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「テリュース君、今日は本当におめでとう」声をかけられたのは、少し前のことだった。テリィは年配の後援者と握手を交わしながら礼を言い、その向こうにいるキャンディを見ていた。なぜか隣にはエヴリンがいる。二人が話していることには、その少し前から気づいていた。聞こうとして聞いたわけではなかった。披露宴も後半になり、招待客たちは席を離れ、会場のあちらこちらで話をしている。テリィも何人かの招待客に挨拶をしながら、お色直しが終わったキャンディを迎えようと移動しているうちに、たまたまキャンディの声が耳に
それまで食事や歓談の邪魔にならないよう穏やかな曲を奏でていた楽団が、ゆったりとしたダンスの曲へ移った。招待客の何人かが気づき、楽団の方を見る。披露宴も終盤へ差しかかっていた。食事のために整然と並べられていた椅子の多くはすでに空き、給仕たちは使い終えた皿やグラスを手際よく下げている。宴会場の中央には、人が踊れるほどの空間ができていた。エヴリンとの話について、キャンディもテリィも何も言わず、微妙な空気が二人の間に漂っていた。二人はその話題に触れないまま、流れ始めた曲をしばらく聞いていた。
スザナの墓のある教会は、朝の光の中で静かに息をしていた。古い石畳に、まだ昨夜の冷えが残り、白い壁には薄い影が揺れている。キャンディとアルバートが馬車を降りた時、教会の前の少し離れた場所に、一台の馬車が停まっていた。見慣れないわけではない。だが、どこか“場違いなほど整った”馬車だった。革張りの座席、磨かれた金具、よく手入れされた馬。長旅を控えた者の、無駄のない佇まい。アルバートはそれを見て、足を止めた。理由はない。確証もない。ただ、胸の奥で何かが微かに鳴った。(……来ている)言葉に
あの日、どうしてテリィが帰ってきた途端、あんなに強く抱きつきたくなったのか。どうして突然、――私のこと、好き?などと尋ねてしまったのか。今なら、自分でもよく分かる。テリィの気持ちを疑っていたわけではない。ただ、確かめたかったのだ。自分が今、この人のそばにいていいことを。エヴリンはしばらくキャンディを見つめていた。「……キャンディスさん」「はい?」エヴリンはゆっくり首を横に振った。「何も持っていないなんて言わないで」キャンディが目を瞬く。「あなたには、私にないものがたくさんあ
八月九日の朝。モンヒーガン島へ渡る船は、メイン州本土の小さな港町、ポート・クライドを離れたばかりだった。テリュースは甲板に立ち、遠ざかっていく海岸を眺めていた。マンハッタンを発ったのは、昨日の朝だ。一日じゅう北へ向かい、夜をひとつ越えて、それでもまだ目的地には着かない。ずいぶん遠くへ来た。身体の奥に、長いあいだ列車に揺られ続けた重い疲れが残っている。昨夜、ようやくベッドに横になったときには、泥のように眠れると思った。けれど目を閉じても、眠りは降りてこなかった。海を渡れば、キャンディ
披露宴も後半に入り、宴会場の空気はすっかりやわらいでいた。その中で、イライザは先ほどから一人の男の姿を目で追っていた。ヴィクター・ラングフォード。ストラスフォード劇団でもテリュースと人気を二分する俳優で、イライザが以前から熱を上げている俳優。今日この披露宴へ来たのも、もちろんキャンディの結婚を祝うためではない。ヴィクターが出席する、そう思ったから、父が出席できないことを知ると自ら代理になると申し出た。少し離れたところで、ヴィクターは劇団の後援者らしい男と話している。時折笑い、グラスを傾ける
翌朝。ペントハウスには、穏やかな朝の時間が流れていた。キャンディは箱から取り出した服を抱え、寝室のクローゼットを開いた。――こっちは、きみが使えばいい。そう言って、棚の中も空けてくれてあった。キャンディは少し照れくさいような気持ちで、一着ずつハンガーへ掛けていった。ふと、隣へ目を向ける。すぐそこには、テリィのシャツやジャケットが並んでいる。そのとき、ほんのかすかに香りがした。キャンディは思わず手を止めた。テリィがいつも使っている香水の匂い。強く主張するようなものではないけれど、近
第一報から二週間が過ぎていた。『ロミオとジュリエット』の人気は衰えるどころか、日に日に熱を帯びていた。劇場前には毎日のように行列ができ、立ち見券を求める客が開場の何時間も前から並んでいる。劇評はどれも好意的だった。「テリュース・グレアムは、SMTで得た経験を見事にブロードウェイへ持ち帰った」「エヴリン・ハートも、若きジュリエットとして鮮烈な存在感を放っている」舞台そのものは成功だった。だからこそ劇団員たちは、余計な騒ぎを起こしたくないという思いを共有していた。そんなある朝だった。劇場へ
テラスから宴会場へ戻ると、途端に楽団の音と人々の話し声が近くなった。エヴリンはヴィクターと並んで中へ入り、ほんの少し足を止めた。テラスで偶然耳にした話が、まだ胸の中に残っている。学院時代から互いに惹かれ合っていたテリィとキャンディ。誰にも知られないように、丘で会う約束をしていた少年と少女。一度は離れ、それぞれ別の場所で生き、ようやく会えたと思ったときには、また別れなければならなかった二人。そして、自分があの日カフェで聞いたキャンディの言葉が、ただ恋愛についての考えを話したものではなかっ
礼拝堂の入口側、その上階にある小さなギャラリー。大きなオルガンの陰になる場所で、エレノアはひとり、階下を見下ろしていた。テリィを玄関先で見送ったあと、気付かれないように到着し、司祭との約束どおり、誰にも見つからないよう奥まった場所に座った。ここは祭壇がよく見えた。長く並んだ長椅子も、その間をまっすぐ祭壇へ伸びる通路も。そして、その先には――。エレノアの視線が止まった。テリュースが、祭壇の前に立っている。その姿を見た途端、エレノアの胸の奥が熱くなった。エレノアは目を細めた。そのとき、オ
昼休みになっても、フランス語の授業で言われたことが、キャンディの耳から離れなかった。その日の課題は、詩の暗唱だった。キャンディはフランス語は得意なほうではないため、人の何倍も練習していた。意味の分からない言葉を調べ、読み方に迷ったところはアニーとパティに聞き、声に出して何度も繰り返した。昨夜は教科書を閉じても最後まで言えるようになっていて、今朝も、身支度をしながら確かめた。今度は、ちゃんとできる、と。そう思っていたのに、指されて立った途端、覚えたはずの言葉が出てこなくなった。最初の一節は言
カフェを出てから、キャンディは少し足を速めていた。思っていた以上に遅くなってしまっていたからだ。紙袋を抱え直しながら、人通りの増えた通りを急ぐ。夕食の支度もまだ何もしていない。テリィはもう帰っているだろうか。それとも、今日は稽古が長引いているだろうか。そんなことを考えながら歩いていたときだった。ふいに、さっき聞いた名前が頭の中に戻ってきた。――エヴリン。キャンディの足が、わずかに緩んだ。どこかで聞いたことがある。別れ際に彼女が名乗ったときにも、そんな気がした。けれど、話し込んでいたこ
国王と王太后の退席を合図に、大広間の奥の扉が開かれた。侍従たちの案内のもと、列席者たちは隣接する迎賓室へと順に進み、宮殿の夜は次の歓談のひとときへと移っていった。高い天井から吊るされた幾つものシャンデリアは変わらぬ光を降り注いでいたが、張りつめていた空気は少しずつほどけ、弦楽四重奏の穏やかな調べに重なるように、グラスの触れ合う澄んだ音や人々の談笑が、夜の宮殿へ再び華やぎを取り戻していた。それでも、その夜の視線が集まる先は一つしかなかった。王自らその名を呼び、グランチェスターの名を公に認めた
ポニーの家の大きく開け放たれた窓からは、焼きたてのクッキーの甘い匂いが午後の風に乗って流れ、丸いテーブルには、湯気の立つ紅茶が静かに並べられている。そのテーブルを囲むように座っているのは、キャンディ、アニー、そしてパティの三人。それぞれが別々の場所で新しい時間を生き始めてから、以前のようにただ他愛もない話をしながら笑い合う時間は、いつの間にか少なくなっていた。だからこそ、こうして三人だけでゆっくり顔を合わせる午後が、たまらなく懐かしく感じられるのだ。ポニーの家の窓を揺らす風も、遠くから聞
スザナの葬儀が終わった翌日。マーロウ邸は、音を吸い込んだように静まり返っていた。両親は、娘の面影が残るこの屋敷に留まることに耐えられなかったのだろう。葬儀が終わると同時に、使用人を伴ってフロリダの別荘へと発っていった。結果として、この広すぎる屋敷に残されたのは、テリュースひとりだった。与えられていた2階の客間で、彼は自分の私物を小さなトランクに詰めていた。ずっと、この屋敷へのテリュースの滞在の名目は「婚約者」だったが、その扱いは最後まで曖昧なままだった。今後についての話もなければ、引き止
テリィはしばらく黙って、キャンディの指先に身を任せていた。やがて、目を閉じたまま口を開く。「……さっき車で話そうとしたことだけど」キャンディの手が、ほんのわずかに止まった。「ちゃんと話しておきたい」キャンディはまた髪を撫で始めた。「私、テリィのこと疑ってないわよ」「分かってる」「だったら」「それでも話したいんだ」その声は穏やかだった。「もちろん、記事に書かれてるようなことは、何もない」「うん」「食事に行ったこともない、劇場の外で二人きりで会ったこともない。最初の記事は、稽
「ありがとうございます」短く答える。アルバートは静かに頷いた。しばらく、二人は互いの空白を埋めるように話し続けた。テリィは舞台の世界を一度離れ、再び戻ったことや、アルバートが旅をしながら身分を隠していた時期のこと、そして、自分がアードレー家の総長であることを明かした経緯。話せば話すほど、十年以上という年月の長さを思い知らされる。二人は、あの頃のままではない。多くのものを失い、多くのものを背負った。けれど、互いへの信頼だけは、不思議なほど変わっていなかった。やがてテリィは、グラスを机
その朝、シカゴの空は驚くほど澄み渡っていたが、ブラックストーン鉱山事故から幾日も過ぎているというのに、街はまだ深い痛みの中に沈んでいた。商工会議所へ向かう石畳の道には、公聴会に向かう人々が、早くから集まり始めていた。銀行家たちは低い声で囁き合い、市議会議員や実業家、労働組合の代表者たちも、それぞれ胸に異なる思惑を抱えながら歩いていく。その列の中には、黒い喪服姿の女性や、古びた帽子を胸に抱いた老人の姿もあった。「号外だ!ブラックストーン鉱山事故、公聴会いよいよ開催!」入口のそばでは、新聞
初秋の夕暮れは、昼間の熱をほんの少しだけ残したまま、足早に青を深めていく。窓から斜めに射し込む光が、部屋の床に長く淡い影を落としていた。「このままでは世間体も悪いわ」マーロウ夫人は、すがりつくように言葉を重ねる。「スザナがどれだけ待ってきたと思っているの?あなたはこの子を守ると約束したでしょう」ひとつひとつの言葉の底にあるのは、娘を思う母親の、切ない願いだった。テリュースは黙って聞いている。胸の奥で返すべき言葉はすでに決まっていた。けれど、それを声にした瞬間、何かが永遠に終わることも
宴会場からテラスへ出ると、三月の午後の空気は少し冷たく、火照った頬に心地よかった。室内では楽団が再び演奏を始めている。扉一枚を隔てただけなのに、笑い声も音楽もここでは少し遠く、ガラス越しの灯りだけが華やかな披露宴の続きを伝えていた。「少し寒いわね」パティが肩をすくめた。三人がテラスへ出てきたのは、ほんの少し風に当たりたかっただけだった。アーチーも二人についてきて、手すりのそばに立っている。しばらくすると、パティが我慢できなくなったように笑った。「ねえ。さっきのあれ、そうよね?」「テ
午後の授業が終わると、キャンディは教科書とノートを抱えて教室を出た。廊下の先に、テリィの姿が見えた。呼びかけようとして、口を閉じる。少し離れたところに、シスターが立っていた。テリィはそのまま図書室へ入っていった。明日、にせポニーの丘で会ったときに話せばいい。そう思ったのに、足が止まらなかった。今日のフランス語の授業で、もう一度、詩を暗唱した。今度は最後まで言えた。あの日、落ち込んでいた自分の話を聞いてくれたテリィに、早く伝えたかった。キャンディは掲示板の前で少し時間を置いてから
「それだけは、誤解しないでほしいんだ」テリュースの声には、迷いがなかった。いま目の前にいるテリィは、自分が知っていた昔のテリィとも、心の中でずっと想い続けていたテリィとも違っていた。六年間という時間が、少しずつ違う意味を持ち始めていた。「……わかったわ」そう答えるのが精いっぱいだった。いつの間にか陽は落ちていて、ガラス窓の向こうには、夕刻の名残のような、淡く頼りない光がぽつんと残されているだけだ。部屋の中には少しずつ濃い影が満ちてきていたけれど、テリュースは灯りをつけようとはしなか
『ロミオとジュリエット』の千穐楽から一週間後。ストラスフォード劇団では、新しい公演へ向けた準備が始まろうとしていた。そんな中、劇団員たちへ一つの通達が出された。制作部からの正式なものだった。そこには、先日の新聞報道について、簡潔に事実だけが記されていた。――テリュース・グレアムとエヴリン・ハートについて。一部新聞で交際を示唆する記事が掲載されているが、そのような事実はない。二人は『ロミオとジュリエット』で共演した俳優同士であり、劇団内では先輩と後輩という関係にある。そして、もう一
朝の光が、閉じたカーテンの隙間から細く差し込んでいた。キャンディはその眩しさに誘われるように、ゆっくりと目を開けた。見慣れない天井をぼんやりと眺め、ここがどこなのか分からずに瞬きをする。けれど、すぐそばから聞こえる穏やかな寝息と、自分を包む温もりに気づいた瞬間、昨夜の記憶が一気に蘇った。ここはニューヨークのホテル。そして隣には、テリィがいる。そっと顔を向けると、彼はまだ眠っていた。昨日まで舞台の上で何千もの観客を魅了していたロミオとは思えないほど、無防備で穏やかな寝顔をしている。キャン
「テリィ、元気だったの?」キャンディスはそう言って、肩にかけていたショールを外した。その声は、耳から入って胸のいちばん奥にまっすぐ届いた。すこしも変わっていなかった。テリュースは返事をするのも忘れて、しばらく彼女を見ていた。スポットライトの渦の中に立つときでさえ揺れなかった自分の心が、たったひとりの眼差しを前にして、足元からほどけていく。「ああ」胸の奥から、ようやく息を吐き出した。「見ての通り、ピンピンしてるよ」「そう。よかった」ふっと目元が緩む。ただそれだけで、この数年間に
「最後の舞台が終わったら、しばらくニューヨークを離れるよ」向かいの席で、エレノア・ベーカーが顔を上げた。セントラル・パークからほど近いその店は、彼女がこの街で暮らしていた頃に足を運んでいた、馴染みのレストランだった。昼どきの店内には、銀器の触れ合う音と、低く交わされる話し声が心地よく満ちている。「どこへ行くの?」「メイン州」「メイン州?」「ああ」エレノアは少しだけ意外そうに眉を寄せた。「どのあたり?」テリュースは、手にしていたグラスをテーブルに戻した。氷がかすかな音を立てる。
案内係のあとに続き、細い階段を上りながら、キャンディスは息を静かに吐き出した。来てしまった。本当に、来てしまった。グランドセントラル駅のホームに降り立ったときも、ホテルの部屋に荷物を置いたときも、まだ引き返せる気がしていた。馬車を降り、劇場の白っぽい灯りを見上げた瞬間でさえ。けれど今、背後で重い扉が静かに閉じた。ベルベットの座席に重なる人々の話し声と、プログラムをめくる紙の音が、密やかな温かみとなって客席に満ちている。ストラスフォード劇場の前には、当日券を求める人々の長い列が残っていた
客電がついた。暗闇に沈んでいた客席が、ゆっくりと現実の輪郭を取り戻していく。立ち上がる人々。興奮の残る話し声。膝の上のプログラムを閉じる小さな紙の音。今しがたまで舞台の上にあったはずの異世界が少しずつほどけ、劇場はふたたび何百人もの人間が行き交う巨大な箱へと戻っていった。キャンディスは、まだ椅子から立てずにいた。頬に残った涙を、オペラグローブの親指でそっと拭う。布越しに、その熱がじわりと指に伝わった。見つかった。テリィが、私を見つけた。そのことが胸の奥で小さく跳ねるたび、脈が早くな
二人がようやく隣室へ戻った頃には、運ばれてきた朝食はすっかり食べ頃を過ぎていた。キャンディは呆れたように息を吐くと、パンへ手を伸ばした。「今日は教会を見に行くんでしょう?時間は大丈夫なの?」「大丈夫だよ。約束の時間には余裕があるから」テリィも向かいに腰を下ろし、コーヒーを口へ運ぶ。「はじめは教会なんて、どこもそんなに変わらないんじゃないかと思ったけど、調べるうちにそうじゃないんだなと思ったよ。そう思うと、俺たちの大事なことだからちゃんと選びたいと思った」何でもないことのように言われて
六月六日、日曜日。テリュースは、いつもより早く目を覚ました。薄いカーテンの隙間から、初夏の光が床に細長い帯をつくっている。しばらく、そのまま天井を見上げていた。昨夜、ホテルの前でキャンディスと別れたときには、すでに日付が変わっていた。その上、帰宅してからもずっとテラスでぼんやり夜景を眺めてしまったのだ。ベッドに入ってからは、目を閉じるたびに、暗闇の向こうからさまざまな光と音が立ち上ってくる。楽屋の床に響いた、キャンディスの靴音。ショールが滑り落ち、露わになった華奢で滑らかな肩。記憶の