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<ドイツ1>『戦後初の渡欧者を求めて』シリーズは前回フランス編をアップしてから、少し間が空いてしまったが、次はドイツである。ドイツに戦後も残留した邦人については筆者はすでに発表している。(「敗戦ドイツの首都に残る」参照)その敗戦国であるドイツへの最初の渡航は、「(1949年)7月7日西ドイツルール重工業の中心部デュッセルドルフ、デュイスブルグ、エッセン地方に向かう。戦後来訪した最初の日本人一行ということで、歓待を受けた。」とスイスの片山哲の欄で書いた。しかし前年1
(つづき)2009(平成21)年3月、インフルエンザに感染。その後、怠さだけが抜けない生活が続いていた。身体が重いのに無理を重ねていたことも拍車をかけていたと思う。短期間に何度も何度も現れたが、それを周りに言うことはほとんどなかった。なぜ言わなかったのか。その理由はやはり《信じてもらえないのではないか》という気持ちが強くあったこと、そして《なぜこんなことになっているのか分からなかった》からだ。いくら優しい人とはいえ、いきなりそんなこと言われても、恐らく信じられないだろう。実際体調不良
こんにちは、さとみです。今日は、堀川惠子さん著『透析を止めた日』を読んだ感想を書かせていただきます。読み進めるうちに、何度もページをめくる手が止まり考える事が沢山ありました。タイトルの「透析を止めた日」――その言葉の重みは、ただの医療行為の中止という意味ではなく“人生の最期をどう生きるか”という切実な問いかけでもありました。私が、この本を手に取ったきっかけは私自身が腎臓移植を経験し、腹膜透
(つづき)三ある日、学校の校外学習で犬山のリトルワールドに行った。世界の文化を学ぶことが目的だ。その日の朝からずっと気分が悪かった。それでも母が「最後なんだから、行っておいで」と送り出した。また出た。「中学生最後の思い出」である。それが体調が悪い人間にとって、どれだけ心理的負担になるか…。考えたこと、ないんだろうな…。学校近くの公園からバスに乗り、犬山へ向かう。その間もずっと気持ち悪く、顔色も悪い。隣に座っていた小学時代からの友達A君が、心配そうに声をかけた「大丈夫?
先日軽井沢駅前食堂「まるほん」の歴史というタイトルで、文章をアップしたら、かなり多くの人にお読みいただきまた、「自分もまるほんがすき」というコメントを幾人かの方からあった。またお店のルーツは推測ではなく、しっかり知りたいという声もいただいた。そんな中『軽井沢駅前旅館まるほん』上田末雄(1993年5月)という本を目にする機会に恵まれた。作者の上田末雄は1944年、丸本旅館上田家の娘の婿養子となる。つまり内部の方の書いた本であると共に、私家本のようで軽井沢図書館などにも在庫はない。
軽井沢駅北口を出て、ロータリーの右側にあるのが昔ながらの駅前食堂、「まるほん」。ここは筆者にとって軽井沢での調査を終え、新幹線に乗る前に早い夕食をとるために寄るところ。駅構内のお店、駅弁などより良い。特に価格が観光地価格ではなく良心的だ。識者から「このお店は古いです」と聞いていた。今回興味を持って店内を見たら、古い写真が飾ってあった。そしてそこには興味深い事実が。まず「丸本旅館」という看板が建物に掲げてある。ひらがなで書く「まるほん」は元は旅館で「丸本旅館」という名の駅前旅
(つづき)4月になり、三年生に進級したが、食欲不振は相変わらずだった。それでも一学期は何とか学校に行けていた。老体ならぬ、体調不良に鞭打つ状態で登校していた。残っていたたった二つの気力だけが原動力だった。一つ目が坂本九。三年生になっても何かと理由をつけて九さんの新しいCDを買ってもらっていた。その中に「夕やけの空」という曲がある。九さんは歌手活動の傍ら、司会や舞台・映画・ドラマへの出演もしていた。今でいう「マルチタレント」というものである。そんな九さんが出演していた番組の中に
スイス人建築家マックス・ヒンデルのにわか追っかけとなった。先日の彼の旧自邸に続き、神保町のカトリック神田教会を訪問。教会のルーツは1872年に遡るが、ヒンデルが設計した現在の聖堂は関東大震災後の1928年に完成した。第二次世界大戦の空襲からは焼け残った。大通りから一本中に入った所で、道路に囲まれた一角を長方形の趣ある建物が占める。印象的なのは、薄茶色の外壁である。周りの建物に逆らうような風格で、まさに時代をタイムスリップした感覚を覚える。(外観はロマネスク様式と呼ぶらしい)さすがマック
私はクリスチャンではないが、昨日は弔意を表す記帳しに、ローマ法王庁大使館を訪問した。最近、「駐日ローマ教皇庁大使館の建物」同「パート2」など、戦前からの同大使館の推移について、調べていた縁からである。大使館にはバチカンの国旗が半旗で掲げられていた。入口横で記帳を済ませた。帰りに気づいたが、通りにはNHKなどのフィルムクルーとSPらしい人の姿もあった。報道によると、この後石破首相が記帳に訪れた。首相はもちろんここではなく大使臨席の中、大使館内部で記帳している。国としても大きな出来
(つづき)一二学期に入ると、合唱コンクールの練習が本格化してきた。僕たちの組も少しずつ仕上がっていく。そんな中、担任の先生が僕にお願いをしてきた。「九さんのCDを貸してくれない?」どうやら先生も、坂本九が歌っていたというところが気になっていたらしい。僕の推し活が始まったことが先生にとってラッキーな出来事だったのだろう。僕は二つ返事で貸し出した。練習が始まってしばらくして、僕に思いもよらない事態が起こった。《合唱に対する不満》が膨らんでいったことだ。合唱では基本、楽譜に書
スイス人の建築家、マックス・ヒンデル(1887年-1963年)はスイスのチューリッヒ出身の建築家で、1924年に札幌に移住し、北海道における「近代建築の開拓者」と言われる。チューリッヒはかつて筆者が暮らしたことのある都市で愛着を感じている。1927年には横浜本牧に自宅兼事務所を構えたが、1940年第二次世界大戦中のドイツに帰国する。こうしてその間に関東地方にも彼の設計の建築物が出来るのだが、筆者に所縁のあるのは次の2棟だ。1上智大学1号館。1932年に竣工で2024年、東京都選定歴
ご訪問ありがとうございますヒーラーの卵だった10年少し前に書いていたブログを書き直してアップすることにしました(実は、10年ぐらい前からスピリチュアルヒーリングのお仕事をしています)実際に私の身に起こったお話です日常に潜むリアルなホラー、オカルトですそして、ヒーリングですこの実話は、以前のブログ、エネルギー調製は波動調整とおなじこと?と関連しています以下、以前のブログより記載引っ越したら、霊道があった!~ヒーラーの卵だっ
漫画は妹が描いています!上手くいかないという現実はどんな風に変化するかのヒントになれば嬉しいです!私が「年下が良いんじゃない?」とアドバイスしても本人は「年下ないわー」ってなるのは妹の変化したくない意識(この時は婚活苦しい、大変っていう現状から変化したくない意識)が強くて変化を拒むので「年下」にピンとこない。これが「どんどん変化してやるぜ!」っみたいな意識になっていたら「年下ありかもー!」となっていたはずです。素直な人は変化早いと私はよく言ってますが、素直な人は凄く単純に「そういう道
(つづき)1997(平成9)年6月23日。愛知県一宮市にある産婦人科で、大きな産声をあげた一人の男の子。それが僕。小さい頃はまだ元気で、特に大きな病気などもなく、走ったり、ボールを蹴ったりすることが大好きで、138タワーパークの園内でたくさん遊んでいた。それが根本的に変わったのが、保育園に入って一カ月半ほど経ったある日。水疱瘡、すなわちヘルペスウイルスに感染したことだった。水疱瘡自体はしばらくして治ったが、その後も倦怠感が続くようになる。特に労作後のそれは酷く、あんなに大好き
すでに発表した1部(西村ヨネ)、2部(スイス編)に続いて、第3部はフランスである。フランスは熱烈なフランスファンも多く、戦後間もなくから渡仏の動きがある。そして1948年と書くのが最初の様だ。その理由は後ほど説明する。チェルビ菊枝幼少のころからパリにあこがれたチェルビ(加藤)菊枝は、戦時中もパリに留まり、終戦後初のフランスからの個人の引き揚げ者であると同時に、最初の渡仏者であった。1947年年3月28日、まだフランスにいた菊枝はマルセイユでフランス郵船シャンポリオン号に乗り、ベト
連続ブログ小説『推いた人』第2話を更新しました記事はこちらからご覧ください第2話『《第二話》出会い(2)』(つづき)そんな時に起きたのが、未曽有の大震災だった。当時、学校の四階の音楽室で音楽の授業を受けていた。その序盤から歌えなくなるほどの吐き気に襲われていた…ameblo.jp前回第1話はこちらから第1話『《第一話》出会い(1)』一キーンコーンカーンコーン一宮市の中心部にある中学校。『中中』という呼び名で親しまれてきた、歴史ある中学校だ。その中学校の二階。まる
(つづき)そんな時に起きたのが、未曽有の大震災だった。当時、学校の四階の音楽室で音楽の授業を受けていた。その序盤から歌えなくなるほどの吐き気に襲われていた。(なんでこんなに気持ち悪くなるんだよ…)と思いながら、何とか堪えていた。合唱曲にして卒業でも歌われる「そのままの君で」という課題曲を練習していた。その途中で一回休憩がてら、席に戻ることがあった。それからの記憶はあまりない。起きながら夢の中にいたからである。先生が演奏するピアノの音色が、ぼーっとしながらも確かに耳に入ってい
ある方から「素晴らしい眺めの場所があるから行きましょう」と案内されたのが北仲ブリック&ホワイトの46階の展望フロア。マンション、店舗などが入る高層ビルだが、このフロアだけ無料で利用でき、素晴らしい眺望を楽しむことが出来る。横浜三塔を上から見下ろせる。小さな赤い矢印の左から横浜税関本関庁舎(クイーン)、神奈川県庁本庁舎(キング)、横浜市開港記念会館(ジャック)の3つの歴史的建造物の塔である。これまでは港側のしかも限られた地点からしか、三塔は写真に収めることは出来なかったと思う。その後
4月になりました。今月もよろしくお願いします4月に入って早速ですが、ブログ連載を始めました!!【連続ブログ小説】推いた人【連続ブログ小説】推いた人~昭和100年、時代を超えた友情物語~【連続ブログ小説】推いた人~昭和100年、時代を超えた友情物語~さんのブログです。最近の記事は「《第一話》出会い(1)」です。ameblo.jp1日に第一話を公開しました全22話…と思っていましたが、どうやら増えそうです(笑)どれだけ増えるかは分からないので、おおよそ30話近くということで…この物
静岡県富士宮市🗻心の叫びを読み解き本来のヒカリを取り戻す✨ヒーリング&メンタルケアサロンyutorira~ゆとりら~身体・心・魂すべてを癒し繋ぐトリニティヒーラー渡邉沙緒里(わたなべさおり)です。例年以上の寒暖差が激しい2025年春。夏日みたいな暑さがあったり、真冬のような寒さが戻ったり…心身共に応える気候です。季節の変わり目は体調崩しやすいですから、どうぞご自愛くださいませ♡昨日4/1からこれまでメールレッスンとして配信していたかつて多
パート1に続き、1951年9月8日に日本がサンフランシスコ条約を締結し、国際社会に復帰する前に欧州に向かった日本人について述べる。パート2はスイスである。スイスは中立国であったから、1945年8月の日本敗戦後も、翌年1月に欧州の中立国に残る邦人に対して、マッカーサー元帥の名前で引き揚げ指令が出されるまで、日本人の行動は大きな制限を受けなかった。朝日の笠信太郎はジャーナリストの資格を保持することが出来た。そういう国ゆえか、新たな受け入れの間口も広かったようだ。スイスの公文書館に「日本
一キーンコーンカーンコーン一宮市の中心部にある中学校。『中中』という呼び名で親しまれてきた、歴史ある中学校だ。その中学校の二階。まるで離れ小島のようにぽつんと一クラス。その教室が、僕がこれから一年間過ごす教室だ。しばらくすると、始業式が始まる時間になった。廊下に整列し、体育館へ移動する。全校生徒が揃うと、式が始まった。式の中で、新しい担任の先生が発表される。驚いたことに、その先生の名前は、とある有名人と同姓同名だった。その事実を知ったのは、一年前に入学し、社会の教科担当
静岡県富士宮市🗻心の叫びを読み解き本来のヒカリを取り戻す✨ヒーリング&メンタルケアサロンyutorira~ゆとりら~身体・心・魂すべてを癒し繋ぐトリニティヒーラー渡邉沙緒里(わたなべさおり)です。今日から4月。2025年度のはじまりですね。それぞれの生活スタイルによってはじまりの差異はありますが、はじまり・スタートエネルギーに対する想いもまたそれぞれ。我が家もこの4月から子供たち全員3年生へ進級。専門学校3年生はいよいよ就活、高校3年生は学
<序>1945年8月の日本の敗戦で、欧米の在留邦人は原則、全員が日本に引き揚げた。そして1951年9月8日、日本は米国など48カ国とサンフランシスコ条約を締結して、戦争状態を終結させることが出来た。同時に海外には再び日本の大使館が設置されこれ以降、海外渡航が再び可能になったといえる。もちろん厳しい外貨の持ち出し制限などは残る。ではパスポート取得の第1号は誰か?日本が国際舞台に復帰した1951年、現行の旅券法が制定され、日本に旅券の発給権が回復した。そうして戦後のパスポート第1号は、サンフラ
【火曜日は本の情報をお届けします】こんばんは🌝今日は通勤中に袴姿の方を4名、帰宅中に花束を持った方を3名見かけました。春ですね…!😭✨🌸卒業、入学、就職、転職…それぞれの転機を迎えたみなさん、おめでとうございます。これからの人生が光輝く素敵なものでありますように🙏✨さて、そんな今日は、人生の転機を予想だにしない形で迎えられたある女性にまつわるドキュメンタリー本をご紹介します📖細田昌志さんの『力道山未亡人』です。みてください…帯の文章👀遺された負
連合国軍最高司令官に任命されたダグラス・マッカーサーは1945年8月30日、厚木飛行場に降り立った。そして日比谷の第一生命館(第一生命ビル)に司令部を移すことを決め、9月17日に東京のアメリカ大使館に公邸を移すまでの3週間ほどの横浜滞在については「マッカーサーの横浜の宿舎を探し歩く」としてすでに紹介した。執務室が横浜ニューグランドホテルにあったことは明白だが、宿舎はあまりはっきりしないようである。興味のある方はご一読いただけると幸いだ。こちら一方東京については滞在期間も長く、情
先の『1938年ヒトラーユーゲントの鎌倉訪問』の中で紹介した鎌倉海浜ホテルであるが、筆者はこれまでも何カ所かで紹介してきた。元はドイツ人との繫がりを調べる中で登場してきたのだが、その内に戦前鎌倉の近代ランドマークと自分の中で位置づけるようになった。本編ではその誕生から、終焉までを紹介するものである。<生い立ち>鎌倉駅方面から若宮大路を由比ガ浜訪問に向かい突き当りの左、現在の鎌倉海浜公園(由比ガ浜地区)にそのホテルはあった。元は1887年(明治20年)、長与専斎によって開院された
1936年11月に日独防共協定が締結された。両国の関係強化の一環として、ドイツから派遣されたのがヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団)の一行30名であった。1938年8月16日から10月1日までの全滞在が89日の長い旅程で、1道3府25県、日本全国まさに津々浦浦各地を訪問した。東京はまだ東京府であった。筆者はすでに彼らの軽井沢の訪問について書いたが、本編では鎌倉を中心とした訪問について述べる。そこには今にも続く国際交流の難しさが表面化したり、今読んでも興味深い出来事であった。各県の