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明治37年(1904年)2月、日本とロシアは戦争に突入しました。本土沿岸の陸軍要塞には部隊が配備され射撃準備を整えましたが、海軍においても湾口や海峡に水雷の敷設や水雷艇による警戒が行われました。紀淡海峡には水雷の敷設は行われませんでしたが、その代わりに、深山地区の男良谷(おらだに)に水雷砲台(発射場)が明治37年6月1日に設置されました。由良要塞は陸軍なのでこのカテゴリーで海軍は関係なくね?って感じですが、戦時下には由良要塞司令官が陸海軍部隊を統率しましたので、併せて紹介していきます。何
久しぶりに過酷な探索をやろう!って事で決まった六助の穴探し。過去に一度全然違う場所から攻めた事があるぐらいで、正規ルート?の沢登りや登山道を全く経験していない。ってな訳でそっち方面からだとどうなるのか?と過酷な探索もお手の物で、あらゆる技術を持ってる我々廃索特殊部隊-SUFOS-が検証しに立ち上がった!!最初に言っておく…ッッ!!この時期の探索はマジで辞めた方が良い!山を甘く見るなとかその程度の問題ではない!!生死がガチで関わってくる事を忘れてはならないのだ!!そんなこんなでいつも
守谷城址に来ています守谷城二の丸からの眺めです絶景かなはす田の緑が濃いわぁ延々と広がる緑ですこの時期は緑のじゅうたん良き眺めじゃやはり眺めは昔からなんだなさらに進みます暑いけど木陰は風もあり気持ち良いです橋が登場そろそろ本丸か現在地がわかる当時は周
その2では、観測所の再訪記を書いた後で宗像大社を紹介します。その1の記事はこちら。『下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)-書換-』宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。*****************…ameblo.jp**************************観測所は砲座を見下ろす高い位置に設けられています。では入ります。スリット上の観測窓と観測
まずは見取図です。2番砲座南側の海軍標石がある辺りから回り込んで見に行きます。以前に探索された方々のおかげか道筋がついているので、藪を漕ぐことなく行くことができます。と言うことで到着です(・∀・)「電燈室」に繋がるトンネルが口を開けて待っています。トンネル右手、「頭部室」が置かれていた場所を見ています。壊れているし藪っているのでよく分かりませんね。右手の擁壁。たぶん「発射室」まで繋がっていたと思われます。擁壁を辿って進みたいところでしたが、この先ゲキ藪なので無理でし
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
その3では、砲台の観測用に設置された規正標柱を紹介します。大島砲台の記事はこちら。『下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)-書換-』宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。*****************…ameblo.jp『下関要塞探訪157~大島砲台その2(観測所/宗像大社紹介)』その2では、観測所の再訪記を書いた後で宗像大社を紹介します。その1の記事はこちら。『下関
境町に来ています次に来たのが長井戸香取神社長井戸城跡でもあります遺構を見ることができるのか・・・こちらも広い境内です創建は不詳のよう長井戸城跡に移築されているよう創建は不詳ですが宝永3年の記録も残っているそうです先へ進みますいつのものか・・・寛政文化天保文久
【問題】平戸城(長崎県平戸市)に残る、全国でも珍しい遺構とは次のうちどれか?【選択肢】二等辺三角形の井戸海中の曲輪版築の鉢巻土塁石の狭間【正解】石の狭間【解説】通常、城の狭間は城外の敵を狙うために塀や壁に穴が開けられるが、平戸城には石垣の中に開けられた珍しい狭間が残る。狸櫓の付近でその姿を見ることができる。
3/18横浜発のダイヤモンドプリンセスに乗船してきました。眼鏡橋からすぐ、カステラアイスのお店「ニューヨーク堂」さんで、工場稼働時限定の「カステラ生ソフト」この日はバニラ味が稼働してました。詳しくはこちら。『4日目ランチ&おやつ』3/18横浜発のダイヤモンドプリンセスに乗船してきました。4日目の長崎でのランチは、事前調べで心に決めていた「あじ盛」さん。ランチというには早すぎる10時半で…ameblo.jpニューヨーク堂の前の商店街を進んで次はアーケード街に入ります。マ
生石山には5つの砲台と1つの堡塁が築城されましたが、これら砲台群の弾薬の貯蔵と補給を行う弾薬本庫が第一砲台後方谷地に置かれました。(竣工:明治24年(1891年)8月15日)拡大して見取図を掲載します。生石山弾薬本庫へは堡塁から軍道と思われる道を下って行くと到着します。また道路にも面していますのでこちらからでも入ることができます。なお弾薬本庫は破壊されていますので原型を留めていません。では、せっかくなので堡塁から下っていきます。道路脇の堡塁石垣沿いを進みます。左手に
昭和9年(1934年)の「要塞再整理」によって下関要塞は朝鮮海峡系要塞(鎮海湾、対馬、壱岐、下関)の一環となり、昭和10年(1935年)から昭和15年(1940年)にかけて下関要塞領域の各島嶼に砲台が築城されました。砲台の場所および火砲の種類・門数は以下の通りです。【参考リンク】昭和期の下関要塞の概略はこちら→→→この体制は昭和16年(1941年)12月8日の大東亜戦争開戦後も変わることはなく、下関要塞重砲兵連隊および第21警備大隊などの部隊をもって、関門地区ならびに周辺海域
2024年4月に記事を書き直しました。以下は旧記事となります。『壱岐要塞探訪㉓~渡良大島砲台その1(砲台右翼側)-書換-』4年ぶりに渡良大島砲台を再訪しましたので、ブログ記事を書き直します。渡良大島(わたらおおしま)は郷ノ浦港の沖合に浮かぶ島で、近隣の長島、原島とともに「渡良三…ameblo.jp以下旧記事です。*****************************************◆砲台名:渡良大島砲台◆起工:昭和11年(1936年)8月1日◆竣工:昭和1
深山第二砲台は第一砲台の南、標高105m地点に築城されました。第一砲台と同じく28㎝榴弾砲6門と15㎝臼砲4門を持ち、加太瀬戸に侵入せんとする敵艦を撃退する任務を持っていました。第二砲台の履歴です。◆起工:明治25年(1892年)1月18日◆竣工:明治26年(1893年)10月31日◆備砲:28㎝榴弾砲6門、15㎝臼砲4門(明治31年3月備砲完了)◆設置標高:105m/106m◆経過:大正11年度(1922年度)、演習砲台に改築◆廃止:昭和6年(1931年)9月・全部除籍
牛久市のお目当て小坂城跡に着きました公園になっています整備されていると案内板があるのでわかりやすいです結構大きいな小規模な城だったと思うがこう見ると広いわ他がもっと大きいってことかしらね小田氏から分かれた岡見氏が築城さすが城登るんじゃ~整備されているから上りやすいんだがやはり・・・きついわぁあ
到着しました守谷城址公園です公園はとても広い今回探索するのは守谷城の部分です長年の風雨で残念な形・・・おしいなぁ気を取り直していざ出陣!湿地帯広がる城作りには良い土地かそろそろ出て来ますワクワク写真では迫力が伝わらない・・・写し方が悪いのよ腕悪いから・・・実際はか
他にも通信所跡を探したら、丸い土地があるのではないか。。。。あった!船橋送信所跡だ。行ける距離なので行ってみた。歩いてみてわかったのだが、円が随分小さい。半径400mとのことなので、深谷通信所跡の半径610mの3分の2ほどだ。円の真ん中を通り抜けてから一周して、所要1時間弱。あっという間だ。円の中は既に再開発済であり立入禁止の空白地帯はなく、いたって普通。円の中には公園、学校、団地等があった。草原や林もあるが公園の一部なので不自然さがない。やはり住宅街の中にあって取り残された未
筑西市国指定文化財になっている関城跡に来ています八幡神社からさらに歩いて遺構を探しています庚甲塔浅間大神等々たくさん置かれていますこの辺りも土塁でしょうか近くに点々と石仏も置かれていました通りの名前も関城通りださらに歩くと石碑がありました関宗祐父子墓案内板付きで
行方市に来ています木崎城址と香取神社を見に来ました香取神社だよぉおっとぉ木崎城跡じゃぞぉ甲斐の武田氏の一族とな城内の守護神香取神社すてきですねぇ遺構を見ることができます行ってみましょうこれなんだ・・・ほぅ境内は緑が映えてきれいです
【2】より続く。そう、現場ではとっくに気づいてた。あそこに見えるは…そう、先日ご紹介したシュールレアリスティックな盆栽である。こんなとこにいたんですな。彼(彼女?)が鎮座してる場所の奥にはささやかな砂防堰堤があって、「昭和52年度治山施設滋賀県造林課」という銘板があった。この道界隈で具体的な年代を示すものを見たのは、結果的にここだけだった。で、この写真。先般の記事では使わずにあえて温存しといたんだが、これ、この日撮った写真の中で
◆起工:明治35年(1900年)11月5日◆竣工:明治37年(1905年)8月8日◆備砲:斯加式30口径12cm速射加農砲6門◆設置標高:14.1m◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→男良谷(おらだに)砲台は、加太瀬戸に侵入せんとする敵の中小艦艇を射撃し、隣接する海軍水雷所を守るために築城されました。見取図を掲載します。北側に陸軍の男良谷砲台、南側に海軍の水雷砲台が位置しています。アジア歴史資料センターで検索した「由良水雷隊仮設位置図」を見ると水雷砲台の建物
鉾田市に来ています烟田城跡があるので来てみました烟田城跡には新宮小学校がありましたが今は廃校になっています廃校がどこも増えています見事な土塁良くわかりますね奥へ進むと小学校の校庭にでます奥には鳥居が見えます小学校の校庭に氷川神社小さなお社がありました本殿が見えた烟田城は烟田氏
稲敷市を歩いていますおっとこんなところに城跡が・・・城好きは魅かれるわぁ行って来よう知っているお城の名前が書かれているぅ空堀と土塁がわかるらしいいかにも城跡っぽいところが良いね空堀がよくわかりますきれいな形状で残っているわ梯子がかかっている空堀よ梯子を上ると・・・ぐるりと土塁だわ
守谷市で遊んでいます守谷市と言えば・・・そりゃあもう、見どころ満載と言うことで・・・電車見に来た守屋駅ですこちらはJR守谷駅おっとぉTXだぁそして隣には関東鉄道の守谷駅関鉄がんばれローカル線いいぞ!さて城址目指して行きましょう守谷森林公園その前に
淡路島を探索してきましたので、山口県の遺跡紹介をお休みして1ヶ月半ぶりの由良要塞を探訪していきます。なお由良要塞の概略はこちらのリンクから→→→では成ヶ島に築城された3つの砲台を紹介していきます。まずは地図から。成ヶ島(なるがしま)は淡路島の東南端、紀淡海峡に面して浮かぶ島です。北の成山と南の高崎を結ぶ約3㎞の砂州で形成されており、その特徴的な地形から淡路橋立と呼ばれています。なお成ヶ島は無人島ですが渡船が出ているので楽に渡れます。しかも2分で(笑)ただ運航は金・土・日・月曜と
【21年4月11日探索・10月6日公開】現在地はこの辺栃木県鹿沼市上久我県道240号石裂上日向線だ。ちょうどこのカーブの先、左右に気になるモノがある。まずは右側。こんな、見るからに古そうで怪しげな穴がある。加蘇鉱山大通洞と右書きで一文字ずつ刻まれた石が貼りつけられていた。穴の正体がわかった所で近づいてみよう。昭和16年7月竣功と刻まれているのを発見した。県道沿いの丸見えの場所にこんな遺構がそのまま(一応塞がれてはいるが)残っている
今日は日露戦争時の参謀次長で、日本の航空とスキーの先駆者となった長岡外史を取り上げます。下松市望町に生誕之地の石碑、笠戸島に銅像の立つ外史公園があります。長岡外史(ながおかがいし)は、安政3年(1856)5月13日、山口県都濃郡末武村(現下松市)の堀時(トキ)の子として生まれる。幼名は忠蔵。11歳の時に萩藩士長岡弥九郎の養子となり名を昱輔(いくすけ)と改めたが、14歳の時、寄宿していた明倫館を訪れた元藩主・毛利元徳より、日本外史をよく暗譜していたことが認められ、“外史”の名を贈られ
前回に引き続き今回も2年前の記事を書き直していきます。矢筈山堡塁は北九州門司区大里に聳える矢筈山(標高266m)の山頂部に築城されました。現在は北九州市のキャンプ場になっていますが、当時の遺構を取り入れた造りとなっていますので、破壊の多い下関要塞砲台群の中では非常に良好な状態であり見応えがあります。堡塁の簡単な履歴です。◆起工:明治28年(1895年)8月21日◆竣工:明治31年(1898年)3月31日◆備砲:9㎝加農砲4門、15cm臼砲4門、機関砲2門◆設置標高:25
行者ヶ嶽砲台は鳴門岬の福良地区に築城されました。履歴は以下の通りです。◆起工:明治30年(1897年)10月1日◆竣工:明治33年(1900年)3月31日◆備砲:26口径24㎝加農砲6門(明治33年3月備砲完了)◆設置標高:48m◆任務:西南方海面を射撃し鳴門海峡を通過せんとする敵艦を撃退◆除籍:昭和10年(1935年)3月砲座除籍も4砲座はその後も存続◆鳴門要塞の概略はこちら→→→場所はこちら。鳴門要塞では4つの砲台/堡塁が築城されましたが、その中で唯一現存
神武寺駅から鷹取山を目指し、最後は追浜駅に到達した。鷹取山ハイキングコースについては駅前看板に「遭難事故が多発」と書かれていたりして少し構えていた。結果的にはそこまで構える必要はなかった。むしろ予想外に興味深いものを見ることができた。↑石切場の遺構。360度全方向とも垂直に切り立っている。場所が通路ではなく、どん詰まりなので切通しというより、まさに石切場だ。石切場にありがちな階段状の壁面というわけではなくきれいに切り立っている。よって切通し感が満喫できた。鷹取山のコース説明では誰も