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徳山湾には仙島、黒髪島と言う2つの大きな無人島が浮かんでいますが、島の海岸には花崗岩で造られた複数の水槽が残っています。遺構地図で場所を確認します。**********************************まずは島の紹介から。仙島は元々有人島で、戦後は希望の家と呼ばれる養護施設が建設されました。いつの頃からか人が住まなくなりましたが、近年は元島民の方が島に通い、数十年に亘って整備を続けています。元島民の方が整備された小屋と段々畑。(写真は2021年3月渡島時)
今日は大島砲台前方に配備された電燈所を見に行きます。大島砲台の記事はこちら。*****************************下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)下関要塞探訪157~大島砲台その2(観測所/宗像大社紹介)下関要塞探訪158~大島砲台その3(規正標柱)*****************************大島電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助を任務として、砲台の北西200mの標高11
ここは広島県福山市加茂町岡山県の県境くらいまで来たのではないだろうか?ここまでの道はあまりにも危険過ぎた舗装されている事だけでも助かったが一時タイヤが半分谷側にはみ出た所もあった。動画もこういう撮影をすれば緊迫感が伝わるかと思ったがそれを実行していれば今頃は谷底に落ちていた可能性が高い…こんな看板があちらこちらにある。前回の旧鉱山跡から比べ辺りの雰囲気が様変わりした。かなり山奥に入ってきたという事もあり人の気配というか人工音が全くしない。耳に入るのは風音、そして
※2022年9月23日に書き換えました。===========================明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、下関海峡(関門海峡)の防御を担うべく立案されたのが「下関要塞」でした。山口県西部の「下関」(当時は“関”の旧字体“關”を使い、“下關”もしくは“下ノ關”と表記)は本州の西の端に位置しています。(※
おはよう御座います。ツルハシです。さて、今回はと言いますと長崎県の知り合いから連絡があり、「栢木炭鉱が大事になっとります!」内容は、以前に炭鉱調査へ入った長崎県松浦市旧栢木炭鉱の坑口が土砂崩れによって崩壊しているとのことでした。周囲の詳細な確認をお願いしたところ扁額が埋まらず坑門から剥がれ落ちていると報告を受けた。崩落前の坑口崩落前の写真2この坑門に埋め込まれた扁額が…このように1つ1つバラバラに散らばっていたとの事でした。坑門は、完全に崩れて土砂に埋まっていたと聞いた。
守谷市で遊んでいます守谷市と言えば・・・そりゃあもう、見どころ満載と言うことで・・・電車見に来た守屋駅ですこちらはJR守谷駅おっとぉTXだぁそして隣には関東鉄道の守谷駅関鉄がんばれローカル線いいぞ!さて城址目指して行きましょう守谷森林公園その前に
牛久市のお目当て小坂城跡に着きました公園になっています整備されていると案内板があるのでわかりやすいです結構大きいな小規模な城だったと思うがこう見ると広いわ他がもっと大きいってことかしらね小田氏から分かれた岡見氏が築城さすが城登るんじゃ~整備されているから上りやすいんだがやはり・・・きついわぁあ
到着しました守谷城址公園です公園はとても広い今回探索するのは守谷城の部分です長年の風雨で残念な形・・・おしいなぁ気を取り直していざ出陣!湿地帯広がる城作りには良い土地かそろそろ出て来ますワクワク写真では迫力が伝わらない・・・写し方が悪いのよ腕悪いから・・・実際はか
2019/4/30訪問前編はこちら講堂より渡り廊下を通って校舎へと進んでゆく・・・木造校舎はかなり朽ちているので、足元に気を付けながら歩く。それぞれの教室は、分校らしく小さのものだ。おそらく、通常の教室の2/3程度の広さだろうと思う。黒板には、お馴染みの訪問者の書き込みが多数ある。これはこれで廃校ならではの味わいというものではないだろう
筑西市国指定文化財になっている関城跡に来ています八幡神社からさらに歩いて遺構を探しています庚甲塔浅間大神等々たくさん置かれていますこの辺りも土塁でしょうか近くに点々と石仏も置かれていました通りの名前も関城通りださらに歩くと石碑がありました関宗祐父子墓案内板付きで
その2では、観測所の再訪記を書いた後で宗像大社を紹介します。その1の記事はこちら。『下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)-書換-』宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。*****************…ameblo.jp**************************観測所は砲座を見下ろす高い位置に設けられています。では入ります。スリット上の観測窓と観測
【23年5月4日探索・11月5日公開】現在地はこの辺走り出してすぐ、気になる交差点があった。左側はこう。右側も同様だ。近くには茨城県の境界柱があった事から、完成すれば県道になる前提の道路のようだが、完成している区間だけ先に供用はしないようだ。専用線跡はまっすぐに進む。昭和20年開業、昭和46年休業(廃止は昭和50年)、走っている姿も見てみたかったな。1kmほど進んだあたり、舗装の幅は一緒だがこの辺だけ幅員が広い。交換所でもあったのか
守谷城址に来ています守谷城二の丸からの眺めです絶景かなはす田の緑が濃いわぁ延々と広がる緑ですこの時期は緑のじゅうたん良き眺めじゃやはり眺めは昔からなんだなさらに進みます暑いけど木陰は風もあり気持ち良いです橋が登場そろそろ本丸か現在地がわかる当時は周
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
大須山防空砲台は、江田島市の大須地区に築かれました。地図で場所を確認します。簡単な履歴は以下の通りです。(呉海軍警備隊戦時日誌、引渡目録等より)◆竣工:昭和17年(1942年)7月◆所属:呉海軍警備隊第四砲台群◆高角砲:89式12.7㎝連装高角砲4門(2基)~砲座3基に対し高角砲2基配備◆照聴装備:150㎝探照灯2基、仮称ヱ式空中聴音機2基◆照聴施設:砲座の前方両翼に第一聴測照射所、第二聴測照射所を配置し、各々に探照灯と聴音機を1基ずつ配備◆3つ目の照聴施設:砲台南部に聴測
3/18横浜発のダイヤモンドプリンセスに乗船してきました。眼鏡橋からすぐ、カステラアイスのお店「ニューヨーク堂」さんで、工場稼働時限定の「カステラ生ソフト」この日はバニラ味が稼働してました。詳しくはこちら。『4日目ランチ&おやつ』3/18横浜発のダイヤモンドプリンセスに乗船してきました。4日目の長崎でのランチは、事前調べで心に決めていた「あじ盛」さん。ランチというには早すぎる10時半で…ameblo.jpニューヨーク堂の前の商店街を進んで次はアーケード街に入ります。マ
第3回五新線めぐりまとめ第1回五條市内アーチ橋『五新線、アーチ橋』週末はGOTOで大井川鐡道へ行ってきました横軽の時、1日に写真を1000枚(1061枚)撮ったとの記録を書いていましたが今回はそこまでいかず初日793枚とま…ameblo.jp第2回バス専用道路『五新線バス専用道跡』本ブログはあたたかい目でお読み願いますぽっぽーーシュシュぽぽ、シュシュぽぽ(霊安寺付近、交差点)ぽっぽーーしゅっしゅっ、しゅっしゅっシュシュぽぽ…ameblo.jp城戸(じょ
稲敷市を歩いていますおっとこんなところに城跡が・・・城好きは魅かれるわぁ行って来よう知っているお城の名前が書かれているぅ空堀と土塁がわかるらしいいかにも城跡っぽいところが良いね空堀がよくわかりますきれいな形状で残っているわ梯子がかかっている空堀よ梯子を上ると・・・ぐるりと土塁だわ
境町に来ています次に来たのが長井戸香取神社長井戸城跡でもあります遺構を見ることができるのか・・・こちらも広い境内です創建は不詳のよう長井戸城跡に移築されているよう創建は不詳ですが宝永3年の記録も残っているそうです先へ進みますいつのものか・・・寛政文化天保文久
後編では2つの観測所を見て行きます。第4砲座の左側に二十四糎加農砲台の左翼観測所が置かれています。2つの部屋(右を通信室、左を計算室と仮置)と円形の測遠機室、上部に砲台長位置が設けられていますが、東京湾要塞小原台演習砲台や由良要塞深山第一演習砲台などに類似の観測所が残っていますので、この形が大正~昭和期にかけての二十四糎加農演習砲台観測所の基本だったのかもしれません。右側の通信室です。内部。。。壁の手形が怖いんだが(゚Д゚;)天井には砲台長位置と繋がる孔がありま
行方市に来ています木崎城址と香取神社を見に来ました香取神社だよぉおっとぉ木崎城跡じゃぞぉ甲斐の武田氏の一族とな城内の守護神香取神社すてきですねぇ遺構を見ることができます行ってみましょうこれなんだ・・・ほぅ境内は緑が映えてきれいです
滋賀県の鉄道の起点?になる草津市。宿場町として栄え本陣2軒脇本本陣2軒旅籠70軒余りを構え多くの旅人で賑わっておりました。昭和24年国の史跡に指定され草津本陣として大規模な修繕を経て多くの人を江戸の世界へと誘っています。ここから8号線の方へ古い街並みを楽しみながら歩いて行くと8号線の手前に東新地があります。少し前までは当時の屋号を残した開成楼など面影はまだまだありましたが自身が訪れた際には解体が進み駐車場になっていました。それでも当時の面影が偲べる遺構が残っていまし
鉾田市に来ています烟田城跡があるので来てみました烟田城跡には新宮小学校がありましたが今は廃校になっています廃校がどこも増えています見事な土塁良くわかりますね奥へ進むと小学校の校庭にでます奥には鳥居が見えます小学校の校庭に氷川神社小さなお社がありました本殿が見えた烟田城は烟田氏
山口県には人間魚雷「回天」の基地が大津島、光、平生の3ヶ所に置かれましたが、光基地は光海軍工廠の敷地内に建設されました。回天基地の遺構は残っていませんが、現地には回天の碑が建てられています。「回天」の概略は大津島の記事をご覧下さい。『山口県の戦争遺跡131~回天の島(周南市大津島)その1(概略)』大津島(おおづしま)は徳山港の南西約10㎞に浮かぶ島ですが、戦時中に人間魚雷「回天」の訓練基地が置かれたことで全国的にも知名度が高い離島です。島内には基地時代…ameblo.jp大東
後編では赤丸のところから北に進んでいきます。激ヤブをくぐり抜けると、左手に石壁が見えてきました。石壁は砲側庫③の壁でした。入口を覗き込むと前室そして奥に弾室があります。弾室入口は右手にずらして設けられていますが、軽砲加農の砲側庫でよく見かける構造ですね。この窓も前半で見た弾薬庫の窓とそっくりなので灯り置きなのでしょうね。内部は丸っこいです。奥から入口を見ています。砲側庫③の右壁の即用弾丸置場の凹みを見ながら回り込むと、、、2番砲座があります。スロープ
夏休み特別企画1914(大正3)年に開通した旧生駒トンネルの開通110周年を記念して、旧生駒トンネル内をバスで移動見学、日本最古の生駒ケーブルの運転室・巻上所・車両床下を見学するツアーですただし、夏休み企画として、親子連れ参加が条件となっています興味あるんだけどなー実施日:7月27日(土曜)、8月31日(土曜)参加費:おとな¥10000、こども¥7000(大阪難波発)他駅設定もあり※おとな・こども1名以上の申込みが必要https://file
歩きやすい反対側へと渡り歩いていくと、赤いラインの所が崖崩れで無くなっています。両方の林道が歩行困難となっている。色んな難関があり退屈しませんね…どちらかというと元の林道の方がマシだったので再度戻りました。渡ってすぐに、コンクリートの基礎遺構とスパレスターみたいな物があります。コンプレッサーでもあったのでしょうか?奥に何か残っていそうです。少し進んだら遺構が見えてきました、どんな役割の施設だったのでしょうか?そしてその奥には、鉱山によく見る急傾斜の遺構です。階段や、
【23年5月4日探索・11月4日公開】茨城県北茨城市中郷町小野矢指JR常磐線南中郷駅だ。市の代表駅は一つ北側の磯原駅なんだが、明治43年開業の駅の割には駅前には何もない。駅自体も本年3月より無人化されたようだし。踏切を渡り、反対側に来た。少し広めの空き地がある。これもかつての専用線関連か。道は右カーブになり、さらに少し進むと何かコンクリ構造物が見えた。現在地はこの辺これって、かつての鉱山鉄道の遺構なのではないか?どう見たって橋脚だ
秋吉台は美祢市中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。現在は国定公園となっていますが、明治時代から大東亜戦争終戦の昭和20年8月まで、旧日本陸軍が戦闘訓練の演習場として利用していました。ではまずは歴史から。陸軍が秋吉台上を使用し始めたのは明治18年(1885年)と言われています。最初に広島野戦砲兵隊が、明治22年(1889年)には下関要塞砲兵連隊が実弾射撃場として使用し、明治32年(1899年)ごろから山口歩兵第42連隊が戦闘訓練の演習を開始しました。明治42年(1909年)
福岡県糟屋郡志免町にある旧志免鉱業所竪坑櫓の修理工事が終わりました。入院前に撮影した写真です。旧志免鉱業所竪坑櫓旧志免鉱業所竪坑櫓(きゅうしめこうぎょうしょたてこうやぐら)-志免町ホームページwww.town.shime.lg.jp私的にはレプリカ感があって前の古さの方が良かったですが。国指定重要文化財(建造物)です。周りに遺構も残っています。終戦(1945年)の前に建設された竪坑櫓は、これまで九州で造られたおよそ100の竪坑のなかでも、四山第一竪坑(三井三池炭鉱、荒尾