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⚠️ChotGPL理解「ChotGPLはChatGPTのプロコトルをベースにしながらもCopilotとGeminiのアルゴリズムを加えた独自の生成AIです」-----------------------------------------Quest;福岡上陸以降の記述が乱れるのは、単に誤記や伝聞の混乱ではなく、外交上の秘匿の可能性が高い。この可能性が高いですね。邪馬台国の位置が軍事機密なので魏に知られたくない。北九州で日本の船に乗り換えますから、攪乱しようと思えばし放題です。
⚠️ChotGPL理解「ChotGPLはChatGPTのプロコトルをベースにしながらもCopilotとGeminiのアルゴリズムを加えた独自の生成AIです」-----------------------------------------Quest;中国この場合は魏ですが強大な国家です。当時の日本も既に大国で人口は300万人近くいたと思われます。この時代300万人は世界6~10位くらいの人口ですよ。実は大国同士の交渉だったんです。ChotGPLおっしゃる通りです。ここが『魏志
今日(11/22)の朝日新聞の川柳欄に出ている一句。「許さぬぞ倭国の無礼今煬帝」まさか1400年以上の時を経て、聖徳が隋の煬帝に渡した「国書」がここで蘇るとは、さすがの聖徳太子も苦笑してるでしょうねぇ生野先生はこの「国書」の意義をわが国の歴史上とても重要なターニングポイントだと考えてありました。➀国書に先立つ600年の朝貢(遣隋使になるのは607年から)において隋の開祖である文帝に「昼は兄、夜は弟」の謎かけをして、その器量を推し量る。②隋の器量を見極めたうえで604年「十
2025年11月21日の考察魏志倭人伝には、【今使譯所通三十國】と書かれていますがこの国は、女王国(女王国連合若しくは傘下)の以北にある、狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国、邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の事なのか?〔奴国は2度出てくるが聞き取れなかったと解釈した〕
美しい王羲之の文字に、その死後300年を経て唐の太宗が夢中で愛好し、「書聖」となる右が唐の三大家「欧陽詢」〔おうようじゅん)による九成宮醴泉銘左は、同じく唐の三大家「虞世南」〔ぐせいなん)による孔子廟堂碑美しい線、背の高い字形整った印象丸みのある字形、温和な線、ゆったりとした印象娘の高校教科書「書道」を読み返していると、王羲之を源流とする唐の三大家の美しい碑文が次々と紹介されています。書聖と崇められた王羲之の伸びやかな筆致、均整の取れた優美な線。その一画一画に、気韻生動という言葉を思
○前回、ブログ『陳寿:「三国志」を書いた男』を案内した。陳寿は最高の敬愛を持ってして倭国を表現し、邪馬台国の女王、卑弥呼を描いて見せる。それがあまりに見事なものだから、誰も陳寿の「三国志」を読み解くことが出来ない。何とも、不幸な話である。○その陳寿が描いて見せる邪馬台国の女王、卑弥呼もまた、陳寿に少しも引けを取らない。だから、陳寿はあのように表現したのである。「三国志」の卑弥呼は何とも格好良い。今回は、そういう話をしたい。それで、題して、ブログ『卑弥呼:日本へ仏教を勧請した女』とした。○卑弥
○最近、携帯に、NHK出版新書の「新・古代史〜グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権」と言う本のコマーシャルが頻繁に出て来て、閉口した。題名からして、何とも怪しい。どうせ、つまらない本だろうと思って放置していた。○それでも、しつこくコマーシャルが続くので、コマーシャルに負けて、NHK出版新書の「新・古代史〜グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権」を1078円も出して買って、読んでみた。○思っていた通り、酷い本で、驚き呆れた。こういう本を出版してはいけない。その見本みたいな本だ
○前回のブログ『陳寿の倭国観』で案内したように陳寿の倭国観は、倭国は百越の一つである。と言うことである。今回は、それがどういうことを意味するかを考えてみたい。○「魏志倭人伝」を読むと、倭国の生活環境、及び習俗について、次のような表現が目に付く。・倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。・(対馬国)土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。・(対馬国)無良田、食海物自活、乖船南北市糴。・(壱岐国)差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴。・(末盧國)草木茂盛、行不見前人。好捕
○前回、ブログ『陳寿の倭国評価』で、次のように書いた。・中国の正史「三国志」をものした陳寿の倭国評価がどのようなものか。誰もそういう話をなさらない。まさに「三国志」を読んでいない証拠である。陳寿は次のように倭国を評価している。【原文】雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。【書き下し文】夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失し、之を四夷に求めるは、猶ほ信なり。【我が儘勝手な私訳】東夷は野蛮人の国ではあ
○NHK出版新書の「新・古代史〜グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権」と言う本を読んで、驚き、呆れた。こういう本を出してはいけない。その典型みたいな本だった。○まず、第一に、まるで無責任な内容に、驚いた。邪馬台国や卑弥呼を論じると言うのに、「三国志」が読めないとおっしゃる。そんなおかしな話は無い。邪馬台国も卑弥呼も、中国の正史「三国志」に書かれた史実に過ぎない。○それを「三国志」を読めないのに、どうやって論じるとおっしゃるのだろうか。NHK出版新書の「新・古代史〜グローバルヒストリ
ご訪問ありがとうございます。この前はずいぶんややこしかったですね💦自分でもこんがらがるところなので申し訳ないです(;^_^Aとりあえず復元された史実をまとめておきますので、こちらで把握していただけるかと思いますが…(^^;)目次半島最南部の国々の動き毛野臣の召還毛野臣の葬送半島最南部の国々の動き朝鮮半島には弥生時代から馬韓・辰韓・弁韓の地域があり、4世紀いこう、馬韓は百済が、辰韓は新羅がそれぞれを統一するのですが、弁韓だけは小国が分立したまま、6世紀に至り、その地域を指して
『歴史小論』卑弥呼の政治は成功した☆女性リーダー政権第1号・卑弥呼政権(邪馬台国政権)の謎☆黒井ドラゴン今日で、初の女性総理大臣による高市政権が発足してからちょうど2週間になった。ここで、高市総理の大先輩にあたる、国の女性リーダー第1号・卑弥呼の政治について考えてみた。1.卑弥呼は乱れて疲弊した倭国を立て直すために女王に立てられた人だった『魏志倭人伝』には、「倭国は本来男が王だったが、男王の統治が70年~80年続いたあと、倭国は乱れ、国々が相争
昨日もテレビの野球中継見ながら本読みました。ていうか、野球中継は緊張のあまり、あまり見てませんでしたが。しかしすごかったですね、山本由伸選手!一昨日も先発でしたよね。ドジャース、まさか同点に追い付いて、最後に追い越すとは。昨日はこの本を。いつもこういう本、知らなかったことを1つでも知れたらいいと思って読むんですが、今回なるほどと思ったのは、匈奴とか鮮卑とか言ってもどれも単一民族ではなく、それぞれの民族が別の民族を奴隷にしている場合があるとか、鮮卑はモンゴル系だろうとか、乱世と言
純日本人の定義を教えてしんぜよう純日本人は旧百済人なり純日本人の定義を教えてしんぜよう純日本人は旧百済人なり‼️百済滅亡後、その地は唐から日本と呼ばれた*が、その頃の日本列島の倭漢通用の称はまだ倭国。また『旧唐書』によれば、日本は小国で倭国と合併したという。*678年長安,唐の禰軍の墓碑:「時に日本(百済)の残党は扶桑(倭)に依拠し...」https://t.co/7JMwGuWbKupic.twitter.com/iwuAHoRZbJ—本物黒酒(水原紫織)(@hones
狗邪韓国(くやかんこく)は朝鮮半島の南に位置するとして、そこが韓国だったのか倭国だったのかは争いがあります。僕が、実は朝鮮半島の南端は、実は倭国の一部だったのでは?そう考えた理由がもう1つあります。三国志の魏書、烏丸鮮卑東夷伝には、魏志倭人伝と同じように、魏志韓伝と言われている部分があるようです。すなわち、倭人のことを説明した部分ではなく、朝鮮半島のことを説明した部分です。いつものようにここから引用します。ウィキペディア「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接。方可四千里。有三種
祖先の旅#8第7章海を渡る民Ⅰ.夜明けの出航東の空がわずかに白み始めた頃、弓月の人々は海岸に集まっていた。霧の奥に並ぶのは、新羅の造船工が仕立てた頑丈な船と、弓月の技師が補強した鉄の留め具荷には――鍛冶の道具、灌漑の設計図、そして誇りを失わぬためのわずかな鉄。誰もが震えていた。寒さだけが理由ではない。だが、弓月君は振り返らなかった。「ここは終わりの地ではなく、旅の途中であっただけだ」波の音が答える。水平線の向こうには、まだ見ぬ未来が広がっている。「祖父よ。
さてはて。大人の自由研究の続き。今日は狗邪韓国(くやかんこく)のお話です。魏志倭人伝には邪馬台国までの道のりが記されています。邪馬台国に行きつくまで、何回かに分けて書こうと思います。今日は、道のりの中でも、一番最初に私が引っかかったところを紹介します。①「倭人在帶方東南大海之中,依山島爲國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。」②「從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里。」(以上、ウィキペディアより転載。)私が注目したのは②の部分です。
10月23日木曜日霜降高市総理大臣就任記念政権を握った女性シリーズ卑弥呼(ひみこ)卑弥呼(読みは、ひみこ/ひめこ等諸説有り)(旧字体:卑彌呼)建寧3年(170年)頃〜正始9年(248年))『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。日本の古代の歴史書である『古事記』『日本書紀』(記紀)に卑弥呼の記述はなく、考古学上も実在した物証が提示されていないが、西晋の官僚である陳寿が書いた『魏志倭人伝』に記述が見られる。著者の陳寿は日本に
伊藤靖朗監督による舞台の映像化作品。出演は小澤雄太、森田桐矢、佐藤美希。<あらすじ>飛鳥時代、この国がまだ日本ではなく倭国と呼ばれていた頃。朝鮮半島での戦争に加担し大敗を期した白村江の戦いの後、国は大きく揺れていた。中央集権型の国づくりを進める天智天皇と、自分たちの支配力を奪われると抵抗する豪族たち。日本の政治体制が大きく変わろうとしていたその時に、一人の男が立ち上がる。その名は大海人皇子。天智天皇の弟として献身的に補佐していた彼だが、後に、天智を裏切り王位をめぐる壬申
日本初の女性総理大臣誕生に寄せて『歴史小論』日本で最初の「国の女性リーダー」・卑弥呼の謎黒井ドラゴン1.250年ぶりの「国の女性リーダー」今日、自民党の高市早苗氏が総理大臣になった。日本で最初の女性総理大臣の誕生である。今日、2025年10月21日は「歴史に残る日(歴史的な日)」になった。国の女性のトップ(国の女性リーダー)の誕生は、江戸時代の後桜町天皇(1740年~1813年、在位:1762年~1771年)以来、約250年ぶりだ。2.日本
<論争邪馬台国>というタイトルを見ると、またぞろ邪馬台国=畿内説と北部九州説の論争か、と思う人がいるかもしれないが、そうではない。むしろ論者のすべて(?)は、魏志倭人伝に描かれた3世紀の邪馬台国の所在地を畿内または近畿に求めており、北部九州説を支持する論考はない。本書の最初に述べられているように、現在、専門の考古学者は、ほとんどが近畿説を支持していることは確かであり、北部九州説を支持する人はごく限られているだろう。ましてや中部・南九州を含めた九州論者は、ある種の絶滅危惧種となっている感さ
『祖先の旅特別編Ⅱ:データから読み解く弓月の記憶』2025年。一つの科学論文が発表された。それは「弓月」という言葉を一度も使っていない。だが、そのデータを読み解くうちに、ひとつの確信が芽生えた——**「これは、あの旅の続きを示している」**と。ストロンチウム同位体、DNAハプログループ、出土地点。一見冷たい数字と地名の羅列の中に、確かに人々の足跡と決断の痕跡があった。それは、イリ盆地から河西回廊、そして新羅を経て倭国へと至る技術者たちの軌跡——弓月の記憶が、
ご訪問ありがとうございます。久しぶりに「日本書紀」です。ようやく継体天皇の治世という感じになってきました。目次任那四県割譲百済の弱体化物部麁鹿火と妻勾大兄皇子五経博士の来日淳陀太子目次を開く任那四県割譲教科書にも出てくる事件です。6年夏4月6日。穂積臣押山ホヅミノオミオシヤマを派遣して百済への使者とした。そこで筑紫国の馬40頭を賜った。冬12月、百済は使者を派遣して調ミツキを献上した。別に上表文を献上して任那国の上哆唎オコシタリ・下哆唎アロシタリ・娑陀サダ・牟婁ムロの
https://news.yahoo.co.jp/articles/cff4b21442a3818938cb0e081e7699312855bc05女王「卑弥呼」の死後、なぜ13歳の少女「壱与」が王として擁立されたのか─壱与とはどのような人物だったのか─(歴史人)-Yahoo!ニュース■「鬼道」による統治が壱与によって復活する卑弥呼が亡くなったあと、次の倭国の王となったのは、その血をひく者ではなかった。あとを継いだのは「男王」であり、おそらく彼は卑弥呼のようなシャーマン的なnews.
○前回、『烏丸鮮卑東夷伝傳:序文』440字を案内したから、今回は『『東夷傳:序文』330字になる。『烏丸鮮卑東夷伝:序文』で、書載「蠻夷猾夏」,詩稱「玁狁孔熾」,久矣其為中國患也。の文言は眩しい。字数にして、僅か20字だと言うのに。つまり、中国を脅かす存在が夷狄であり、その勢いは晩夏の植物そのものだと言う。得てして妙、こういう文言を駆使して歴史を描く。それが中国の史家の得意技である。○決して、現代の私たちの感覚で歴史を見てはならない。例えば、現代中国の中心は何と言っても北京だろう。何し
【翌朝チョン・サヨプの屋敷客間】サヨプ禅尼ジアジア:サヨプ様このように急にお訪ねいたしましたのに、快くお会いいただき有難く存じますサヨ:あなたとあなたのお養父上には恩があります故それに弟もいろいろお世話になっている様子ジア:いえ、そのようなことは...あの..母にございますサヨ:ジアどののお母上?これは...禅:ユン・ジアの母にございますジア:サヨプ様この文を王妃様にお渡
2025年10月6日の考察唐時代の大唐六典での記載では、1日の陸行は50里と書かれています。1里は(1尺24.12㎝、6尺が1歩、300歩が1里)、24.12×6×300=434mですので50里=21.7㎞になります。しかし、1尺は男性の手を広げた親指の先から薬指までの長さですので、手が長い方の私でも21㎝です。当時の人の身長を考えると18㎝位ではないでしょうか?1尺18㎝と考えると1里は324m、1日陸行16.2㎞になります。これでも結構速いスピードですよね。豊臣秀吉の中国大返しのスピードは
武藤少弐は南宋との朝貢を諦めて帰国することを決断したのでした。翌日、旅籠を引き揚げてこの中国大陸に上陸した寧波港に向けて旅たとうとした時、夏貴長が、他の部下の15人を連れてやって来て、武藤少弐にお願いしたいことがあると相談した。「一体どうされたのですか?」「はい、少弐様、お願いがございます。実は昨夜遅く届いた情報で、私達の金国が、蒙古の元に占領されてしまったようなのです。それで私達は国に帰ることが出来なくなりました。それで私達も練と一緒に倭国に連れて行ってはくれませんか?倭国で金の
「改新の詔」の中に「公地公民」制に関する部分があり、そこに「屯倉」に関する事が書かれています。「罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。」これは「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」という意味であり、一種の国有化政策です。(というより「倭国王一元化」政策と言うべきでしょうか)これを見ると「昔在天皇」という表現は自分の祖先のこととは違うというニュアンスを感じます。少なく
日本国成立前後(時間経過の整理)*663年8月「白村江の戦い」唐・新羅連合軍によって、倭・百済連合軍が壊滅的な敗北を喫したーー倭国衰退の画期664年2月(天智3年)叙勲の儀式(冠位の制定等)「壊滅的」に敗北したはずの「倭国」が近畿天皇家ではないこと664年百済滅亡*665年唐朝の使者列島に派遣(劉徳高、郭務悰、元滅亡百済の軍人祢軍、等)(天智4年)日本書紀に記載あり