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港には、薄い霧が漂っていた。春の終わりの海風は、岸壁に並ぶ人々の薄手の洋服の裾を静かに揺らしている。巨大な客船がゆっくりと汽笛を鳴らした。低く長い音が海へ溶けていく。甲板の手すりに寄りかかりながら、キャンディはゆっくりと遠ざかるアメリカの海岸線を見つめていた。シカゴ。ポニーの家。アルバート。アニー。ステア。アーチー。パティ。たくさんの人たち。たくさんの思い出。嬉しかったことも。苦しかったことも。全部があの大陸の向こうへ残っている。けれど不思議だった。胸は痛むのに
五月のシカゴ。教会の控室へ初夏を思わせるやわらかな陽光が差し込み、窓の向こうでは色とりどりの花々が陽射しを浴びて美しく輝いていた。開け放たれた窓からは、咲き誇るバラの甘い香りと若葉を渡る爽やかな風が流れ込み、小鳥たちの澄んださえずりが静かに響いている。柔らかな陽光に包まれた庭は生命の輝きに満ち、まるでこの特別な一日を祝福しているかのようだった。純白のウェディングドレスに身を包んだキャンディは、鏡の前に静かに立っていた。幾重にも重なる繊細なレースは、窓から差し込む陽光に淡く輝き、長く流れるト
国王と王太后の退席を合図に、大広間の奥の扉が開かれた。侍従たちの案内のもと、列席者たちは隣接する迎賓室へと順に進み、宮殿の夜は次の歓談のひとときへと移っていった。高い天井から吊るされた幾つものシャンデリアは変わらぬ光を降り注いでいたが、張りつめていた空気は少しずつほどけ、弦楽四重奏の穏やかな調べに重なるように、グラスの触れ合う澄んだ音や人々の談笑が、夜の宮殿へ再び華やぎを取り戻していた。それでも、その夜の視線が集まる先は一つしかなかった。王自らその名を呼び、グランチェスターの名を公に認めた
テリュース・グレアムのプリンシパル任命の知らせは、RSCの壁の内側に留まらなかった。ロンドンの劇場街でその名が囁かれた翌朝には、新聞社の編集室で見出しとなり、午後には社交界の茶会で扇の陰で語られ、夜には貴族たちの晩餐の席で口にされていた。テリュース・グレアム。RSC新プリンシパル。その名は、乾いた絹へ火が移るように、静かに、けれど止めようもなく、ロンドンの上流社会へ広がっていった。かつてブロードウェイの舞台で名を馳せ、RSCの舞台に立ち、ついにはプリンシパルの座へ上りつめたという噂
病院の玄関を出ると、赤煉瓦の壁は傾き始めた陽を受けて淡い茜色に染まり、車寄せの石畳には長く伸びた影が静かに重なっている。病院の扉を一枚隔てただけで、薬品の匂いや病室を満たしていた人々の声は遠のいた。それでもキャンディの胸には、今日一日、患者たちのそばで過ごした時間が、まだ静かな温もりとなって残っていた。ジョルジュは車のそばに立っていた。キャンディの姿を見つけると、いつものように姿勢を正し、後部座席の扉を開く。「キャンディスさま」「ありがとう、ジョルジュ」そう答えた自分の声が、いつもよ
夕方の病棟には、長い一日を終えようとする静かな時間が流れていた。薬の時間を告げる看護師の足音も、家族を見送る患者たちの声も、雪解けの湿った空気に溶けるようにやわらかく響き、人々の疲れをそっと包み込んでいた。キャンディは熱の下がらない患者へ水を飲ませ、枕の高さを少しだけ直して病室を出た。廊下を歩くたび、開いた扉の向こうには、それぞれ違う時間が流れている。眠る夫の手を握ったまま窓の外を見つめる若い妻もいれば、退院を明日に控え、孫の描いた絵を何度も見返している老人もいる。病院という場所には痛み
公聴会から数日が過ぎても、シカゴの冬はゆるむ気配を見せなかった。ブラックストーン鉱山事故で近くの病院へ運ばれていた重症患者たちは、容体が落ち着いた者から順次、シカゴのクック郡病院へ転院し、ジョーをはじめ長期の治療が必要な負傷者たちも、今はそこで療養を続けていた。キャンディもまた、彼らの看護を引き継ぐためシカゴ市内にあるクック郡病院へ移り、慣れない病棟と看護師寮を新たな居場所として、休む間もない毎日を送っていた。その日も昼過ぎまで病棟を駆け回り、ようやく交代の時間を迎えたころには、窓の外には
その朝、シカゴの空は驚くほど澄み渡っていたが、ブラックストーン鉱山事故から幾日も過ぎているというのに、街はまだ深い痛みの中に沈んでいた。商工会議所へ向かう石畳の道には、公聴会に向かう人々が、早くから集まり始めていた。銀行家たちは低い声で囁き合い、市議会議員や実業家、労働組合の代表者たちも、それぞれ胸に異なる思惑を抱えながら歩いていく。その列の中には、黒い喪服姿の女性や、古びた帽子を胸に抱いた老人の姿もあった。「号外だ!ブラックストーン鉱山事故、公聴会いよいよ開催!」入口のそばでは、新聞
ジョー・マッケンが、初めてキャンディの前で「ありがとう」と口にしたのは、ブラックストーン鉱山事故から二十日ほどが過ぎた、夕暮れの病室だった。それは感謝を伝えようとして選んだ言葉というより、胸の奥に長く澱んでいたものが、ようやく静かにほどけて漏れたような、小さく頼りない声だった。キャンディは何も言わず、傷口の様子を確かめながら新しいガーゼを当てていく。熱はもうほとんど下がり、赤黒く腫れていた腕も、少しずつではあるが治る力を取り戻し始めていた。窓の外では、暮れなずむ空に街の灯が一つ、また一つと
アードレー家にとって、ブラックストーン鉱山事故が残した傷は、想像していたよりもはるかに深かった。負傷者への補償、操業停止による損失、新聞各紙が連日のように掲げる厳しい見出しに加え、やがて街では、アードレー家は鉱山の危険を知りながら無理に操業を続けていたのではないか、という噂まで囁かれ始めていた。はじめは鉱山町の酒場や市場の片隅で交わされていた声が、シカゴの取引所へ、銀行の窓口へ、馬車の行き交う大通りへと広がっていくにつれ、アードレーという名は、古い名門を示す響きではなく、冬の空の下でひび割れ
ブラックストーン鉱山の崩落事故から、シカゴの新聞は連日のように黒々とした見出しを掲げていた。『ブラックストーン鉱山崩落事故死者さらに増加』『安全管理に重大な問題か?』『アードレー家に批判集中』朝の街角では新聞売りの声が冷たい空気を裂き、行き交う人々は馬車を待つあいだにも紙面を広げ、眉をひそめ、ある者は憤りを露わにし、またある者は声を潜めて、あの名門もついに終わりかもしれない、と囁き合っていた。その紙面を、鉱山近くの病院のスタッフルームで、キャンディはじっと見つめていた。窓の外には
冬の午後だった。シカゴの街は、いつの間にか淡い白に霞んでいた。アードレー家本社ビルの最上階にある執務室の大きな窓の向こうでは、灰色の空から細かな雪が絶え間なく舞い落ち、街路樹の梢も、石造りの建物の屋根も、ゆっくりと冬の色へ包まれていく。部屋の中には、窓辺のラジエーターから送られる蒸気暖房の柔らかな温もりが満ち、それに加えて大理石の暖炉では赤い炎が静かに揺れていた。重厚な絨毯も、磨き込まれた執務机も、天井まで届く書棚も、そのぬくもりに抱かれ、外の寒さとはまるで別の世界のように穏やかな空気をたた
こんにちは💕全国100万人のキャンディキャンディファンの同志のみなさま、いかがお過ごしですか?私の住んでおりますところは、既に梅雨に入り、じとじとと雨模様の日々が続いております。で、で、ですが💕気持ちは前向きに💕それで。作っちゃった〜😆久々に、キャンディキャンディ検定✨️✨️✨️実はりんの方のブログも見てくださった同志のCさまが、昔作ったキャンディキャンディ検定で、7点を出されたとコメントをくださり、久々に新しいキャンディキャンディ検定を作ってみようかな〜💕と思ったわけです。ま、そ
エイヴォン川を渡る風にはまだ冬の名残が残っていたが、その冷たさの奥には確かに新しい季節の気配が混じり始めていた。川沿いの土手や石垣の脇では、水仙の花が黄金色の小さな灯火のように揺れ、長い冬を越えた街に春の訪れを告げていた。眠っていた大地が静かに目を覚まし、エイヴォン川の流れもまた、やわらかな光をまといながら新しい季節へ向かおうとしている。けれど、RSCの中では季節などほとんど意味を持たなかった。朝になれば別の人間になり、夜になれば別の人生を終える。俳優たちはシェイクスピアの言葉に身を浸し、
ハムレットの夜から、ロンドンは変わった。次の日の朝、新聞売り場には早くから人だかりができ、劇評欄にはまるで申し合わせたように同じ名前が躍っていた。『新たなハムレット』『ブロードウェイのスター、英国を沈黙させる』『王子の再来』『帝王、誕生』オールドウィッチ劇場の前では、前夜の余韻に酔った人々が足を止め、「あの“Tobe”を聞いたか」「いや、“尼寺へ行け”だ」「あんな沈黙は初めてだった」と興奮気味に語り合い、その熱はロンドンの街角から街角へと波のように広がっていった。そして、二週間にわたる
ロンドンの夜は、雨上がりだった。濡れた舗道には劇場の灯りが幾筋も伸び、馬車の車輪が石畳を滑るように音を立てて通り過ぎていくたび、その光は揺れ、砕け、また濡れた黒の中に戻っていった。ロンドン、オールドウィッチ劇場。ストラトフォード・アポン・エイボンの静けさとは違う。ここには街の熱があった。批評家たちの鋭い視線、招待客たちの囁き、新聞記者の気配、演劇学校の学生たちの息を詰めた期待、上流階級の夫人たちの香水と絹擦れの音、そして何より、ジュリアン・リードのハムレットを観るはずだった観客たちの、失望
翌朝、RSCの建物は、静かすぎるほど静かだった。俳優たちは廊下ですれ違っても、ほとんど誰も口を開かない。衣装係の足音も、舞台スタッフが道具を運ぶ音も、いつもより慎重だった。誰もが、ジュリアン・リードの声が消えたことを知っていた。ロンドン公演を目前にした『ハムレット』の主役が、声を失ったことは、ひとりの俳優のただの体調不良ではなかった。RSCにとっては、一本の柱が抜けたような出来事なのだ。テリュースが通りかかると、掲示板の前には、スタッフ数人が立っていて、小さな声で何かを囁きあっていた。昨日ま
その夜、RSCの劇場は異様な熱を帯びていた。近くを流れるエイヴォン川の水面には劇場の灯りが細く揺れ、空気の中で、観客たちの足音が石畳に重なっていた。演目は『リチャード三世』。主演はジュリアン・リード。RSCが、次のロンドン公演で『ハムレット』を任せようとしている男だった。誰もが、それを知っていた。劇団内でも、批評家たちの間でも、演劇学校の若い俳優たちの間でも、すでに空気は決まっていた。ジュリアン・リードは、次のロンドン公演でハムレットを演じる男になる。そして、今夜の『リチャード三世』は
翌朝、テリュースは誰よりも早く稽古場に入った。木の床には、誰かの落としたペンが転がっていた。テリュースはそれを拾い、机の上に置く。そして窓際の椅子に腰掛け、『ロミオとジュリエット』の脚本を開いた。ロミオとジュリエット。その名前を見るたび、テリュースの胸の奥に痛みが走る。あの役は、美しい。若さがあるし、熱がある。言葉が光っている。だが、その光の奥には、死がある。テリュースは、ページをめくる指を止めた。ずっと以前なら、ロミオを演じることは怖くなかった。恋を語ることも、愛を誓うことも、相手の
朝は、よく晴れていた。劇場の壁は陽射しに温められ、窓硝子には青空と流れる雲が映っていた。開いた窓からは風が入り、川の匂いを運んでくる。テリュースがRSCの稽古場へ入ると、すでに俳優たちが発声を始めていた。低い声が、木の床を伝って響く。感情を乗せるためではなく、呼吸を整えるためだった。吸う場所。吐く場所。音を強く落とす場所。言葉を流す場所。怒りより先に呼吸を。涙より先にリズムを。そうして、言葉を身体へ沈めていくのだ。テリュース・グレアムは、その光景にまだ馴染めずにいた。RSCでは、俳優の熱
数日後。RSC公開稽古の日。客席には、いつもの劇団員だけではなく、演劇学校の講師、地方劇場の関係者、批評家の卵たちまで座っていた。薄暗い客席には、独特の緊張が漂っている。RSCの公開稽古は、単なる“見学”ではない。ここでは、俳優がどう壊れ、どう作り直されているかまで見られる。演じる過程をすべて丸裸にされる。つまり、未完成も、失敗も、沈黙も、すべて晒される。それがシェイクスピアの研究機関としてのRSCの役目でもあった。舞台袖で、テリュースは静かに呼吸を整えていた。指先が冷たい。『マク
ストラトフォード・アポン・エイヴォンの雨は、音を立てずに降る。窓を叩くほど強くはないが、いつまでも止まらない。今日も細い雨が石畳を濡らし、エイヴォン川の水面に細かな皺を作っていた。劇場裏口の鉄階段には水気が残り、踏みしめるたび、靴底が鈍く鳴った。RSC。建物は、今日も静かだった。だが、その静けさの奥には、獣の檻のような緊張がある。テリュースは煙草を指先で回しながら、裏口から劇場へ入った。廊下ですれ違う俳優たちは、軽く会釈するだけだ。誰も愛想よくはない。歓迎されていない。その事実だけは、日
空は、朝から重かった。低く垂れ込めた灰色の雲。霧混じりの風が、エイヴォン川から街へ流れ込んでくる。テリュース・グレアムは、劇場前で足を止めた。王立シェイクスピア劇団。RSC。重厚なゴシック建築の建物は、ブロードウェイとはまるで違う空気を纏っていた。派手な看板はない。スター俳優の巨大ポスターもない。客を煽るような明るい文字もない。ただ、長い年月の中で積み重ねられた“演劇そのもの”の重みだけがあった。入口脇のポスターには、『リア王』『十二夜』『マクベス』『ハムレット』の文字。そのどれもが静
今さら・でも―キャンディキャンディいつもアクセスいただきありがとうございます©水木杏子/いがらしゆみこ画像お借りしますブログを最初から読む二次小説を最初から読む11年目のSONNET目次スピンオフ本編前本編後キャンディ雑談を読むFinalStoryの考察を読む考察①FinalStoryって?考察②新旧手紙の比較考察③あのひとは誰?考察④Finalと漫画の違い考察⑤テリィの手紙考察⑥男アルバートさん考察⑦
コーンウェル邸の応接間は、昼下がりの光の中にあった。磨かれた床、重厚なカーテン、壁に並ぶ肖像画。その中に、アリステア・コーンウェルの肖像画もあった。まだ少年の面影を残した、柔らかい笑顔。成長してからはいくつか写真もあった。けれど、その笑顔の主は、もうこの屋敷には戻らない。ヨーロッパの空へ行ったまま、帰ってこなかった。アーチーは、その写真を見るたびに胸の奥が痛んだ。兄さんなら、何と言っただろう。アニーとの婚約を、父と母が認めようとしない。理由は分かっている。ブライトン家の借金問題だ
ポニーの家の大きく開け放たれた窓からは、焼きたてのクッキーの甘い匂いが午後の風に乗って流れ、丸いテーブルには、湯気の立つ紅茶が静かに並べられている。そのテーブルを囲むように座っているのは、キャンディ、アニー、そしてパティの三人。それぞれが別々の場所で新しい時間を生き始めてから、以前のようにただ他愛もない話をしながら笑い合う時間は、いつの間にか少なくなっていた。だからこそ、こうして三人だけでゆっくり顔を合わせる午後が、たまらなく懐かしく感じられるのだ。ポニーの家の窓を揺らす風も、遠くから聞
スザナの墓のある教会は、朝の光の中で静かに息をしていた。古い石畳に、まだ昨夜の冷えが残り、白い壁には薄い影が揺れている。キャンディとアルバートが馬車を降りた時、教会の前の少し離れた場所に、一台の馬車が停まっていた。見慣れないわけではない。だが、どこか“場違いなほど整った”馬車だった。革張りの座席、磨かれた金具、よく手入れされた馬。長旅を控えた者の、無駄のない佇まい。アルバートはそれを見て、足を止めた。理由はない。確証もない。ただ、胸の奥で何かが微かに鳴った。(……来ている)言葉に
スザナの葬儀が終わった翌日。マーロウ邸は、音を吸い込んだように静まり返っていた。両親は、娘の面影が残るこの屋敷に留まることに耐えられなかったのだろう。葬儀が終わると同時に、使用人を伴ってフロリダの別荘へと発っていった。結果として、この広すぎる屋敷に残されたのは、テリュースひとりだった。与えられていた2階の客間で、彼は自分の私物を小さなトランクに詰めていた。ずっと、この屋敷へのテリュースの滞在の名目は「婚約者」だったが、その扱いは最後まで曖昧なままだった。今後についての話もなければ、引き止
『Nowcracksanobleheart.Goodnight,sweetprince,Andflightsofangelssingtheetothyrest.』「おやすみ、やさしき王子よ。天使たちの歌が、あなたを安らぎへ導きますように」ホレイショーの声は、低く、祈りのように静かな空気の中へとほどけていった。ストラスフォード劇団。『ハムレット』公演初日。最後の台詞が、空気の中にわずかに残ったままゆっくりと幕がおりると、客席はしばらく沈黙した。
スザナの脚本が上演されているのは、小さな劇場だった。ブロードウェイの華やかな通りから、少し外れたオフ・ブロードウェイにある煉瓦造りの建物。入口には、手描きのポスター。少し歪んでいて、色も派手ではない。だが、その前には、子どもたちが集まっていた。手を引かれ、笑い、落ち着きなく動き回っている。「……こんなに来てくれるなんて」入り口前の子供たちを見ていたスザナが、小さく息を吐くように言うと、キャップで変装したテリュースが、隣で答えた。「満員だな」その声には、舞台前の緊張ではなく、私的な