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八月の終わり。窓を開けると、まだ残る夏の匂いのなかに、ほんのわずかだけ秋の気配が混ざり込んでいた。スザナは机の上に、小さな紙袋をそっと置いた。中に入っているのは、一枚のレコードだ。あの日、テリュースの心をあれほど揺さぶった曲を、自分も同じように、きちんと聴いてみたいと思った。蓄音機にレコードを載せ、そっと針を落とす。小さな針が刻む雑音のあと、静かな音が部屋を満たし始めた。A面に収録されていたのは、あのときラジオで耳にした曲だった。『汽笛の彼方へ』細やかな音が絶え間なく重なり合い、やがて静寂
「テリィ、元気だったの?」キャンディスはそう言って、肩にかけていたショールを外した。その声は、耳から入って胸のいちばん奥にまっすぐ届いた。すこしも変わっていなかった。テリュースは返事をするのも忘れて、しばらく彼女を見ていた。スポットライトの渦の中に立つときでさえ揺れなかった自分の心が、たったひとりの眼差しを前にして、足元からほどけていく。「ああ」胸の奥から、ようやく息を吐き出した。「見ての通り、ピンピンしてるよ」「そう。よかった」ふっと目元が緩む。ただそれだけで、この数年間に身体の
初演の幕が上がってから、まもなく一年。空前の熱狂を巻き起こした『ハムレット』は、初夏の再演を経て秋を迎えた今もなお、あふれんばかりの観客を迎え続けていた。夜ごとに劇場の前に伸びる馬車や自動車の列。幕が下りたあとも楽屋口を離れようとしない人々の気配。翌朝の新聞を開けば、舞台評の活字のなかに、いつでもテリュース・グレアムの名を見つけることができた。舞台の稽古に、衣装合わせ、取材や劇団との打ち合わせ。マチネのある日に至っては、朝から晩まで息を吐く暇すらない。ひとつの幕が下りれば、待ち構えていたように
二月になっても、マンハッタンの風は容赦なく頬を刺した。ガラスの回転ドアが開くたび、乾いた冷たさが廊下へ入り込んでくる。鼻先をかすめるのは、いつもの消毒液の匂い。磨かれた床。洗いたてのタオル。診察室の奥で交わされる低い声。何年も通っているうちに、そのどれもが特別ではない日常の欠片になっていた。スザナにとって、リハビリはもう「歩くため」だけではなくなっていた。最近になって、小さなラジオ局で物語の朗読や番組のナレーションを任されるようになった。長時間立ち続けることはまだ難しい。それでも、義足
案内係のあとに続き、細い階段を上りながら、キャンディスは息を静かに吐き出した。来てしまった。本当に、来てしまった。グランドセントラル駅のホームに降り立ったときも、ホテルの部屋に荷物を置いたときも、まだ引き返せる気がしていた。馬車を降り、劇場の白っぽい灯りを見上げた瞬間でさえ。けれど今、背後で重い扉が静かに閉じた。ベルベットの座席に重なる人々の話し声と、プログラムをめくる紙の音が、密やかな温かみとなって客席に満ちている。ストラスフォード劇場の前には、当日券を求める人々の長い列が残っていた
客電がついた。暗闇に沈んでいた客席が、ゆっくりと現実の輪郭を取り戻していく。立ち上がる人々。興奮の残る話し声。膝の上のプログラムを閉じる小さな紙の音。今しがたまで舞台の上にあったはずの異世界が少しずつほどけ、劇場はふたたび何百人もの人間が行き交う巨大な箱へと戻っていった。キャンディスは、まだ椅子から立てずにいた。頬に残った涙を、オペラグローブの親指でそっと拭う。布越しに、その熱がじわりと指に伝わった。見つかった。テリィが、私を見つけた。そのことが胸の奥で小さく跳ねるたび、脈が早くな
テリュース・グレアムのプリンシパル任命の知らせは、RSCの壁の内側に留まらなかった。ロンドンの劇場街でその名が囁かれた翌朝には、新聞社の編集室で見出しとなり、午後には社交界の茶会で扇の陰で語られ、夜には貴族たちの晩餐の席で口にされていた。テリュース・グレアム。RSC新プリンシパル。その名は、乾いた絹へ火が移るように、静かに、けれど止めようもなく、ロンドンの上流社会へ広がっていった。かつてブロードウェイの舞台で名を馳せ、RSCの舞台に立ち、ついにはプリンシパルの座へ上りつめたという噂
「あなたたち、もう四年にもなるのよ」甲高い母親の声が、午後の光の落ちる部屋の空気をかすかに震わせた。車椅子の車輪は、静かに止まったままだ。「テリュースもすっかり名が売れたことだし、いい加減けじめをつけてもらわないと困るわ!またこんな小娘と噂になって。どんなスキャンダルに発展するかわかったものじゃない。あなただって元は女優だったんだから、そのくらいわかるでしょう。自分の口から『結婚』を言い出しにくいなら、ママがうまく話をつけてあげてもいいのよ?」スザナは膝の上で静かに両手を重ね、前だけを見つ
五月のシカゴ。教会の控室へ初夏を思わせるやわらかな陽光が差し込み、窓の向こうでは色とりどりの花々が陽射しを浴びて美しく輝いていた。開け放たれた窓からは、咲き誇るバラの甘い香りと若葉を渡る爽やかな風が流れ込み、小鳥たちの澄んださえずりが静かに響いている。柔らかな陽光に包まれた庭は生命の輝きに満ち、まるでこの特別な一日を祝福しているかのようだった。純白のウェディングドレスに身を包んだキャンディは、鏡の前に静かに立っていた。幾重にも重なる繊細なレースは、窓から差し込む陽光に淡く輝き、長く流れるト