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枚方市議会議員ばんしょう映仁です。2025年11月1日は、中振北遺跡第8次調査現地説明会に行ってきました。中振北遺跡第8次調査現地説明会光善寺駅近隣の市街地の足元に、こんな歴史が眠っていたなんて🙀光善寺駅の西側で再開発が進んでいることは、地元の方ならご存じの方も多いと思います。実はその工事の合間に、枚方の“昔”を物語るような遺跡が見つかっています。名前は「中振北遺跡」。私も最初は「遺跡って、そんなにすごいものが?」と思っていたんですが、調べてみると、これがなかなか興
Yahooニュースより転載。縄文人よりはるかに多様だった弥生人、DNAが語る意外なルーツと私たちへの影響とは5/19(月)17:46配信古代日本列島人のDNA研究のトップランナーで、国立科学博物館の特別展「古代DNA」の監修者である神澤秀明さんに、作家で科学ジャーナリストの川端裕人さんが取材した連載の第6回青谷上寺地遺跡の弥生人の復顔像。国立科学博物館の特別展「古代DNA―日本人のきた道―」の展示より。(撮影:ナショナルジオグラフィック日本版編集部)縄文時代の日本列
東京国立博物館昨年の1月に『博物館に初もうで』という催しを観に行ったのが最初だったでしょうか?それ以降何度か東京国立博物館へは足を運んでいます。今年の『博物館に初もうで』も行きました。別途観覧料金が必要な特別展には行ってないなぁ(笑)とにかく平常展しかも行くのは本館のみ、という…ゆっくりじっくり楽しむのでいつも時間が足りなくて…ってことで昨日もいつもの平常展(本館のみ)を楽しんできました。観覧料金1,000円で何時間も見ていられます(笑)本館めぐり日本美術
こんにちは武蔵国分寺跡は5年前に訪れましたが、今回未訪問のところを巡りました国分寺駅の北「国分寺村石器時代遺跡」を目指して来て見るとそこには八幡神社らしき建物が・・・本多八幡神社とあります遺跡の解説板を探しましたが結局見つからずじまい、実態不明です神社の隣祥應寺創建は1717年、宗派は黄檗宗、ご本尊は釈迦牟尼大願堂開運地蔵尊が祀られています駅の南側にまわり都立殿ヶ谷戸庭園に入りました、初訪問です面積は2.1haで旧岩崎邸庭園と同じくらい
週末に、下の娘家族が来たので、久しぶりにトトロをBlu-ray版で鑑賞。メイ、サツキのお父さんが、考古学者ということは前から分かっていましたが、下の画面に、考古学系書籍のタイトルが見えます。ビデオを写真撮影して拡大すると、纏向遺跡、とあります。纏向遺跡(まきむくいせき)は、卑弥呼の墓ではないかと言われている箸墓古墳などを含む遺跡群。弥生時代末期、古墳時代初期の遺跡として知られていますが、フツーの人は知らないですよね。学者っぽい。この本は、おそらく1981年に桜井市教育委員会が出版
こんにちは私が意図している海人族・海洋民族ですが、その大元は、ラピタ人(Lapitapeople)と呼ばれる古代の人だと思っています。ラピタ文化LapitaCulture今から3300年ぐらい前の新石器文化で、東南アジアの島々を起源とする。ラピタ土器の発見をきっかけに、その存在が知られることとなった。イモ類を中心とした根菜栽培や家畜飼育をおこない、刺青や航海術など文化の総体で、ポリネシア文化へとつながる。一次移動今から5万年前の海面は現在よりも低く、多くが陸続き
少し前に地元枚方市て2週末連続で遺跡の発掘調査現地説明会がありました。京阪電車光前寺駅前開発に伴う中振北遺跡の発掘調査の説明会は少し前にブログに書きました。『地元枚方で遺跡の発掘調査現地説明会!その1中振北遺跡』先週、地元枚方市で発掘調査の現地説明会があり見学してきました京阪電車光前寺駅前開発に伴う発掘調査で、かれこれ3年ほど工事が行われていてビル建設前の調査が毎年行…ameblo.jpその翌週にあったのが、第二京阪道路沿いで開催された茄子作遺跡の発掘調査説明会。写真左側の
霊岩寺から走湯神社・牧洞寺まで散歩してきました。万力地区に春をつげるお祭り、万力穴観音祭典もそろそろですね。岩盤を削ってつくられた岩穴にはたくさんの仏像が立ち並び、その岩穴で経典を速読する見応えのお祭りです。万力の山路にはいくつもの岩穴があります。防空壕としての利用もあったようです。ここから西に行くと、岩下地域があります。岩下地域は山梨郡として山梨という地名の由来にもなりましたが、古墳時代後期の墳墓が点在しています。走湯神社や牧洞寺には大きな古墳があります。山路に生きてきた先人た
特別展「はにわ」に行ってきました!特別展「加耶」を彷彿とさせる動物たち。『九博特別展「加耶」の馬』もう1ヶ月近く前の話になるけれど、太宰府に特別展「加耶」を見に行った‼️この日は筑豊カメラ倶楽部の日。カメラ倶楽部としての初詣兼ねて、場所が太宰府天満宮に⛩い…ameblo.jp今回、私が一番注目したのはこちら。「鹿形埴輪」。これの存在は前から知っているが、「これがどうして鹿なの?」と疑問に思っていた。これは仔馬。これもぱっと見は馬だか良く分か
宇土半島(熊本県)基部をベースにしていた火の君一族(多氏)は、熊本県域・九州内はもとより日本各地へ進出・移住していった。それには3つの背景がある。①自らの勢力の拡大によるものー肥国(肥前・肥後)内においてー②ヤマト王権との関係によるものーヤマト王権による国内統一の実働部隊としてー③磐井の乱(527年)ー制圧された磐井に代わって北部九州へ進出ーこれまで書いてきたように、火君(ひのきみ)は肥君(ひのきみ)であり、肥は「ヒ」「クマ」と読む。従い「クマ」は火君(火君一族)を指し、地名の「クマ」