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現役蒸機が走っていたころ、山陰線東部地方ではDL補機の付く勾配区間や蒸気機関車の交番検査や廃車回送の貨物列車を撮ると意に反して当時の主力機であったDD54が写り込んでたりして、何とかDD54が目立たないように蒸気機関車を主役に撮れるように苦心したものです。今回は形式消滅が決定的になって急に人気が出てきたDD54の、そんな縁の下の力持ち的存在だった頃の写真を集めてみました。交番検査だったのでしょうか?ナンバープレートを付けたまま西舞鶴のC12がDD546に牽かれて西舞鶴へ
播但線のC57の事を取り上げた鉄道雑誌などで「C57貨物の692レにはDD54補機は付かない」という記事を目にしますが、私にはそんな実感はありません。お昼過ぎに生野峠を登ってくる692レのC57貨物は、その日の荷物の量によって新井からDD54の補機を付けるかを決めていたように感じます。DD54補機の運用は新井-寺前間となっていましたが、寺前を13時半ごろに出て来る695レC57下り貨物の量によっては、692レで本務機のC57と一緒に新井から生野峠を登ったDD54は生野駅で解結されることもあ
1970年代前半福知山線を走るディーゼル機関車は皆箱型の機関車でした。1972年11月福知山線貨物が走ると神崎川橋梁ですら風情のある情景です。1971年9月福知山線で忘れてはならない存在の尼崎港線塚口から分かれた尼崎港線の混合列車は一路尼崎港を目指します。戦前は尼崎港駅が尼崎駅で、今の尼崎駅は神崎駅(東)だったのです。そして尼崎港線の尼崎駅は神崎(西)駅となっていました。1971年9月川西池田まで運転されていた区間貨物はDD13(吹一)の担当です。
近年、鉄道雑誌やディーゼル機関車関連サイトで、ディーゼル機関車DD54が寝台特急《出雲》を牽引した期間が昭和47年(1972年)3月から昭和49年ごろまでと記されている記事を散見します。此の昭和49年ごろの“ごろ”と言うところが微妙ですが、昭和48年8月の夏休みに山陰本線西部へ撮影に行った際に、既にDD51が牽く特急《出雲》を実際に写真に撮っている私にとっては、とても違和感を覚える記事です。上は昭和48年3月黒松駅下り方で撮った写真です(無断転載厳禁!)上↑のDD5435
追加写真1/3DD5432号機タイプ《企画品》今回は追加写真になります。写真は、7010-1DD54ブルートレイン牽引機《企画品》DD5432号機タイプ