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昨年『バチカン機密文書と日米開戦』(津村一史)という本が朝日新聞の書評欄で紹介された。朝刊に載っていて、朝6時半に自宅から川崎市の図書館に申し込んだら、すでに2人が予約していて、筆者は3番目であった。彼らも書評を見ての申し込みであろうか?という訳で2ヶ月弱待って、ようやく借りることが出来た。<カトリック築地教会>先日「駐日ローマ教皇庁大使館の建物」として三番町の旧味の素の鈴木忠治邸を紹介した。その際、ここは戦後の1950年から大使館として利用したことが判明した。「ではその前は?」と思って
『バチカン機密文書と日米開戦』(津村一史)という本に基づき、すでに「駐日ローマ教皇庁大使館の建物パート2」という記事をアップした。今回からは同書のメインパートであるバチカン機密文書に関係した内容である。著者の津村氏は共同通信社のローマ支局長で、滞在中に「バチカン機密文書館」の史料の中から、日本とバチカン関連の先の大戦期を中心とした文書を見つけ出した。大きく分けると、11941年の松岡洋右外務大臣のバチカン訪問時の会談内容2駐日バチカン公使パウロ・マレラが本国に宛てた手紙が挙
『西村ソノ戦時下の欧州を勇気と美貌で生き抜いた女性』は書籍化されました。こちらからお求めになれます。<序新史料の発見>欧州に戦時中滞在した邦人は、仕事を持つ男性がほとんどであった。数少ない女性の内、独身女性はなお少ない。いたのは留学生である。その中で美貌の筆頭にあげられるのが、パリを中心に活躍したバイオリニスト諏訪根自子である。ただし彼女の演奏家としての写真は専門家が撮ったもので、メイクがしっかりして、修正も加わっているであろう。筆者は美貌のナンバーワンには留学生西村ソノ
天才ヴァイオリニストと呼ばれた諏訪根自子は1943年2月22日、ベルリンでゲッペルス宣伝相からバイオリンの名器ストラディバリウスの贈呈を受ける。日独の友好促進に努めたのがその理由であった。根自子は戦乱の欧州で身を挺してこの名器を守り、日本に持ち帰った。そして迎えた記者に「これだけは命がけで大切にしてきました」と語った。筆者はすでに「諏訪根自子:美貌のヴァイオリニストその劇的生涯:1920-2012」の書評の形で欧州での根自子の活躍の様子を書いた。今回は根自子が戦乱の欧州で、この
入社してから無事に一年が経過し、仕事のステージも次のステップに進んでいった。感覚的には三年くらい働いたくらいの濃密な一年であった。事業は着実に拡大し、五年後、十年後はとんでもない成長をしていると思えるくらい、会社は可能性に満ち溢れていた。これから益々忙しくなり、自分の役割と責任が増えてくるであろう大切な時期に、体の異変は起きた。いつもの様に仕事をしていると、何だか両脇腹が痛い。ズキズキするような痛みである。今まであまり感じたことの無い感覚で、場所的に肋間神経痛か?と
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会社からも家族からも言われ、そして自分自身もいよいよ病院に行くべきだと思ったので、翌日の休みを使って病院に行くことを決めた。この時点で、左右の鎖骨、左右の顎、左右の頭痛神経痛と、胸から上は全て痛かった。熱も37.5℃だった。朝を待たずして夜中の三時、胸と両脇腹の激痛で目を覚ました。熱は38.1℃に上がっていた。いよいよ、ヤバい。そう心の中で呟きながら、せめて子供たちが家を出るまでは我慢しようと、痛みに耐えた。子供たちが全員いなくなったタイミングで妻に言っ
一日は終わっても、熱と激痛が止むことはなかった。夜中はほぼ寝れず、痛みの場所も度合いも常に変化していった。痛み止めの点滴と飲み薬も使ったが、全然効かなかった。こんなことなら、今まで飲んでいた市販のロキソニンを飲ませてくれ、とさえ思った。妻も全然眠れていない様子だった。自分のこともそうだが、妻の精神状態と体調が心配だった。病院で半ベソかいていた妻の顔が、さっと脳裏をよぎる。ほぼ寝れずで朝を迎え、朝食も全く食べられなかった。その後、早い段階で主治医から
『極めて危険な状態』こんなパワーワードがあるだろうか。一瞬で人の心を打ち破る強烈な言葉である。これもまた新たに私の辞書に刻まれた。しかし、そんな言葉に悲しむ余韻などなく、私はまた救急車で専門病院へと運ばれた。この救急車が古いのか、揺れる揺れる。どんな悪路を走っているんだろうかと思うくらい、上下にガンガン揺れていく。まるでこれから進むイバラの道を通るかのように。30分くらい乗っただろうか。どこかもわからない目的地に到着し、先ほどと同じように救急
私が26歳の頃顔面神経麻痺で、顔の右半分が動かなくなった時の話です。→1話はこちら→前回の話はこちらこのブログは、私『トマト』とイラスト担当の『メガネ』の2人で更新しております。→詳しくはプロフィールページをご覧ください。『顔面神経麻痺』は顔が半分動かない状態で退院します。これから先、どんな自分でもありのままの自分で生活していく必要がありました。なので、いつも通り私と接してくれたメガネにはとても有り難かったです。そして過度に心配した態度を見せなかった母も有り難か
ある方から「素晴らしい眺めの場所があるから行きましょう」と案内されたのが北仲ブリック&ホワイトの46階の展望フロア。マンション、店舗などが入る高層ビルだが、このフロアだけ無料で利用でき、素晴らしい眺望を楽しむことが出来る。横浜三塔を上から見下ろせる。小さな赤い矢印の左から横浜税関本関庁舎(クイーン)、神奈川県庁本庁舎(キング)、横浜市開港記念会館(ジャック)の3つの歴史的建造物の塔である。これまでは港側のしかも限られた地点からしか、三塔は写真に収めることは出来なかったと思う。その後
先日アップした「バチカン公使館の疎開と『小林一三日記』」の中で、バチカン公使館と白百合学園の疎開先の住所が共に強羅1320番であったので、両者は同じ建物に暮らしたのかと想像して書いた。筆者が調べている軽井沢では基本は別荘1軒に一つの「ハウスナンバー」が振られていた。住所は簡潔に軽井沢XXX番。それによって漢字の読めない外国人でも容易に場所を告げられ、郵便局員の仕事は軽減された。ところが箱根に疎開した外国人の住所を調べると、強羅は1300番と1320番がかなりの数に上る。どうも軽井沢と
心配していた白血球の数値もこの日を境にぐんぐん下がり始め、プレドニンが効き始めてきたようだ。ひとまずホッと胸を撫で下ろした。不思議なもので、あれだけどの痛み止めも効かなかった頭痛神経痛も、いつも間にか痛みがなくなっていた。ステロイドの効果である。やはりドーピングってのは違反なんだなと感じる。そんなこんなで、体の症状も落ち着き、私の精神状態も平静を取り戻してきた。入院してからの日々、重大な出来事が起きていたことは認識していたが、とにかく体の辛さでまともに取り合う
「私の人間学(上)」池田大作「私の人間学(上)」池田大作ハードカバー定価1236円342ページ1988年8月24日発行1988年12月27日第26刷1992年平成4年6月読了★★★【目次】第1章豊かな人生を考える第1節自己をつくり、自己に生きる情熱こそ創造の源泉──クフ王のピラミッド大いなる希望に生きよ──アレクサンドロスの旅立ち一流の人物──「詩道一筋」北原白秋生への執着──仙薬を求めた始皇帝原点を持
「母の詩」池田大作「母の詩」池田大作ハードカバー聖教新聞社952円270ページ1997年8月24日発行1997年9月30日第8刷1998年平成10年10月21日読了★★★【目次】はじめに母に贈る詩母の最敬礼1995.1.2楽観主義に生きる偉大な母に贈る1993.12.3女性は平和の大地母はひまわり・「母」と楽観主義妻に贈る「微笑賞」が変われば一切が変わる子をはぐくむ親の愛情対話で開く心・小説「永遠の都
病院に運ばれてから、問診、採血、採尿、などの検査を行いつつ、7~8人の先生が入れ替わり立ち代わりで診察に訪れた。体を見てはうーん、あーじゃないこーじゃないと議論しながら、しかし、どことなく普通では無い感じが漂っていた。また、何度も問診に来ては、色々な質問をして戻っていった。神経痛ではないのか?一体、何の病気なのか?と不安がよぎりつつも、とにかくその時の私は痛みで正常な頭の働きはしていなかった。運ばれてから一時間以上は経っただろうか。その間にも最後の力を振り絞っ
急性リンパ性白血病とは、早い話が血液のガンである。成人の場合、10万人に1人が発症すると言われている。この確率を聞いて、私が慌てて宝くじを大量購入したのは言うまでもない。話を続けよう。ある日突然、遺伝子レベルの異常が起こり、白血病細胞なるものが骨髄中で増殖し、骨髄を占拠してしまう。そうすると、正常な血液細胞が作られなくなり、治療をしなければ、短期間でヒトの命を奪うことになるのである。原因は全く分かっていない。遺伝子レベルの誤作動とは言え、遺伝されるもので
【話】友達がいなかった私。私が小学校1、2年生の頃、友達がいなかった頃の話です。→1話はこちら→2話はこちら健康って本当に大切だと思います。実際私も、娘が産まれて凄く体調が悪い期間があり、日々いっぱいいっぱいでした。今は元気になり、ブログを書いたり余裕が出てきました。それも全て、健康あっての事だと思います。→続き『【4話】友達がいなかった私。』私が小学校1、2年生の頃、友達がいなかった頃の話です。→1話はこちら→1つ前の話はこちら続きは明日、更新です。【完結しているシリーズ】→ピ
プレドニンに加え、スプリセルという薬が一種類増えた。先に申し上げた通り、私の場合はフィラデルフィアの妖精さんが来てしまったので、この薬を服用しないといけない。この薬が厄介で、脱力感、気持ち悪さが副作用として出てくる。同時に、猛烈な便秘も出現し、気持ち悪さが拍車をかける日々が続いた。眠いのだが、眠った瞬間、頭がグオングオンしてきて眠れない。寝ては起きてを繰り返し、何とか抜けてくれるのを待つのである。昼前に終われば御の字だが、夕方まで症状が続くこともある。便
誰にでも人生のターニングポイントはあると思う。私も今までいくつかの分岐点があり、その度に人生は変化していったと思う。かなり自分勝手だったとは思うが、妻も子もいる中で、40歳を人生のターニングポイントだと捉え、長年勤めた会社を辞めた。しかも次の仕事を決めずに。それでも、自分で決めた道に妥協せず、新たな希望を信じて、40歳にして新しい仕事を見つけることができた。前職を退職してから約八カ月、紆余曲折を経ながら、また都会のサラリーマンへと戻った。それからというもの、ご
病院には行ったものの、気休め程度の診断しか受けられず、すぐに日常の日々は再開していた。ロキソニンだけが心の拠り所で、飲めば一応聞くのだが、ただすぐに効き目がなくなる。そうなると、もはや中毒。用法用量は守らず、とにかく痛みを回避するために短いスパンで飲み続けてしまうのだ。今思えば、よく肝臓を破壊しなかったなと安堵する。そして目の前の仕事は待ってくれない。全員が全力で頑張っている少数精鋭のチームであり、他のメンバーに迷惑なんて掛けられない。チームの輪から抜けることなど考えられな
都会の景色を眺めながらふと考える。人間っていつ死ぬのだろうか。何故死ぬのだろうか。何故生まれ生きるのかについては散々考えてきた。死に対しては、いつか訪れることくらい皆わかっている。でも、日常生活においてそれは遠い存在である。せいぜい他人の死を知り、自分の死について考えることくらい。そうこうしているうちに、すぐにせわしない日常が追いかけてくる。私の好きな歌である森山直太朗の「生きてることが辛いなら」が頭に流れる。三日も経てば元通り。私は仕
第一フェーズの治療がスタートした。メインの薬はプレドニンと呼ばれるステロイド剤の飲み薬だ。このほか、抗菌薬やら何やらで、朝から三十錠近くの薬を飲まされる。これには驚きを隠せないかのように見えたが、ピュアな私は、何の違和感もなくせっせと薬を口にほおばった。これが後々私を苦しめることになるとはつゆ知らず・・・。この時、血液の白血球(白血病細胞が増殖するため)の数値は上がっており、あまり良くない状態であった。まずは、プレドニンでどこまで下がるかがキーだった。こ
体調も少しずつ復調の兆しを見せてきたので、五月末の一時退院に向けて着実に準備は進められていた。何を食べよう、どこに行こう、そして何を食べよう。そんなことばかり考えていたが、目下、私の敵は薬のグオングオンと便秘との闘いだった。人生の中で便秘など一度もなったことの無い私にとって、便秘は未知なる生物で対処法が全く分からなかった。数種類もある下剤を入れ替わり立ち代わり飲んでは検証し、出るのはほぼ水下痢。一日に何度も下痢に悩まされるのである。いかにステロイドが強力かを示
ようやくコロナの陰性が確認され、隔離病棟から一般病棟の大部屋(共同部屋)へ移動した。ようやく白血病闘病の仲間入りである。入院をしたことがある人は良くご存じだと思うが、基本的に入院生活はとってもヒマである(体調さえ問題なければ)。パソコン、スマホ、本などは欠かせない。一方で、矛盾するようだが、意外とせわしくなくやることも多い。大部屋ともなると、入れ替わり立ち代わり看護師さんや先生が部屋にやってきて、あっちこっちでとても賑やかである。朝は6時起床、夜は22時消灯。
大部屋にいると、自分も含めて、意外と患者さんの入り代わりは激しい。同部屋の人とは一切喋ったことがないし、何なら顔すら見たことが無い人もたくさんいる。だが、話や言動は筒抜けで、見た目以外の情報は概ね兼ね備えている。話を聞く限り、皆さん本当に良い人で、白血病にかかる人は良き人ばかりだと思った記憶がある。そんな中でも、少々ユニークな人材も多いから面白い。忘れられないのが、その名もイヤホンおじいさんである。途中から同じ部屋に入ってきて、比較的高齢なおじいちゃんである。
だいぶ体調も復活の兆しを見せ、改めて自分は入院していることを実感した。ふと思い出したのは、今から三十五年くらい前だろうか。まだ幼き頃におたふく風邪をこじらせて、大きな病院に入院したことがあった。入院前の最後の診察に母親と行った時、先生の言葉が今でも忘れられない。「これは、入院ですね」。そう言われた少年は、入院という言葉の正確な意味はわからないが、何となく良くない言葉だと瞬時に察知し、涙が込み上げてきたことを思い出した。あの年齢で、大人に混じって大部屋で過ごした
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入院してから怒涛の数日が過ぎ、おおよその病名も分かり、コロナの治療も進めていた。しかし、熱と痛みの症状は一向に良くならなかった。熱は38℃を超え、あらゆる部位の痛みが続いていた。食事はほぼ取れず、便秘も始まり、寝ても激痛で目が覚める。正直、ここまで痛みが続くと人間はおかしくなってくる。現に幻覚的なものさえも見えてくる。眠気で目を閉じると、その瞬間に謎の音が耳元で囁き、幻だか夢が分からない意味不明な映像で起こされる。個室だから良かったものの、毎日私の叫び声