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夜はとうに更けていた。寝室のカーテンの隙間から、街の明かりが細く差し込んでいる。テリィは目を閉じたまま、しばらく眠ろうとしていた。隣からは、規則正しい寝息が聞こえている。テリィの頭の中では、帰宅後からずっと引っかかっていた言葉が何度も繰り返されていた。――私のこと、好き?あのときは、突然何を言い出すのかと思った。もちろん好きだと、何年待ったと思っている、と答えた。安心させるために言った言葉ではない。全部、本当のこと。けれど――。テリィは薄く目を開けた。思えば、キャンディがニューヨー
カフェを出てから、キャンディは少し足を速めていた。思っていた以上に遅くなってしまっていたからだ。紙袋を抱え直しながら、人通りの増えた通りを急ぐ。夕食の支度もまだ何もしていない。テリィはもう帰っているだろうか。それとも、今日は稽古が長引いているだろうか。そんなことを考えながら歩いていたときだった。ふいに、さっき聞いた名前が頭の中に戻ってきた。――エヴリン。キャンディの足が、わずかに緩んだ。どこかで聞いたことがある。別れ際に彼女が名乗ったときにも、そんな気がした。けれど、話し込んでいたこ
ペントハウスへ戻ったとき、部屋はまだ暗かった。キャンディは夕食の支度を始める。いつもと同じことをしているはずなのに、ときどき手が止まった。エヴリンの顔が浮かぶ。彼女が語った誰かは、どれも自分が知っているテリィと重なった。もし本当に、あのエヴリンがエヴリン・ハートなら。彼女はテリィの華やかな部分だけを見て好きになったのではない。自分が好きになったテリィを好きになったのだ。そのことが、キャンディの胸をいちばん落ち着かなくさせているのかもしれなかった。すると、玄関の向こうで音がした。鍵が回る。キ
春のポニーの家。長い旅を終えたキャンディは、シカゴでの看護研修も終えて、ようやく村へ帰ってきていた。朝の空気はまだ冷たいが、庭の草花は芽吹いていた。いつもの景色、見慣れた診療所。ポニーの家の煙突から立ちのぼる白い煙。子どもたちの笑い声。何ひとつ変わっていない。──なのに。キャンディは診療所の窓を開けながら、小さく息を吸い込んだ。同じ空気のはずなのに、どこか違って感じる。風がやわらかく、空が少し高く見える。世界が少しだけ明るくなったような、不思議な感覚だった。「キャンディ、包
その表情に、エヴリンは気づかず、重ねて尋ねた。「人を好きになるって、何なんでしょうね。そばにいたいと思うこと?自分を見てほしいと思うこと?」キャンディの脳裏に、ひとりの人が浮かぶ。笑っている顔も、怒っている顔も、意地悪そうに目を細める顔も、何かを決めたときの頑固な横顔も。自分が好きなのは、優しいところだけではない。きっと――あのひとが、あのひとだからなのだ。「その人が、その人らしくいられることを願うこと……かな」エヴリンは黙って彼女を見る。「たとえ、自分が望んだ形じゃなくても?」
午後の稽古を終えて楽屋へ戻ると、鏡台の上に一通の封筒が置かれていた。エヴリンはコートを脱ぎながら、それを何気なく手に取った。劇団の名が印刷されている。個人的な手紙ではない。封を切り、中のカードを引き出す。最初に目に入ったのは、披露宴の日時とその下に並ぶ二人の名前。エヴリンの指が止まった。彼に結婚を約束した女性がいることは、劇団から正式な通達があったので知っている。だから、いまさら驚くようなことではない。けれど、紙の上に並んだ二人の名前を見ていると、それまで頭で理解していたことが、突然、形を持
千穐楽の打ち上げは、大盛り上がりだった。半年近く続いた公演を無事に走り切った解放感もあり、劇団員たちはグラスを片手に笑い合い、あちこちで歓声が上がっていた。テリィは壁際の席で静かに飲み物を口にしていた。彼にとってはいつものこと、騒ぐより眺める方が好きだった。誰が言い出したのか、いつの間にか即席のモノマネ大会が始まっていたのである。若手のひとりが演出家の真似をすれば、「違う違う違う!感情はいい!もっと呼吸だ!」と大げさに身振り手振りを交えながら叫び、会場は大爆笑。別の団員はベテラン
六月七日、月曜日。テリュースが目を覚ましたとき、世界はもうすっかり光のなかに浸かっていた。昨夜、キャンディスをホテルまで送り届け、自分の部屋へ戻ったのは、夜がすっかり深まってからのことだ。まどろみのなかにいた気もするし、ずっと起きていたような気もする。目を閉じると、昨日の出来事が、静かな水面に色を落としたように、ひとつ、またひとつと鮮やかによみがえってくる。ふいにこぼれた笑顔。思いがけず目を丸くした顔。何かをこらえるように、そっと唇を結んだ顔。そして、最後にまっすぐ自分を見つめてい
待ちに待った休日の朝だった。先に目を覚ましたキャンディは、窓の外を見て微笑んだ。青空だった。今日は自由の女神へ行く。数日前から楽しみにしていた予定だ。朝食を済ませると、二人は地下鉄を乗り継いでマンハッタン南端の埠頭へ向かった。観光客で賑わう船着場には様々な言葉が飛び交っている。家族連れや旅行者に学生らしい若者たち。キャンディは周囲を見回しながら楽しそうに歩いていた。「思ったより人が多いのね」「ニューヨークで一番の観光地だからな」テリィは笑う。「ニューヨークへ来て一度も見ないで帰る観
【D】DrawntoYou(引き寄せられるふたり)シカゴの街に入ったときから、どこか落ち着かなかった。理由は、わかっている。わかっていながら、意識の奥へ押しやろうとしていた。窓の外を流れていく街並みの中に、何度も目に入る紋章。アードレー家の紋章だ。この街では珍しいものではない。むしろ当然のようにそこにあるもので、気に留める理由など本来はなかった。それでも、視界に入るたびに、思考が引き戻される。考えるな、と自分に言い聞かせる。考えても仕方のないことだ。あの場所に、彼女がいるとは限らない
スザナ・マーロウの訃報が新聞各紙に載ったのは、その週の金曜日だった。年が明けたニューヨークの朝は冷たく、劇場街の歩道にはまだ昨夜の雪が薄く残っていた。新聞売り場には特別版が並び、人々はコートの襟を立てながら足を止める。ハムレットの成功以降、テリュース・グレアムは世間の注目を集める存在になっていた。だから彼に関わる出来事もまたニュースになる。スザナの死も例外ではなかった。劇場へ向かう途中、何人もの人が新聞を広げていた。誰も悪意など持っていない。ただ悲劇を惜しみ、若くして亡くなった元
雑誌『GENTEEL』、テリュース・グレアム特集の続きです!先日の“vol.1”の次ページのご紹介です✨もう……これもわたしの趣味がかなり入っています(笑)ニット姿で本を読むテリィ💗こういうテリィも、素敵ですよね?華やかな衣装ももちろん似合うけれど、柔らかなニットを着て、紅茶を傍らに本を読んでいるだけなのに絵になってしまう……この姿をキャンディは毎日見れるんだから、羨ましいったらないですよぉ!そして、深秋のニューヨークを背景に、黒いコートにクリスマスシーズンを意識したボルドー
「それだけは、誤解しないでほしいんだ」テリュースの声には、迷いがなかった。いま目の前にいるテリィは、自分が知っていた昔のテリィとも、心の中でずっと想い続けていたテリィとも違っていた。六年間という時間が、少しずつ違う意味を持ち始めていた。「……わかったわ」そう答えるのが精いっぱいだった。いつの間にか陽は落ちていて、ガラス窓の向こうには、夕刻の名残のような、淡く頼りない光がぽつんと残されているだけだ。部屋の中には少しずつ濃い影が満ちてきていたけれど、テリュースは灯りをつけようとはしなか
応接室の方から、ポニー先生がキャンディとともに歩いてきた。ジョシュアは、キャンディの数歩後ろを歩くその男から目を離せなかった。その男は、背が高く、仕立てのよい黒いスーツを、長年着慣れているもののように自然に着こなしている。初夏の陽射しを受けた栗色の髪が、揺れていた。整った顔立ちには、都会で暮らす人間特有の洗練された雰囲気がある。けれど、それだけではなかった。立っているだけで、どこか人の目を引く。村では、まず見かけることのない種類の男だった。誰だ。なぜ、キャンディの隣にいる。その問いが
夕食を終えた二人は、リビングでソファに並んで座っていた。暖炉の火が静かに揺れ、窓の外にはニューヨークの夜景が広がっている。キャンディは紅茶のカップを両手で包みながら、思い出したように笑った。「そうそう、今日ね、占いをしてもらったの」「占い?」テリィが少し意外そうに眉を上げる。「街で見つけたの。評判のお店かと思ったら違ったみたい。」「違った?」「本物は行列ができてたのに、私は待たなくていいほうへ入っちゃったの」「……きみらしいな」テリィが吹き出す。「でしょう?」キャンディも
八月のマンハッタンは、まだ夏の熱を手放せずにいた。劇場の裏口には朝から俳優や大道具係が行き交い、搬入口では、新しい背景幕が慎重に運び込まれている。ストラスフォード劇場。前年の秋に幕を開けた『ハムレット』は、一大旋風を巻き起こした。延長を重ねて二月に千秋楽を迎えたあとも熱望は止まず、再び開幕した舞台は、日に日に観客動員数の記録を塗り替えている。劇場前には、昼前から当日券を求める列が伸び、終演後の楽屋口に集まる人だかりも、途切れることがない。新聞は連日のように舞台評を掲載し、テリュース・
二月に入ったシカゴには、まだ冬景色だった。その日の午後、アードレー家本邸に届いた郵便物の中に、テリィとキャンディからの招待状があった。アルバートは封筒を手にすると、思わず微笑んだ。「届いたか。……ジョルジュ、アーチーとアニーをここへ呼んでくれ」キャンディからの手紙で、挙式の日取りも、その後に披露の席が設けられることも伝えられていた。披露宴については、テリィとキャンディが華やかな席を望んだわけではなかった。劇団側が、テリュース・グレアムの結婚を劇団として正式に披露する必要があると判断し、
「本当に大丈夫?」立ち上がったばかりのエヴリンの足元はまだ頼りなく、泣きすぎたせいだろうか、頭も少しぼんやりしている。それを見て、女性は辺りを見回した。「あそこにカフェがあるわ。少し座りましょう」「でも……」「温かいものを飲んだほうがいいわ」有無を言わせない強さがあるのに、不思議と押しつけがましくない。エヴリンは促されるまま、通りの角にある小さなカフェへ入った。窓際の席へ座り、温かい飲み物が運ばれてくる頃には、呼吸もすっかり落ち着いていた。女性は向かい側からエヴリンの顔を覗き込んだ
大西洋を渡る客船は、静かな夜の海を進んでいた。甲板へ出ると、冷たい風が頬を撫でる。見上げれば無数の星が広がり、船は果てしない闇の中を一筋の光を引くように進んでいた。イギリス――ストラトフォード・アポン・エイボン。俳優として追い続けてきた夢の舞台。本来なら、そのことだけを考えていてもおかしくないはずだった。だが、テリィの頭を占めているのは別のことばかりだった。再会してからというもの、気がつけば彼女のことを考えている。劇場を歩いたこと。楽屋で話したこと。改札で別れたこと。最後に見
初演の幕が上がってから、まもなく一年。空前の熱狂を巻き起こした『ハムレット』は、初夏の再演を経て秋を迎えた今もなお、あふれんばかりの観客を迎え続けていた。夜ごとに劇場の前に伸びる馬車や自動車の列。幕が下りたあとも楽屋口を離れようとしない人々の気配。翌朝の新聞を開けば、舞台評の活字のなかに、いつでもテリュース・グレアムの名を見つけることができた。舞台の稽古に、衣装合わせ、取材や劇団との打ち合わせ。マチネのある日に至っては、朝から晩まで息を吐く暇すらない。ひとつの幕が下りれば、待ち構えていたように
結婚してから、テリィにはひとつ新しい習慣ができていた。それは、朝、キャンディに起こしてもらうことだ。もともと寝坊する男ではない。入団してから遅刻らしい遅刻もしたことがなく、目覚まし時計だけで十分起きられた。それでも結婚して間もない頃、ある朝ふと思い立ったように言ったのだ。「キャンディ、明日から起こしてくれないか?きみに起こしてもらいたいなと思って」その言葉にキャンディが真っ赤になったことを、今でも覚えている。以来、それは二人の小さな日課になっていた。その朝も、キャンディは彼の肩をそっと
2月の半ば、村の診療所。昼過ぎの診療所は束の間の静けさに包まれている。午前中の患者が途切れ、待合室の椅子には誰も座っていない。遠くで雪遊びをする子どもたちの笑い声が聞こえる。キャンディは薬品棚の整理を終え、記録簿へ午前中の処置内容を書き込んでいた。この村へ戻って何年になるだろう。再びポニーの家へ戻り、この村で診療所を支えるようになってからの年月。気づけば毎日が慌ただしく過ぎていった。それでも不思議と、この仕事を辞めたいと思ったことは一度もなかった。誰かの役に立てることがうれしかっ
スザナと会わなくなって、数か月。あの日を迎えるまで、自分にはもう、スザナを支えて生きる以外の未来を望むことなど許されないのだと思っていた。それが自分に課せられた責任であり、果たすべき約束なのだと。それでも、婚約や結婚という言葉が現実味を帯びるたび、どこかで答えを先延ばしにしてきた。そばに寄り添うことはできても、その先にある境界線を越えることだけは、どうしてもできなかった。あの日、「わかりました」と静かに口にしたのは、もうこれ以上、そんなふうに誤魔化し続けることはできないと悟ったからだった。
インディアナ。午後になると空は薄く曇り始め、夕方には雪が降ることも珍しくない。その日も診療所の仕事を終えたキャンディは、ポニーの家の暖炉の近くへ置かれた新聞を何気なく手に取り、自室にいった。目に飛び込んできたのは、大きな舞台写真だった。思わず手が止まる。そこには見覚えのある横顔が写っていた。テリィだ。舞台衣装に身を包み、客席のどこかを見据えている。その表情は凛々しく、堂々としていて、まるで別人のようだった。記事には大きな見出しが躍っている。『SMT帰りの名優、ホリデーシーズンを席巻』『
キャンディスは波の音で目が覚めた。この町では、朝を告げるのは鐘の音でも鳥の声でもない。崖の下から絶え間なく届く波の音が、一日を静かに始めてくれるのだ。モンヒーガン島の海は、見るたびに色を変えた。朝には淡い霞をまとい、昼には光を跳ね返す。夕暮れには群青へと深く沈み、夜にはすべてを抱きすくめるような青になる。十一月も終わりになると灰色の空を映し、鉛色に沈む日が多くなった。それでもときおり、雲の切れ間から差す光が、海を息をのむほど澄んだ色へと変える。キャンディスは窓を開け、目を凝らした。眠り
六月のモンヒーガン島は、夜のあいだ海に抱かれていた霧が、まだ岬や入り江に残っている。白くほどけた布のようなそれは、風が渡るたび静かにかたちを変え、黒い岩肌を隠したり、灯台の白い姿を半分だけ浮かび上がらせたりした。やがて陽が高くなるにつれ、霧は少しずつ海へと帰っていく。急ぐふうでもなく、惜しむふうでもなく。ただ、自分の帰る場所をあらかじめ知っているもののように。昼食の後片付けをすませると、キャンディスはピアノの蓋を開けた。それは、この家へ来たときからそこに置かれていたアップライトピアノ
グラマシー・パークのタウンハウスへスザナを送り届けたあと、テリュースは自宅へは帰らず、そのままストラスフォード劇場へと車を走らせた。マンハッタンの夕暮れは、今日も眩しかった。無数の窓に灯りがともり、街そのものが呼吸を始める。鍋の蓋が小さく鳴る部屋。楽しげな笑い声が響く部屋。明かりを落とし、一日の終わりを迎える部屋。見上げるほど灯りはある。けれど、自分が帰りたい灯りは、ひとつもなかった。コートを脱ぐ音だけが響く部屋。聞きたい声が聞こえるはずもない。その静けさに耐えきれず、い
客電がついた。暗闇に沈んでいた客席が、ゆっくりと現実の輪郭を取り戻していく。立ち上がる人々。興奮の残る話し声。膝の上のプログラムを閉じる小さな紙の音。今しがたまで舞台の上にあったはずの異世界が少しずつほどけ、劇場はふたたび何百人もの人間が行き交う巨大な箱へと戻っていった。キャンディスは、まだ椅子から立てずにいた。頬に残った涙を、オペラグローブの親指でそっと拭う。布越しに、その熱がじわりと指に伝わった。見つかった。テリィが、私を見つけた。そのことが胸の奥で小さく跳ねるたび、脈が早くな