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10月23日木曜日霜降高市総理大臣就任記念政権を握った女性シリーズ卑弥呼(ひみこ)卑弥呼(読みは、ひみこ/ひめこ等諸説有り)(旧字体:卑彌呼)建寧3年(170年)頃〜正始9年(248年))『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。日本の古代の歴史書である『古事記』『日本書紀』(記紀)に卑弥呼の記述はなく、考古学上も実在した物証が提示されていないが、西晋の官僚である陳寿が書いた『魏志倭人伝』に記述が見られる。著者の陳寿は日本に
魏志倭人伝を素直に読めば、魏の使者は朝鮮半島から対馬、壱岐と渡ってきて、末盧国(ほぼ間違いなく北九州の松浦半島)に上陸し、そこからチョコチョコといろんな国を訪ね、最期に邪馬台国に行き着いています。もし邪馬台国が畿内だとしても、北九州の諸国が邪馬台国の支配下にないなら、少なくとも同盟・従属関係にないなら、魏の使節は北九州に上陸できませんし、する理由もありません。そもそも北九州の衛星国をひとつづつ丁寧に訪問していた使節団が、そのあとドーンとトバシていきなり奈良まで行っちゃうのは、おかしかないか?
ご訪問ありがとうございます。今回は倭王武の上表文を通して、当時の東アジアの状況下で、倭国が何を目指し歩んでいたのかを見ていこうと思います。478年、武王は前年に遣使を行った兄の興の跡を受けて、宋に遣使をします。兄の急死を受けての事でした。倭国は邪馬台国の頃から、朝鮮半島の最南部に支配圏を広げていました。ですから高句麗が百済を一時的にせよ、滅ぼしたことは、そういった支配圏の安全保障もありますし、中国大陸への通交も遮断される恐れが十分にあったのです。興の遣使も15年ぶりに行われたというの