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三月十三日の夕暮れ。ペントハウスの窓から見えるニューヨークの街は、少しずつ夜の色へ変わり始めていた。明日の朝に必要なものは、ほとんどホテルへ届けられている。ウェディングドレスも、靴も、ベールも、身支度に必要なものも、すでに手配されていた。玄関のベルが鳴った。キャンディとテリィが同時にそちらを見る。「来たみたい」キャンディが言った。テリィは時計へ目をやった。扉を開けると、そこにはアニーとパティがいた。「こんばんは」「迎えに来ました!」パティの声がいつもより弾んでいる。「わざわざあ
「お邪魔します」テリィが中へ招き、三人は居間へ入った。そしてほとんど同時に、足を止めた。「……すごい」最初に声を漏らしたのはアニーだった。大きな窓、そこから見渡せるニューヨークの街。ゆったりとした居間、落ち着いた調度。決して派手ではないけれど、ひと目で分かる。簡単に持てる住まいではない。パティも辺りを見回していた。「ここ……全部、テリィの?」「そうだけど」テリィは何でもないように答えた。アーチーは窓際まで行き、外を見た。ずっと下に街が広がっている。「ずいぶんいいところに住ん
アーチーはソファに腰を下ろした。キャンディも向かいに座る。「ある日、授業が終わったあとだった。僕が寮へ戻ろうとしてたら、廊下で何人かが話してるのが聞こえたんだ。最初は気にもしてなかった。でも、その中から君の名前が聞こえた」キャンディの表情が少し変わった。アーチーは続けた。「アードレー家のお嬢さまといっても、本当のお嬢さまじゃないんだろ、とか……孤児院にいたんだって、とか」キャンディは黙って聞いていた。「悪意丸出しって感じじゃなかったんだ。だから余計に嫌だった。本人たちは面白い話でもして
挙式まで、あと三日。午前のニューヨークの駅には、長い旅を終えた乗客たちが次々と降り立っていた。その人波の中に、アーチーとアニーの姿があった。「やっと着いたな」ホームへ降りたアーチーが大きく息を吐く。「やっぱりシカゴからニューヨークは遠いわね」アニーも辺りを見回した。何度か訪れたことのある街ではあるが、今日は、いつもとは少し違って見えた。この街で、キャンディが結婚する。そのために来たのだと思うだけで、不思議な気持ちになった。「車、来てるはずだ」アードレー家で手配した車が、駅の外で待っ
ふいに、キャンディが立ち上がった。「あ、そうだ。お菓子があったの。持ってきますね」「俺が取るよ」テリィも立つ。「場所分かる?」「分かるよ」「じゃあお願い」何でもない会話だった。けれど、ジョージはまた兄を見た。テリィは棚を開け、迷うことなく菓子の箱を取り出している。キャンディはそれを見ながら、「お皿もお願い」と言う。「はいはい」「返事は一回」「分かったよ」キャンディが笑い、兄も笑った。その瞬間、ジョージの中で、もう一つの光景が蘇った。ロンドンの屋敷の食堂、長いテーブル。
ポニーの家の大きく開け放たれた窓からは、焼きたてのクッキーの甘い匂いが午後の風に乗って流れ、丸いテーブルには、湯気の立つ紅茶が静かに並べられている。そのテーブルを囲むように座っているのは、キャンディ、アニー、そしてパティの三人。それぞれが別々の場所で新しい時間を生き始めてから、以前のようにただ他愛もない話をしながら笑い合う時間は、いつの間にか少なくなっていた。だからこそ、こうして三人だけでゆっくり顔を合わせる午後が、たまらなく懐かしく感じられるのだ。ポニーの家の窓を揺らす風も、遠くから聞
ペントハウスへ戻ったとき、部屋はまだ暗かった。キャンディは夕食の支度を始める。いつもと同じことをしているはずなのに、ときどき手が止まった。エヴリンの顔が浮かぶ。彼女が語った誰かは、どれも自分が知っているテリィと重なった。もし本当に、あのエヴリンがエヴリン・ハートなら。彼女はテリィの華やかな部分だけを見て好きになったのではない。自分が好きになったテリィを好きになったのだ。そのことが、キャンディの胸をいちばん落ち着かなくさせているのかもしれなかった。すると、玄関の向こうで音がした。鍵が回る。キ
1927年のニューヨークでテリィがファッション誌の表紙を飾ったら――というイメージビジュアル先日ご紹介した架空のファッション誌『GENTEEL』テリュース・グレアム特集。夏のテリィも……というコメントをいただきまして……私も見たい!!!となりました(笑)ということで、作ってしまいました✨『GENTEEL』1927年7月号――夏のテリぃです✨夏のニューヨーク、リバティ島を望む水辺で過ごす、束の間の休日をイメージしてみました。白いシャツの袖を無造作にまくって、サスペンダーに夏らしいスト
雑誌『GENTEEL』、テリュース・グレアム特集の続きです!先日の“vol.1”の次ページのご紹介です✨もう……これもわたしの趣味がかなり入っています(笑)ニット姿で本を読むテリィ💗こういうテリィも、素敵ですよね?華やかな衣装ももちろん似合うけれど、柔らかなニットを着て、紅茶を傍らに本を読んでいるだけなのに絵になってしまう……この姿をキャンディは毎日見れるんだから、羨ましいったらないですよぉ!そして、深秋のニューヨークを背景に、黒いコートにクリスマスシーズンを意識したボルドー
ニューヨーク港を離れた車は、マンハッタンへ向かって走っていた。ジョージは窓の向こうを流れていく街並みを眺めていた。初めて見るニューヨークは、ロンドンとは何もかもが違っていた。そして、その街の中を兄が当たり前のように車を走らせていることにも、まだ不思議な感覚があった。港で再会してから、まだそれほど時間は経っていない。十年以上ぶりに会った兄、もちろん、ひと目で分かった。少年だった頃の面影は残っている。けれど、自分の記憶にある兄とは、どこか違って見えた。ジョージが前を向いたまま尋ねた。「兄上。こ
木槌を打つ音が、まだ客の入っていない劇場に規則正しく響いていた。大道具係が背景幕を吊り上げ、照明係が一本ずつ明かりを確かめていく。ストラスフォード劇場では、『じゃじゃ馬ならし』の稽古が三週間目を迎えていた。かつて舞台を包んでいた悲劇の王子の影は静かに姿を消し、劇場は新しい季節を迎えるように、軽やかな笑いへとその表情を変え始めている。その喧騒から少し離れた楽屋で、電話のベルが鳴った。乾いた、短い音だった。テリュースは壁に背を預け、静かに目を閉じていた。頭の中で反芻していたのは、第一幕第二場
六月末、大きな拍手に包まれて千穐楽を迎えた。劇場には最後まで熱気が残り、終演後も取材や支援者への挨拶が続いた。主演として舞台に立ち続けたテリィにとって、それは充実した日々であると同時に、次なる大作『ロミオとジュリエット』への助走でもあった。その本格的な稽古が始まるまで、テリィたちのチームは2週間ほどの休暇が与えられていた。プロポーズのあとも、二人は以前と同じように手紙を交わした。仕事の予定を確かめ合い、まずはポニー先生とレイン先生へ、自分たちの口から婚約を報告したいという手紙を重ねなが
テリィは自分とデートがしたかった。自分も、テリィとのデートがうれしかった。そこに難しい理由などなくてもいい。キャンディは分かっていた。今日のテリィが、ずっと自分を見ていてくれたことを。そして、それが今日だけではなかったことも。キャンディはつないでいた手に、少し力を込めた。「テリィ」「何?」「ありがとう」「何が?」「今日」テリィがキャンディを見る。「私ね」「うん?」「ニューヨークへ来てよかった」テリィの足が止まりかけた。テリィは何も言わなかった。ただ、その手を少し
六月七日、月曜日。テリュースが目を覚ましたとき、世界はもうすっかり光のなかに浸かっていた。昨夜、キャンディスをホテルまで送り届け、自分の部屋へ戻ったのは、夜がすっかり深まってからのことだ。まどろみのなかにいた気もするし、ずっと起きていたような気もする。目を閉じると、昨日の出来事が、静かな水面に色を落としたように、ひとつ、またひとつと鮮やかによみがえってくる。ふいにこぼれた笑顔。思いがけず目を丸くした顔。何かをこらえるように、そっと唇を結んだ顔。そして、最後にまっすぐ自分を見つめてい
スケートリンクを出る頃には、冬の陽はゆっくりと西へ傾き始めていた。吐く息は白く、それでも二人の頬は運動したあとの熱でほんのり赤い。「少し歩こうか」「うん」どちらからともなく手をつなぐ。手袋越しでも伝わる温もりが心地よかった。二月も終わりに近づいたシカゴの街は、まだ冬の冷たさを残しながらも、どこか春を待つ穏やかな空気に包まれていた。百貨店のショーウィンドウには、冬物のコートや帽子と並んで、少しずつ明るい色合いの春物が飾られ始めている。「あ、見て」キャンディが立ち止まる。ショーウィン
「冷めないうちに食べよう」テリィが照れ隠しのように笑うと、キャンディも目元をぬぐって笑顔になった。二人は向かい合ってテーブルにつく。大きな皿によそわれたビーフシチューから、湯気がふわりと立ちのぼる。キャンディはスプーンですくい、一口運んだ。途端に目を丸くする。「うん、おいしい!」もう一口。今度はゆっくり味わうように口へ運ぶ。牛肉はほろりと崩れ、野菜の甘みがじんわりと広がる。長い時間をかけて煮込まれた優しい味だった。「本当においしい……」そう呟くと、嬉しそうにテリィを見つめる。「
一月のある日、テリュースはアッパー・イースト・サイドにある自宅へ帰る前に、劇場近くのアパートへ立ち寄った。まだマンハッタンへ来て間もないころ、やっとの思いで見つけた住まいだった。シアター・ディストリクトを埋め尽くす煌びやかな灯りから、ほんの数分歩くだけで景色は一変する。舞台の上では、まばゆい光を浴びる。だが劇場を出れば、待っているのは煤けた空気の澱む通りと冷えた部屋だけだ。アパートは六階建ての古びたレンガ造りで、工場や倉庫で働く者たちが多く暮らしていた。そこからさらに一ブロック西へ進めば、も
先に寝息が聞こえてきたのはキャンディだった。つい先ほどまで緊張し、テリィの隣で身体を硬くしていたはずなのに、数分でその呼吸は穏やかな寝息へ変わっていた。テリィは思わず苦笑する。「本当に寝たのか……」小さく呟く。返事はもちろんない。キャンディは気持ちよさそうに眠っている。長旅の疲れは残り、盗難騒ぎで心を削られ、しかも慣れないニューヨーク。無理もないと思う。それでも……「あんまり安心されると困るって、本当なんだけどな……」テリィは天井を見上げる。自分でも呆れる。8年越しに想いが通じたばか
【B】BreakiingPoint(均衡が崩れるとき)すべての診療が終わると待合室は静まり返っていた。窓から射し込む陽は傾き、夕刻を告げていて、いつもと変わらぬ穏やかな時間が流れているはずだった。けれどキャンディの手の中にある新聞の紙面だけが、現実の色を失っていた。その名前を見つけた瞬間、呼吸が止まった。スザナ・マーロウ。記事は短く、感情を挟まない無機質な文章で、彼女の死を伝えていた。静かな最期。わずかな行数で、一人の人生が終わったことが告げられている。そして、《テリュースとは
空は、朝から重かった。低く垂れ込めた灰色の雲。霧混じりの風が、エイヴォン川から街へ流れ込んでくる。テリュース・グレアムは、劇場前で足を止めた。王立シェイクスピア劇団。RSC。重厚なゴシック建築の建物は、ブロードウェイとはまるで違う空気を纏っていた。派手な看板はない。スター俳優の巨大ポスターもない。客を煽るような明るい文字もない。ただ、長い年月の中で積み重ねられた“演劇そのもの”の重みだけがあった。入口脇のポスターには、『リア王』『十二夜』『マクベス』『ハムレット』の文字。そのどれもが静
翌朝。カーテンの隙間から差し込む冬の陽射しが、ホテルの部屋をやさしく照らしていた。シカゴの空は雲ひとつない青空だった。昨夜は遅くまで話していたにもかかわらず、不思議と二人とも目覚めはよかった。朝食を終え、厚手のコートと手袋を身につけてホテルを出る。冷たい空気が頬を刺した。「今日はどこへ行くの?」キャンディが尋ねると、テリィは少しだけ悪戯っぽく笑う。「着いてからのお楽しみ」「また秘密?」「きみの驚く顔がみたいからな」「もう」そう言いながらも、キャンディの表情は楽しそうだった。
五月のシカゴ。教会の控室へ初夏を思わせるやわらかな陽光が差し込み、窓の向こうでは色とりどりの花々が陽射しを浴びて美しく輝いていた。開け放たれた窓からは、咲き誇るバラの甘い香りと若葉を渡る爽やかな風が流れ込み、小鳥たちの澄んださえずりが静かに響いている。柔らかな陽光に包まれた庭は生命の輝きに満ち、まるでこの特別な一日を祝福しているかのようだった。純白のウェディングドレスに身を包んだキャンディは、鏡の前に静かに立っていた。幾重にも重なる繊細なレースは、窓から差し込む陽光に淡く輝き、長く流れるト
初演の幕が上がってから、まもなく一年。空前の熱狂を巻き起こした『ハムレット』は、初夏の再演を経て秋を迎えた今もなお、あふれんばかりの観客を迎え続けていた。夜ごとに劇場の前に伸びる馬車や自動車の列。幕が下りたあとも楽屋口を離れようとしない人々の気配。翌朝の新聞を開けば、舞台評の活字のなかに、いつでもテリュース・グレアムの名を見つけることができた。舞台の稽古に、衣装合わせ、取材や劇団との打ち合わせ。マチネのある日に至っては、朝から晩まで息を吐く暇すらない。ひとつの幕が下りれば、待ち構えていたように