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テリュース・グレアムのプリンシパル任命の知らせは、RSCの壁の内側に留まらなかった。ロンドンの劇場街でその名が囁かれた翌朝には、新聞社の編集室で見出しとなり、午後には社交界の茶会で扇の陰で語られ、夜には貴族たちの晩餐の席で口にされていた。テリュース・グレアム。RSC新プリンシパル。その名は、乾いた絹へ火が移るように、静かに、けれど止めようもなく、ロンドンの上流社会へ広がっていった。かつてブロードウェイの舞台で名を馳せ、RSCの舞台に立ち、ついにはプリンシパルの座へ上りつめたという噂
二か月に及んだSMTオーディションは、ついに幕を閉じた。結果は、誰も予想していなかったものだった。最終選考に残った三人。その中に、テリュース・グレアムの名があった。SMT側は最終選考終了後、三名全員との契約を正式に発表した。次回演目の詳細はまだ明かされていない。だが、最終三名に選ばれたということは、一年間、ストラトフォードで主演級として舞台に立つことを意味していた。アメリカの演劇界は騒然となった。「ブロードウェイ俳優、歴史的快挙」「SMT、主演級キャストにテリュース」新聞は連日
劇場には静寂が降りていた。最後のスタッフが帰り、照明も落とされる。昼間の喧騒が嘘のようだった。客席は闇に沈み、舞台だけが非常灯に照らされている。テリィは一人だった。誰もいない劇場の空気は嫌いではない。むしろ好きだった。舞台は不思議な場所だ。観客で埋め尽くされた時と、誰もいない時、まるで別の顔を見せる。そしてテリィは昔から、後者の顔を知っていた。舞台中央へ歩く。手にはSMTから届いた課題。テリィは客席を見渡した。脳裏には別の景色が浮かんでいた。ストラトフォード、エイヴォン川、英国の空
グランチェスター公爵家の紋章付きピンバッジ©2025Rokiso."CandyCandy"fanart.数日後に控えたジョージの婚礼を前に、テリィとキャンディはロンドンに到着した。駅から馬車で運ばれた先は、グランチェスター公爵家の新しいタウンハウス。白い石造りの外観に黒い鉄柵、玄関には磨かれた真鍮のノッカーが光り、格式を控えめに示していた。迎えに出た老執事に導かれ、ふたりは二階へと上がる。「こちらが、テリュースさまご夫婦のお部屋でございます」扉が開かれると、柔らかな光に包
シカゴから戻った翌朝、村はいつもと同じ顔をしていた。朝霧が低くたれ込み、牧草地の向こうで鶏が鳴く。ポニーの家の教会の鐘は、変わらず同じ時刻に鳴った。それなのにキャンディだけが、世界とほんの少しずれていた。ハッピー・マーチン診療所。消毒薬の匂い。白衣の擦れる音。患者を呼びこむ声。すべてが慣れ親しんだはずなのに、彼女の意識は、何度も遠のいた。包帯を巻きながら、手元が止まる。薬瓶を戻そうとして、違う棚に置きかける。カルテの文字を、間違える。「……キャンディ?どうかしたの?」同僚の
その日、テリィが帰ったあと、部屋には長い沈黙だけが残った。暖炉の火が静かに揺れている。肌寒い秋の夜、窓の外では秋雨が静かに降り続いていた。スザナはしばらく動かなかった。テリィが座っていた椅子。閉まったままのドア。そのすべてを見つめながら、ただ静かに座っていた。胸は痛かった。想像していなかったわけではない。わかっていた、ずっと前から。それでも、どこかで期待していたのかもしれない。恩人、芝居仲間。それはテリィらしい誠実な答えだった。だからこそ痛かった。スザナはゆっくり息を吐いた。涙は出
ロンドンの12月は、昼も夜も区別がつかないような薄灰色だった。だが大晦日の夜だけは、街の空気にどこかそわそわとした温かな気配が漂う。ケンジントンのタウンハウスでは、暖炉の火が静かに揺れていた。湯気の立つマグを両手で抱えながら、キャンディがふいに言う。「……ロンドンで年越しなんて、なんだかまだ不思議ね」テリィは上着の袖をまくりながら、暖炉の前に腰をおろした。「ここはビッグ・ベンの鐘が鳴るだけだ。あの鐘の音が新年を告げるだけ、ニューヨークの賑やかさとは違う」「それで十分よ。あなたと聞け
スザナ・マーロウの訃報が新聞各紙に載ったのは、その週の金曜日だった。年が明けたニューヨークの朝は冷たく、劇場街の歩道にはまだ昨夜の雪が薄く残っていた。新聞売り場には特別版が並び、人々はコートの襟を立てながら足を止める。ハムレットの成功以降、テリュース・グレアムは世間の注目を集める存在になっていた。だから彼に関わる出来事もまたニュースになる。スザナの死も例外ではなかった。劇場へ向かう途中、何人もの人が新聞を広げていた。誰も悪意など持っていない。ただ悲劇を惜しみ、若くして亡くなった元
病院の玄関を出ると、赤煉瓦の壁は傾き始めた陽を受けて淡い茜色に染まり、車寄せの石畳には長く伸びた影が静かに重なっている。病院の扉を一枚隔てただけで、薬品の匂いや病室を満たしていた人々の声は遠のいた。それでもキャンディの胸には、今日一日、患者たちのそばで過ごした時間が、まだ静かな温もりとなって残っていた。ジョルジュは車のそばに立っていた。キャンディの姿を見つけると、いつものように姿勢を正し、後部座席の扉を開く。「キャンディスさま」「ありがとう、ジョルジュ」そう答えた自分の声が、いつもよ
その日の夜。夜が深まっても、キャンディのまぶたは閉じられなかった。灯りを落とした寝室に、外の街のざわめきはほとんど届かない。それでも耳の奥では、まだ地下鉄駅の轟音が反響していた。金属が軋む音、人々の悲鳴、消毒液の匂い――すべてが脳裏に焼きつき、消えることがなかった。隣では長男が無垢な寝息を立てている。その小さな胸の上下を見つめれば安らぎを覚えるはずなのに、なぜか胸がざわついて眠れない。生きていてくれる――その確かさを抱きしめるたびに、逆に「失う恐怖」が突き刺さってくる。布団の端を握
スザナの部屋を訪れたのは、翌日の夕方だった。窓の外では秋雨が静かに降り続いている。肌寒さを感じる夕暮れだったため、暖炉には火が入れられ、その炎だけが静かに揺れていた。テリィが部屋へ入ると、スザナは「いらっしゃい」とも言わず、暖炉の火を見つめたままだった。以前なら、彼の姿を見ると穏やかに微笑み、「寒かったでしょう」と声を掛けてくれた。けれど今日は違った。その表情は固く、部屋には重い沈黙だけが流れていた。その様子に、テリィは記事のことを悟った。「新聞……読んだんだな」スザナは答えなか
劇場街の石畳には色づいた落ち葉が風に舞い、人々は肌寒さに肩をすぼめながら足早に通り過ぎていく。そんな十月中旬の朝。テリィはいつもより早く劇場へ来ていた。誰もいない稽古場。薄暗い客席。舞台の上に置かれた一脚の椅子。その中央に立ち、台本を開く。SMTの課題のハムレット。今では課題というより、日課になりつつあった。公演を終えたあとも稽古を続け、早朝も深夜も、空いた時間を見つけては台本を開いていた。久しぶりだった。ここまで何かに夢中になるのは。ハムレットのオーディション以来かもしれない。
翌日。灰色の雲が空を覆い、窓ガラスを叩く雨粒が学院の教室を暗くしていた。ランプの明かりの下、昨日の夜空を思い出していたテリィは、またしても黒板の前に立つ教師の言葉に耳を傾けていた。「さて、諸君。昨日は星について学んだな。だが夜空は常に晴れているわけではない」教師はゆっくりと教卓の上に木箱を置いた。箱の蓋を開けると、中から丸い盤が現れる。細い針が震え、静かに『北』を指していた。「これが羅針盤だ。磁石の力を借りて、常に『北』を示す。嵐の夜も、雲に星が隠れてしまったときも、羅針盤は決して迷
その夜、アパートの屋上に出ると、ニューヨークの街の灯りが星のように瞬いていた。「寒っ……!」コートの襟を立てながら、キャンディが身震いする。「だから言っただろ。上は冷えるって」「でも、夜景を一緒に見たかったの」テリィは肩をすくめ、持ってきたブランケットを彼女の肩にそっとかけた。「ほら」そのまま、自分のほうへ引き寄せる。ふたりで一枚の布にくるまりながら、夜空と街を見下ろした。「ねえ、テリィ」「なに」「今日、舞台に立ってるあなたを見ていて、すごく嬉しかったの」「……そうか」
TheTomboyandtheRebelAristocrat妄想日記おてんばちゃんとヤンチャ貴族覚書⑩AI画像アートスタイルあっという間に2026年も7月となりました。この妄想日記を始めた昨年の秋の時点での予定では、今頃はテリィが劇団を退団し、写真学校に入学するまでの長期休暇を描く予定でした。その長期休暇で、キャンディと長男と3人でシカゴにに行くシーンを描く予定でしたが、思うように妄想日記が進展していませんこの妄想日記The
キャンディへ久しぶりに、長いセリフとにらめっこしてる。といっても、新作じゃない。あの“ハムレット”だ。特別公演として、年末の2週間だけ。だいぶ前から話はあったが、先日正式に通達があったんだ。新しい劇場のこけら落としとして、“ハムレット”をすることに決まったというわけ。ファイナルで終わりにするつもりだった俺は、正直驚いたけど…でも、本当はありがたいと思った。実は千穐楽の席を、ひとつ取ってある。きみに観てもらいたいと思って。観に来てもらえたら嬉しい。12月23日、最終公演だ。舞
一年前のロンドン。冬の気配が漂うころ、テムズ河を渡る風には、どこか劇場の匂いが混じっていた。冷たい霧雨の舞う午後、アレックス・ハリントンはピカデリーの歩道に立ち、折り畳んだ新聞を広げた。《ロンドン芸術座、“ジャーニーズ・エンド”ロングランの勢い止まらず》その中央に、舞台写真が載っていた。塹壕の闇を切り裂く一筋の光、その中に立つ俳優の影。テリュース・グレアム。指先が止まる。胸の奥に、古い記憶の灯がふっとともる。「やっぱり……あいつはロンドンでも異彩を放つ」アレックスは思わず笑みをこ
いつも読んでくださり、ありがとうございます😊年末のお忙しい時期にもかかわらず、年末年始の挨拶記事に「いいね」を20以上いただきました。本当にありがとうございますこれらの「いいね」は、お話への労いとして、そして同時に「次はどんなものが出てくるのだろう」という期待感として、ありがたく受け取ることにしますそこで本日は、テリィとキャンディ……ではなく。ステアのイメージビジュアルを公開させていただきます。え?「テリィとキャンディじゃないの?」そんな声が聞こえてきそうですが……(苦笑
年が明け、劇団は春公演の準備へと動き出していた。「…テリュース、春は出ないんだって?」「なんでも、長期休暇に入るって…ねえ、そういうのって結婚なんじゃない?」そんな噂が劇場のそこかしこで囁かれるようになったのは、ほんの数日前のことだった。劇団公式の告知は「俳優テリュース・グレアムは、春公演を休演し、一定期間の休暇に入る」とだけ。だが劇団幹部以外、彼の私的な事情は誰も知らない。その噂が楽屋裏まで届いたある午後。ひとりの女優が、迷いなく“楽屋1”の扉を開けた。「テリュース、入るわよ」深
その夜、ロンドンは珍しく音の少ない夜だった。街路を走る馬車の音も、遠くの汽笛も聞こえない。タウンハウスの窓辺で揺れるカーテンだけが、ゆっくりと夜気を受け止めていた。子どもたちはすでに眠っている。オリヴァーはベッドの中央を堂々と占領し、オスカーはその腕に絡みつくようにして、規則正しい寝息を立てていた。テリィは、その寝顔をしばらく見つめていた。(……眠っている)それだけのことが、胸に重く沁みる。あの春、大西洋の上で起きたことが、まだ完全には過去になっていないからだ。テリィは灯りを落
最初に異変を感じたのは、母親だった。冬も終わりに近づいた頃、スザナの咳は少しずつ増えていた。本人は風邪だと言って笑っていたが、夜になると咳き込む時間が長くなり、朝には微かな熱を残していることも珍しくなくなっていた。それでもスザナは仕事を休もうとしなかった。事故以来ようやく手に入れた居場所だったからだ。舞台へ戻ることは叶わなかったが、脚本やラジオの仕事を通じて、再び芝居の世界と繋がることができている。その喜びを失うことが怖かった。だから多少の無理をしてでも机に向かい続けた。だが、身体
キャンディは、その場に立ち尽くしていた。声も出ず、足も動かない。ただ、風に揺れる草の匂いと、西の空に傾いた夕陽だけが、現実を知らせていた。長く伸びた影が、一歩ずつ、そこにいる人の輪郭を浮かび上がらせていく。それはまるで、夢が形を取っていくようだった。雑誌の見出しで目を引くあの名前。舞台の評判とともに語られる俳優、テリュース・グレアム。けれど今、シロツメクサの丘に立つその人は、どんなに大人びていようと、間違いなく彼女の知る“テリィ”だった。あの頃と変わらぬ、やわらかな眼差し。ただ、彼
8月に久しぶりに子供時代の友人に会った際、キャンディキャンディの漫画だけは持っていると聞いて、子供時代に仲間が少なくあまり聞くことができなかったあの質問を今更に投げてみた、そう、やってみたかったのです「誰が好きだった?テリィ?」「そうねえ、テリィはないねだれだっけ、名前忘れたけどあの兄弟の性格のいいほうの・・・」「ああ、ステアね」テリィ推しの自分ですが、好きな男性に順番につけるとすると1テリィ2アンソニー3ステアなぜアルバートさんがいないのか理由
ロンドンの深秋。霧が石畳を包み、街灯の光さえも濡れた空気の中に沈んでいた。馬車の車輪が遠くを通り過ぎ、トラムの鈍い金属音が霧の奥でゆっくりと消える。夜と朝のあわいのような灰色の街を、テリィは歩いていた。オファーがあった劇場とは別の劇団。煤けた壁、湿った木の匂い、出入りする裏方の声はどこの劇団も似ていた。テリィは、一つひとつの扉の前で立ち止まり、深呼吸してからノックをした。「お忙しいところ失礼します。ニューヨークのブロードウェイの舞台に立っていました、俳優のテリュース・グレアムと申します
5月の空は澄んでいた。キャンディとテリィを乗せた列車は、午前のうちにシカゴ駅に滑り込んだ。プラットホームの端に、アードレー家の黒塗りの車が静かに待機していた。その姿は、周囲の喧騒と距離を置くかのように、整然としていた。「迎えに来てくれてるわ。あの車よ」キャンディがテリィの腕に触れ、小さく頷く。「なんだか少し緊張しちゃうな」「それを言うなら俺のほうこそだ」英国の伝統を背負ったグランチェスター公爵家の血を引く彼にとって、アードレー家は全く異なる系譜の家だった。長い歴史と格式に根ざ
1923年、秋。夏の賑わいを終えたニューヨークは、澄みきった空気に包まれていた。街路樹は赤や黄金色へと色づき、公園には落ち葉が静かに舞う。朝夕には冷たい風が街を抜け、人々は薄手のコートを羽織り始めている。劇場街にも、新たな演目を待ちわびる観客たちの期待が満ちていた。だが、その喧騒から一歩劇場の中へ入れば、そこには別の熱があった。ブロードウェイ・ストラスフォード劇団。数日後に初日を迎える『アントニーとクレオパトラ』の稽古は、いよいよ大詰めを迎えていた。舞台上にはエジプトの宮殿を模した
五月七日。ロンドンの朝は、まだ少し肌寒さを残しながらも、春の匂いを確かに含んでいた。キャンディは、いつもより少し早く目を覚ました。悪夢は見なかった。けれど、深く眠れたという感覚も、まだ戻りきってはいない。胸の奥に残る、波が引いたあとの砂のざらつきのような感触。隣では、テリィが静かに眠っている。彼の寝息は、一定で、揺るぎがない。その安定した呼吸を確かめるように、キャンディはそっと目を閉じ、また開いた。――今日は、私の誕生日。そう思い至った瞬間、胸の奥に小さな戸惑いが生まれた。祝ってもらう
夕闇に染まるころ。ニューヨーク中心部の喧騒とは異なる、静けさと上質な空気が流れる高級住宅街。どの家も通りから少し奥まったところにあり、街全体がまるで小さな砦のように、穏やかに守られていた。テリィの車がセキュリティゲートを抜けると、ふいに別世界へ入ったような感覚に包まれる。どの建物も派手ではなく、それでいてどこか風格があり、空が広い。「…ここに住んでるの?」思わず小声でつぶやいたそのとき。テリィが静かに車を止めた。目の前には、レンガ造りの瀟洒な建物がそびえていた。テリィが住んでいるとい
二人が結婚して間もないころのお話。夜の静けさが、ゆるやかな呼吸の音だけを部屋に留めていた。寝室のカーテン越しに落ちる街灯の光が、シーツを淡く照らし、その中に溶け込むようにふたりは寄り添っていた。キャンディはテリィの胸に頬を寄せ、指をそっと彼のパジャマの襟元に触れながら、ふいにぽつりと呟いた。「ねぇ、テリィ……」「ん?」低く、眠りと覚醒の狭間にいるような声が降りてくる。キャンディは少し顔を上げ、テリィの肩に流れる影を見つめた。「人って……どうして“誰か”を好きになるんだろうね?」
――ストラスフォード第三劇場完成披露記者会見にてニューヨークの街は、色づき始めた街路樹の葉が秋風に舞っていた。乾いた空気には、朝晩の冷え込みを運ぶ気配が混じる。日差しは柔らかいが、コートの襟を軽く立てたくなるような、そんな10月の佳き日に―ストラスフォード劇団が建設を進めていた新たな劇場『ストラスフォード第三劇場』が、ついに御披露目となった。そしてその“こけら落とし”の演目として発表されたのは、『ハムレット』だった。もちろんその主演には、これまでの舞台で劇団史上前例のない興行記録を