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2024.12.24聖なるの夜に世界の平和を願い苦しむ魂に祈りを捧げて魂を清めると神の愛が降りますよ。2022.3.23昨日くぅくの散歩を待たせてぎりぎりまで書いていた記事です。こんな記事書いていたからかな。やめてさっさと行けば良かった。最愛のくぅくに捧ぐ戦争反対!拡散して下さいm(__)m(ウクライナの画像じゃありません)ママ待っててね決めたんだボク今度生まれてくる時は神さまになるんだ(ウクライナの画像じゃありません)またワンコになりたいけど
<2021.02.24>起稿去年(2020年)の12月2日にリリースされた中島みゆきセレクトアルバム『ここにいるよ』世界的なコロナ禍、この状況下を生きる人たちに贈る、「エール」と「寄り添い」という2つのコンセプトで選曲された名曲、代表曲26曲で構成されている2枚組。今年(2021年)1月頭に購入以来ほぼ毎日聴いている。オリコンデイリーランキング2021年2月21日付で5位、同月間ランキング12月は6位、推定売上枚数74,537枚、1月は15位、同23,721枚。息
一応ね、しばき隊を知らない人向け&知ってるけど記憶がぼんやりしてしまった人向けにちょいと専用でまとめておきたいなと思ったので記事にまとめました。俺とか何度も書いてて知ってる状態だと、やっぱ説明時に色々と端折ってしまいがちなので、改めてね。こうすることで、「ああ、やっぱこいつらに繋がる所はアウトだよねw」って思えるからね。なぜなら発生当時は「点」にしか見えなくても、時間がたつにつれてそれに絡んでくる人などで「線」になり、繋がりが見えてくるからね。これ大事。ってなわけで、改めて書くきっ
オンライン日本映画祭、3番目にみたのは「二十四の瞳」です。「二十四の瞳」(1954)第二次世界大戦の終結から7年後、1952年(昭和27年)、この戦争が女性教師と生徒たちにもたらした数多くの苦難と悲劇を描いた原作「二十四の瞳」が発表された。映画は、この原作同様、1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)までの18年間を描いている。撮影は、原作発表の翌年1953年(昭和28年)春から1954年(昭和29年)春にかけて行われ、その年の9月に公開された。よって、原作者、
「もし私が死ななければならないのなら」Byリフアト・アライールもし私が死ななければならないのならあなたは生きなくてはならない私の物語を語るために私のものを売って布をひときれとひもをすこし買うために(白くて、長くたなびくようにしてください)ガザのどこかにいる子供が炎に包まれて死んだ父親を待ちながら―だれにも別れのあいさつをせずに自分の肉体にすら自分自身にすら別れを告げずにいなくなった―その父親を待ちながら空をじっと見上げたときその凧が、あなたが作った私の凧
今日(13日)の朝日新聞朝刊の「多事奏論」で、編集委員の高橋純子氏が45年前の朝日歌壇に掲載された歌を採り上げていた。徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つるとも(石井百代)記事によれば、この歌は、1978年9月18日に朝日歌壇に掲載されたあと、瀬戸内寂聴氏が週刊誌で採り上げて有名となり、平和集会のビラなどに引用されたという。高橋編集委員は、今年の憲法記念日に東京・有明で開かれた憲法集会の主催者あいさつで高田健さん
おはようございます。部屋の温度は20℃。青年が立ち上がれば世界は変わる。戦争のない世界を実現するためにも、勇気を出して平和へのスクラムを創るとき。あきらめとの戦い。今日もお元気で!〈1974―2024人類の宿命転換への挑戦〉沖縄から始まった「反戦出版」2024年6月8日1974年2月、沖縄・名護会館(当時)の完成を祝う郷土芸能文化祭「山原祭(やんばるまつり)」に出席した池田先生。その後、先生は出演した未来部の友らに、“高校生、中学生の諸君が、戦争を体験した方々がお元気なうちに話を聞
一昨日(13日)の朝日小学生新聞に、「SDGs俳句」の記事があった。2025年に関西万博が開かれる大阪市が小学5、6年生を対象に句会を開いた。万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」を国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」に結び付けるイベントである。紙面では、最優秀賞と優秀賞の2句が紹介されていた。入学式世界の子どもいけるといいな(最優秀賞生魂小6年松下将生さん)捨てないでころもがえしてリサイクル(優秀賞喜
日本被団協・田中熙巳さんのノーベル平和賞受賞演説に思う12月10日、ノーベル平和賞授賞式がノルウェーのオスロ市庁舎で開かれ、田中熙巳さんが、日本原水爆被害者団体協議会(以下、日本被団協とする)を代表して受賞演説を行った。演説のなかで重要だと思うことについて、少し述べたいと思う。日本被団協が70年近く続けてきたふたつの運動田中さんは、1956年8月に結成して以降、「生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害を再び繰り返すことのないようにと、2つの基本要求を掲げて運動を展
令和5年10月21日土曜日晴れ。毎日のようにアメブロのビジネス活用てな広告が来ますが。まるでインチキや詐欺推奨かのように…それでいて僕らのような反体制記事を書く者にはアクセス数を操作される、理不尽で差別が横行する中で細々と頑張っております。なんだかなー、ですが。特に「カテ縛り」の異常性、一度抜けたりBANされると戻れないって何だそりゃな世界。まぁ従わなきゃヤメろってことなので仕方なく「同じセリフ」を毎日載せてますが…本当はバカバカしくて嫌です。お付き合いさせて申し訳ない。なので今日は
「ヒッピー」をご存じでしょうか?1960年代、アメリカ合衆国では、青年層を中心にして既成の社会体制と価値観からの離脱を目ざす対抗文化countercultureの運動が生じました。この運動とそれを担った人々をヒッピーといいます。自由と愛という人間的な価値を尊重するヒッピーたちは、自分自身のために生きるため、原始的共同生活を営みました。ヒッピー運動は、イデオロギーに基づく社会変革よりも、個人の意識変革を目ざす文化運動であったようです。1960年代後半には、人種問題、ベトナム反戦などの社会運動と