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こんにちは、さとみです。今日は、堀川惠子さん著『透析を止めた日』を読んだ感想を書かせていただきます。読み進めるうちに、何度もページをめくる手が止まり考える事が沢山ありました。タイトルの「透析を止めた日」――その言葉の重みは、ただの医療行為の中止という意味ではなく“人生の最期をどう生きるか”という切実な問いかけでもありました。私が、この本を手に取ったきっかけは私自身が腎臓移植を経験し、腹膜透
旧軽井沢の少し外れた所を歩いていて、出会った洒落た建物。綺麗に修復されているが元は戦前の建物では、というのが私の見立てでその場で写真に収めた。2023年3月のことだ。その後湘南地方のドイツ人を調べる中で、菅原通済という人物に出会った。彼は「フィクサー」として事業で儲けたり失敗したりしていた。そして1930年頃から鎌倉山を別荘地として売り出す。一時は軽井沢同様の人気を得た。彼はそのきっかけについて回想している。今日、みなから呼ばれているか鎌倉山は、今の住宅地の事で、鵠沼にいたころ(昭和
今日は漫画の日だそうです。詳しくはネットで調べてもらうとして・・・漫画サザエさんの一番最初のマンガをご存知ですか?ずいぶん前に文庫本サイズで出版されたサザエさんです。数十巻出版されたうちの第1巻を抜粋してお見せします。このシリーズでは、昭和20年終戦後の東京や博多の様子もうかがえます。現代のテレビアニメ「サザエさん」とは、ちょっと雰囲気が違いますね。第1巻・第一話最初のマンガです。磯野家の紹介から始まります。タイロン・パワーっ
「師弟の大城」創価班指導集「師弟の大城」創価班指導集結成30周年記念師弟の大城編纂委員会創価学会発行非売品175ページ2007年1月6日発行読了日?★★★【目次】カラーページわが「師弟大城」の君たちよ!勝ちまくれ!(結成30周年記念首都圏総会2006.11.3)和歌・句(13編)師弟共戦の歩み第一章原点の指針広布の道開く知勇の灯台に第一回創価班総会指導(要旨)1977.1.6民衆厳護の賢明
旧軽井沢の片岡山荘(旧鈴木歯科診療所)はヴォーリズの設計で1936年に建てられた。カッコ内の表示にあるように建築当初は鈴木氏の別荘兼夏季歯科診療所であった。今回ヴォーリズを研究している方(本人はどっぷりはまったと仰っています)から貴重な資料をいただいた。それに自分の調査を加えて紹介する。ベンガラ色の下見板張りとヴォーリズ建築に見られる白い窓枠が美しい。(木々の葉が落ちる11月の撮影)戦後1954年の軽井沢会のハンドブックの裏表紙には歯科夏季診療所の広告が載っている。ちなみにこの時
土日は『アラフォー無職、不妊でバツイチ』だった時代の私の話を更新しております。◾︎現在のシリーズ『できちゃった結婚で再婚。アラフォーの出産までの道のり』→前回の話はこちら......................◾︎バツイチになる修羅場話→最初からご覧になる方はこちらから→自己紹介はこちら話が前後しますがまだ付き合い始めた頃の話です。(バツイチな私の再婚話17話の頃の話です。→その頃の話はこちら)私と夫はバツイチ同士の再婚です。前回の投稿で、「夫の離婚理由を掘
先日軽井沢駅前食堂「まるほん」の歴史というタイトルで、文章をアップしたら、かなり多くの人にお読みいただきまた、「自分もまるほんがすき」というコメントを幾人かの方からあった。またお店のルーツは推測ではなく、しっかり知りたいという声もいただいた。そんな中『軽井沢駅前旅館まるほん』上田末雄(1993年5月)という本を目にする機会に恵まれた。作者の上田末雄は1944年、丸本旅館上田家の娘の婿養子となる。つまり内部の方の書いた本であると共に、私家本のようで軽井沢図書館などにも在庫はない。
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一日は終わっても、熱と激痛が止むことはなかった。夜中はほぼ寝れず、痛みの場所も度合いも常に変化していった。痛み止めの点滴と飲み薬も使ったが、全然効かなかった。こんなことなら、今まで飲んでいた市販のロキソニンを飲ませてくれ、とさえ思った。妻も全然眠れていない様子だった。自分のこともそうだが、妻の精神状態と体調が心配だった。病院で半ベソかいていた妻の顔が、さっと脳裏をよぎる。ほぼ寝れずで朝を迎え、朝食も全く食べられなかった。その後、早い段階で主治医から
入社してから無事に一年が経過し、仕事のステージも次のステップに進んでいった。感覚的には三年くらい働いたくらいの濃密な一年であった。事業は着実に拡大し、五年後、十年後はとんでもない成長をしていると思えるくらい、会社は可能性に満ち溢れていた。これから益々忙しくなり、自分の役割と責任が増えてくるであろう大切な時期に、体の異変は起きた。いつもの様に仕事をしていると、何だか両脇腹が痛い。ズキズキするような痛みである。今まであまり感じたことの無い感覚で、場所的に肋間神経痛か?と
会社からも家族からも言われ、そして自分自身もいよいよ病院に行くべきだと思ったので、翌日の休みを使って病院に行くことを決めた。この時点で、左右の鎖骨、左右の顎、左右の頭痛神経痛と、胸から上は全て痛かった。熱も37.5℃だった。朝を待たずして夜中の三時、胸と両脇腹の激痛で目を覚ました。熱は38.1℃に上がっていた。いよいよ、ヤバい。そう心の中で呟きながら、せめて子供たちが家を出るまでは我慢しようと、痛みに耐えた。子供たちが全員いなくなったタイミングで妻に言っ
今日は終戦記念日。それにちなんだ話題です。もんじゃで知られた月島の運河に浮かぶ青い船は、旧日本海軍の「内火艇」であったという。内火艇とは日本海軍用語で船舶に積む、エンジンを備えた小舟である。戦艦など大きな船が港に接岸できない場合、両者の間を往復した。運河の船を見ると確かに鋭角な船首、一段下がった船尾側はかつて軍用艇であったことを彷彿させる。一方現在の青の塗装、上部の四角い部分も後の改造である。軍の艦船ゆえに造りが堅牢であったから、多くの修繕を経て今なお浮いているのか。今年の6月
「継之助の天皇観はそうであった。神であり神巫であるため、天皇に地上の支配権を持たせてはいけない。持たせることは天皇をけがすことになり、ほろぼすことになる。天皇が神であっても政権のぬしでなかったということが、この血脈をこんにちまで続かせてきたことなのだと継之助はおもっている。」『峠』という小説で主人公の河井継之助に語らせた言葉である。これは、作者司馬遼太郎の天皇観そのものと言っても間違いはないであろう。実は意外であるが、司馬が天皇について正面から論じたものはな
病院に運ばれてから、問診、採血、採尿、などの検査を行いつつ、7~8人の先生が入れ替わり立ち代わりで診察に訪れた。体を見てはうーん、あーじゃないこーじゃないと議論しながら、しかし、どことなく普通では無い感じが漂っていた。また、何度も問診に来ては、色々な質問をして戻っていった。神経痛ではないのか?一体、何の病気なのか?と不安がよぎりつつも、とにかくその時の私は痛みで正常な頭の働きはしていなかった。運ばれてから一時間以上は経っただろうか。その間にも最後の力を振り絞っ
「四条金吾の妻」大塚雅春「四条金吾の妻」大塚雅春潮出版社定価300円254ページ昭和46年2月15日初版発行2002年平成14年7月29日読了★★★【目次】木槿(むくげ)の人地震ふたたび吾嬬はや春の嵐男の道挑戦の日々雨乞い騒動流罪の余波氾濫山河の果てに死ぬゆえにこそ桑ケ谷問答夕焼け雲★★★乱世の鎌倉時代。念仏の家に生まれた病弱の一少女が、法華経に生命を掛ける青年武士・四条金吾との出会いに、心うたれ
私が26歳の頃顔面神経麻痺で、顔の右半分が動かなくなった時の話です。→1話はこちら→前回の話はこちらこのブログは、私『トマト』とイラスト担当の『メガネ』の2人で更新しております。→詳しくはプロフィールページをご覧ください。『顔面神経麻痺』は顔が半分動かない状態で退院します。これから先、どんな自分でもありのままの自分で生活していく必要がありました。なので、いつも通り私と接してくれたメガネにはとても有り難かったです。そして過度に心配した態度を見せなかった母も有り難か
体調も少しずつ復調の兆しを見せてきたので、五月末の一時退院に向けて着実に準備は進められていた。何を食べよう、どこに行こう、そして何を食べよう。そんなことばかり考えていたが、目下、私の敵は薬のグオングオンと便秘との闘いだった。人生の中で便秘など一度もなったことの無い私にとって、便秘は未知なる生物で対処法が全く分からなかった。数種類もある下剤を入れ替わり立ち代わり飲んでは検証し、出るのはほぼ水下痢。一日に何度も下痢に悩まされるのである。いかにステロイドが強力かを示
私が小学校1、2年生の頃、友達がいなかった頃の話です。→1話はこちら→1つ前の話はこちらそして私はお友達が出来ました。本当に、たったこれだけで友達が出来たのです。でもそれは、当時の私には勇気がいる行動で、そしてお友達になってくれた女の子の事は今でも忘れられません。もし!その子に!今出会えるなら!本当にありがとう!と伝えたいです!次回からは、今だから思う当時の事や、小学3年生でやった友達と仲良く居られる為の事などを書いていきます。もう少しお付き合いください。→続き『【14話】
プレドニンに加え、スプリセルという薬が一種類増えた。先に申し上げた通り、私の場合はフィラデルフィアの妖精さんが来てしまったので、この薬を服用しないといけない。この薬が厄介で、脱力感、気持ち悪さが副作用として出てくる。同時に、猛烈な便秘も出現し、気持ち悪さが拍車をかける日々が続いた。眠いのだが、眠った瞬間、頭がグオングオンしてきて眠れない。寝ては起きてを繰り返し、何とか抜けてくれるのを待つのである。昼前に終われば御の字だが、夕方まで症状が続くこともある。便
心配していた白血球の数値もこの日を境にぐんぐん下がり始め、プレドニンが効き始めてきたようだ。ひとまずホッと胸を撫で下ろした。不思議なもので、あれだけどの痛み止めも効かなかった頭痛神経痛も、いつも間にか痛みがなくなっていた。ステロイドの効果である。やはりドーピングってのは違反なんだなと感じる。そんなこんなで、体の症状も落ち着き、私の精神状態も平静を取り戻してきた。入院してからの日々、重大な出来事が起きていたことは認識していたが、とにかく体の辛さでまともに取り合う
連合国軍最高司令官に任命されたダグラス・マッカーサーは1945年8月30日、厚木飛行場に降り立った。そして日比谷の第一生命館(第一生命ビル)に司令部を移すことを決め、9月17日に東京のアメリカ大使館に公邸を移すまでの3週間ほどの横浜滞在については「マッカーサーの横浜の宿舎を探し歩く」としてすでに紹介した。執務室が横浜ニューグランドホテルにあったことは明白だが、宿舎はあまりはっきりしないようである。興味のある方はご一読いただけると幸いだ。こちら一方東京については滞在期間も長く、情
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私が小学校1、2年生の頃、友達がいなかった頃の話です。→1話はこちら→1つ前の話はこちら今日からは小学2年生の話になります。→続き『【9話】友達がいなかった私。』私が小学校1、2年生の頃、友達がいなかった頃の話です。→1話はこちら→1つ前の話はこちらすみません。当時の事は今でも上手く言葉に出来なくて。そんな事があった。…ameblo.jp【完結しているシリーズ】→ピルを服用していた6年間。私が若い頃、ピルを服用していた体験談です。→顔の右半分が全く動かなくなった時。26歳の
急性リンパ性白血病とは、早い話が血液のガンである。成人の場合、10万人に1人が発症すると言われている。この確率を聞いて、私が慌てて宝くじを大量購入したのは言うまでもない。話を続けよう。ある日突然、遺伝子レベルの異常が起こり、白血病細胞なるものが骨髄中で増殖し、骨髄を占拠してしまう。そうすると、正常な血液細胞が作られなくなり、治療をしなければ、短期間でヒトの命を奪うことになるのである。原因は全く分かっていない。遺伝子レベルの誤作動とは言え、遺伝されるもので
千代田区三番町の駐日ローマ教皇庁(バチカン)大使館の建物が、間もなく取り壊されると聞いて慌てて訪問した。皇室関係の建築を多く手がけた木子幸三郎が設計し、元は味の素の社長だった鈴木忠治の邸宅であった。戦前は1933年の竣工である。門柱からは「駐日ローマ法王庁大使館」と書かれたプレート(日本語とイタリア語?)はすでに撤去されている。また柵は撤去作業に向けて、蛇腹の様なものに取りかえられている。門から右は石壁が続く。この辺りに最後まで残った洋館が、高層ビルになってしまう。この建
私が小学校1、2年生の頃、友達がいなかった頃の話です。→1話はこちら→1つ前の話はこちらすみません。当時の事は今でも上手く言葉に出来なくて。そんな事があった。という漫画しか描けません。ここで上手い事が書ければいいのですが…すみません。もう乗り越えた事なのですが、とても辛い経験でして。文字にして当時の事を書けるほどでは無かったみたいです…。この話の最後に、全てまとめて書きたいとおもいます。→続き『【10話】友達がいなかった私。』私が小学校1、2年生の頃友達がいなかった頃の話です。→
「母の舞」池田大作「母の舞」池田大作ハードカバー聖教新聞社定価952円301ページ2000年1月2日発行2000年1月3日第2刷2000年平成12年1月4日読了★★★【目次】はじめに幸の詩「女性の世紀へ」大切なお母さんに贈る<1>「女性の世紀へ」大切なお母さんに贈る<2>「女性の世紀へ」大切なお母さんに贈る<3>「女性の世紀へ」大切なお母さんに贈る<4>「女性の世紀へ」大切なお母さんに贈る<5>母の舞母の心、父の心・創
だいぶ体調も復活の兆しを見せ、改めて自分は入院していることを実感した。ふと思い出したのは、今から三十五年くらい前だろうか。まだ幼き頃におたふく風邪をこじらせて、大きな病院に入院したことがあった。入院前の最後の診察に母親と行った時、先生の言葉が今でも忘れられない。「これは、入院ですね」。そう言われた少年は、入院という言葉の正確な意味はわからないが、何となく良くない言葉だと瞬時に察知し、涙が込み上げてきたことを思い出した。あの年齢で、大人に混じって大部屋で過ごした
私が小学校1、2年生の頃、友達がいなかった頃の話です。→1話はこちら→1つ前の話はこちら私の暗い小学一年生生活は、これで終わります。来週は当時の私の習い事の話になります。→続き『【6話】友達がいなかった私。』私が小学校1、2年生の頃、友達がいなかった頃の話です。→1話はこちら→1つ前の話はこちら今日、明日は番外編です。2年生の話の前に当時の習い事の話をさせて下さい…ameblo.jp【完結しているシリーズ】→ピルを服用していた6年間。私が若い頃、ピルを服用していた体験談です
「指導の泉」和泉覚「指導の泉」和泉覚聖教新聞社定価460円269ページ昭和54年2月11日初版発行1990年平成2年5月読了★★★【目次】発刊にあたって聖教新聞社文化部第一編和泉副会長の相談室<第一章信心の基本について>願いが叶うためには悩みの解決のためには相手を変えるためには願いのかけ方は信心したのに功徳がない勤行の姿勢及び御観念文の姿勢について勤行に途中から加わった場合は酒気をおびての勤行は古い経本、念珠の