリリースされました。映画は大ヒットし、この年の日活映画の興行成績一位になり、レコードも大ヒットし、1966年度レコード大賞歌唱賞を受賞します。映画も楽
今年2025年は、戦後80年ですなので今週は過去のブログを若干修正して皆さんに是非視聴してもらいたい作品のブログを毎日投稿します。こんちゃですぅ〜㋜㋜あゝひめゆりの塔(1968)(GYAO!より)キャスト吉永小百合和泉雅子浜田光夫渡哲也スタッフ監督:舛田利雄再生時間02:04:50YouTube【公式】日活配信チャンネルより『あゝひめゆりの塔』予告太平洋戦争末期の沖縄を舞台に吉永小百合と浜田光夫の黄金コンビ
和泉雅子さんの過去の徹子の部屋今年も後29日になりました今年亡くなられた方々が徹子の部屋にマコちゃん33歳お話は若い頃は喜劇役者になりたくて柳家金語楼さんの弟子入りしたく門を叩いたこと初聞きで驚きましたそして36歳南極に行かれたお話とても元気はつらつのマコちゃんに再会でしたひまわりの様な人でしたね新橋演舞場でお見かけした時も笑顔いっぱいで和服に可愛いキティ模様の足袋を履かれて輝いていらした事を思い出しています舟木さんきっ
<第3回>――話を戻しましょう。授業に出るのが嫌で何か学校をさぼる方法はないか、そんなことばかり考えていました。小学校4年生の終わりか5年生になったばかりの時、新聞に劇団若草の募集広告が出ていて、、雑誌や舞台に出てみませんかと書いてありました。これを見つけた時、子役になれば学校に行かなくていいと咄嗟に思ったんです。父に試験を受けたいと言いました。父は私みたいなノータリンは受からないと思っていましたが、「やるならとことんやりなさい。一生やるつもりがないなら今のうちにやめなさい。本
北国の街北国の街舟木一夫1965(昭和40年)作詞/丘灯至夫作曲/山路進一映画若い夢をいっぱいにのせ、美しい北国の春に咲いた若者たちの恋や友情を舟木一夫のヒットメロディーが謳いあげる日活青春歌謡大作。名残りが燃える心が残るふたりでかえるアカシアの道今夜だけでもそばにいて眺めていたいひとつ星ぼくたちだけのよろこびが住む北国の街日活映画「北国の街」オープニングサウンドトラック-舟木一夫ちいさな花をひろった指とほのかに恥じらい見あげた顔に
舟木さんにとって、数多くの唄った楽曲の中でも、特に大事にされている歌の一つが「哀愁の夜」です。コンサートでの舟木さんの口笛と、おまけの歌詞には、思わず拍手をしたくなります。ファンの皆さんの中でも、この曲が大好き!と言われる方も沢山いらっしゃいますね。映画は、舟木映画の中では珍しいサスペンス映画です。それにしても日活映画には、必ずチンピラが出て来ますね(笑)日活映画は、ヤクザとチンピラは欠かせないのでしょう(笑)
歌謡映画の代表的な映画と言って良いでしょう。1964年1月に発売されたレコード「あゝ青春の胸の血は」の映画化です。映画は、「仲間たち」「「君たちがいて僕がいた」「夢のハワイで盆踊り」「続・高校三年生」と先に映画化され、この映画は9月の公開になります。メインキャストは、山内賢さんと和泉雅子さん。戸田の漕艇場でのロケは5月です。舟木さんはクリーニング屋さん、ここでの舟木さんの歌は、主題歌の他に「夕月の乙女」「琵琶湖周航の歌」「はるかなる山」と、歌が情景の中に溶け込んでいます。さてこうして
<第8回>――ハマヤン(浜田光夫)と共演した「非行少女」(監督・浦山桐郎。1963年3月17日公開)は、私の代表作の一つです。日活入社2年目で聖華学園高等部の1年、15歳でした。前年の11月初めから北陸の内灘(石川県)の海岸のロケでクランク・インしました。まもなくお正月という時期で、ハマヤンも私も正月映画など他の2本か3本の作品を抱えていましたから、2週間くらいでいったん中断して、私は「空の下遠い夢」と「海と鷹」「男の紋章」を撮ったんです。とにかく、午前中は社会派の映画、お昼からはヤク
<第2回>――小学校は東京都中央区立泰明小学校。バスで通った幼稚園と違って、小学校は歩いて行ける距離でした。ベビーブームの最中ですから、最初は教室がぎゅうぎゅう詰めだったんですよ。1学年2クラスだったのが、3年生になって3クラスになりました。学業に力を入れている学校でしたから、勉強が嫌でなりませんでした。勉強が出来ないから学校に行くのが恐怖なんです。――家に引き籠ろうとしたら、親に呼ばれたお医者さんが駆け付けてきて注射されちゃうし、校長先生が自宅を訪ねてきたりするから、否応な
映画出演の舟木さんの相手役と言われて、一番に思い出すのは日活映画「絶唱」で共演した和泉雅子さんではないでしょうか。雑誌での対談や記事も多く、女優さんらしくないあっけらかんとした性格ですから、舟木さんも話し易くお付き合いもし易かったのでしょう。デビュー当時は、同じ四谷の住人でもあり、未だに「舟木君」と呼ぶ間柄ですし、舟木さんもコンサートでは「小雪ではなく雪だるま」なんて冗談を言っていたのを思い出します。和泉さんの事務所は、銀座三原橋にあり、舟木さんの新橋演舞場での舞台やコンサートなどにも
映画「絶唱」は、レコード発売と共に大ヒット作品となって、舟木さんと和泉雅子さんの代表作になりました。しかし、この映画を最後に二人の映画共演は無くなってしまいます。その理由は、映画「絶唱」のヒット後の大阪新歌舞伎座での舞台「絶唱」に、日活映画側が、和泉雅子さんを参加させなかった事から、少々もめ事がありました。当然、舟木さん側では舞台の共演者、小雪役には雅子さんを起用したかった訳ですから、この雅子さんの出演が出来ない段階で、今後、舟木さんは日活映画には出ないと宣言します。元々映画「絶唱」の
「非行少女」(1963)田舎の不良少女を健気に熱演する和泉雅子主演映画をYouTubeで観ました。初見。監督は浦山桐郎。予告編はありません。金沢の夜。バーで飲酒・喫煙をして、ホステスのハイヒールを盗んで走り出す15才の少女。本作の主人公の若枝(和泉雅子)は、飲んだくれの親父(浜村純)と継母(佐々木すみ江)との田舎でのビンボーな暮らしが大キライで、不登校を続けている不良少女です。そんなある日、三郎(浜田光夫)が東京での仕事に挫折して実家に戻ってきます。映画館前で不良に絡まれて
<第26回>――帰国後も相変わらず講演活動を続け、1987(昭和62)年夏にグリーンランドにある“地球最北の村”と呼ばれるシオラパルクに行きました。人口は50人余りの村で、イヌイットの人々が暮らしているんですが、文藝春秋からそこに住む日本人、、大島育雄さんの本を出版したいので協力して欲しいと頼まれたんです。大島さんは私と同い年。若い時から北極に行きたくて日大山岳部に入ったんですが、もう北極点への遠征が終わっていた。がっかりした彼は愛知県犬山市の民俗博物館・リトルワールドで北極の民具を集
長い事ブログを書いていると、どんな事を書いてきたか忘れてしまう事が多い。また逆に、昔書いた事でも、つい最近書いたかのように覚えている事もあります。もう20年も、舟木さんの事を主に書いているから、そんなに毎日ネタがある訳でもなく、繰り返しで載せる事もありますが、振り返って「こんな事もやっていたんだ’」と思う事もあります。それが今回見つけた「舟木一夫出演映画で共演した女優さんで誰が好きですか?」というアンケート調査です。武蔵野舟木組のさすらいが独自にアンケートを作ってブログに載せたものです
3年前に投稿したブルーのヤマハSA-50B、思いの他多くの方に閲覧頂いているようです。有難うございます。『ヤマハSA-50B』本日は1960年代にヤマハから出ていたエレキギターSA-50Bのご紹介。「昔持っていたギターその2」でご紹介したSA-50の後継機種です。『昔持っていたギ…ameblo.jpこのギターは当時、GS(グループサウンズ)などのミュージシャンが使用していたことで有名です。ほとんど拾い物で恐縮ですが、下記ご紹介。1.ザ・タイガース:森本さんが弾いているのはア
<第20回>――このお芝居について周りは私には出来ないって猛反対したんですが、橋蔵ちゃんが「僕が仕込むから」っておっしゃってくれたの。後でお話ししますが、私が橋蔵ちゃんの舞台の最後の相手役になってしまったんです。相手役に渡しを選んでいただいたのは、以前に私がフジテレビの「銭形平次」に出演した時の経緯があったからなんです。当時、私は六代目尾上菊五郎さんの大ファンで、銀座・和光の上の階のホールで菊五郎展が開かれた時は飛んで行ったほど凝っていたんです。橋蔵ちゃんはその菊五郎さんのお弟子さんな
<第15回>――とにかく習い始めてから3年半、休まずにお稽古したんです。夜中の2時頃に仕事が終わっても、花柳先生を叩き起こして見てもらったんですよ。何も仕事がない日には朝から晩まで通って習っていましたからね。それで試験を受けて花柳静雅子(しずまさじ)を名乗る名取になったんです。名前は石井ふく子先生に付けていただきました。楽しくなって、今度は長唄、小唄、鼓もやりたいって言ったんです。長唄は日吉小瑛先生に習って日吉児円(こえん)という名取になりました。こちらはシバレンさんに付けていただき
和泉雅子さんを悼む亡くなる1週間前に電話でお話ししたばかりでした冒険家で女優の和泉雅子さん死去日本人女性で初の北極点到達|NHK【NHK】日本人の女性として初めて北極点に到達した冒険家で女優の和泉雅子さんが、今月、原発不明がんのため亡くなりました。77歳でし…www3.nhk.or.jp朝日新聞などの報道によりますと、日本人女性として初めて北極点に到達した冒険家で俳優の和泉雅子さんが7月9日(水)午後1時3分、原発不明がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。77歳で
「舟木一夫シアターコンサート2025in新橋演舞場」の4日間がスタートしました。新橋演舞場の入り口には、「本日初日」と「満員御礼」の看板が、何か美しく飾れれています。舟木さんご自身が「一番好きな小屋は新橋演舞場」と仰る通り、舟木さんの演舞場での公演は、いつもどっしりと構えられた舟木さんにえ会える場所です。そうした期待も大きく入場します。初日だけは、開演時間が遅く15:00からです。通常コンサートであれば、1時間40分程度の公演時間ですが、シアターコンサートの新橋演舞
訃報が伝えられた女優・和泉雅子さん(享年77)の新聞広告を4種。まずは若さが弾けるイメージそのまま、20歳時の雪印シャーベット(昭和42年8月)。その年の年末(昭和42年12月)には来春成人式を迎える和泉雅子さんも<小振袖>でゴキゲンです――と、上野松坂屋の小振袖訪問着の広告に起用されている。6年後の昭和48(1973)年2月(25歳)には可愛いおくさん仕様となり、和服姿で清酒白鶴の新聞広告に登場。同年11月には同じく白鶴のお歳暮用広告にも登場している。あの少年
<第10回>――映画「絶唱」をご覧になると、縁側で若様役の舟木君が長い台詞を言うシーンがあります。私は死体の役だから寝たまま聞いていればよかったんですが、舟木君って本当に演技がうまいなぁと関心しながら聞いていました。歌手の方は音程がいいから、西郷(輝彦)君も三田(明)君もうまかったですよ。私は監督さん(西河克己)に「この場面はこんな風に撮って」とお願いすることが決してなかったんですが、この映画でたった一度だけお願いしたんです。「小雪がガクッと死ぬところを映さないで」って言ったんです。監
7月25日(金)のヤフーニュースより・・今でも当時の映画を観たり、歌声を聴くと、憧れの俳優や歌手たちの面影が浮かび、懐かしい青春の日々がよみがえる。プロマイドの中で永遠に輝き続ける昭和の〝わが青春のアイドル〟たちよ、今ひとたび。企画協力・写真提供:マルベル堂吉永小百合、松原智恵子とともに〝日活三人娘〟として絶大な人気を誇り、庶民派として愛された女優が7月31日の誕生日を前に77歳で浄土へと旅立ったプロマイドで綴るわが心の昭和アイドル&スター大スター、名俳優ということで