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テリュースが色のついた眼鏡をかけたのは、公園へ入る少し前だった。隣を歩くキャンディスは、その横顔を盗み見るようにして小さく視線を送る。「それ、かけるの?」「ああ。少しは、ましかと思ってさ」「だれにも気づかれないように?」「まあね」帽子を目深にかぶるだけなら、街のどこにでもいる若い男と変わらない。けれど、薄い色が入ったガラス越しに見る彼の目は、どこか遠い場所を映しているみたいに見えた。いつもの顔なのに、まったく違う誰かのようでもある。「なに?」視線に気づいたテリュースが、歩調を緩めず
六月六日、日曜日。テリュースは、いつもより早く目を覚ました。薄いカーテンの隙間から、初夏の光が床に細長い帯をつくっている。しばらく、そのまま天井を見上げていた。昨夜、ホテルの前でキャンディスと別れたときには、すでに日付が変わっていた。その上、帰宅してからもずっとテラスでぼんやり夜景を眺めてしまったのだ。ベッドに入ってからは、目を閉じるたびに、暗闇の向こうからさまざまな光と音が立ち上ってくる。楽屋の床に響いた、キャンディスの靴音。ショールが滑り落ち、露わになった華奢で滑らかな肩。記憶の底に
「テリィ、元気だったの?」キャンディスはそう言って、肩にかけていたショールを外した。その声は、耳から入って胸のいちばん奥にまっすぐ届いた。すこしも変わっていなかった。テリュースは返事をするのも忘れて、しばらく彼女を見ていた。スポットライトの渦の中に立つときでさえ揺れなかった自分の心が、たったひとりの眼差しを前にして、足元からほどけていく。「ああ」胸の奥から、ようやく息を吐き出した。「見ての通り、ピンピンしてるよ」「そう。よかった」ふっと目元が緩む。ただそれだけで、この数年間に身体の
客電がついた。暗闇に沈んでいた客席が、ゆっくりと現実の輪郭を取り戻していく。立ち上がる人々。興奮の残る話し声。膝の上のプログラムを閉じる小さな紙の音。今しがたまで舞台の上にあったはずの異世界が少しずつほどけ、劇場はふたたび何百人もの人間が行き交う巨大な箱へと戻っていった。キャンディスは、まだ椅子から立てずにいた。頬に残った涙を、オペラグローブの親指でそっと拭う。布越しに、その熱がじわりと指に伝わった。見つかった。テリィが、私を見つけた。そのことが胸の奥で小さく跳ねるたび、脈が早くな
HearrivedatSusanna’shouseatthatuncertainhour—notquitelateenoughfordinner,yetalreadyalittletoolatetocallitafternoon.Evenafterheleftrehearsal,thecitystillheldtracesofsoftlight.Windowafterwindowinthetallbuildin
案内係のあとに続き、細い階段を上りながら、キャンディスは息を静かに吐き出した。来てしまった。本当に、来てしまった。グランドセントラル駅のホームに降り立ったときも、ホテルの部屋に荷物を置いたときも、まだ引き返せる気がしていた。馬車を降り、劇場の白っぽい灯りを見上げた瞬間でさえ。けれど今、背後で重い扉が静かに閉じた。ベルベットの座席に重なる人々の話し声と、プログラムをめくる紙の音が、密やかな温かみとなって客席に満ちている。ストラスフォード劇場の前には、当日券を求める人々の長い列が残っていた
今さら・でも―キャンディキャンディいつもアクセスいただきありがとうございます©水木杏子/いがらしゆみこ画像お借りしますブログを最初から読む二次小説を最初から読む11年目のSONNET目次スピンオフ本編前本編後キャンディ雑談を読むFinalStoryの考察を読む考察①FinalStoryって?考察②新旧手紙の比較考察③あのひとは誰?考察④Finalと漫画の違い考察⑤テリィの手紙考察⑥男アルバートさん考察⑦
五月七日。モンヒーガン島の春は、まだ少し頼りない。陽の当たる斜面には若い草が伸び、石垣のあいだから小さな花々が顔を出している。それでも海から風が吹くと、冬の名残が袖口から入り込んでくるのだった。「ほんとうに来てくれるなんて思わなかったわ」「ひどいな。大切なキャンディの誕生日じゃないか。何を置いても僕は来るよ」「だって……しばらくは、難しかったでしょう。仕方がないって、わかってはいたけれど」「そうだね。でも、いろいろなことがやっと片付いたからね。もう何も心配いらないよ」アルバートはキャ
それから十日ほどして、アルバートはシカゴへ戻った。長く留守にしていた執務室には、彼の帰国を待っていた書類がうずたかく積み上がっていた。そのほとんどに目を通し、必要な指示を出したあと、アルバートは二人の男を呼び出した。レイモンド・ラガンと、その息子ニールである。午後三時を少し回った頃、二人は執務室へやって来た。窓の外には薄い雲が広がり、四月半ばのシカゴの空は静かに冷えている。冬を脱ぎ捨てたばかりの木々が、どこか頼りない枝を淡い光のほうへそっと伸ばしていた。二人から少し離れた場所に、ジョルジュが静
四月初めのパリには、朝から細い雨が降っていた。冬の名残を洗い流すような雨だった。ホテルの窓から見える街路は濡れて鈍く光り、行き交う馬車の車輪が、石畳の上に細い水の筋を引いていく。遠くに霞む屋根の連なりも、今日は灰色だった。ウィリアム・アルバート・アードレーは、窓辺の机に向かっていた。机の上には、朝から目を通してきた書類がいくつもの山を作っている。ロンドンからの電報。ニューヨークからの報告書。戦争で途絶えていた取引の再開をめぐる契約書。そして、レイモンド・ラガンの名が記された数枚の紙。大戦が終
木槌を打つ音が、まだ客の入っていない劇場に規則正しく響いていた。大道具係が背景幕を吊り上げ、照明係が一本ずつ明かりを確かめていく。ストラスフォード劇場では、『じゃじゃ馬ならし』の稽古が三週間目を迎えていた。かつて舞台を包んでいた悲劇の王子の影は静かに姿を消し、劇場は新しい季節を迎えるように、軽やかな笑いへとその表情を変え始めている。その喧騒から少し離れた楽屋で、電話のベルが鳴った。乾いた、短い音だった。テリュースは壁に背を預け、静かに目を閉じていた。頭の中で反芻していたのは、第一幕第二場
スザナと会わなくなって、数か月。あの日を迎えるまで、自分にはもう、スザナを支えて生きる以外の未来を望むことなど許されないのだと思っていた。それが自分に課せられた責任であり、果たすべき約束なのだと。それでも、婚約や結婚という言葉が現実味を帯びるたび、どこかで答えを先延ばしにしてきた。そばに寄り添うことはできても、その先にある境界線を越えることだけは、どうしてもできなかった。あの日、「わかりました」と静かに口にしたのは、もうこれ以上、そんなふうに誤魔化し続けることはできないと悟ったからだった。
AugustinManhattanhadyettoletgoofthesummerheat.Fromearlymorning,actorsandstagehandscameandwentthroughthetheatre’sbackentrance,whilenewpaintedbackdropswerecarefullycarriedinthroughtheloadingdoors.TheatreStrusford.
InJune,MonheganIslandstillholdsthemistthatgatheredovertheseathroughthenight,lingeringaroundtheheadlandsandcoves.Likealengthofwhiteclothslowlycomingundone,itshiftsitsshapewheneverthewindpassesthrough,veilingthe
AfterdroppingSusannaoffathertownhouseinGramercyPark,Terrencedidnotgohome.Instead,hedrovestraighttotheTheatreStrusford.Manhattanatduskwasdazzling,asalways.Countlesswindowsbegantoglow,andthecityitselfseemedtodra
一月のある日、テリュースはアッパー・イースト・サイドにある自宅へ帰る前に、劇場近くのアパートへ立ち寄った。まだマンハッタンへ来て間もないころ、やっとの思いで見つけた住まいだった。シアター・ディストリクトを埋め尽くす煌びやかな灯りから、ほんの数分歩くだけで景色は一変する。舞台の上では、まばゆい光を浴びる。だが劇場を出れば、待っているのは煤けた空気の澱む通りと冷えた部屋だけだ。アパートは六階建ての古びたレンガ造りで、工場や倉庫で働く者たちが多く暮らしていた。そこからさらに一ブロック西へ進めば、も
一九一九年、九月の終わり。マンハッタンは、まだ戦争が終わった歓びの残り香を漂わせながらも、どこか行き場を失ったように揺れていた。酒場では翌年に迫る禁酒法の噂が囁かれ、新聞の紙面はストライキの文字で埋まっている。人々は未来を祝うように笑いながら、どこかで何かに追われるように足を速めていた。けれど、ブロードウェイだけは別だった。劇場の灯りがともれば、街の焦燥は一枚の厚い緞帳の向こうへ押しやられてしまう。ストラスフォード劇場。再演された『ハムレット』は第二期公演を終えてなお勢いを失わず、三日前
꧁はじめに꧂以下は、『星々の引力』を書くにあたって、私なりに考えたスザナ・マーロウの人物像についてまとめたものです。原作漫画、『小説版キャンディ・キャンディ』および『キャンディ・キャンディFINALSTORY』の幾つかの設定や描写を踏まえながらも、一部については『星々の引力』の物語に合わせて、独自の解釈や設定を加えています。そのため、原作そのものについての考察というより、「私は『星々の引力』の中で、なぜスザナをこのように描いたのか」という創作上の人物考察としてお読みいただければ幸いです
新聞は、朝食のトレイの端に小さく折られて置かれていた。スザナは白磁のカップを持ち上げ、立ち上る湯気とともに黒い液体を少しだけ口に含む。香ばしい苦みが、ゆっくりと舌の上に広がった。カップを置いてから、そっと新聞を手にとる。一面には、ヨーロッパの遠い国の情勢と、見たこともない数字が並んでいた。それはまるで自分とは切り離されたどこか遠い世界の出来事のようだった。静かな朝の気配のなかで、スザナはゆっくりとページをめくった。三枚目の、右の下のほうに、自分の名前を見つけた。探していたわけではなかった。
モンヒーガン島からは、夏の賑わいが静かに遠ざかっていた。レイバー・デーが過ぎると、島は長い呼吸をひとつ吐き出すように、本来の静けさを取り戻していく。桟橋に積み上げられていた大きなトランクはいつの間にか姿を消し、あれほど賑やかだった通りには、いまや島の人々の穏やかな足音だけが残されていた。日が傾きかけたころ、キャンディスは白衣を脱いだ。「ああ、キャンディ。君に手紙が来ていたよ」帰り支度をしていたキャンディスは振り返った。島の医師エドワード・パーカーが、机の上から一通の封筒を取り上げる。差
初秋の夕暮れは、昼間の熱をほんの少しだけ残したまま、足早に青を深めていく。窓から斜めに射し込む光が、部屋の床に長く淡い影を落としていた。「このままでは世間体も悪いわ」マーロウ夫人は、すがりつくように言葉を重ねる。「スザナがどれだけ待ってきたと思っているの?あなたはこの子を守ると約束したでしょう」ひとつひとつの言葉の底にあるのは、娘を思う母親の、切ない願いだった。テリュースは黙って聞いている。胸の奥で返すべき言葉はすでに決まっていた。けれど、それを声にした瞬間、何かが永遠に終わることも
EveninFebruary,theManhattanwindshowednomercy,bitingsharplyatthecheeks.Eachtimetheglassrevolvingdooropened,adrychillslippedintothecorridor.Thefamiliarscentofdisinfectantbrushedpasthernose.Polishedfloors.Freshlyl
初演の幕が上がってから、まもなく一年。空前の熱狂を巻き起こした『ハムレット』は、初夏の再演を経て秋を迎えた今もなお、あふれんばかりの観客を迎え続けていた。夜ごとに劇場の前に伸びる馬車や自動車の列。幕が下りたあとも楽屋口を離れようとしない人々の気配。翌朝の新聞を開けば、舞台評の活字のなかに、いつでもテリュース・グレアムの名を見つけることができた。舞台の稽古に、衣装合わせ、取材や劇団との打ち合わせ。マチネのある日に至っては、朝から晩まで息を吐く暇すらない。ひとつの幕が下りれば、待ち構えていたように
「あなたたち、もう四年にもなるのよ」甲高い母親の声が、午後の光の落ちる部屋の空気をかすかに震わせた。車椅子の車輪は、静かに止まったままだ。「テリュースもすっかり名が売れたことだし、いい加減けじめをつけてもらわないと困るわ!またこんな小娘と噂になって。どんなスキャンダルに発展するかわかったものじゃない。あなただって元は女優だったんだから、そのくらいわかるでしょう。自分の口から『結婚』を言い出しにくいなら、ママがうまく話をつけてあげてもいいのよ?」スザナは膝の上で静かに両手を重ね、前だけを見つ
八月の終わり。窓を開けると、まだ残る夏の匂いのなかに、ほんのわずかだけ秋の気配が混ざり込んでいた。スザナは机の上に、小さな紙袋をそっと置いた。中に入っているのは、一枚のレコードだ。あの日、テリュースの心をあれほど揺さぶった曲を、自分も同じように、きちんと聴いてみたいと思った。蓄音機にレコードを載せ、そっと針を落とす。小さな針が刻む雑音のあと、静かな音が部屋を満たし始めた。A面に収録されていたのは、あのときラジオで耳にした曲だった。『汽笛の彼方へ』細やかな音が絶え間なく重なり合い、やがて静寂
Candicewoketothesoundofthewaves.Inthistown,morningwasannouncedneitherbybellsnorbybirdsong.Itwastheceaselesssoundofthewavesdriftingupfrombelowthecliffsthatquietlyusheredineachnewday.TheseaaroundMonheganIsla
スザナの家を訪ねたのは、夕食にはまだ早く、けれど昼と呼ぶには少し遅すぎる、曖昧な時間だった。稽古場を出ても、街にはやわらかな光の粒が残っていた。高層ビルの窓という窓が、西日を受けて静かにきらめいていた。「いらっしゃい、テリュース。今日は早いのね」ドアを開けたマーロウ夫人の声は、いつもよりほんの少し弾んでいた。居間の奥、窓辺の椅子にスザナが座っていた。膝の上に、一冊の本を開いている。伏せられた目線が、同じ行を何度も行き来していた。声を出しているわけではないのに、その姿からは、かすかに言葉
“It’salmosttimetosaygoodbye.Forourfinalpiecetonight,wehaveacompositionthathasbeenquietlydrawingattentionoflate—WithEveryDecember.ComposedbyJ.QuillandperformedonpianobyÉricA.Laurent.Keepwarm,andsleepwell.This
六月のモンヒーガン島は、夜のあいだ海に抱かれていた霧が、まだ岬や入り江に残っている。白くほどけた布のようなそれは、風が渡るたび静かにかたちを変え、黒い岩肌を隠したり、灯台の白い姿を半分だけ浮かび上がらせたりした。やがて陽が高くなるにつれ、霧は少しずつ海へと帰っていく。急ぐふうでもなく、惜しむふうでもなく。ただ、自分の帰る場所をあらかじめ知っているもののように。昼食の後片付けをすませると、キャンディスはピアノの蓋を開けた。それは、この家へ来たときからそこに置かれていたアップライトピアノ
グラマシー・パークのタウンハウスへスザナを送り届けたあと、テリュースは自宅へは帰らず、そのままストラスフォード劇場へと車を走らせた。マンハッタンの夕暮れは、今日も眩しかった。無数の窓に灯りがともり、街そのものが呼吸を始める。鍋の蓋が小さく鳴る部屋。楽しげな笑い声が響く部屋。明かりを落とし、一日の終わりを迎える部屋。見上げるほど灯りはある。けれど、自分が帰りたい灯りは、ひとつもなかった。コートを脱ぐ音だけが響く部屋。聞きたい声が聞こえるはずもない。その静けさに耐えきれず、い