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テリュースが色のついた眼鏡をかけたのは、公園へ入る少し前だった。隣を歩くキャンディスは、その横顔を盗み見るようにして小さく視線を送る。「それ、かけるの?」「ああ。少しは、ましかと思ってさ」「だれにも気づかれないように?」「まあね」帽子を目深にかぶるだけなら、街のどこにでもいる若い男と変わらない。けれど、薄い色が入ったガラス越しに見る彼の目は、どこか遠い場所を映しているみたいに見えた。いつもの顔なのに、まったく違う誰かのようでもある。「なに?」視線に気づいたテリュースが、歩調を緩めず
港には、薄い霧が漂っていた。春の終わりの海風は、岸壁に並ぶ人々の薄手の洋服の裾を静かに揺らしている。巨大な客船がゆっくりと汽笛を鳴らした。低く長い音が海へ溶けていく。甲板の手すりに寄りかかりながら、キャンディはゆっくりと遠ざかるアメリカの海岸線を見つめていた。シカゴ。ポニーの家。アルバート。アニー。ステア。アーチー。パティ。たくさんの人たち。たくさんの思い出。嬉しかったことも。苦しかったことも。全部があの大陸の向こうへ残っている。けれど不思議だった。胸は痛むのに
ストラトフォード・アポン・エイヴォンの雨は、音を立てずに降る。窓を叩くほど強くはないが、いつまでも止まらない。今日も細い雨が石畳を濡らし、エイヴォン川の水面に細かな皺を作っていた。劇場裏口の鉄階段には水気が残り、踏みしめるたび、靴底が鈍く鳴った。RSC。建物は、今日も静かだった。だが、その静けさの奥には、獣の檻のような緊張がある。テリュースは煙草を指先で回しながら、裏口から劇場へ入った。廊下ですれ違う俳優たちは、軽く会釈するだけだ。誰も愛想よくはない。歓迎されていない。その事実だけは、日
「テリィ、元気だったの?」キャンディスはそう言って、肩にかけていたショールを外した。その声は、耳から入って胸のいちばん奥にまっすぐ届いた。すこしも変わっていなかった。テリュースは返事をするのも忘れて、しばらく彼女を見ていた。スポットライトの渦の中に立つときでさえ揺れなかった自分の心が、たったひとりの眼差しを前にして、足元からほどけていく。「ああ」胸の奥から、ようやく息を吐き出した。「見ての通り、ピンピンしてるよ」「そう。よかった」ふっと目元が緩む。ただそれだけで、この数年間に
八月の終わり。窓を開けると、まだ残る夏の匂いのなかに、ほんのわずかだけ秋の気配が混ざり込んでいた。スザナは机の上に、小さな紙袋をそっと置いた。中に入っているのは、一枚のレコードだ。あの日、テリュースの心をあれほど揺さぶった曲を、自分も同じように、きちんと聴いてみたいと思った。蓄音機にレコードを載せ、そっと針を落とす。小さな針が刻む雑音のあと、静かな音が部屋を満たし始めた。A面に収録されていたのは、あのときラジオで耳にした曲だった。『汽笛の彼方へ』細やかな音が絶え間なく重なり合い、やがて静寂
国王と王太后の退席を合図に、大広間の奥の扉が開かれた。侍従たちの案内のもと、列席者たちは隣接する迎賓室へと順に進み、宮殿の夜は次の歓談のひとときへと移っていった。高い天井から吊るされた幾つものシャンデリアは変わらぬ光を降り注いでいたが、張りつめていた空気は少しずつほどけ、弦楽四重奏の穏やかな調べに重なるように、グラスの触れ合う澄んだ音や人々の談笑が、夜の宮殿へ再び華やぎを取り戻していた。それでも、その夜の視線が集まる先は一つしかなかった。王自らその名を呼び、グランチェスターの名を公に認めた
InJune,MonheganIslandstillholdsthemistthatgatheredovertheseathroughthenight,lingeringaroundtheheadlandsandcoves.Likealengthofwhiteclothslowlycomingundone,itshiftsitsshapewheneverthewindpassesthrough,veilingthe
初演の幕が上がってから、まもなく一年。空前の熱狂を巻き起こした『ハムレット』は、初夏の再演を経て秋を迎えた今もなお、あふれんばかりの観客を迎え続けていた。夜ごとに劇場の前に伸びる馬車や自動車の列。幕が下りたあとも楽屋口を離れようとしない人々の気配。翌朝の新聞を開けば、舞台評の活字のなかに、いつでもテリュース・グレアムの名を見つけることができた。舞台の稽古に、衣装合わせ、取材や劇団との打ち合わせ。マチネのある日に至っては、朝から晩まで息を吐く暇すらない。ひとつの幕が下りれば、待ち構えていたように