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らーめんつけめんさん、【米企業ツイッターはアメリカのプロパガンダ!】「米CIAとTwitter」世論操作のターゲットは仰る通りで在りますよね。何しろ倭国、倭人が目の上のこぶで在りまのでね。神の国日本で在りますのでね。恐らくアヌンナキのマルドゥークからでもアチャラ側の御先祖様達が聞かされたので在りますか、令和八年丙午卯月廿九日癸酉合掌
okimawahisuiさん、0429水倭国は、だからアチャラ側が無くしたくて仕方がないので在りますね。アチャラは自己固執の塊で在りますのでね、幼稚園📛で在りますか、okimawahisuiさん、どうぞ御自愛下さいませ、令和八年丙午卯月廿九日癸酉合掌
今回はこういうお題でいきます。けっこう日本史の専門的な内容なので、なるべくわかりやすく書いていくつもりですが、あまり興味のない方はスルー推奨かもしれません。表題の小野妹子は、第2回の遣隋使として中国に赴いた人物ですが、生没年もよくわからない謎の人なんですね。もちろん男性です。さて、西暦600年(推古8年)、『隋書』倭国伝に、隋の初代皇帝、高祖文帝のもとに、倭国からの使者が訪れたとあります。この使者が妹子かどうかははっきりしていません。このとき、倭国はまだ国際外交にうとかったよ
のめしこき日記さん、辺野古事故と「報道報道しない自由」を決め込むの?報道も全て牛耳られて居りますね。他の事もで在りますね。倭国の現実、令和八年丙午卯月廿四日戊辰合掌
倭氏は出雲なの?ほんなら保久良神社も出雲なの?大昔の婚姻は女性側の地域を有することになるみたいなこと聞いた気がしたんだけど倭氏は結婚することで現在の桜井や天理辺りを手に入れたのかな?そういう事じゃないのかな??なんか頭ごちゃごちゃになってるww時代がめちゃくちゃだわよく前々から倭姫命の動画ばかり上がってきてたんだけど渟名城入姫命や倭迹迹日百襲姫命って倭姫命?倭迹迹日百襲姫命のママは倭国香媛…倭…ん???つか吉備津彦命と姉弟?兄妹?じゃん!吉備津彦命って、吉備津神社じゃ
らーめんつけめんさん、えっ!日産はフランスに乗っ取られたの!ソニーもタケダも害し?日本企業解体!軟弱化!内から外か、倭国は乗っ取られて居りますね。植民地で在りますので、令和八年丙午卯月廿一日乙丑合掌
らーめんつけめんさん、円安?倭国叩き売りで在りますね。アチャラの計画で在りますね。倭国叩き売り喧嘩売、令和八年丙午卯月拾八日壬戌合掌
ヒグポンさん、神宮外苑『いちょう並木』はどうなるのか?全てが金儲けの為で在りますか、倭国の叩き売りで在りますね。国富民貧しで在りますね。令和八年卯月拾九日癸亥合掌
印象スケッチ「大風」風が強い車が揺れた立っていてふらついた転倒した人いそうだな「高市総理」食糧品の消費税0にしないと終わってしまう国債発行してでもなんとか0にしないとね「デマ」まんまとひっかかった京都小学生行方不明事件早い段階で犯人は義父の24歳の中国人ってネットに出てたそうなのかって思ってしまったでもまったくのデマだった誰だ?一番最初にデマ飛ばしたやつ。もうひっかからないようにしないと「京都小学生行方不明事件」不可解なことがいくつもあ
ご訪問ありがとうございます前回ぐらいから「百済本記」に依らない、国内の記事らしきもの(おそらくは各氏族の言い伝え)が増えてきています。何かしら、成文化されたものが残っていくのか…それとも半世紀後の「国記」「天皇記」で、採択されていくのか…(50年前なら言い伝えもけっこう正確でしょうし)記事の内容も細かくなっているように思います。ただ「欽明天皇紀」の前半部が、ほぼほぼ聖明王の関連で、欽明天皇の影はめちゃくちゃ薄いwということを考えると、この頃はまだ国内の政治の記録も外交の記録も残ってお
【百済王敬福の系譜】続日本紀天平神護2年(766)6月28日条に、百済王敬福(刑部卿従三位)の薨去記事が記されている。敬福の父は郎虞(737年没)、郎虞の父が舒明3年(631)3月に豊璋と共に人質として百済から倭国にやってきたと伝えられる善光(693年頃没)である。豊璋と善光は百済最後の王となった義慈王の息子である。天平神護2年(766)に没した百済王敬福は、舒明3年(631)に人質として豊璋と共に倭国に来た百済王子善光の孫に当ることになる。【百済王子善光の事績】善光
JA1JYCさん、霊感的な予感・・?令和八年丙午卯月拾一日乙卯73合掌『自作50MHzSSBトランシーバーの製作送信部』50MHzSSBトランシーバーの製作です。不調が続いているので、結構前から手を入れています。何とか送信部はうまくいっています。途中で、出力が全く出なかったり…ameblo.jpFBで在りますね。私も色々なQRP機作りましたよ、今は亡き、秋葉原ラジオデパートの桜屋電気の親父山田さんに教えて貰い乍、73『今日は女性の日』あなたにとって憧
聖徳宗総本山法隆寺●参拝日2026年2月21日「日出処の天子」という少女漫画を読んで、聖徳太子にハマって以来40年以上前から何度訪れたかわからない法隆寺。聖徳太子の聖地として、特別な場所だと信じていました。しかしここ数年、法隆寺や聖徳太子への評価が私の中で大きく変わりました。「ここ数年」と思っていましたが、過去記事を確認してみると2010年には既に今と変わらない考えを持っていたようです。「法隆寺は九州(大宰府)から移設された寺」そ
卑弥呼は「30歳」も若い(歴史1)黒井ドラゴン卑弥呼は邪馬台国とともに大きな謎に包まれているが、その一つが「卑弥呼の年齢」。卑弥呼は何歳くらいだったのか?1.一般的には「80歳くらい」とされているが・・・卑弥呼の年齢は、一般的には(通説では)「80歳くらい」とされている。その根拠は、『後漢書倭伝』に「桓帝・霊帝の時(2世紀半ば~後半)、倭国が大いに乱れた。卑弥呼という一人の女性がいて、倭国の女王に立てられた」と記された記事による。この記事から、卑弥呼は15
ご訪問ありがとうございます今回の箇所はいろんな出来事が集まっています。朝廷の記録というよりは、各氏族の伝承をもとにしている感じがするところです。目次馬飼首歌依の罪新羅の移住者紀男麻呂宿禰の出兵河辺臣瓊缶甘美媛の受難調吉士伊企儺大葉子の歌目次を開く馬飼首歌依の罪是の月(6月)にある人が馬飼首ウマカイノオビト歌依ウタヨリのことを誹謗中傷して「歌依の妻の逢臣オウノオミ讃岐サヌキの鞍クラの韉シタグラ(鞍の下の敷物)に違和感を感じ、よくよく見ると石姫皇后の御鞍でした。」と言っ
ご訪問ありがとうございます。今回はついに任那滅亡です。目次新羅使の厚遇新羅使の冷遇任那滅亡欽明天皇の詔勅任那滅亡とは?目次を開く新羅使の厚遇21年(560)秋9月、新羅は彌至己知ミチコチ奈末ナマを派遣して貢物を献上した。饗=宴会をして、賜った物がいつもより過度であった。彌至己知は名前、奈末は新羅の官位17階のうちの第11階です。あまり高官ではありませんが、日本側はえらく歓待しました。百済が大変なことになったので、とりあえず朝貢してきたのなら安心だ~と思ったのか…どうな
りんごの花が開花してました。可愛い花が咲くんですね。桜っぽい(ˊ˘ˋ*)銀貨ですけど…巨大メダルのような、ウィーン・フィル銀貨。それと、銀は8割くらいかな?…日本の古銭が気に入ってしまって買ってしまったのですよね…人気は、50銭の旭日龍なのですが…(;´∀`)高いので20銭のちょっとキズあり…サイズ感は10円面白いのは、表にいくらか記されてないところ。すごくないですか?156年前のお金…細工が細かく、ウロコもあります。表の模様も、なんとなく昔の鏡を思い浮かべてしまいます。
2026年3月31日の考察倭国(日本)は、ユーラシア大陸の極東に位置します。アフリカで生まれた人類が、東へ渡ってきたと習いましたが、その地域が最適なら移動する必要は無い筈です。土地が枯れたり干ばつ・洪水・人口爆発・侵略などその地に住めなくなったからその地を捨てた(追われた)と考えることができます。アレクサンダー(イスカンダル)大王が、東へ東へと進攻してゆきます。太陽が昇る聖地へ向かったのです。自然信仰(太陽神)が最初に起ったと云われています。農業・漁業をしていれば誰でも自然信仰をする筈で
智子@第444代目@UF_dynasty·3月23日GOEM政治部イラNはレ■ノNのヒZボ■の支援をしていましたが、戦争が始まったので、より大規模に武器供与をしています。Hズボ■はGザのHマスに武器供与を始めたので、これからIス■エルはガZのHマスに復讐されることになりました。漂流姫以下の三点が気になるな~。・トルコがどう出るか?・アラビア半島のどこかの国で民衆蜂起があるか?・イエメンがどう出るか?3月23日作るのは数年。壊すのは数分・・・。
■2:深掘り考察パート(コラム強化版)ここでは、偽書とされる「古史古伝」や「風土記」の断片を、朝鮮史の視点でつなぎ合わせます。・記紀が沈黙した理由:卑弥呼の時代、倭国は「魏」というバックボーンを使い、半島情勢に深く介入していました。しかし、後のヤマト王権が求めたのは「大陸に従属する王」ではなく「日本独自の秩序」です。そのため、魏から金印をもらった「親魏倭王」としての卑弥呼の記録は、公式記録からは「統合」という形で別の神話(神功皇后の三韓征伐など)へ形を変えたのかもしれません。・古史古伝
ご訪問ありがとうございます長らく登場し、仏教を日本に伝え「欽明天皇紀」といいながら、欽明天皇より目立っている百済の聖明王ですが、悲劇が襲います。目次餘昌の出撃聖明王の戦死倭国軍の活躍聖明王戦死の報告餘昌の即位屯倉の設置目次を開く餘昌の出撃餘昌ヨショウは新羅を討つことを謀ると、重臣たちは諌め、「天はいまだ味方していません。恐らく災いが身に及ぶでしょう。」と言った。餘昌は、「老人たちよ、何を怯えるのだ。私は大国ヤマトにお仕えしているし、何を恐れることがあろうか?」と言っ
2019年4月17日発信。本稿は、産経新聞記者佐々木類氏の著作を契機に、広開土王碑の記述、任那や前方後円墳の問題、そして比叡山・坂本で知った最澄の出自を通して、古代日本と朝鮮半島をめぐる歴史認識への確信を深めていく文章である。朝日新聞購読時代には見えなかった史実が、京都・滋賀の再発見と実地の体験によって結びつき、倭国と朝鮮半島南部の関係を考える上で重要な視点を提示している。2019-04-17この道の途中に小さいが入ってみようと思わせる佇まいの寺がある…。入って驚いた。。ここが最澄の
2019年4月17日発信。本稿は、任那日本府をめぐるウィキペディア記述を手がかりに、前方後円墳、勾玉、広開土王碑、『日本書紀』、『三国史記』などの史料を通じて、朝鮮半島南部と倭国の関係を考察した一文である。韓国民族史観による曲解、日本の一部研究者の迎合、そして『日本書紀』を引用しながら任那日本府説だけを拒絶する韓国学界の矛盾を批判している。2019-04-17朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。任那(みまな/
2019年4月17日発信。本稿は、朝鮮半島の全羅南道で発見された前方後円墳に注目し、それが日本列島独特の墓制であること、そして同地が広義の任那の一部とされる点から、古代の日韓関係史を考察した一文である。韓国における地域差別の背景にも触れつつ、日本の主要メディアが伝えない古代史の論点を浮かび上がらせている。2019-04-17幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されているが、この地は任那四県とよばれる広義の任那の一部である。韓国では全羅南道出身者は差別されて
2019年4月17日発信。本稿は、広開土王碑の記述を手がかりに、倭国が百済・新羅に及ぼした影響と、高句麗・燕との攻防をめぐる古代東アジアの実相を考察した一文である。韓国・朝鮮系学者による改竄説への疑義、日本古代史への再認識、さらに比叡山・坂本・最澄との個人的体験を通して、自らの歴史認識が確信へと変わっていく過程を綴っている。2019-04-17倭国に過去、征服されていたという事実を認めたくないといういわば恣意的に歴史をミスリードさせようとしたものであろう。前章を再読していて私はある確信
2026年3月23日の考察近畿説を唱えられている多くの方々は、【南至投馬國、水行二十曰。・・・】【南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。・・・】この南を東の誤写と云われます。ではどこで誤写したのでしょうか?現代の携帯で調べてみても草書体の南と東は全く違います。陳寿が書いた草書体を魏の役人が、陳寿の死後実家に残っていた草書体で書かれた三国志を皇帝に奉ずるため楷書体に書き写した事が分かっています。ウイキベテアによると、現存する数種の版本のうち、宮内庁書陵部蔵の「南宋紹煕年間の刻
【注】ドラマ『私の期限は49日』の演出を担当したのはキム・ヨングァン監督です。キム・サンホ監督は『華政』等。キム・サンホ監督キム・サンホ監督・脚本・演出の韓国ドラマ|韓チョアキム・サンホ監督・脚本・演出の韓国ドラマのページです。韓国ドラマのあらすじ、キャスト、放送予定など。また視聴者からのレビュー・感想もあります。share.googleもっと知りたい!韓国TVドラマvol.66(MOOK21)Amazon(アマゾン)何故、カンボクお前がいるのだ!?【注】ドラマ『薯童謡
ご訪問ありがとうございますまずは百済の王子の活躍から(^∇^)目次百済の王子餘昌内臣の救援軍聖明王の上表文百済の王子餘昌冬10月20日、百済の王子の餘昌ヨショウ明王=聖明王の子で、威徳王のことである。は、国中の兵をことごとく率いて高麗国(高句麗)へ行き、百合野ユリノ(黄海道黄州の蒜山サンザン)の塞ソコ=砦を築いて、兵士の中に混じって寝食を共にした。この夕方のこと遥かに遠くを見渡すと、大野は起伏しつつ肥え、平原は広く伸び、人の跡は稀で犬の声もしなかったが、俄にたちまち鼓と笛
ご訪問ありがとうございます今回は外交でいろいろ動きます目次百済の使い吉野寺の仏像百済救援王辰爾新羅と高句麗の謀議任那の長官目次を開く百済の使い14年春1月12日に、百済は上部ショウホウ徳率トクソチ科野シナノ次酒シシュ・杆率カンソチ禮塞敦ライソクトン等を遣わして出兵を要請した。13日に、百済の使者の中部チュウホウ杆率カンソチ木刕今敦モクラコムトン・河内部阿斯比多カワチベノアシヒタ等が百済に帰国した。前に来た使者が帰国する前に、重ねての援軍の要請ということは、百済はかなり切
本稿は、任那、任那日本府、広開土王碑、前方後円墳、勾玉などの考古学的・文献的材料を通じて、古代における倭の朝鮮半島南部への関与をめぐる議論を整理したうえで、韓国民族史観の自己矛盾と、日本の戦後学界に広がった自虐史観を批判する一文である。韓国側が『日本書紀』由来の記述は否定しながら、自国に都合のよい部分だけを利用してきたこと、また任那日本府や倭系遺物の存在に関する実証的研究を政治的理由から退けてきたことを問題視している。そのうえで、戦後の日本の学界が反日思想に支配され、歴史の実証よりも政治的配