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小道を折れると、世界の音がすっと遠のいた。頭上を覆うモミの枝葉は、古い大聖堂の天井に似ていた。届く光はわずかで、足元には湿り気を含んだ苔と落ち葉の絨毯が広がっている。一歩踏みしめるごとに、青い針葉樹の匂いが立ちのぼった。「森の中に、静かな部屋があるみたいでしょう」「いい匂いもするんだな」テリュースは大きく息を吸い込みながら、手にしたバスケットを持ち替えた。木々に風を遮られた森の中はどこか暖かく、枝葉の隙間から落ちる小さな光の粒が、彼女の髪や肩の上でちらちらと揺れている。ふたりは大きな倒
曲が終わると、会場から大きな拍手が起こった。大勢の招待客がフロアの周りに集まり、笑顔で二人を見守っている。キャンディは少し照れながら、テリィとともに拍手に応えた。やがて楽団が次の曲を奏で始める。今度は先ほどよりも軽やかな曲だった。それを待っていたように、あちらこちらで男性が女性へ手を差し出している。たちまち何組もの男女で賑わい始めた。ドレスの裾が音楽に合わせて揺れ、楽しげな笑い声が楽団の演奏に重なっていく。披露宴の終盤。新郎新婦のために始まったダンスは、いつしかそこに集まったすべての人
「あれは、メイフェスティバルだったな」「うん」どこからか聞こえてきた音楽、人目のない場所。まだ互いに、好きだという言葉さえ交わしていなかった頃。あの頃も、こうしてテリィの手が自分を導いた。キャンディが懐かしそうに笑う。「もうずいぶんと昔のことなのね」「そうだな」キャンディが思い出してクスクス笑う。「あのときのテリィ、ひどかった」「心外だな。俺はダンスは得意なほうだ」「そのことじゃないわ。覚えてないの?」「何を」「私がアンソニーと踊った曲だって言ったら――」そこまで言っ
朝の六時。海の方から、鳥の羽ばたく音がかすかに届く。静かに、ドアノブが回る音。鍵はかけていない。前の晩、「朝は鍵を開けておくから、そのまま入ってきて」とテリュースに伝えてあった。「おはよう、キャンディ」「おはよう、テリィ」初めのうちは、テリュースはただそこに立っていた。キャンディスが湯を沸かし、湯気が白くのぼるのを見つめ、朝の支度をする彼女の背中を静かに眺めていた。けれど、数日もすると、重なり合う音が変わっていた。彼女が陶器のカップを並べると、そこにテリュースが温かな湯を注ぐ。パン
それまで食事や歓談の邪魔にならないよう穏やかな曲を奏でていた楽団が、ゆったりとしたダンスの曲へ移った。招待客の何人かが気づき、楽団の方を見る。披露宴も終盤へ差しかかっていた。食事のために整然と並べられていた椅子の多くはすでに空き、給仕たちは使い終えた皿やグラスを手際よく下げている。宴会場の中央には、人が踊れるほどの空間ができていた。エヴリンとの話について、キャンディもテリィも何も言わず、微妙な空気が二人の間に漂っていた。二人はその話題に触れないまま、流れ始めた曲をしばらく聞いていた。
白く塗られた扉の向こうへ足を踏み入れると、柔らかい日差しが、あふれるように部屋を満たした。居間と同じ、潮の匂い。けれどそこには、微かに甘い香りが混ざっていた。キャンディスがいつも身に纏っている、あの花の匂いだ。テリュースは入り口でふと足を止めた。「ここが私の寝室。あまり広くないけれど、日当たりだけは抜群なのよ」キャンディスは何気なく言って、窓辺へと歩いていく。壁際のシンプルな鏡台。その上には、美しい飾りのついた木の櫛と、小さなガラスの瓶がいくつか並んでいる。クローゼットの脇には、ベージ
「テリュース君、今日は本当におめでとう」声をかけられたのは、少し前のことだった。テリィは年配の後援者と握手を交わしながら礼を言い、その向こうにいるキャンディを見ていた。なぜか隣にはエヴリンがいる。二人が話していることには、その少し前から気づいていた。聞こうとして聞いたわけではなかった。披露宴も後半になり、招待客たちは席を離れ、会場のあちらこちらで話をしている。テリィも何人かの招待客に挨拶をしながら、お色直しが終わったキャンディを迎えようと移動しているうちに、たまたまキャンディの声が耳に
あの日、どうしてテリィが帰ってきた途端、あんなに強く抱きつきたくなったのか。どうして突然、――私のこと、好き?などと尋ねてしまったのか。今なら、自分でもよく分かる。テリィの気持ちを疑っていたわけではない。ただ、確かめたかったのだ。自分が今、この人のそばにいていいことを。エヴリンはしばらくキャンディを見つめていた。「……キャンディスさん」「はい?」エヴリンはゆっくり首を横に振った。「何も持っていないなんて言わないで」キャンディが目を瞬く。「あなたには、私にないものがたくさんあ
テラスから宴会場へ戻ると、途端に楽団の音と人々の話し声が近くなった。エヴリンはヴィクターと並んで中へ入り、ほんの少し足を止めた。テラスで偶然耳にした話が、まだ胸の中に残っている。学院時代から互いに惹かれ合っていたテリィとキャンディ。誰にも知られないように、丘で会う約束をしていた少年と少女。一度は離れ、それぞれ別の場所で生き、ようやく会えたと思ったときには、また別れなければならなかった二人。そして、自分があの日カフェで聞いたキャンディの言葉が、ただ恋愛についての考えを話したものではなかっ
八月九日の朝。モンヒーガン島へ渡る船は、メイン州本土の小さな港町、ポート・クライドを離れたばかりだった。テリュースは甲板に立ち、遠ざかっていく海岸を眺めていた。マンハッタンを発ったのは、昨日の朝だ。一日じゅう北へ向かい、夜をひとつ越えて、それでもまだ目的地には着かない。ずいぶん遠くへ来た。身体の奥に、長いあいだ列車に揺られ続けた重い疲れが残っている。昨夜、ようやくベッドに横になったときには、泥のように眠れると思った。けれど目を閉じても、眠りは降りてこなかった。海を渡れば、キャンディ
午後の授業が終わると、キャンディは教科書とノートを抱えて教室を出た。廊下の先に、テリィの姿が見えた。呼びかけようとして、口を閉じる。少し離れたところに、シスターが立っていた。テリィはそのまま図書室へ入っていった。明日、にせポニーの丘で会ったときに話せばいい。そう思ったのに、足が止まらなかった。今日のフランス語の授業で、もう一度、詩を暗唱した。今度は最後まで言えた。あの日、落ち込んでいた自分の話を聞いてくれたテリィに、早く伝えたかった。キャンディは掲示板の前で少し時間を置いてから
ヴィクターはグラスをテーブルへ置いた。「ただ、妙ですね」「何がです?」「あなたの話を聞けば聞くほど、俺は花嫁に興味が湧いてくる」イライザの笑顔が止まった。「……え?」「孤児院で育って、まったく違う世界の名家へ入った。そこで生きていくのは、子供には相当大変だったでしょうね」「それは……」「それでも看護婦になった?……」「ええ、まあ……」「自分で仕事を選んで、人の命に関わる仕事をしている」ヴィクターは会場の向こうを見る。そこには、招待客と笑いながら話しているキャンディがいた。
披露宴も後半に入り、宴会場の空気はすっかりやわらいでいた。その中で、イライザは先ほどから一人の男の姿を目で追っていた。ヴィクター・ラングフォード。ストラスフォード劇団でもテリュースと人気を二分する俳優で、イライザが以前から熱を上げている俳優。今日この披露宴へ来たのも、もちろんキャンディの結婚を祝うためではない。ヴィクターが出席する、そう思ったから、父が出席できないことを知ると自ら代理になると申し出た。少し離れたところで、ヴィクターは劇団の後援者らしい男と話している。時折笑い、グラスを傾ける
「グレアム……六月七日の朝、グランド・セントラルにいたか」楽屋のドアが開き、広報担当のアーサー・ベネットが入ってきた。一瞬、意味がわからなかった。これから千秋楽という大事な舞台へ向かおうとしているこの瞬間に、どうして二か月も前の日付が出てくるのか。「……いたけど」ベネットは少し間を置いてから言った。「女性と一緒だったそうだな」不意に、部屋の空気が変わった。テリュースの目が、すっと細くなる。「なんだって?」「新聞社からの問い合わせだ。『デイリー・ニュース』が、君の写り込んだ写真を入
アニーが静かに言った。「一時は、二人がどうなるのかと思ったけど……」その声には、先ほどまでの懐かしさとは違うものが混じっていた。「スザナさん……だったわよね。テリィと同じ劇団の女優さん」パティが頷く。「事故でテリィを庇って、大怪我をして……」「それは誰のせいでもなかった。でもスザナさんはテリィを好きだった」アニーは遠くを見るような目をした。「だからキャンディは、自分が身を引いたのよね」アーチーは黙っていた。あの頃のキャンディを思い出している。アニーの声が少し揺れた。「キャンデ
宴会場からテラスへ出ると、三月の午後の空気は少し冷たく、火照った頬に心地よかった。室内では楽団が再び演奏を始めている。扉一枚を隔てただけなのに、笑い声も音楽もここでは少し遠く、ガラス越しの灯りだけが華やかな披露宴の続きを伝えていた。「少し寒いわね」パティが肩をすくめた。三人がテラスへ出てきたのは、ほんの少し風に当たりたかっただけだった。アーチーも二人についてきて、手すりのそばに立っている。しばらくすると、パティが我慢できなくなったように笑った。「ねえ。さっきのあれ、そうよね?」「テ
七月に入ってすぐ、パトリシア・オブライエンがモンヒーガン島へやって来た。パティは、九月からロンドンで、教師になるための勉強を始めるのだという。その前にいったんダブリンの両親のもとへ帰ることになっていた。海を渡ってしまえば、そう簡単には会えなくなる。その前にどうしても会っておきたいと、三週間ほどキャンディスの家に滞在することになった。*「やっぱり、こっちじゃないかしら」パトリシアが言った。「さっきは反対がいいって言ったじゃない、パティ」「置いてみたら、なんだか違ったのよ」「もしか
会場から小さな笑いが起こった。後援者の一人が言う。「あれ、学生じゃないか?」「確かに、そう見えるね」キャンディは笑えなかった。テリィが時計を見てすぐにしまう。まだ時間はあるようで、木にもたれたまま待つ。やがて退屈したらしく、上着のポケットへ手を入れ、煙草を一本を口にくわえ、今度はマッチを取り出すと、慣れた仕草で火をつけようとして――ふと、手が止まった。ほんの一瞬、口元にくわえた煙草を見る。それから、誰かに何かを言われたように、わずかに眉を寄せた。キャンディの胸の奥が、小さく跳ねた。覚え
ケビンによるトーストが終わり、楽団の演奏も、先ほどまでの穏やかな曲から軽快なものへ変わっている。披露宴の初めにあった格式ばった空気は、もうほとんど残っていない。劇団の後援者やスポンサーたちも、俳優たちを捕まえては次の公演の話をしたり、昔の舞台について語ったりしている。そんな中、ひときわ大きな笑い声が上がった。「それは面白い」声を上げたのは、長くストラトフォード劇団を支援している後援者の一人だった。そのそばで、マイケルが困ったように笑っている。「いや、稽古ではやりますけどね。ここでやるよう
「最後の舞台が終わったら、しばらくニューヨークを離れるよ」向かいの席で、エレノア・ベーカーが顔を上げた。セントラル・パークからほど近いその店は、彼女がこの街で暮らしていた頃に足を運んでいた、馴染みのレストランだった。昼どきの店内には、銀器の触れ合う音と、低く交わされる話し声が心地よく満ちている。「どこへ行くの?」「メイン州」「メイン州?」「ああ」エレノアは少しだけ意外そうに眉を寄せた。「どのあたり?」テリュースは、手にしていたグラスをテーブルに戻した。氷がかすかな音を立てる。
昼休みになっても、フランス語の授業で言われたことが、キャンディの耳から離れなかった。その日の課題は、詩の暗唱だった。キャンディはフランス語は得意なほうではないため、人の何倍も練習していた。意味の分からない言葉を調べ、読み方に迷ったところはアニーとパティに聞き、声に出して何度も繰り返した。昨夜は教科書を閉じても最後まで言えるようになっていて、今朝も、身支度をしながら確かめた。今度は、ちゃんとできる、と。そう思っていたのに、指されて立った途端、覚えたはずの言葉が出てこなくなった。最初の一節は言
「テリュース……いえ、テリィとは、長い付き合いになります。同じ劇団で、同じ舞台に立ってきました。同じ役を争ったこともあります」ケビンがテリィの顔を見て再び会場を見渡す。「その頃は僕も、こいつには負けないと思ってたんです」劇団の仲間たちから笑いが漏れた。「ところが気がついたら、どんどん先へ行ってしまい、こっちは追いかけてるのに、少しも待ってくれないんです」テリィは苦笑し、劇団の仲間も笑っている。「だから今日は、みなさんの前でテリィにひとつだけ頼んでおこうと思います」ケビンはテリィに向
給仕がテリィとキャンディの席までやってくると、丁寧に一礼した。「奥さま、お願いいたします。ケーキに最初のナイフを」そして給仕に案内され、ケーキの前へ向かった。拍手が起こる。アニーとパティもうれしそうに手を叩いている。「ここへお願いいたします」キャンディは示された場所へナイフを入れると、拍手が一段と大きくなる。その音の中でキャンディが振り返ると、テリィも拍手をし、目が合うと頷き返した。ケーキは切り分けられ、それぞれの席へ運ばれていく。キャンディが席へ戻る頃には、会場も再び思い思いの
モンヒーガン島へ戻った日の夜。キャンディスは、静まり返った部屋で、ひとり机に向かっていた。手紙を書きたい人の顔が、いくつも浮かんでは消えていく。最初に手に取った便箋は、アルバートのために用意されたものだった。何から言葉にすればいいのかわからないほど、感謝したいことが胸の奥に溢れていた。手に入れることすら叶わないはずの、テリュース・グレアム主演の舞台のチケット。思わず目を奪われるほど瀟洒なスイートルーム。そして、観劇のために贈られた、あのアイスブルーのドレス。けれど、何より胸に響いたの
披露宴も進み、初めの頃の改まった空気が少しずつやわらいできた頃だった。キャンディが声をかけてきた招待客との話を終えると、人々の間を縫うようにして一人の青年がこちらへ歩いてくるのが見えた。「ジョシュア!」キャンディの顔がぱっと明るくなる。ジョシュアも笑った。「キャンディ、結婚おめでとう」「ありがとう、ジョシュア」ポニー先生もレイン先生も、今日はニューヨークまで来ることができなかった。ジョシュアは、二人に代わってポニーの家を代表して、この結婚式へ来てくれた。「今日は本当に来てくれてあり
食事がひと段落した頃、キャンディはようやく席を立った。披露宴が始まってからも、次々と声をかけられ、ゆっくり話すことのできない人が何人もいた。その中でも、どうしてもきちんと挨拶をしておきたい人がいる。キャンディは会場を見渡し、少し離れた席にエルロイの姿を見つけた。「テリィ、ちょっと行ってくるわ」「ああ」キャンディが誰のところへ向かうのか分かったのだろう。テリィはそれ以上尋ねず、送り出した。「大叔母さま」声をかけると、エルロイが振り向いた。「ああキャンディス」いつもの、少し厳しい
「……あの方は」男はもう一度、確かめるようにアルバートを見た。「ウィリアム・アルバート・アードレーでは?」隣にいた男も、つられるように視線を向ける。アルバートは少し離れた席で、エルロイと話していた。「ご存じなんですか?」「知っているも何も……アードレー家の総長ですよ」「総長?」声がわずかに大きくなった。「ええ。ウィリアム・アルバート・アードレー。現在のアードレー家を率いている人物です」男は驚いたようにアルバートを見た。「ずいぶんお若い。では、どうして新婦側の……」そこまで
静かに答えた。「父が現グランチェスター公爵です」男の目がわずかに見開かれた。「やはり……」その声は大きくなかった。だが、すぐ近くにいた数人には聞こえた。「では」男が言いかけ、その視線がテリィへ向いた。ジョージもつられて兄を見る。そこで初めて、相手が何を知りたがっているのか分かった。「テリュースは、私の兄です」ほんのわずか周囲の空気が変わった。「……お兄さま?」近くにいた女性が思わず聞き返した。ジョージがそちらを見る。「はい」「では、グレアムさんは……」言葉の先を誰
グランド・セントラル駅、午前八時。列車がすべり出し、最後尾の赤いランプが、朝の光の中に溶けていった。キャンディスの姿が見えなくなっても、テリュースはしばらくの間、まっすぐに伸びる線路の先を見つめていた。再会は、あまりにも唐突だった。キャンディスからの返事を待っていた四十あまりの朝と夜。それは静かに削られていくような時間だった。届かない便りを待つうちに、自分の存在ごと彼女の記憶から消えてしまったのではないかという思いが、灰が静かに降り積もるように胸の底へ溜まっていった。その暗がりを、カーテ
最初の料理が運ばれると、会場は再び賑やかな話し声に包まれた。給仕たちは決められた順にテーブルを回り、皿を置いていく。白いクロスの上では銀器が淡い光を返し、あちらこちらでグラスが持ち上げられていた。正式なウェディング・ブレックファストでは、食事そのものも披露宴の大切な時間だった。決められた席を囲みながら、新郎新婦の家族や友人、仕事上の知人たちが言葉を交わす。普段なら接点のない者同士が紹介され、ひとつの結婚をきっかけに新しい縁が生まれる。今日の宴も、そうだった。劇団の人間とアードレー家の人々