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弥生時代から古墳時代へと移りかわる頃、煮炊きに使った土器は平底から丸底へと形をかえます。これは、厚手の平底を薄手の丸底に作りかえることで火熱を効率よく伝えようとした工夫と理解されています。奈良文化財研究所の井上和人〈いのうえかずと〉さんは、布留〈ふる〉式というこの丸底土器について、形や大きさがそろっていること、薄手につくられていること、底の内側に指で押さえたあとが残っていることから「型作り」を想定し、その技術は岡山県南部から伝えられたと主張しました。確かに、岡山県南部の丸底土器の内側にも小
本日は、ヒマ友K氏を誘って午後から県立図書館へ行きました。目的は本読みではなく、発掘報告会です。報告中は、撮影禁止なので画像は無し。報告会の内容は、七尾市の国分山遺跡、金沢市の南新保ゴマジマチ遺跡、小松市の那谷寺遺跡、白山市の白山町(しらやままち)遺跡、金沢市の金沢城跡の各発掘調査の成果についての報告です。それぞれ興味深い内容だったが、その中でも古墳探訪好きの自分が最も気になったのが、金沢市の南新保ゴマジマチ遺跡調査で発見された古墳時代前期の2ヶ所の前方後方墳です
埴輪作りに行って来ました今回は「河内こんだハニワの里大蔵屋」さんへ。埴輪の豆知識埴輪は、今から約1700〜1300年前の古墳時代に、主に近畿地方から全国の古墳の周囲に並べられた素焼きの土器。友達と一緒に思うままに作成❣️私はミャクミャクを少し意識してみました1ヶ月程、陰干しして乾いた後焼くそうです♪今から焼き上がり楽しみです
前回は、丁未の乱の背景について考察を述べました。大王家を護る二つの氏族、蘇我氏と物部氏が衝突したわけですが、今回はそうした氏族が誕生した経緯について考えてみたい。時代は、弥生時代にまで遡ります。松本武彦著作「古墳時代の歴史」を読みましたが、この書籍にも大きな衝撃を受けました。内容は、古墳を建造を年代順に追いかけていく編年体になります。日本中に16万基はあるとされる古墳ですが、年代順に比較していくことで見える世界がありました。僕の驚きポイントを一言で述べます。――古墳の始まりは東
石舞台のあたりにはちょこちょこ行っているのでチラ見はしています。でも、中に入ったのは15年ぶりです。『石舞台と霧』「飛鳥アートプロジェクト2011」というイベントが12/25まで奈良の飛鳥周辺で開催されているのですが、その1つとして石舞台が霧に包まれるという幻想的な世界が…ameblo.jp以前のブログ↑せっかくだし、人もいないから中を見て行こう!と300円払って見てきました。貸切状態。はいはい、これです、これこれ。普通に石ですけど...あ、古墳です。古墳時代後
古代日本「空白の四世紀」の謎に迫る、前代未聞の出土品【新・古代史】|NHK出版デジタルマガジン謎に満ちた日本古代史の最前線に迫ったNHKスペシャル「古代史ミステリー」待望の書籍化!『新・古代史グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』を試し読みmag.nhk-book.co.jp中国王朝のうち、南朝の宋によって編纂された歴史書『宋書』に、「讃さん」・「珍ちん」・「済せい」・「興こう」・「武ぶ」という五人の倭国の王たち、いわゆる「倭の五王」が記されることで、古代日本は再び中国
今回はこういうお題でいきます。けっこう専門的なお話になるかと思います。まずは富雄丸山古墳について。現在、発掘調査が行われていて、古代史ファンには大きな話題になっていますが、その被葬者等について少し私見を述べたいと思います。さて、富雄丸山古墳は、奈良市街地から西方の富雄川右岸に築造された大型円墳であり、墳形は円形で、直径109m、円墳としては全国で最大規模です。墳丘は3段築成。出土した埴輪片などから、築造時期を古墳時代前期後半の4世紀後半頃と推定する研究者が多いようです。一昨年
吉野ヶ里遺跡「謎のエリア」一帯の石棺墓は「方形周溝墓」だった…有力者の墓域である可能性が高まるYahoonews2026/02/23読売新聞発掘担当職員(右)の説明を聞く人たち国指定特別史跡の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ヶ里町)の北墳丘墓(ふんきゅうぼ)西側で2023年に見つかった「石棺墓(せっかんぼ)」について、墓と周辺を区切る溝が取り囲む「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」だった、と佐賀県は明らかにした。この一帯では石棺墓の近くに同じような溝が複数見
みなさまおはようございますこんにちはこんばんは笑笑笑昨日は天皇陛下の御誕生日笑笑笑本日のお題は日本みっけ〜勾玉〜笑笑笑お伊勢さんのおみやげに勾玉サブレを配った笑笑笑それもあって今回は勾玉笑笑笑勾玉とは縄文時代からあって弥生、古墳時代と続いてつくられました笑笑笑3種の神器のひとつでもあります笑笑笑勾玉の頭の部分が日(太陽)を表し尾の部分が月を表しこの太陽と月が重なりあった形は大いなる宇宙を崇拝していたとされます笑笑
皆さまこんにちは最近はすっかり春めいてきて、気持ちがいいですね先日、半日ほど時間があったので、お客様に教えていただいた、八女の「福島八幡宮」へ行ってきました。ここは切り絵の御朱印が有名なそうなのですが、この日はお休みで買えずでも既に押してある御朱印を買ってきましたカラフルで可愛いその後「谷川梅林」へ。駐車場がよくわからなかったので、少し離れたところに停めて、歩いて行きました。満開とは言えなかったけれど
【近藤記念館】大門遺跡出土「絵画土器」特別公開-展示・イベント-袋井市歴史文化館袋井市高尾地内で行われている大門遺跡の発掘調査にて、昨年度、新たに「絵画土器」が出土しました。2月17日(火)から浅羽支所南側の近藤記念館で実物を期間限定で展示しているので見てきました。会場では担当の方から説明していただきました。この「絵画土器」は、弥生時代の中頃(約2,000年前)の壺形の土器で、4本脚の動物や建物などを思わせる絵柄が描かれていました。土器全体の形状が残り、複数の絵柄が確認できる
<無料フリースクール雑学講座-724>【磐井の乱】1.磐井の乱:6世紀前半、古墳時代最大の内乱王権間の戦い2.発端:当時の大和政権は朝鮮南部の伽耶を足掛かりに領土拡大を目指し、527年に6万の大軍を発した一方九州北部を治めていた磐井の君は新羅と交流があったので依頼を受けて大和朝廷軍と対立した3.両軍は528年11月11日に筑紫三井郡にて交戦し、大和朝廷軍が勝利4.大和政権はその後新羅と交渉し、九州北部には「屯倉」を設置し支配力を強化したinstagram.com/f
出雲族の信仰とは塞の神・道祖神・クナトの神・猿田彦とされていますが全部同神という説があります。特徴は祖霊信仰と境界を守る結界出雲大社の太いしめ縄も結界の意味があり結界の力を活用している信仰です。感謝の信仰という感じです。農業と鉄を広めたとされていますので時代は弥生時代と古墳時代でしょう。大和族は神を畏れる信仰であり宮中に祀っていた神様を畏れ、伊勢神宮と大神神社に移しました。また、菅原道真や平将門など怨霊を結界として神社に祀りました。大和族が勢力を拡大し始めたのは古墳時代以
古墳時代は文字通り古墳が造られはじめる時代だが、土器でも境界らしきなものがある。弥生式土器と土師器の違いらしい。やはり素人には判別するのが難しいが、焼生温度が800~900℃になったという。土師器は庄内式(庄内は大阪府高槻市の地名)と布留式(布留は奈良県天理市の地名)に分けられ、庄内式は前方後円墳などの「大型」古墳に出現しない。甕の底部は弥生式の平底→庄内式の尖底→布留式の丸底と変化する。左から弥生式、庄内式、布留式。土師器までは野焼きで、須恵器から窯焼きとなり、焼成温度が1000
もっとも古い歴史のある剣を見守りながら仲間入りしますwこうやって1つまた、歴史が動いていくんです…恐らくですが、また、日本列島大陸がまた、海から引きらなれる前の時に、恐らくつくったのは日本の人だ思います…日本の人は(アラスカ人と朝鮮人、アジア人)との間に誕生した遺伝子もあり、正確には分かりませんが…剣の状態も良く、研ぎ直しと磨は、最後にやりたいので、これからやることがふえるw太刀もあるしw
錆取り、軽く洗い、剣の手油を落とし、鞘は接着、部分塗装、リペア中続く
これが?おじさ、おばさ、だ❣️2026/02/16高校生のブログ農薬https://www.facebook.com/reel/1239052128366981🟣一般人はネオニコチノイドなんて?言っても?サッパリ理解出来ない❣️新型コロナワクチンを喜んで打った貴方‼️なり。パカ、マヌケ、おじさ、おばさ、なんだよな❣️おじさ?おばさ?は?口承らしいけんどな?移民難民ゲルマン人の侵入ゲルマン人の大移動https://www.facebook.com
我々世代が学校の歴史の授業で習ったことが、1980年代以降次々に覆されて、考古学は信じられないくらい変化している。その1つが奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘の進展(以前から遺跡の存在はわかっていた)だ。これは邪馬台国ではないかと説があったことから、考古学そのものの考え方に影響を及ぼした。以下ではそれを学習していこうと言う魂胆だ。ほかにも九州の吉野ケ里遺跡、出雲の荒神谷遺跡の発見などや、稲作の開始が数百年も遡るなど従来の弥生時代の知識が古臭くなってしまった。1988年に寺沢薫は「纒向型前
あかね古墳公園8(滋賀県東近江市)2024年7月25日天乞山古墳の埋葬施設は、これまでに何度も“お忍びの訪問者”に見舞われ、そのたびに中を荒らされてしまいました。その結果、墳頂部の中央にはぽっかりと大きなくぼみが…。まるで「ここに宝があったんやで」と言わんばかりの、ちょっとした“古墳のため息”のようにも見えます。時代を超えて人の強欲に翻弄されながらも、それでもなお、どっしりと構えるその姿には、どこか達観したような風格すら感じられます。「まぁ、これもまた歴史の味わいやな」
魏志倭人伝には「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩狥葬者奴碑百餘人」と記されている。墳墓の百歩余りはどれくらいの大きさかわからないが、もちろん邪馬台国がどこにあるかわからないので、場所もわからない。奈良県桜井市にある箸墓は実際の被葬者は不明だが、宮内庁は日本書紀の記述から「大市墓」として孝霊天皇皇女の倭迹迹百襲姫の墓に治定(じじょう)している。また、女王卑弥呼の墓ではないかとする説がある。卑弥呼の墓は邪馬台国にあるとは限らないが、三輪山の山麓を邪馬台国と推定する根強い説である。西暦247年
宇野港の東、「高辺鼻」と呼ばれる海岸沿いの東の端に、小さな砂浜があります。散歩がてら、そこに行ってみる。ここが、砂浜です。丘の上に、何か、建物が見えますね。とても綺麗な、砂浜です。近くに、駐車場が無いため、恐らく、この砂浜に遊びに来る人というのは、近隣に住んでいる人くらいでしょう。砂浜には、貝殻が、多く、散らばっていました。このような、様々な巻き貝の殻も。ネットで、名前を調べようと思ったのですが、写真を見ても、よく分からない。さて、今日、ここに来たの
邪馬台国論争のように資料の少ないテーマは素人でも参入できて、想像力を働かせてストーリーを構築できる。歴史推理小説にはもってこいの材料であることは間違いない。しかも数少ない文献の「魏志倭人伝」(「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条)の情報が邪馬台国の位置を特定できないが、主として大和説と北部九州説に分かれる。下手に首を突っ込むと自分の無知が恥ずかしくなってしまうので、あまり深入りすることはやめておこうと思っていたのだが、基本的なところから勉強してみようとしたのがこのブログだ。還暦過ぎの手習い
埴輪と聞くと「大魔神」を思い出しますかっての大映映画の「大魔神」です形は埴輪でガメラ風の活躍をします大魔神(ネットより)埴輪は古墳の副葬品として整列して出土します円筒や動物や家や人物像があり中空の素焼き土器ですよく似たものに土偶があります土偶は紀元前の縄文時代の土製の人形です埴輪は3
歴史調査卑弥呼・台与までの倭国は「九州世界」だった(日本初の国の女性リーダー・卑弥呼の謎)黒井ドラゴン以前、筆者の邪馬台国=九州説の小論を発表した時、邪馬台国=畿内説のある研究者から「邪馬台国の所在地問題は、すでに畿内説でほぼ決まっている。いまさら、『邪馬台国はどこか?』などと唱えるのは意味のないことだ」という反論を受け、この時「畿内説はそこまで有力視されているのか」と驚いた経験があった。序.今まで、卑弥呼・台与当時の倭国の範囲は具体的に考えられてこなかった
〈私がふざけて作ったハニワ(素焼き)〉埴輪(はにわ)について私は、少し前までは古墳を造らせていた王が人柱を埋めたのをやめてハニワにしたのだと思っていた。しかし、埴輪は初期には人物ではなく、特殊器台形土器・特殊壺形土器だった。〈初期の円筒形埴輪〉人物の埴輪が登場するのは古墳時代後期なのだそうだ。とすれば、「人柱を埋めたのをやめて埴輪にした」という私の想像は間違いなのだろう。〈円筒形埴輪の並ぶ「復元古墳」。造られたとき古墳はきれいな石で装飾されていた〉しかも多くの埴輪は、素焼き
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb6ec9dd5b9f121fd22cb1768be08b80f29aa170「倭の五王」時代の巨大コンビナート窯跡発見全国でたった20例、謎めく技術解明か「京都の勢力と交流も」(京都新聞)-Yahoo!ニュース現在の大阪府枚方市に、古墳時代の「須恵器コンビナート」があったのか-。そんな想像をめぐらせてくれる発掘調査結果がある。枚方市と大阪府文化財センターがこのほど、同市茄子作(なすづくり)の茄子作news.
地面を掘り下げて床をつくった半地下式の竪穴住居では、火を焚いて屋内を明るく照らし暖かく温める炉(火処)は重要な施設であったに違いありません(屋内での煮炊きについては「煮炊きの場所」をご覧ください)。弥生時代前期(約2400年前)の竪穴住居では、床面の中央に深さ20㎝ほどの浅い穴(土坑、ピット)が掘り込まれていますが、赤く焼けたあとが残ることから炉跡と見て差し支えありません。ところが、弥生時代中期(約2200年前)になると穴の深さが増し、後期(約2000年前)には1mに達するものも現れます。
日本民族の起源石田栄一郎ら編平凡社古いシンポジウムの記録。この種の記録はいろんなテーマが勝手に語られ、まとまりがないのが普通だが本書は違っていた。各界の学者が集まって「日本人の起源」を真剣に検討している。結局「いろんなところからいろんな文化・生活様式を持った人たちがやってきて影響しあいながら独自の文化に仕上げていった」と言うのが正解だろうがその過程は興味深い。縄文/弥生期の変換は狩猟採取から農牧社会への変換だ。このほかにも多くの変換点があったようだ。今回特に興味を持ったのは古
三重県伊賀市古郡にある古墳時代の遺跡で日本庭園のルーツともされる。3か所からの湧水を引き込んだ祭祀の遺構や掘立柱の建物跡などが残り、資料館も併設されているが、開館は金・土・日だけだった。