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一月のある日、テリュースはアッパー・イースト・サイドにある自宅へ帰る前に、劇場近くのアパートへ立ち寄った。まだマンハッタンへ来て間もないころ、やっとの思いで見つけた住まいだった。シアター・ディストリクトを埋め尽くす煌びやかな灯りから、ほんの数分歩くだけで景色は一変する。舞台の上では、まばゆい光を浴びる。だが劇場を出れば、待っているのは煤けた空気の澱む通りと冷えた部屋だけだ。アパートは六階建ての古びたレンガ造りで、工場や倉庫で働く者たちが多く暮らしていた。そこからさらに一ブロック西へ進めば、も
「……ファンから逃げたときだよ」「逃げたとき?」「劇場を出たところで見つかってさ。やっと振り切って駐車場まで来たと思ったら、別の連中が向こうから来た。また見つかったら面倒だと思って、隠れる場所を探したんだけど――」テリィは自分たちが座っている枝を軽く叩いた。「ちょうどいい木があった」キャンディは想像してしまった。ニューヨークの街で、大勢の女性たちから逃げ回り、最後には木の上へ避難しているテリィ。「あはは……それおかしい!」「俺は必死だったんだ」「それで?見つからなかった?」「
朝食を終えると、ポニーの家にはいつもの朝が始まった。子どもたちは食器を片づける者、庭へ飛び出していく者、先生に呼び止められて渋々部屋へ戻る者。それぞれが思い思いに動き始める。キャンディはその様子を眺めながら、エプロンを外した。今日は夜勤、出勤まで先生たちの手伝いをしてから診療所へ向かうつもりでいる。それまでには、まだ時間があった。「先生、ちょっと丘へ行ってきます」ポニー先生が笑顔で送り出す。キャンディは外へ出た。朝の空気には、まだ少し涼しさが残っている。慣れた道を歩き、草の斜面を登っ
一九一九年、九月の終わり。マンハッタンは、まだ戦争が終わった歓びの残り香を漂わせながらも、どこか行き場を失ったように揺れていた。酒場では翌年に迫る禁酒法の噂が囁かれ、新聞の紙面はストライキの文字で埋まっている。人々は未来を祝うように笑いながら、どこかで何かに追われるように足を速めていた。けれど、ブロードウェイだけは別だった。劇場の灯りがともれば、街の焦燥は一枚の厚い緞帳の向こうへ押しやられてしまう。ストラスフォード劇場。再演された『ハムレット』は第二期公演を終えてなお勢いを失わず、三日前
「8年です。その間、キャンディにはキャンディの人生があった。僕にも僕の人生があった。それは当たり前のことです。……あの時、僕たちは別れるしかなかった……それも分かっています」ポニー先生の表情がわずかに変わった。「僕を庇って人生が変わった彼女をあのままにして、僕たちだけが幸せになることはできませんでした。キャンディも同じことを思った……。だからキャンディが帰ると言ったとき、その意味が分かったから止めませんでした……いえ、止められませんでした」テリィはゆっくり息を吐いた。「今になって、あれが
ポニーの家へ戻った頃には、午後の陽が傾き始めていた。キャンディは子どもたちに呼び止められ、そのまま庭の向こうへ連れていかれた。「テリィ、先に戻っていて!」振り返りながらそう叫ぶキャンディに、テリィは片手を上げた。「ああ」子どもたちに囲まれていく後ろ姿を、しばらく見送る。ここへ来てから、何度こんなキャンディを見ただろう。自分の知らないキャンディ。この村を歩けば、いたるところに彼女が過ごしてきた時間が残っていた。診療所では、マーチン医師が看護婦として働くキャンディのことを話してくれた。
畑を後にすると、二人はカートライト牧場へ向かった。夏の陽射しの下、緑の草原が広がっていた。キャンディは迷うことなく道を歩いていく。「ポニーの家は昔からカートライトさんにお世話になってるのよ」「へえ」テリィが興味を示す。「じゃあ、そこでも子どもの頃のきみの話も聞けそうだな」キャンディが足を止めた。「余計なこと聞かなくていいからね」「なんで?」「なんでも!」テリィは笑った。その反応だけで、聞かれて困る話がいくつもありそうだった。牧場へ着くと、カートライトは二人を温かく迎えてくれ
「キャンディがまだ小さかった頃な。畑の向こうに大きなリンゴの木があって――」「その話は駄目!」キャンディが慌てて遮る。テリィはイタズラっぽい瞳を向ける。「どうして?」「え?な、なんとなく」「そりゃ、ますます聞きたいな」「テリィ!」男性はニヤリと笑うと構わず続けた。「一番上の枝になってるリンゴが一番甘いって言い張って、するする木に登っていったんだ」テリィがキャンディを見る。「……きみならやりそうだ」「昔の話よ!」「ところが、登ったはいいが降りられなくなってな」「まだ、その
キャンディはしばらくその背中を見送っていた。そして何事もなかったように歩き出す。テリィも隣を歩いた。数歩進んだところで、彼が言った。「キャンディ」「なあに?」「どうして手を離した?」キャンディの足が一瞬止まりそうになる。「……え?」「さっき、俺の手を解いただろ」「……ああ」明らかに分かっている顔だった。「別に、なんでもないわ」「別に?」「ほら、挨拶するから、ね」「手を繋いだままでも挨拶はできる」「それは……そうだけど」テリィは横から彼女の顔を覗き込んだ。「俺と手
マーチン医師への挨拶を終え、診療所を出た頃には、陽はずいぶん高くなっていた。「次はカートライトさんのところ?」テリィが尋ねると、キャンディは少し考えてから首を振った。「まだ時間があるわ。少し遠回りしていい?」「いいよ」「せっかく来たんだもの。村を案内してあげる」そう言って歩き出したキャンディの足取りは、どこか弾んでいた。少し歩いたところで、テリィは自然にキャンディの手を取った。キャンディは一瞬だけ彼を見上げたものの、何も言わず、その手を握り返した。二人はそのまま、のんびりと村の
ポニーの家へ来てから、三日目の朝を迎えていた。6月末に公演を終え、次の仕事が始まるまでの短い休暇。その限られた時間の中でポニー先生とレイン先生へ婚約を報告し、キャンディとともに過ごし、その後はシカゴへ向かってアルバートにも正式に挨拶をする予定になっている。だから、のんびりしているようで、時間はいくらあっても足りなかった。朝食を終えたキャンディが、テリィへ声をかけた。「今日。マーチン先生と、カートライトさんの都合は良いそうよ」「そっか。じゃあ行こう」どちらもテリィには馴染みのある名前
初秋の夕暮れは、昼間の熱をほんの少しだけ残したまま、足早に青を深めていく。窓から斜めに射し込む光が、部屋の床に長く淡い影を落としていた。「このままでは世間体も悪いわ」マーロウ夫人は、すがりつくように言葉を重ねる。「スザナがどれだけ待ってきたと思っているの?あなたはこの子を守ると約束したでしょう」ひとつひとつの言葉の底にあるのは、娘を思う母親の、切ない願いだった。テリュースは黙って聞いている。胸の奥で返すべき言葉はすでに決まっていた。けれど、それを声にした瞬間、何かが永遠に終わることも
夜更け。ポニーの家は静かな眠りに包まれていた。子どもたちの寝息だけが、廊下の向こうからかすかに聞こえてくる。ジョシュアは眠れなかった。キャンディから聞いた言葉が、何度も胸の中で繰り返される。――私は、ジョシュアを信じてる。――みんな、あなたに幸せになってほしいって願ってる。うれしかった。それなのに、胸は苦しかった。喉の渇きを覚え、静かに部屋を出る。キッチンの扉を開けると、窓辺に一人の男が立っていた。月明かりに照らされた横顔。テリィだった。テリィが人の気配に気づき振り返る。「君も…
初演の幕が上がってから、まもなく一年。空前の熱狂を巻き起こした『ハムレット』は、初夏の再演を経て秋を迎えた今もなお、あふれんばかりの観客を迎え続けていた。夜ごとに劇場の前に伸びる馬車や自動車の列。幕が下りたあとも楽屋口を離れようとしない人々の気配。翌朝の新聞を開けば、舞台評の活字のなかに、いつでもテリュース・グレアムの名を見つけることができた。舞台の稽古に、衣装合わせ、取材や劇団との打ち合わせ。マチネのある日に至っては、朝から晩まで息を吐く暇すらない。ひとつの幕が下りれば、待ち構えていたように
木立の向こうから聞こえてきた会話は、最初は偶然だった。立ち去ろうと思えば、いつでも立ち去れた。だが、一歩を踏み出そうとしたその瞬間――テリィは、その場を動けなかった。「テリィに私は傷つけられていない。寧ろ、その逆……私が彼を傷つけたの」その言葉が、足を止めた。胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。――違う。思わずそう叫びたくなった。傷つけたのは俺だ。ずっと、そう思ってきた。スザナの事故、責任。あの日、キャンディは「私帰るね」と静かに言った。別れる、とは言わなかった。それでも分
ジョシュアは何も言えなかった。彼女が信じていたのは、都合のいい未来ではない。傷つくことも、苦しむことも知った上で、それでも前へ進むという自分自身の覚悟だった。その強さだけは、痛いほど伝わってきた。キャンディはそんなジョシュアを、優しく見つめる。「でもね、ジョシュア」その声は、今度は彼へ向けられていた。「あなたも今は、信じられる人たちに囲まれているでしょう?」ジョシュアが顔を上げる。「メイがいるし、ポニー先生も、レイン先生もいるわ」キャンディは穏やかに微笑んだ。「マーチン先生
翌日。夕暮れの光が、ポニーの家の庭をやさしく染めていた。子どもたちは食堂の窓から聞こえてくる夕食の支度の音に誘われるように、元気よく駆け回っている。キャンディは洗濯物を取り込み終え、籠を抱えながら玄関へ向かっていた。「キャンディ」後ろから声がした。振り返ると、ジョシュアが立っていた。「ジョシュア、どうしたの?」「少しだけ、話せる?」いつもの穏やかな笑顔ではなかった。どこか思いつめたような表情に、キャンディは静かに頷く。「いいわよ」二人は庭の端にある古いベンチへ腰を下ろした。少し離
応接室の方から、ポニー先生がキャンディとともに歩いてきた。ジョシュアは、キャンディの数歩後ろを歩くその男から目を離せなかった。その男は、背が高く、仕立てのよい黒いスーツを、長年着慣れているもののように自然に着こなしている。初夏の陽射しを受けた栗色の髪が、揺れていた。整った顔立ちには、都会で暮らす人間特有の洗練された雰囲気がある。けれど、それだけではなかった。立っているだけで、どこか人の目を引く。村では、まず見かけることのない種類の男だった。誰だ。なぜ、キャンディの隣にいる。その問いが
ポニーの家には、ジョシュアという青年がいる。彼は、この家では少し特別な存在だった。ポニーの家は、本来なら幼い子どもたちが暮らす場所である。13歳だったジョシュアは、年齢だけを考えれば受け入れられるはずではなかった。だが7年前、まだ2歳だった妹メイがポニーの家へ預けられることになった時、幼い妹は兄から離れようとしなかった。年齢を理由に兄妹を引き離すことだけはしたくない――。そう願ったポニー先生とレイン先生は、村人たちへ何度も頭を下げ、理解を求めた。そして村の人々もまた、その願いを受け入れ
ブログ主が小学生だった時に迎えたなかよし最終回それ以降どんな時でも心の片隅にはキャンディとテリィのことがありずっとふたりの幸せだけを願ってきましたファイナルでふたりは結ばれましたがあの時の心の傷が完全に癒えることは今後もないのでしょうそこでどんなセリフだったらここまで引きずらずに済んだのか…を考えてみました『けっしてきみのことは、きらいじゃない』ブログ主はテリィの全てが大好きなのですがこれだけは本当に無理でしたこの一文だけに注目すると中間〜やや好意寄りの表現に
《《セントポール学院にて》》文化祭の催し物、キャンディのクラスはお化け屋敷。キャンディが受付係をしていると、他校の男子たちが次々誘ってくる。でもキャンディはそれに気が付かず、お化け屋敷が賑わっていると思っている。🍀キャンディヘルプ😭受付一人足りない💦🐴テリィわかった。待ってろ。10分後。テリィが受付へ入ると、状況は一変した。「えっ……テリュース!」「ほんとだ!あの人が受付やってる!」その声はあっという間に校内へ広がった。制服姿の
応接間には、穏やかな静けさが流れていた。窓から吹き込む初夏の風が、白いレースのカーテンをゆっくりと揺らしている。庭では幼い子どもたちの笑い声が遠くに聞こえた。その穏やかな空気の中で、テリィは静かに姿勢を正した。舞台の上なら、何千という観客の前でも臆することはない。けれど、この日だけは違った。胸の鼓動が、自分でもはっきりわかるほど早い。隣を見る。キャンディも少し緊張した面持ちで膝の上へ両手を重ねていた。ふと目が合い、小さく微笑み合う。その笑顔だけで、不思議と肩の力が抜けた。テリィは
六月末、大きな拍手に包まれて千穐楽を迎えた。劇場には最後まで熱気が残り、終演後も取材や支援者への挨拶が続いた。主演として舞台に立ち続けたテリィにとって、それは充実した日々であると同時に、次なる大作『ロミオとジュリエット』への助走でもあった。その本格的な稽古が始まるまで、テリィたちのチームは2週間ほどの休暇が与えられていた。プロポーズのあとも、二人は以前と同じように手紙を交わした。仕事の予定を確かめ合い、まずはポニー先生とレイン先生へ、自分たちの口から婚約を報告したいという手紙を重ねなが
スザナの家を訪ねたのは、夕食にはまだ早く、けれど昼と呼ぶには少し遅すぎる、曖昧な時間だった。稽古場を出ても、街にはやわらかな光の粒が残っていた。高層ビルの窓という窓が、西日を受けて静かにきらめいていた。「いらっしゃい、テリュース。今日は早いのね」ドアを開けたマーロウ夫人の声は、いつもよりほんの少し弾んでいた。居間の奥、窓辺の椅子にスザナが座っていた。膝の上に、一冊の本を開いている。伏せられた目線が、同じ行を何度も行き来していた。声を出しているわけではないのに、その姿からは、かすかに言葉
教会を見て回るようになってから、テリィの手紙には少し変わった話題が増えた。舞台のことや劇団の仲間のこと、ニューヨークで見かけた出来事などは、以前からよく書いていた。けれど最近は、その中に必ずと言っていいほど、二人の結婚についての話が混じるようになった。――キャンディへ。今日、また教会を見てきた。夜公演まで少し時間があったんだ。マネージャーに候補をいくつか調べてもらって、俺は人の少ない時間に中を見てる。誰かに知られて新聞にでも書かれたら面倒だから、結婚式のことはまだ伏せてもらってる。
プロポーズから、ひと月ほどが過ぎた。6月のニューヨークは、日に日に夏の気配を濃くしていた。その日、昼公演を終えたテリィは、楽屋へ戻ると壁の時計を見上げた。夜公演までは、まだ時間がある。着替えを済ませ、鞄を手に取ったところで、マネージャーのフランクが声をかけた。「今日も行くのか?」「ああ」「ずいぶん熱心だな」その言葉に、テリィは少し照れたように笑った。「彼女はニューヨークの人でないから。それに、1️⃣度しかないことだからな」フランクは呆れたように肩を竦めながらも、その顔には笑みが浮か
婚約してから数日後。稽古を終えたテリィは、マンハッタンの法律事務所を訪れていた。古い煉瓦造りの建物の二階。ここへ来るのは、初めてではない。あの日、テリィはロンドンから忽然と姿を消した。それはキャンディを学院に残すためだった。二人は罠にはめられたが、キャンディだけが退学になる可能性があった。アードレー家の養女としてロンドンへ留学していた彼女にとって、学院を追われることは、単に学校を辞めるというだけでは済まない。自分が退学になる代わりに、キャンディを残してほしい。そのために、テリィは自分が
翌朝。キャンディが目を覚ましたとき、窓の外にはやわらかな朝の光が広がっていた。昨夜降りていた冷たい空気はどこか遠のき、風が白いカーテンを静かに揺らしている。しばらく、ぼんやりと天井を見つめた。胸の奥を探るように、ゆっくり息を吸う。不思議だった。まだ悲しみが消えたわけではない。スザナのことを思えば、胸は今でも痛む。テリィと離れていた長い年月を思えば、切なさも残っている。けれど昨夜までのように、心が締めつけられる感覚はなかった。まるで長い間、固く結ばれていたものが、少しだけほどけたよ
その言葉に、キャンディの目から新しい涙が零れた。前へ進んでもいい。ポニー先生の言葉は、確かにキャンディの心を軽くしていた。テリィを愛していることを、罪のように思わなくてもいい。スザナを忘れなくても、あの日の自分を否定しなくても、彼と生きる未来を選んでいい。そう思えた。けれどひとつだけ、まだ心に残っていることがあった。キャンディは涙を拭うと、しばらく俯いていた。「先生……あのときの私たちは……どうして、あんなふうに別れなければならなかったのでしょう」ポニー先生は黙ってキャンディを見つめた
「ポニー先生……」キャンディは縋るように尋ねた。「先生……運命って……あるのですか?」ポニー先生はしばらく黙っていた。揺れる蝋燭の火を見つめながら、静かに言う。「そうですね……」小さく微笑む。「神様が最初から結末を決めておられたのかどうか、それは私にはわかりません」キャンディは目を見開いた。運命を信じる人なら、もっとはっきり答えると思っていたからだ。「ですが――」ポニー先生は続ける。「あなたとテリュースさんのお話を聞いていて、私は思うのです」礼拝堂の静寂の中、声だけが穏や