稲荷講社は一八九二(明治二五)年、稲荷講社の給仕をしていた宮城野金作(一四才)に、御穂神社の眷族八千彦命がかかって「稲荷の神は飯成の神であり、天下万民一日も無くてはならぬ衣食住の元の神である。しかるに世人の多くはこの大神を狐と同一視して、稲荷といえば狐のことと誤解している者多く、御恩の深き神に対してまことに申しわけない次第である。世俗の誤解を解くために神社附属の稲荷講社を結集して、一は君国のため、一は神界のために尽くすように」と長沢雄楯に警告したので、長沢が官の許可を得て講社を開設したのにはじま