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☆赤坂天王山古墳群大和国十市郡奈良県桜井市倉橋字赤坂(墳前道路は広くいつも停め置きしています)赤坂天王山1号墳を中心に全15基が確認されている古墳群。「倉橋ため池」の近く。北西は「鳥見山」、北に、南には「多武峰(とうのみね)」と山あり谷ありの起伏に富んだ地に密集し築かれています。1号墳と3号墳のみ石室が開口しており見学可。ただし1号墳は土砂等の流入が著しく開口が狭まっているため、現状は小さな子供のみが潜られるといった状態。3号墳は羨道までならギリギリ潜られる程度。それ以外は藪中にあ
太古の昔から人間の暮らしに欠かせない動物の1つである馬。今でこそ競馬場などに行けばいつでも見ることができるが、そもそも日本に馬はいなかったらしい…馬は4世紀末に朝鮮半島から九州にやってきたとされるが、Wikipediaによると3世紀末には朝鮮半島の百済王から送られたという。実際に今も日本には在来馬をはじめ沢山の馬が生息し、古墳からは馬型の埴輪が沢山発掘されているので、古墳時代には日本に一定数の馬が生息し飼育されていたことは事実だろう。歴史の探索において史料に信憑性が乏しい場合は、発掘調査
にほんブログ村にほんブロ飛鳥宮「正殿」の規模確定東西20メートル、段差ある石敷き|山陰中央新報デジタル奈良県立橿原考古学研究所は、飛鳥時代に歴代天皇の宮殿があった同県明日香村の飛鳥宮跡で、政治や儀式の場とされる「正殿(せいでん)」の規模を発掘で確定したと発表した。建物は東西約20メートル、南北約11...www.sanin-chuo.co.jp南都銀行、「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録の応援定期推進活動に寄付-日本経済新聞南都銀行は5日、世界遺産候補となっている奈
特別展「はにわ」に行ってきました!特別展「加耶」を彷彿とさせる動物たち。『九博特別展「加耶」の馬』もう1ヶ月近く前の話になるけれど、太宰府に特別展「加耶」を見に行った‼️この日は筑豊カメラ倶楽部の日。カメラ倶楽部としての初詣兼ねて、場所が太宰府天満宮に⛩い…ameblo.jp今回、私が一番注目したのはこちら。「鹿形埴輪」。これの存在は前から知っているが、「これがどうして鹿なの?」と疑問に思っていた。これは仔馬。これもぱっと見は馬だか良く分か
東京国立博物館昨年の1月に『博物館に初もうで』という催しを観に行ったのが最初だったでしょうか?それ以降何度か東京国立博物館へは足を運んでいます。今年の『博物館に初もうで』も行きました。別途観覧料金が必要な特別展には行ってないなぁ(笑)とにかく平常展しかも行くのは本館のみ、という…ゆっくりじっくり楽しむのでいつも時間が足りなくて…ってことで昨日もいつもの平常展(本館のみ)を楽しんできました。観覧料金1,000円で何時間も見ていられます(笑)本館めぐり日本美術
2025年9月5日|はまるとん・NewsPrime🗨️58🌝☹️🌚私たちが日常的に使う「氏名」の「氏」。現代では「名字」とほぼ同じ意味で使われているが、もともとはどのように誕生したのだろうか。■古墳時代に始まった「氏」歴史をさかのぼると、「氏」が登場するのは**古墳時代(4〜5世紀ごろ)**とされる。当時の日本列島には有力な豪族が存在し、それぞれが血縁や共同体を基盤にまとまっていた。このまとまりが「氏」と呼ばれた。例えば「蘇我氏」「物部氏」「大伴氏」などが代表的である。彼らは共通の
主祭神稲荷大明神古墳時代に房総半島から運ばれた石で、古代東海道の道しるべとして使われていたと考えられています。立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や、日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして削って持つ人が現れたことなどの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかありません。立石様は寒さに弱いので、冬になると縮み、暖かくなると元に戻るという伝説があります。立石様立石様-Wikipediaja.m.wikipedia.org東京都葛飾区立石8-37-17
☆衛門戸丸塚古墳(よもんどまるづかこふん)大和国添下郡奈良市佐紀町衛門戸(P無し、佐紀石塚山古墳と佐紀陵山古墳との間の古墳群見学用Pから徒歩15分ほど、「奈文研平城京跡資料館」無料Pから徒歩20分余り)「佐紀盾列古墳群」の西群内に築かれた円墳。隣接して築かれている佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)と佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)の東方すぐに位置します。佐紀瓢箪山古墳とくっ付くように築かれています。また佐紀猫塚古墳とも隣接しています。ほとんど原形を留めておらず、墳丘の詳細は不詳。径50
宇土半島(熊本県)基部をベースにしていた火の君一族(多氏)は、熊本県域・九州内はもとより日本各地へ進出・移住していった。それには3つの背景がある。①自らの勢力の拡大によるものー肥国(肥前・肥後)内においてー②ヤマト王権との関係によるものーヤマト王権による国内統一の実働部隊としてー③磐井の乱(527年)ー制圧された磐井に代わって北部九州へ進出ーこれまで書いてきたように、火君(ひのきみ)は肥君(ひのきみ)であり、肥は「ヒ」「クマ」と読む。従い「クマ」は火君(火君一族)を指し、地名の「クマ」