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私は、モラ夫の散財具合が疑問で仕方ありませんでした。どこにお金があるのか。じゃあ、あの給与明細は?混乱していました。全貌を明かしてほしかったです。しかし、モラ夫が家計を明かしてくれないことには、私は知りようがありません。ある日、モラ夫が、モラ夫名義の通帳を一冊、手渡してきました。「これ、管理して」「ここに給与が振り込まれるから」と。やっと、やっと私が管理できる・・・!モラ夫にも、私の気持ちが伝わって、モラ夫なりに夫として、父親としての自覚が芽生え始めたんだ、と思
私は、モラ夫から「金ないけど、どうするつもり?」と、頻繁に当たられるようになりました。妊娠中で働いてない私は、この言葉を間に受け、罪悪感に苛まれていました。対するモラ夫は、旅行三昧。旅行先から、気をよくしたモラ夫から「お土産何がいい?」と連絡が来ることもありました。私が欲しいのは、どんなお土産よりも、お金でした。「お土産いらないから、それを買うお金をください!」と絵文字をつけて、冗談半分を装ってメールした私。でも、それは冗談ではなく、紛れもない私の本音でし
私は嫁として、義父母の機嫌をとる役割だったようです。私が出かける必要がある際には、公共交通機関を使って行こうとしていましたが、モラ夫からは、義父母に送迎してもらうように言われました。実の親でもないのに、気軽に「迎えに来て」なんて、連絡できるほどの仲ではありません。公共交通機関を使う方が、よっぽど気楽でしたが、モラ夫は嫁を使って義父母の機嫌をとりたいため、結局毎回、義父母に送迎してもらっていました。私のことなのに、私の意思は関係ありません。放っておいてほしかったです
モラ夫は、いろんな観光地に、友人たちと行っていました。帰ってくると、機嫌良く写真を見せてくれます。その観光地らしい服を買ったり、着物をレンタルしたり、女の子たちと楽しそうに写真に映るモラ夫。女の子が、可愛い服着て写真を撮っているのは、素敵だなあと思う反面、あなたのそのコスプレ、需要ないけど。ていうか、女の子たち、内心、この写真にモラ夫入れたくなかったんじゃないかな?(苦笑)というぐらい、不自然です。モラ夫が入ることで、映えない写真の出来上がり。他の男性陣
外食の翌日、21時頃から、夜中の3時頃まで口論になりました。「男は立てるべきだ」「俺は長男なんだ」「俺が一言ったら、十を理解しろ」「言葉の裏の意味くらい読め」「知り合いから、ふふむはワガママだと言われた」「ふふむは、人をイライラさせる天才だよな」「もう、実家帰れば?」夜中まで、責められ続けました。私も、泣きながら闘いました。息が、苦しかったです。そして、心も。モラ夫は、話の軸ではない部分に執着し、揚げ足取りをするなどして、話を進ませてくれません。それなのに、
モラ夫とふたりで食事をしていても、「今お父さんひとりでごはん食べてるんだろうな〜」「可哀想だから、一緒に食べに行こうか?」と私の罪悪感を募らせて、一緒に食事をとるように仕向けてきました。やっと同居から逃げたのに、ずっと私は縛られている感じがしました。私は、モラ夫家に嫁に入るために、結婚したのか。モラ夫家に尽くすために、結婚したのか。当時の結婚生活は、私の思い描く結婚生活とは程遠いものでした。モラ夫と協力して、ふたりで、新しい家庭を築いていきたかった。モラ夫家+
裁判の当初は、法廷で行っていましたが、和解に向けて、会議室のようなところで行うようになりました。一つのテーブルに、三井裁判官、西島弁護士、私、ナカジマ弁護士、マイナと全員が席に着きます。争点は財産分与なのですが、そもそも私と与太鹿が、夫婦の財産と主張している内容がかなり違います。まずは、夫婦の財産を確定させなければなりません。ところが、おおざっぱな三井裁判官は、私が主張している財産一覧表に基づいて、進めようとしているようでした。何しろ見やすいから。
思いもよらぬ義理の両親との同居は、トータル1〜2ヶ月程度だったと思います。そんなもんかと思われるかもしれません。でも、私にとっては苦行でしかなかったです。心の準備ができてなかったというのもあるかもしれません。縁もゆかりもない土地で、頼る人、相談する人がいなかったのもあると思います。結婚に伴う引越しのため、退職もしていました。モラ夫とは遠距離恋愛で、私が引越しをしたので、私の友達はみんな、他県にいました。モラ夫の身内以外の人に話ができないのは、とにかく孤独で