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魏志倭人伝を素直に読めば、魏の使者は朝鮮半島から対馬、壱岐と渡ってきて、末盧国(ほぼ間違いなく北九州の松浦半島)に上陸し、そこからチョコチョコといろんな国を訪ね、最期に邪馬台国に行き着いています。もし邪馬台国が畿内だとしても、北九州の諸国が邪馬台国の支配下にないなら、少なくとも同盟・従属関係にないなら、魏の使節は北九州に上陸できませんし、する理由もありません。そもそも北九州の衛星国をひとつづつ丁寧に訪問していた使節団が、そのあとドーンとトバシていきなり奈良まで行っちゃうのは、おかしかないか?
🌸「倭氏」☆紀元前から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまでの間*中国の王朝が日本列島を中心とする地域やその住人を指す際*「倭」であり、「倭氏」はその中の人々を指す総称☆倭国(わこく)古代日本の政治勢力を指す☆倭人(わじん)倭国の国民だけでなく、日本列島の住人を指す⛳「大和政権」☆「大和政権(大和王権)」*この時代はまだ統一国家としての政府が成立していなかった☆大和国造(倭国造)を世襲した氏族の「倭氏」*奈良盆地(のちの大和国)の中部地域を支配