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魏志倭人伝に倭国の事が書かれた時代、邪馬台国や狗奴国があった時代(西暦200年代)、その時熊本はどんな状況にあったのか?以下文献や遺跡及びそこからの考察をまとめてみた。①宇土半島基部に住んでいた人たちは、元々「海人」と呼ばれ、航海技術を駆使し、南洋の島々、朝鮮半島とも行き来していた。この海人は後の健緒組・火の君一族へとつながっていく。②弥生時代後半から古墳時代前半にかけての集落遺跡が熊本県域にはたくさん残されている(下地図)。遺跡が集中している地域は、菊池川の下流域、中流域、熊本平野域、
『北天の魁』より再び参照。この本、貴重な話がたくさんあって面白いです。「津軽にアソベ族(阿蘇辺)たちが住んでいた。北の天地の始まる時から住む。何千年か何万年か前、どこからかツボケ族(津保化)たちがこの豊かな北の国を求めて移り住んで来た。※大陸の争いから逃れて。互いに結婚し子孫を残し平和な暮らしが何千・何万年と続く。ツボケ族は、山の幸、アソベ族は、海の幸を互いに交換しあって暮らしていた。この頃の国をスーサンポーの国と呼んでいた。※この頃はまだ混沌とした「あわい」の頃。あ
こちらからどうぞ邪馬台国はどこに?日本史上最大のミステリーに、松本清張は「九州説」という答えを出しました。彼は、資料の細かな数字よりも「地理感覚」と「政治の形」を大切にしました。一方で、現代の考古学では「畿内説」を支える新しい発見が相次いでいます。清張が重視した根拠と、いま最も有力とされる説の違いを見てみましょう。目次清張が確信した九州説の「根拠」現代考古学が推す「畿内説」の勢い論争の行方と清張の史眼まとめ清張が確信した九州説の「根拠」松本清張は、『魏志倭人
魏志倭人伝を素直に読めば、魏の使者は朝鮮半島から対馬、壱岐と渡ってきて、末盧国(ほぼ間違いなく北九州の松浦半島)に上陸し、そこからチョコチョコといろんな国を訪ね、最期に邪馬台国に行き着いています。もし邪馬台国が畿内だとしても、北九州の諸国が邪馬台国の支配下にないなら、少なくとも同盟・従属関係にないなら、魏の使節は北九州に上陸できませんし、する理由もありません。そもそも北九州の衛星国をひとつづつ丁寧に訪問していた使節団が、そのあとドーンとトバシていきなり奈良まで行っちゃうのは、おかしかないか?
6月18日の一読は「夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)」でした。「第7代孝霊天皇の娘で、兄弟に大吉備津日子命や孝元天皇がいる」(183ページ)本書では『日本書紀』の内容が中心に書かれていて、古事記でどのように書いているかは軽く調べても、うまく見つけられませんでした。別の機会で深掘りをするつもりですが、一説では邪馬台国の卑弥呼の正体というものもあるらしいので、どこかでしっかりとおさえたいです。
歌麿(染谷将太)は、正月の出版に間に合わせるため大量の絵を描きましたが、そのいくつかには変名、というか、別ペンネームを使っていました。歌麿には、いくつもの顔がある。いくらでも画風を変えて、描き分けることが出来るんだ、というのを、今回も見せつけてきました。これはいずれ「蔦屋重三郎が、写楽を仕掛ける」の伏線になっているのは「明らか」、と私は見ています。もちろん、これはドラマ「べらぼう」独自の設定ですから、史実と違うのなんのと言うのは野暮の極み、です。以下、そのつもりでお読み下さい。日本史で人