ブログ記事159件
応接間には、穏やかな静けさが流れていた。窓から吹き込む初夏の風が、白いレースのカーテンをゆっくりと揺らしている。庭では幼い子どもたちの笑い声が遠くに聞こえた。その穏やかな空気の中で、テリィは静かに姿勢を正した。舞台の上なら、何千という観客の前でも臆することはない。けれど、この日だけは違った。胸の鼓動が、自分でもはっきりわかるほど早い。隣を見る。キャンディも少し緊張した面持ちで膝の上へ両手を重ねていた。ふと目が合い、小さく微笑み合う。その笑顔だけで、不思議と肩の力が抜けた。テリィは
六月末、大きな拍手に包まれて千穐楽を迎えた。劇場には最後まで熱気が残り、終演後も取材や支援者への挨拶が続いた。主演として舞台に立ち続けたテリィにとって、それは充実した日々であると同時に、次なる大作『ロミオとジュリエット』への助走でもあった。その本格的な稽古が始まるまで、テリィたちのチームは2週間ほどの休暇が与えられていた。プロポーズのあとも、二人は以前と同じように手紙を交わした。仕事の予定を確かめ合い、まずはポニー先生とレイン先生へ、自分たちの口から婚約を報告したいという手紙を重ねなが
八月のマンハッタンは、まだ夏の熱を手放せずにいた。劇場の裏口には朝から俳優や大道具係が行き交い、搬入口では、新しい背景幕が慎重に運び込まれている。ストラスフォード劇場。前年の秋に幕を開けた『ハムレット』は、一大旋風を巻き起こした。延長を重ねて二月に千秋楽を迎えたあとも熱望は止まず、再び開幕した舞台は、日に日に観客動員数の記録を塗り替えている。劇場前には、昼前から当日券を求める列が伸び、終演後の楽屋口に集まる人だかりも、途切れることがない。新聞は連日のように舞台評を掲載し、テリュース・
教会を見て回るようになってから、テリィの手紙には少し変わった話題が増えた。舞台のことや劇団の仲間のこと、ニューヨークで見かけた出来事などは、以前からよく書いていた。けれど最近は、その中に必ずと言っていいほど、二人の結婚についての話が混じるようになった。――キャンディへ。今日、また教会を見てきた。夜公演まで少し時間があったんだ。マネージャーに候補をいくつか調べてもらって、俺は人の少ない時間に中を見てる。誰かに知られて新聞にでも書かれたら面倒だから、結婚式のことはまだ伏せてもらってる。
スザナの家を訪ねたのは、夕食にはまだ早く、けれど昼と呼ぶには少し遅すぎる、曖昧な時間だった。稽古場を出ても、街にはやわらかな光の粒が残っていた。高層ビルの窓という窓が、西日を受けて静かにきらめいていた。「いらっしゃい、テリュース。今日は早いのね」ドアを開けたマーロウ夫人の声は、いつもよりほんの少し弾んでいた。居間の奥、窓辺の椅子にスザナが座っていた。膝の上に、一冊の本を開いている。伏せられた目線が、同じ行を何度も行き来していた。声を出しているわけではないのに、その姿からは、かすかに言葉
部屋には、穏やかな静けさだけが満ちていた。窓の外では、夜風がカーテンをわずかに揺らしている。互いの鼓動だけが、こんなにも近くに聞こえる。テリィはそっとキャンディの頬へ手を添えた。彼女を見つめる青灰色の瞳が、ゆっくりと細められる。「……愛してる、キャンディ」囁くたび、その想いが伝わるように。唇が静かに重なる。何度も、ゆっくりと。急ぐことなく、互いのぬくもりを確かめるような口づけだった。キャンディは目を閉じ、その優しさを受け止める。何度も唇が重なり、離れては耳元へ愛の言葉が囁かれる
翌朝。キャンディが目を覚ましたとき、窓の外にはやわらかな朝の光が広がっていた。昨夜降りていた冷たい空気はどこか遠のき、風が白いカーテンを静かに揺らしている。しばらく、ぼんやりと天井を見つめた。胸の奥を探るように、ゆっくり息を吸う。不思議だった。まだ悲しみが消えたわけではない。スザナのことを思えば、胸は今でも痛む。テリィと離れていた長い年月を思えば、切なさも残っている。けれど昨夜までのように、心が締めつけられる感覚はなかった。まるで長い間、固く結ばれていたものが、少しだけほどけたよ
改札の向こうへキャンディの姿が消えても、テリィはしばらくその場を動けなかった。人の流れだけが絶え間なく続いている。遠くに聞こえる列車の発車ベル。行き交う人々の声。駅はいつもと変わらない。やがて小さく息を吐く。そしてようやく踵を返した。劇場街へ戻る道を歩く。けれど頭の中は別の場所にあった。キャンディ……今日一日、何度その名前を呼んだか。別れてから7年経つというのに、再会したのは昨日だというのに、まるで昨日まで隣にいたみたいだった。テリィは苦笑した。本当に変わらない。自分も、あいつも、
ロンドンでの最後の公演を終え、ニューヨークへ戻ってから数ヶ月が過ぎていた。SMTでの一年は、テリィの人生を大きく変えた。『ロミオとジュリエット』は成功を収め、劇評家たちはこぞって彼の名を取り上げた。ニューヨークへ戻った今も、その余韻はまだ街のあちこちに残っている。だが、華やかな喝采とは裏腹に、テリィの日常は驚くほど静かだった。新しく借りたペントハウスもそうだった。以前暮らしていた安いアパートとは比べものにならない広さだったが、引っ越して間もない室内にはまだ開けられていない箱がいくつも
手紙は、それから何度も読まれた。最初の日は三回。翌日は二回。その次の日は一回だけ。けれど読まない日はなかった。診療所での忙しい一日を終え、部屋へ戻る。ランプに火を灯し、引き出しを開ける。そこにはいつも同じ封筒が入っていた。ニューヨークの消印。差出人は「T・G」。そして中には、テリィの手紙。文章は決して長くない。けれど行間には、言葉にならなかったものがたくさん残されている気がした。「あれから一年が過ぎた」「一年たったらきみに連絡しようと決めていた」「思いきって投函する」そして
シカゴ行きの列車へ乗り込むと、マーチン先生はすでに窓側の席へ腰を下ろしていた。キャンディの姿を見つけると、穏やかに笑う。「友だちとは会えたかね」その問いに、キャンディも自然と微笑んだ。「はい。会えました」短い返事だったが、それだけで十分だった。列車がゆっくりと動き出す。ホームが流れ、駅舎が遠ざかり、やがてニューヨークの街並みも窓の向こうへ消えていった。しばらくすると、二人の話題は自然と看護大会へ移っていた。発表の内容や質疑応答のこと。他州から来た看護師たちの研究報告のこと。
その言葉に、キャンディの目から新しい涙が零れた。前へ進んでもいい。ポニー先生の言葉は、確かにキャンディの心を軽くしていた。テリィを愛していることを、罪のように思わなくてもいい。スザナを忘れなくても、あの日の自分を否定しなくても、彼と生きる未来を選んでいい。そう思えた。けれどひとつだけ、まだ心に残っていることがあった。キャンディは涙を拭うと、しばらく俯いていた。「先生……あのときの私たちは……どうして、あんなふうに別れなければならなかったのでしょう」ポニー先生は黙ってキャンディを見つめた
映画館の中は思った以上に混み合っていた。夕方の上映ということもあるのだろう。ホールには多くの観客が集まり、上映開始を待ちながら思い思いに席へ着いている。テリィとキャンディも中央より少し後ろの席へ腰を下ろした。館内の灯りはまだ落ちていない。周囲では映画の評判を語る声が聞こえる。「最後がすごいらしいわ」「誰が犯人なのか全然わからないんですって」「エレノアの演技が素晴らしいらしいわよ」そんな言葉があちこちから聞こえてきた。テリィは苦笑する。どうやら本当に評判の作品らしい。その横でキャン
婚約してから数日後。稽古を終えたテリィは、マンハッタンの法律事務所を訪れていた。古い煉瓦造りの建物の二階。ここへ来るのは、初めてではない。あの日、テリィはロンドンから忽然と姿を消した。それはキャンディを学院に残すためだった。二人は罠にはめられたが、キャンディだけが退学になる可能性があった。アードレー家の養女としてロンドンへ留学していた彼女にとって、学院を追われることは、単に学校を辞めるというだけでは済まない。自分が退学になる代わりに、キャンディを残してほしい。そのために、テリィは自分が
団長の説明は、さらにしばらく続いた。推薦者の名前。オーディションの日程。ストラトフォードで行われる選考内容。そして、合格した場合に結ばれる契約について。テリィはただ静かに耳を傾けていた。入団した頃や再入団の頃なら、信じられなかっただろう。代役の台本を抱え、舞台袖で出番を待っていた男が、今こうしてストラトフォードへの推薦状を前にしている。もちろん浮かれてはいない。推薦は入口に過ぎない。本当の勝負はこれからだ。それでも――心のどこかが震えていた。幼い頃、遠い世界の出来事だと思ってい
ポニーの家の大きく開け放たれた窓からは、焼きたてのクッキーの甘い匂いが午後の風に乗って流れ、丸いテーブルには、湯気の立つ紅茶が静かに並べられている。そのテーブルを囲むように座っているのは、キャンディ、アニー、そしてパティの三人。それぞれが別々の場所で新しい時間を生き始めてから、以前のようにただ他愛もない話をしながら笑い合う時間は、いつの間にか少なくなっていた。だからこそ、こうして三人だけでゆっくり顔を合わせる午後が、たまらなく懐かしく感じられるのだ。ポニーの家の窓を揺らす風も、遠くから聞
結論最初に結婚するのは誰だ?編集部で議論した結果は以下の通り。第1位ケビン・マクグラス→突然恋に落ちて電撃結婚しそう。第2位マイケル・アンダーソン→気付いたら周囲に結婚を勧められていそう。第3位テリュース・グレアム→恋愛より舞台を優先しそう。だが、一度決めたら誰よりも早いかもしれない。果たして本誌の予想は当たるのだろうか。それとも三人とも独身街道を突き進むのだろうか。今後も目が離せない。――もっとも、当の本人たちは「大きなお世話だ」と笑うかもしれないが。特別アンケ
その頃、テリィは劇場にいた。朝の稽古場にはいつもの活気が戻っている。俳優たちの発声練習、大道具係の掛け声、台本を読み合わせる声。昨日と変わらない光景だった。だが、テリィの頭の中だけはまったく違った。稽古場の片隅で団長と打ち合わせをしながらも、ふとした拍子に思い出すのはキャンディのことばかりだった。昨夜ソファで眠っていた姿、毛布を掛けた時の寝顔。今頃は起きただろうか。朝食は食べただろうか。そんなことばかり考えている自分に苦笑する。「テリュース?」団長に呼ばれて我に返った。「ああ
映画館を出ると、シカゴの夜はすっかり深まっていた。街灯の明かりが濡れた石畳を照らし、行き交う人々の吐く白い息が夜へ溶けていく。しばらく二人は並んで歩いた。映画の余韻がまだ胸の中に残ったまま。「面白かったわ」キャンディがようやく口を開く。「最後まで騙された」「俺も」テリィは笑った。「でも、途中から犯人探しどころじゃなくなったけど」「あら、どうして?」「俳優の癖だな。表情とか間とか、そういうのばかり見てた」キャンディは思わず吹き出した。やっぱりテリィはテリィだった。やがて二人は
ブロードウェイ。ストラスフォード劇団。稽古場の噂は、音もなく広がっていた。最初は、照明係のひとりが言い出した。「……昨日の稽古、観たか?」それだけだった。だが、翌日には、音響室で、舞台袖で、スタッフルームの片隅で、同じ言葉が何度も繰り返されるようになった。「芝居が始まってないのに、テリュースが入ってきた途端、空気が変わるんだ」「台詞を言う前からもうハムレットだ」「あの間が怖い。あんなのはじめてみたよ」照明チーフが、プラン表を指で叩きながら言った。「フォロースポット、正直追いづ
プロポーズから、ひと月ほどが過ぎた。6月のニューヨークは、日に日に夏の気配を濃くしていた。その日、昼公演を終えたテリィは、楽屋へ戻ると壁の時計を見上げた。夜公演までは、まだ時間がある。着替えを済ませ、鞄を手に取ったところで、マネージャーのフランクが声をかけた。「今日も行くのか?」「ああ」「ずいぶん熱心だな」その言葉に、テリィは少し照れたように笑った。「彼女はニューヨークの人でないから。それに、1️⃣度しかないことだからな」フランクは呆れたように肩を竦めながらも、その顔には笑みが浮か
時計の針が9時を回ってしばらくした頃、ようやく玄関の鍵が回った。「ただいま……」聞こえてきた声に、キッチンにいたキャンディがすぐに顔を上げる。「おかえり、テリィ!」ぱたぱたと玄関へ向かうと、テリィはコートを脱ぎながら、いかにも疲れたという顔で立っていた。「遅くなったね」「ゲネプロ近いといつもこんな感じだよ」テリィは苦笑しながらコートを掛けると、ふわりと温かな香りが漂ってきた。「いい匂いだな……もしかしてこの匂い」キャンディとキッチンへ向かう。キャンディが笑う。「オニオンスープ
シカゴで迎えた二日目の夜。窓の外には街の灯りが広がり、部屋の中は柔らかなスタンドの明かりに包まれていた。夕食を終え、二人はテリィの部屋で他愛ない話を楽しんでいたが、時計が9時を回る頃になると、キャンディはバッグから数冊の資料を取り出した。「少しだけ勉強してもいい?」「ああ。研修の資料か?」「うん。明後日から始まるから、忘れないうちに確認しておきたくて」そう言うと、キャンディはソファへ座り、資料を開いた。テリィはコーヒーを淹れながら、その様子を横目で眺める。「真面目だな」「だって、お
暖炉の火が静かに揺れていた。窓の外には夜のニューヨークが広がっている。部屋の中は穏やかだった。けれど、その穏やかさの奥に、まだ触れていない話題が残っていることを二人とも知っていた。テリィはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開く。「ところで」キャンディが顔を上げる。「うん?」「まだ聞いてなかった」テリィはまっすぐ彼女を見た。「きみがニューヨークへ来た理由」その言葉にキャンディの表情が少しだけ変わった。そうだった。結局まだ話していない。なぜここへ来たのか。なぜインディア
1927年春。二月にキャンディと会い、次はキャンディの誕生日にポニーの家へ行くと話していたが、テリィが数日間もの休暇を取ることが難しくなってきた。何度も予定表を見返した末、諦めるしかないと結論づける。そこで、手紙に、「もし診療所の都合がつくなら、きみがニューヨークへ来ないか」と。休みが取れなければ無理をしなくていい。それも忘れずに書き添える。返事には、まとまった休暇を取れることになったという。到着は奇しくも5月6日、キャンディの誕生日前日だ。午前11時、ニューヨーク・セントラル駅に到着
「冷めないうちに食べよう」テリィが照れ隠しのように笑うと、キャンディも目元をぬぐって笑顔になった。二人は向かい合ってテーブルにつく。大きな皿によそわれたビーフシチューから、湯気がふわりと立ちのぼる。キャンディはスプーンですくい、一口運んだ。途端に目を丸くする。「うん、おいしい!」もう一口。今度はゆっくり味わうように口へ運ぶ。牛肉はほろりと崩れ、野菜の甘みがじんわりと広がる。長い時間をかけて煮込まれた優しい味だった。「本当においしい……」そう呟くと、嬉しそうにテリィを見つめる。「
その日の昼頃、キャンディはテリィの鞄を抱えて劇場を訪れていた。朝、慌てて家を出たテリィだったが、彼にとってとても珍しく間違えて別の鞄を持っていってしまったのだ。中には稽古に必要な台本が入っている。電話口では「悪い」と言っていたが、届けないわけにはいかない。キャンディは受付へ近づくと、少し遠慮がちに声を掛けた。「あの……テリュース・グレアムさんにお届け物があるんです」受付係は慣れた様子で顔を上げた。「お約束はございますか?」「いえ。ただ、主人が……主人が忘れ物をしてしまって」受付係の表
午後のブロードウェイは、冬の光に満ちていた。通りには観劇客や買い物客が行き交い、ショーウィンドウにはクリスマスシーズンの名残がまだ色濃く残っている。古物屋の軒先には真鍮の燭台や古い時計、小道具に使えそうな銀器が並び、雑貨屋の店内には舞台衣装に使えそうな布地が山積みにされていた。スザナは杖をつきながら、ゆっくりと歩いていた。隣には脚本補佐のマデリーンがいる。「このアンティークのランプ、二幕に使えそうじゃない?」「ええ……でも少し大きいかもしれないわ」そんな会話を交わしながら、ふたりは通り
窓際の席へ腰を下ろす。汽笛が鳴り、ゆっくりと列車が動き出した。インディアナの田園風景が後ろへ流れていく。キャンディは鞄の中へ手を入れた。取り出したのは、一通の手紙だった。角が少しだけ擦れている。何度も読み返した証拠だった。テリィの手紙。キャンディはそっと封筒を撫でる。返事を届けるため、そう自分へ言い聞かせてきた。宛先がなかったから、だから直接伝えに行く。それは嘘ではない。本当にそう思っている。けれど、それだけでもなかった。窓の外を流れる景色を見つめながら、キャンディは静かに目を閉
ファンミーティングを終えて帰宅したころには、マンハッタンの夜はすっかり静かになっていた。玄関の扉が開く音がした瞬間、ぱたぱたと軽い足音が廊下を駆けてきた。「おかえりなさい!」駆けてきたキャンディを、テリィは自然に両腕を広げて受け止める。勢いのまま胸へ飛び込んできた身体を抱き留めながら、小さく笑った。「ただいま」外気を纏ったコート越しの冷たさに、キャンディが少し肩を竦める。「寒かった?」「まあな」そう答えながら、テリィは彼女の金色の髪へそっと口づけを落とした。柔らかな髪が唇を掠める。