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魏志倭人伝を素直に読めば、魏の使者は朝鮮半島から対馬、壱岐と渡ってきて、末盧国(ほぼ間違いなく北九州の松浦半島)に上陸し、そこからチョコチョコといろんな国を訪ね、最期に邪馬台国に行き着いています。もし邪馬台国が畿内だとしても、北九州の諸国が邪馬台国の支配下にないなら、少なくとも同盟・従属関係にないなら、魏の使節は北九州に上陸できませんし、する理由もありません。そもそも北九州の衛星国をひとつづつ丁寧に訪問していた使節団が、そのあとドーンとトバシていきなり奈良まで行っちゃうのは、おかしかないか?
10月23日木曜日霜降高市総理大臣就任記念政権を握った女性シリーズ卑弥呼(ひみこ)卑弥呼(読みは、ひみこ/ひめこ等諸説有り)(旧字体:卑彌呼)建寧3年(170年)頃〜正始9年(248年))『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。日本の古代の歴史書である『古事記』『日本書紀』(記紀)に卑弥呼の記述はなく、考古学上も実在した物証が提示されていないが、西晋の官僚である陳寿が書いた『魏志倭人伝』に記述が見られる。著者の陳寿は日本に
五、「祢軍(でいぐん)墓誌」の中の「日本」についての一考察わが国の国号改号問題について参考になるのが、「祢軍墓誌」で、この墓誌について2011年10月、中国の吉林大学古籍研究所副教授の王連竜氏が「百済人祢軍墓誌論考」という論文を「社会科学戦線」に掲載された。その墓誌の拓本に「日本」の文字があることが発表され、一時はマスコミに大きく取り上げられた。この「祢軍墓誌」は、日本国成立の日を考える上で大いにヒントになる。以下その重要な部分の著者読み下しを掲載。右ページ部分(前半