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「くもをさがす」西加奈子カナダでがんになった西加奈子さんのノンフィクション。私は闘病、という言葉をやめていた。「病気をやっつける」という言い方もしなかった。これはあくまでも治療だ。戦いではない。たまたま生まれて生きようとしているがんが私の右胸にある。それが事実で、それだけだ。カナダの看護師の言葉が胸に刺さる。「カナコ、がん患者やからって喜びを奪われるべきやない」本の中でのカナダの人たちのセリフが関西弁で表現されててがんの話だけど時々クスッと笑わせてくれる。そんな
今年も本の出版にこぎつけました。著者通算10冊目で、『心の糧(戦時下の軽井沢)』シリーズの第5弾。本編では関係者の話を元に書き上げた「萬屋旅館から佐藤靴店」、「脇本陣の伝統を引き継ぐ江戸屋」など旧軽井沢の歴史と、軽井沢駅前食堂「まるほん」を中心とた新軽井沢の発展の歴史を、対比しつつ書き上げている。「まるほん」はルーツである小諸の本陣にまで遡って徹底的に調査をし、自身をまるで「追っかけ」と称する。また史料に基づき「チェコ公使館はどこだ?」として、堀辰雄の小説『美しい村』で語られる当時の
第一次世界大戦中、敵国人となったドイツ人が30人、軽井沢で夏を過ごしたことは第一次世界大戦下ドイツ人捕虜の妻が過ごした軽井沢で紹介した。それに続く話を軽井沢を愛した作家、堀辰雄の『狐の手套(てぶくろ)』(1936年刊)に見つけた。一部現代語に直して紹介し、コメントを加える。「一つの丈の高い、小さな森が、K(軽井沢-筆者)村からずっと北方に、それだけがなんだか原始林のまんま取り残されたように、立っています。町の中心から2キロメートルくらいも離れていましょうか。小さいになりに、昼
第一次世界大戦は1914年7月28日に欧州で勃発し、日本は8月23日にドイツに宣戦布告した。日本軍とイギリス軍は遼東半島の青島のドイツ軍の要塞を攻撃し、約4700名のドイツ軍およびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵および民間人は捕虜として日本に連れて来られて、12か所に開設された俘虜収容所に収容されたのであった。収容所のひとつ習志野収容所の、ドイツ俘虜オーケストラの碑これに関連し、当時の新聞に興味深い記事を見つけた。一部現代語に直して紹介し、筆者の考察を加える。最初は
本紹介24冊目今回はこちら。タイトルだけだと「戦争系?」「ミステリー系?」と思ってしまうけど、夫婦の物語!それも思いっきり濃厚な~。『死の棘』島尾敏雄新潮文庫思いやりの深かった妻が、夫の「情事」のために突然神経に異常を来たした。狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻、ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。狂乱の果てに妻はどこへ行くのか?―ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見
師走に入りホテルニューグランドを訪問。といっても撮影のためで宿泊のためではありません。私が一番好きなのはこの角度から。丸みを帯びたコーナーには開業年の1927年を表す「AD1927」を刻んだ石造のメダイヨンが据えられている。その上の3階の角部屋は、終戦直後に厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥が直行し、最初に宿泊した部屋。今も彼が使用したライティングディスクと椅子が残されている。ホテル前の銀杏並木には少なくなったが、紅葉した葉がまだ残っている。クラシカルホテルゆえか、華美
まいど!しんちゃんです🎵のれんくぐってくれておおきに🤗だいぶ前の記事にも書いたことあるけど、オレのじいちゃんは船乗りやったんよ。20歳から40歳までの20年間、商船の経理の仕事で、世界中の港町を渡り歩いてたんやって。ひとつの港町、たとえばニューヨークならニューヨークに着くと、約3ヶ月は滞在することになるってゆうてたわ。もちろん英語もそこそこ話せるようになる。ところが。《だいぶニューヨークも
夏に訪問した長野県の小諸駅。この時は小諸の元本陣などを訪れて「小諸の古い町並み礼賛!」という文章を書いた。こちら駅前を見回しても、全国的に展開しているコーヒーチェーン、レストランなどが見えないのが嬉しかった。しかし小諸駅といえば小淵沢とを結ぶ小海線の起点でもある。かつてSL小僧として撮り歩いた路線だ。古い写真を引っ張り出してみた。1970年ころである。新宿から夜行列車に乗り小淵沢駅で降りて、同駅を出た小海線がカーブを描いて八ヶ岳方面に向かう築堤まで歩く。まだ夜明け前で待つこと
早見和真さんの“あの夏の正解”(新潮社)を読みました!結論から書くと、読後感がとてもよかったです。読みおわったあとにわたしまで少し成長できたような気がした。そのような読書体験は初めてです。ほかに早見和真さんの本は、今年の本屋大賞第2位の高校野球をテーマにした小説“アルプス席の母”を読んだことがあります。『甲子園を目指す母と息子の物語“アルプス席の母”』早見和真さんの“アルプス席の母”を読みおわりました!息子の航太郎が野球の強豪校に入り、甲子園に出場した母親の菜々子が主人公の物語。
銀座7丁目の電通銀座ビル。1933年の竣工で、8階建ては当時銀座随一の高さであった。1936年に電通の報道部門を引き継いで当時日本最大の通信社となった「同盟通信」のオフィスが入った。事実上の国策通信社であった。ビルの最上階8階はロイター、AP、UPなど有力な国際通信社をはじめ、各国の特派員が支局を構える専用フロアであった。そしてヴァイス博士が支局長のDNB(ドイツニュース)も入っていた。ソ連のスパイであったリヒャルト・ゾルゲは、ドイツの主要紙「フランクフルター・ツァイトゥング」
横浜中華街にある関帝廟には多くの人々から尊敬される武将、関聖帝君が祀られていて、現在の建物は4代目で1990年に開廟式を迎えた。カラフルでエキゾチックな建物には思わず足を止めてしまう。今回訪れたのは、ブログの友達が初代関帝廟と見られる遺構が発見され、2024年からその一部が常設展示されていると書いていたからである。ありがとうございます。建物横の中山路沿いにある。シートの上の破片のみではなく、左側の石柱、床の石なども出土品である。そんな時にふと横を見ると、寄付者の名簿の中
森鴎外の『舞姫』はドイツへ留学した主人公が、ドイツ人の貧しい踊り子と恋仲になる小説だ。しかし実生活においても鴎外が留学から1888年9月8日に戻って4日後の9月12日、ドイツ女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日する。そして親族らが説得して、彼女は10月17日にエリーゼは横浜港から帰国する。4日後に到着というのは、当時の旅行事情などを考慮すると、鴎外のドイツ出国前から周到な準備をしていたことを窺わせるが、それは今回のテーマではない。筆者が注目したのは「現代語訳舞姫」(井上靖訳)の解説に
筆者はこれまで、戦時下のドイツ人の宣教師の活躍はカトリックがほとんどで、プロテスタントはほとんどいないと述べてきた。そんな中、神戸はプロテスタントが主体であったという情報に接した。その中心は現在は神戸市灘区にある「ドイツ語プロテスタント教会神戸大阪」で、神戸唯一のドイツ人の教会である。建物は今も英語系の神戸ユニオン教会堂と共有で使用している。現在は灘区にあるが、1929年三宮から新神戸に向かう坂の途中にW.M.ヴォーリズ設計により、ゴシックスタイルの教会が建てられた。阪神・淡路大
千代田区平河町にある砂防会館(さぼうかいかん)の入口には、綺麗に手入れのされた碑とソテツの大きな木が植えられて、どこか南国の雰囲気を醸し出している。碑には次のように書かれている。「一蘇鉄樹齢約300年ルドルフレーマン(RudolfLehmenn)を記念して贈呈昭和10年(1935年)6月24日レーマン家」ルドルフ・レーマンはドイツ人の造船技術者、機械工学技師で明治維新の翌年である1869年に来日する。1877年(明治10年)には『和独対訳字林』を校訂し、これが
ミラノ・コルティナ冬季オリンピック開始まであと100日程と報じられている。これから徐々に盛り上がってくることでしょう。コルティナ(コルティーナ・ダンペッツォ)は標高1200メートルの登山やウィンタースポーツの拠点となるリゾート地である。筆者にとってここは先の大戦の後半、ローマの日本大使館の疎開先となった場所として印象深い場所である。1943年7月9日に連合軍がシチリア島に上陸した。7月25日、ムッソリーニは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に「統帥権の国王への返還」報告したその場で身柄
私の講演会のご案内です。演題:日本のドイツ人の歴史~戦時下の横浜、湘南、軽井沢を中心に~日本に暮らしたドイツ人、ドイツ系企業について、私たちはどれだけ知っているでしょう?例を挙げると横浜の外国商社第一号はドイツ系クニフラー商会で、現在もイリスとして活動しています。日本開国以来、拡大してきたドイツ人社会は第一次世界大戦の敗戦、関東大震災、ナチス政権の成立から崩壊、内外の出来事をどう乗り越えてきたかを地域別にみていきます。・講師:大堀聰・日時:11月15日(
元町から代官坂を山手に上っていく途中にあるのが、昔の横浜村名主石川徳右衛門の『代官屋敷』の一部。1854年、ペリーが横浜村に上陸し住民の暮らしぶりを視察したおりにこの屋敷を訪れ、徳右衛門が供応したという。横浜港の開港が1859年、それより5年も前にアメリカ人がこの場所を訪問したという史実に驚く。1見尻坂元町に近い辺りで旧山手居留地を考えると、まず思い浮かぶのが見尻坂の入口辺りの境界石。1899年に居留地が廃止される前の標識である。手前のふたつの四角い石で、右が道路境界石、(住
【紹介】今回は,吉村昭さんの小説「羆嵐」の紹介です。1915年に北海道で起きた獣害「三毛別羆事件」をベースにしたドキュメンタリー小説です。刊行は1982年,初読は2016年です。羆嵐(新潮文庫)Amazon(アマゾン)【あらすじ】1915年12月,北海道の開拓村である苫前村三毛別の集落に,突如巨大な羆が現れた。羆は何日かかけて集落を襲い,次々と7人もの村民を喰い殺した。途方に暮れた村民たちは,熟練の猟師・山岡銀四郎に羆の討伐を依頼する。【レビュー】※以下,わずか
今日、隣人が騒ぎを起こした。静寂に包まれたはずのアパートが、突如、舞台のようにざわめき立った。警官が2人、顔色の曇ったスーツの男たち、知らない女までやってきて、階段を上がる足音が妙に大げさだ。ああ、ここは高級マンションじゃないのに、どうやら住人はVIP待遇らしい。部屋の隣からはうめき声が響く。「助けてくれ」「やめろ」と言っているのか、何を言いたいのか一向に分からない。だいたい、他人の悩みを熱心に聞いてやるほど、こちらは親切じゃない。さすが高齢者、朝から晩まで賑やかで退屈しない。騒ぎが
1回目の授業では、筆跡診断で何がわかるのか?まず、彼女たち(6名)に、指定した文字を書いてもらった。(※6名は・・・20代~40代、罪は、窃盗・薬物・詐欺・薬事法違反等)↓「大阪花子様」この5文字から、彼女たちの性格、行動傾向、文字を書いたとき(今)の心理をその場で伝えた。もちろん、全員の前(刑務官もいる状況)で伝えた。彼女たちは、皆、同じ部屋で生活しているため、次第に、お互いの性格と言うものが見えてくる。しかし、心の奥底にある心理というものは本人にしかわからない。中に
新日本橋地区(鍛冶町)も近代建築が残っている。先日訪問した日本橋三越本店なども近くに見えて、戦前建築のよく残る街であることを再認識。丸石ビルディング竣工年:1931年(昭和6年)日本では珍しい中世・ヨーロッパの香り漂うロマネスク様式の見応えのあるオフィスビル。現役のビルで人の出入りが当然ある。路上駐車の車を避けて撮ると下が切れ、こんな感じなのが少し残念。立派なエントランス。ライオン像がある。エントランスの横で電話している人、私が撮影しようとしても全然どいてくれずに、ずっ
noteにて、私の家の話#12|「口コミがほぼ満点!?怪しすぎる雑居ビルで発掘した中国出身のゴッドハンド整体師。」を投稿しました!(毎週金曜日更新)今週の記事はこちら▼(無料記事)私の家の話#13|口コミがほぼ満点!?怪しすぎる雑居ビルで発掘した中国出身のゴッドハンド整体師。|夕起あずさ|AzusaYukiかれこれ数年通い続けているマッサージ店がある。どうしてその店に行き着いたかというと、まだ30歳そこそこだった頃の私はデスクワークで毎日体がバッキバキで
拘置所の中での最初の授業薄暗い会議室・・・私は、ホワイトボードの前に立った目の前には、長テーブルが3列並んでいた私の目の前(前列)には、3人の女性が間隔を空けて座っていた彼女たちは、20代、30代、どこにでもいるふつうの女の子可愛らしく、あどけない姿が印象的だった彼女たちは、窃盗や薬物で塀の中に入ってきた2列目も3人が座っていた皆、40代の女性、彼女たちも、どこから見てもふつうの女性落ち着いていて、皆、人当たりが良いという印象だった彼女たちは薬事法違反、詐欺で塀の中に入っ
闘病の中で、自分が暮らしている街・一宮を描いた曲もある。昔から好きな「一宮七夕まつり」や、最近始まった「だいだいフェスタ」など、様々なイベントを題材に曲を作ってきた。中には、大津に依頼して作ったものもある。その中で良曲と思えるものの一つは、やはり「ミヤイチ・ブギ」だろう。この歌は、数年前に放送された朝ドラ・ブギウギに触発されて作った曲で、一宮市の様々な魅力を書いている。この曲の歌詞を書いているうちに、自由に書き換えることができることに気付き、四季を軸としてその時々に合う歌詞を合わせなが
先日2校紹介した復興小学校だが、今回中央区立常盤小学校を訪問して3校に。中央区立常盤小学校1929年の竣工。落ち着いたトーンの壁で、角の丸み。これまで見てきた2校とほぼ同じだ。敷地内には、第二次世界大戦時の防空壕が残っていて、現在は防災訓練などに使用されているとのこと。戦争の時代を生き延びてきたことが窺える。生徒数は300人程度と、都心のためか意外と少ない印象。東京都選定歴史的建造物、経済産業省近代化産業遺産に指定されている。(2025年9月29日追加)サイドビュー
こんばんは!脱三日坊主のきのこです(すぐ調子乗る)『はじめまして』はじめまして!!3歳の男の子と0歳の男の子と4歳のマメルリハの男の子のママでゲーム大好ききのこと申します3歳の長男が幼稚園に行ってる間なにかできないかなとブロ…ameblo.jp訪問いただきありがとうございます!前回のお話『足がぞうになった話3』はじめまして!!きのこはこんなやつ『はじめまして』はじめまして!!3歳の男の子と0歳の男の子と4歳のマメルリハの男の子のママでゲーム大好ききのこと申…a
(つづき)近くの大きな病院を紹介してもらい、肺のレントゲンと一酸化窒素の検査を受けた。結果は…。「肺には異常なしです。とても綺麗ですね。ただ…」た…ただ?「こちらの結果が、数値が高くてですね。気管支の方が悪くなってますね」「はあ…」「小さい時とか、喘息とか言われたことありますか?」「保育園の頃に、その気はあると言われたことはあるみたいです。僕はあまり覚えていないんですけど…」「そうですか。ただ、これはアレルギーでも出るので、この結果だけだとどちらかとしか言いようが
一体全体、何が変って、経験則で断言するヤツさ。年取らないと分からない。男には分からない。こんな酷い目にあったことの無いやつには到底分かるまい。こんな辛いこと、悲しいこと、経験しなきゃ、誰にも分かるものか!そりゃ全ては分かるまい。なら、こんなわたしの奇奇怪怪、アンビリーバボーなる時と交換なさります?経験して、嫌だ、なんて、返品なんぞ、出来ませんどう足掻いても羨んでも変身出来るわけもなくこの人生途中で棄権も出来るはずもなくどうしてよぉ・・どうしてこんなに嵐ばかり来るのさ!
(つづき)その名は「喘息」。アレルギーとも関係が深く、主症状である強い咳によって、肋骨が折れたり、呼吸困難で命を奪われたりすることもある、とても危険な病気だ。喘息の症状が出たのは、この年の夏。中京テレビの取材を受けていた真っ最中のことだった。そんな命の危機の中でも、岐阜まで歌いに行った。その時は、まさかそこまで命の危機があるとは考えず、すぐ治まるだろうという楽観主義のもとでの行為である。そう、前にもあった。こういう時は必ず、とんでもないことが起きている。身体の中では、病魔が我が物顔で
先日旧軽井沢のある集まりで、ある長老の方から昔の軽井沢の話を聴いた。その方が「私のバイブルはこれです」と手に取ったのが『軽井沢物語』(宮原安春)であった。もちろん私も読んだことはあるが、これまでは戦時中を中心とした部分が主体であった。今回また私の”本棚”である市営図書館で借りて読んだら、目から鱗ではないが、いろいろ再発見があり、付箋もだいぶ付いた。この本と、先の長老の話から、一つの謎に対する答えが見つかったのだ。それは旧軽井沢のメインストリートにお店を出す人の話に端を発した