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桜の新宿十二社熊野神社。記事の内容とは関係ありませんが、最近地味な画像ばかりだったのと、ご利益がありそうなので…。先日、西日本新聞が「『卑弥呼の墓では』巨大な前方後円墳?謎の丘陵」という記事を掲載して注目を集めました。福岡県赤村にある丘陵が前方後円墳ではないかというものです。もし古墳であれば墳丘の全長が約450メートルで、日本最大の前方後円墳「大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)」に迫ります。また、「古代史ファンからは『卑弥呼の墓では?』といった期待の声も聞かれる」とか、後円部の直径
こんにちは、スタルペスです福岡県みやま市の蜘蛛塚から近くに「権現塚古墳(ごんげんづかこふん)」があります。周りには住宅はなく、田畑の中にポツンと1基だけがある大きな円墳です。直径45m、高さ5.7mの2段築成の円墳です。周囲には幅11m、深さ1.2mの周溝が巡っています。古墳時代中期(5世紀)の築造と考えられています。※権現塚古墳主体部は確認されていませんが竪穴式石室ではなかったかと思います。墳丘は、周囲のどこからでも眺められる堂々とした古墳
こんにちは、スタルペスです。福岡県みやま市の古墳巡りの4件目の「堤古墳群(つつみこふんぐん)にやってきました。この古墳群は福岡県みやま市瀬高町山門の堤集落にある古墳群です。堤集落は南北220m、東西220mのほぼ正方形の小高い丘陵地にあり、中央を南北に通る道路の東側を東塚原、西側を西塚原と呼ばれています。東塚原には2基、西塚原には6基の古墳の石材が残っているということです。集落は狭い道路で車を停めるところもないため、集落の外れに車を停めて歩いて集落に入っていきます。集
私の邪馬台国論の根幹をなすのは、魏志倭人伝後世書き換え説です。魏志倭人伝の行程記事は、帯方郡から不彌国までは里数が書かれていますが、不彌国から投馬国への行程と投馬国から邪馬台国への行程は日数で書かれています。(不彌国から投馬国)南至投馬国水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五万余戸(投馬国から邪馬台国)南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七万余戸里数は、尺度はともかくとして、万人が共通認識を持つことのできる具体的なも
『ブログマップ』ブログ内の記事のマップです。これを読めばとりあえず分かるという記事をまとめました。まだ、途中ですがアップします。「神社*総まとめ」なども記載(スマホで見ると埋…ameblo.jp『神*総まとめ』神の総まとめを。(毎回、説明するのも何なので。必要な箇所だけ)☆天照は二柱男神・天照は、饒速日命。天火明命、月神・高良神、住吉神、他。女神・天照は、…ameblo.jp『女神・天照とはまとめ』更にまとめてみた。(詳細省いてます)思い出したら追記男神・天照
今回の四国一人旅、目的の1つが1日目に巡った「段の塚穴型石室」を見たい!というのと、今日アップする八倉比売(やくらひめ)神社古墳群を見たい!というのも大きな目的の1つでしたなぜ八倉比売神社古墳群を見たいのか・・・・邪馬台国四国説卑弥呼の墓そんな伝承があるからです何度か書いたことがあるのですが、個人的には卑弥呼が実在したのか?は否定的です。魏志倭人伝の記述、かなり適当なのに、なぜそこまで信じるんですかね。↑まずは八倉比賣神社の鳥居ここまで来て、ちょっと愕然とし
『ホツマツタヱ』が記すヤマトタリヒコクニ大王(孝安天皇、クニオシヒト大王)(・`ω・´)💡ヨソコトシ(孝昭天皇49年)キミヱハツヒニ(元旦に)キサキウム(皇后が生む御子は)イムナオシヒト(諱【斎名】は押人)ヤマトタリヒコクニノミコ(日本足彦国皇子である)ウムトキニ(産まれた時に)アサヒカカヤキ(朝日が輝いた)ムソヤトシ(孝昭68年)ムツキソヨカニ(1月14日に)オシヒトオ(押人を)ワカミヤトナス(若宮とした)トシハタ
黒塚古墳石室今回は邪馬台国関連のお話です。邪馬台国問題に関しては、自分はガチの畿内説ですので、そのつもりでお読みください。なるべく専門的にならないように心がけます。まず、黒塚古墳の話をしましょうか。黒塚古墳は、奈良県天理市柳本町にある、全長約130メートルの前方後円墳で、これは、同じ大和古墳群にある箸墓古墳のほぼ2分の1の大きさです。高さ約11メートル、前方部がバチ型で前期古墳の特徴を持っています。周濠あり、葺石や埴輪は未確認。1997年、奈良県立橿原考古学研究所が行った発掘調
「魏志倭人伝」を読んで邪馬台国へたどり着こうと考える人は、必ずこの「一里問題(仮)」にぶつかります。例えば、書かれた行程をたどって九州島の末盧国(まつらこく)へ上陸したとします。次は、末盧国から500里のところに伊都国を探さなければなりません。さらに、伊都国(いとこく)から100里のところに奴国を……。その過程では、1里が何メートルかを決めなければ先に進めないのです。しかし、邪馬台国論争はすでに300年を超えましたが、この最も基本的な「一里問題(仮)」には明確な決着がついていません。「
和邇氏について和邇氏なのか和迩部なのか、よく分からない事を伝える様な書き込みをよく見ますが、これは和邇氏の系図の子孫として有名な人物に「和迩部君手(わにべのきみて)」という人がいるからだろう、というのがよく分かります。系図には、天足彦国押人命→和邇日子押人命→彦姥津命→伊富津久命→彦国葺命→大口納命→大難波宿禰命→難波根子武振熊命→米餅搗大臣命→佐都紀臣→日爪臣→田作臣→磐邊臣→船守臣→船萬侶臣→稚子臣→弓束臣→君手→…………と続いています。ちょうど米餅搗大臣命の時
今日は、長男による”卑弥呼”についての考察です🙂卑弥呼という名前卑弥呼というのは、まだ文字がない倭の時代に、「ひみこ」という名前の人物に蔑称で卑弥呼という名前にしただけであり、意味的には「日巫女」だったり、「火巫女」だったりすると思います。〔日巫女〕日巫女のほうは、日の巫女、皇族の巫女と考えます。古代、皇族の女性は霊的な力を持ち、神懸かりして預言することなどをしていました。そのためこの人物も皇族の巫女だったのかもしれません。〔火巫女〕火巫女の場合は火の国の巫女、邪馬台国は熊本と考
本能寺の変今回はこういうお題でいきます。さて、みなさんは歴史の謎といえば何を思い浮かべられるでしょう。やはり邪馬台国問題でしょうか。あるいは赤穂事件の浅野内匠頭の刃傷の理由?もしかしたら、現代史の3億円事件、グリコ・森永事件などをあげられる方もいるかもしれませんね。ただ、現代史の場合、評価が定まるまでにはまだ時間がかかりますので、今回は話からのぞかせていただきます。本屋に行くと、「歴史の謎を考える」みたいな内容の本が文庫で出ています。日本史と世界史があって、やはり日本史のほう
今回はこういうお題でいきます。日本史のお話です。さて、田道間守(タジマモリ)は、記紀のどちらにも登場する人物で、垂仁天皇の臣です。垂仁天皇は崇神天皇の子で第11代の天皇ですが、実在性ははっきりしません。『日本書紀』には140歳で亡くなった(『古事記』だと153歳)と出てきますので、怪しさ爆発なんですが、垂仁天皇陵(宝来山古墳)とされる227mの大型前方後円墳はあります。橘の実もし実在していたとすると、3世紀後半から4世紀にかけての治世と考えられています。この垂仁天皇の晩年の即位9
【後漢書東夷伝倭条】に記された『安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見』倭国王帥升とは、奈良時代に淡海三船から、帥升が謁見を願った後漢孝安皇帝と同じ諡号「孝安」を追贈されたクニオシヒト大王(孝安天皇)ではないか❓との説を前回ブログでご紹介しました(・`ω・´)💡『後漢書』が明かす倭国王帥升と縄文海人族~中国の史書から見た倭人⑪https://ameblo.jp/starless43/entry-12567418164.html(・`ω・´)💡この説は、明治
邪馬台国論争において昔から争われている論点として、「会稽東治(かいけいとうち)」と「会稽東冶(かいけいとうや)」のどちらが正しいかということがあります。これは、中国から見て邪馬台国がどのあたりにあると考えられていたかということに関連しています。それが、『三国志』(「魏志倭人伝」)と『後漢書』で異なっているのです。『三国志』計其道里當在会稽東治之東(女王国〈邪馬台国〉までの)道里を計ると、まさに会稽東治の東にある。『後漢書』其地大較在会稽東冶之東その地(邪馬台国)はだいた
過去300年にわたって、邪馬台国がどこにあったのかといういわゆる「邪馬台国論争」が繰り広げられてきました。しかし、「魏志倭人伝」の記述中に「邪馬台国」という国名が登場するのは、以下のただ1回のみです。南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(投馬国から)南へ、10日間水行し、1か月間陸行すると、女王の都がある邪馬台国に至る。一方、「女王国」という国名は5回にわたって使用されています。この「女王国」と「邪馬台国」はどのような関係で用いられているのか?イコールなのか、そうでない
ご訪問ありがとうございます。景行天皇の九州征伐も3回目で、行宮アングウ、カリミヤも福岡県大牟田市に移ります。この辺りは征伐というより巡幸となって、地名起源説話ばかりになりますのでささっと読んでしまいましょう。秋7月4日、(天皇は)筑後チクゴ国の御木ミケ(福岡県三池郡、大牟田市付近)に到着し、高田タカタの行宮カリミヤにご滞在になった。時に、倒れた樹木があった。長さ970丈=約2,930mであった。役人たちは皆、その樹木の上を通って往来した。当時の人は朝霜の御木のさ小橋オバシ
家康が開いたという関東。しかし、関東は案外栄えていました。邪馬台国は九州に?いやいや、出雲でしょう。あるいは、邪馬台国というくらいだから、そのもの大和でしょう。と、定説は様々です。が、最近こんな説も。邪馬台国関東説。伊勢神宮と似たような東の果てに、鹿島神宮。縄文時代、文化が栄え人口が多いのは東日本。大陸との交流が盛んなのは、実は日本海。そこから関東は近い。伊都国は今の糸魚川。ヒスイの産地。高天原があるのは茨城県。ツケ、ヒタ、ムサ、フサは昔の国名。後に、都に
ご訪問ありがとうございます。前回、出雲振根フルネが弟の飯入根イイイリネを騙し討ちにした話を載せましたが、今回は「古事記」のヤマトタケルによる出雲建征伐の部分を載せておきます。それから(倭建命は)出雲国に入られて、そこの出雲建を殺すことにと思い到られて、すぐに(出雲建と)友だちとなられました。そして、ひそかにイチイの木で偽の刀を作り、ご自分の佩刀として腰につけ、肥の河で水浴されました。そこで倭建命は河から先に岸に上がり、出雲建が解いて置いていた刀を腰につけ、「刀を取り換えっこしないか。」
イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。山門(ヤマト)抱柏紋三角縁神獣鏡あるね我々は南の海から来たのかもね讃岐で役行者が感じた霊鷲山につながる妄想の刳抜式石棺鉄五角形の台座地神さん(阿波の秘羽女神社)讃岐のヒミコ(又は妹)が祭られる神社元の神社地には松平家の法然寺法然さんは稲飯命(飯依比古?)の末裔であり鰐の尾と妄想した。絹の蚕繭を抱く
画質が…………。二代目、小野小町の兄、弟が改善され、お通さんが追加され、横山党を具体的にしています。最終形はA0用紙横(今はA1縦)に分かった範疇の系図を組み込んで完成でしょうか!?
「魏志倭人伝」の行程記述の読み方にはいくつかの説があります。まず、一つが「連続説」と呼ばれるものです。これは、「魏志倭人伝」の記す行程を一本の道と考え、帯方郡(たいほうぐん)を出発してから登場する国々を順に辿って行くという読み方です。オーソドックスな考え方で、私もこの説を採用しています(図表1)。◆図表1連続説これに対して、「放射説」という読み方があります。「放射説」は、戦後まもなく榎一雄氏が発表された説で、伊都国(いとこく)から以降の方角・距離は、伊都国を起点として記
「神皇紀」が無料で読める事が分かり(国立国会図書館デジタルコレクション)、まだ読んでる途中ですが面白い情報があったので書く気になりました。まず印象ですが、「神皇紀」という本は記紀を補完する目的で書かれている印象を受けます。なので神皇紀だけで評価すると、「宮下文書」は偽書とされる可能性はあると思います、しかし大筋は別にして詳細な部分に於いては注目すべき内容が含まれているようで、宮下文書の評価はやはり原文を読まないと何とも言えないという事になりそうです。んで、面白い事というのが、神皇紀
武田鉄矢今朝の三枚おろし📺邪馬台国はない!あったのは邪馬●国説・・・武田さんもひっくり返った話を解説📺今朝の三枚おろしラジオ【レビューブックと研
天石門別八倉比売神社には「大日孁命」が祀られていて、それが瀬織津姫の事だとご紹介をいたしましたが、八倉姫という名前との関係は分かっていませんでした。「天石戸別」という称号が気になり調べたところ、「天手力男命」の事だと理解しましたので、私の解釈を披露したいと思います。この神社は元々、「気延山(きのべやま)」の山頂にあったものが移されたと伝承されています。現在の鎮座地は「杉尾山」らしく、また古墳も前方後円墳で古墳の主は崇神天皇以降の人物だと思われます。これらを合
はい!奈央です。今日は、福岡県田川郡赤村の内田駅という所に来ています。皆さんこのGoogleMap中に何が見えますか?こんな具合に枠を付けたらわかりやすいかな?そう!前方後円墳の形です。これが今、話題になっている福岡県田川郡赤村の巨大前方後円墳の候補なんです。航空写真の計測から、全長450mもあるそうです。日本最大の古墳大仙陵古墳(仁徳天皇陵、墳丘長525m)に次ぐ大きさなんだそうですよ。すごいー!古墳の大きさランキングDailyPorta
小野の先祖を調べる上で生まれた、ホツマツタヱに由来する系図です。関係者しか載せておらず古代の様子を思考する為の資料に使ったものなので興味のある方は参考にして下さい。firestorage|標準ロールfirestorage.jp
2012-04-0509:08:32東夷日本国史ThehistoryofTIDA大倭日高見国(正しい表記大委日高見国)首都岩手県北上市水乞山特徴生活保障制度(国民に米を給付していた)早池峰山から裾の水乞山北上山地で高く縄文の時代より神山とされてきた山大倭日高見国(正しい表記は大委日高見国)。首都は岩手県北上市、中央神山は水乞山。元は早池峰山から下りてきた人々によって作られました。特徴は、社会保障制度がございました。例、国民へ米の給付。王は安東と呼ば
2.卑弥呼(ひみこ)神女であり、政治を兼ねた古代日本の女王。後代には女神として追尊された。日本の最初の女神である天照大神と同一視されることもある。男性が王になると反乱が連続しておこったが卑弥呼が女王になると世の中に平和が到来したといわれる。Keyword・複雑な問題を解決する卓越した力量の持ち主・事件を解くカギは女性が握っている。・他の人々とは差別化された戦略を駆使する・独歩的な存在であり個性的で秘密が多い。・個人的な領域
シナリオに追われて、なかなかブログがかけていませんでした。待ってる方はいないだろうけど、前に書いたブログで『無敵島と皆既日食』4/1に息子は無事、7歳の誕生日を迎えました。そして今日から2年生になります。ドラえもんを観に行ったのは、誕生日も兼ねてだったのですが…その後で、息子は変な夢…ameblo.jp帚木蓬生さんの『日御子』を読んだら感想を書くと書いたので、それについて書きます日御子下講談社文庫/帚木蓬生【文庫】楽天市場770円${EVENT_LABEL_01_TE