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続きです。ここからが本題、現在地はこの辺、静岡県浜松市天竜区船明。この紺色の建物から先に築堤が残っています。これは国鉄佐久間線という未成線の跡地なのです。現在の(天竜浜名湖鉄道)天竜二俣駅からJR飯田線の中部天竜駅まで繋げる予定で途中まで工事をしたものの、計画がなくなり一部がこうして残っているそうです。ちなみにこの時等に載せてる夢のかけ橋とトンネルワインセラーも同じく佐久間線の跡地です。この区間は雨の日でも比較的容易に見に行けそうだと思って来てみました。で、この築堤の先をズーム
https://cmeg.jp/w/castles/2005三ツ木城(埼玉県桶川市)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー三ツ木城(埼玉県桶川市)の歴史や遺構の状況が分かる城郭基本情報、地図、最新の口コミや写真をご覧頂けます。cmeg.jp
令和5年(2023)7月2日、宇部市新天町に「宇部大空襲追悼碑」が新たに建立されましたので紹介します。大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)、宇部市は4月26日から8月5日まで計8回に亘って、延べ280機の米軍機による空襲を受けました。昭和22年(1947)の「宇部市勢要覧」によると、この間の人的被害は死亡者254人、負傷者557人、行方不明者68人、罹災人員2万5,424人とされていますが、総務省のHPには宇部市における空襲等の状況が書かれていますので引用します。①4月26
【23年8月12日探索・24年4月21日公開】現在地はこの辺山梨県甲州市塩山赤尾JR中央本線塩山駅からほど近い場所だ。先の方に見える踏切は赤尾踏切という。昭和7年の今昔マップにはちょうどこの辺りが軌道の起点であるように描かれている。そんな場所で見つけたのは・・・埋まっていたレールだった。実測では高さ49㎜、おそらくは6㎏レールだろう。何か気になる建物があり、その手前の看板は塩山林務事務所の名があった。私が辿っていこうとしているのは石材軌道だが、途中までは森林
連日35度、雫石通過時ですら33度で死にそう。一週間予報が30度を超えなかったので出発したのですが、派手な裏切りに絶望です。この旅で一番長時間滞在してるのは「イオンフードコート」wwイオンいっぱいある、イオン様様じゃよ、死ぬわ。以前も記事にした大仁金山に再びお散歩しにきました。虫や雑草が面倒なので晩秋の探索です、今回は深く入ってみました。発見が多かったので写真多め。金山への道へは無縁仏の石がたくさんあります、文字は読めません。一つ新しいものが「大仁金山監視員
城の日の重大(10大)ニュースで未確定情報として発表した「プロジェクトN」について、その全貌がいよいよ今日明かされます!!新たに「ニッポン城めぐり」に実装される機能とは…“縄張図取り込み機能”です!“縄張図”の“N”でした!リア攻めに役立つ機能の最終兵器といっても過言ではない縄張図の領域に、ついに足を踏み入れてしまいました( ̄□ ̄;)!!この機能は、アプリに縄張図を取り込み、それを地図と連動させることで、今自分がどの曲輪にいるのか、この先にどんな
龍ノ崎(たつのざき)高角砲台は、対馬警備隊に編成された2つの高角砲台のうちの1つで、対馬南東部の龍ノ崎を見下ろす標高313mの高地に設置されました。対馬全域図は【警備隊概略】にてご覧いただくとして、高角砲台周辺を拡大した地図を掲載します。左上にあるのが高角砲台ですが、右側には陸軍の対馬要塞龍ノ崎砲塔砲台が2基設置されています。そして高角砲台の置かれた313mピークから南側の宮ノ岳(標高325m)に向けての尾根上には、侵入防止杭と陸軍軍用地境界標石が並んでおり、宮ノ岳のピークに対馬要塞
成ヶ島3つ目の砲台レポートは、島南端に築城された高崎砲台です。高崎砲台の履歴です。◆起工:明治31年(1898年)3月22日◆竣工:明治35年(1902年)11月5日◆備砲:克式25口径24㎝加農砲6門、安式35口径隠顕砲架24㎝加農砲2門◆備砲完了:克式/明治35年7月、安式/明治36年2月◆設置標高:15m/13m◆廃止:大正3年(1914年)/要塞整理で廃止決定→昭和10年(1935年)3月/全部除籍◆特記:廃止除籍後、27㎝加農砲4門東京湾要塞速水砲台より移設
宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。***************************「大島」は福岡県宗像市神湊(こうのみなと)の北西約6.5kmの沖に浮かぶ島で、「筑前大島」、「宗像大島」とも呼ばれています。約500人が住む周囲約15㎞の島ですが、大東亜戦争中には陸軍の砲台や海軍の防備衛所が置かれていました。昭和15年の下関要塞砲台配置図で場所を確認します。大島全景。大島は響灘と
↑↑↑たくさんのクリックをいただきありがとうございます!(^^)!2023年6月18日(日)の記録です。久しぶりに当たったいこいの村を後にし、次に向かったのが三重県名張市。伊賀鉄道の遺構を見に行くのですが、道中たまたま名張の巨大廃ラブホ前を通りましたので、再訪いたしました。入口は2月に訪問した時と同じでした。前回に続いてということですので、内部画像を適当に張り付けていきましょう~アメニティ類もこんな
つづき吾野駅、林道アズサズ線の鉱山跡にある巨大タンク施設の二階人工物高所恐怖症のMIMIZU(岩とか自然のものは平気なの)歩道橋すら怖いのにこんな人工物の上、こ、こ、怖いっ下半身をワナワナさせながら写真を撮る巨大タンクは3つある底には穴が2つずつさっき見たベルコンのあるところへ繋がってるのねタンク内に落ちたら自力で上がって来れないな〜どうしよ〜あ、穴から下に抜ければいいね〜(あってはならない事を想像して脱出方法を考えるMIMIZU)屋根の骨組みが華奢だな〜看板あり
タイトルにある通り残念ながら林道工事により産地が消滅した…。実は前回訪れた時にほぼ消滅しかかってたんだけど、心の中ではまだ大丈夫だろうと油断していた。本来ならわざわざ行かなくても前回で終わりにすれば良かったんだろうけど…この産地には非常に強い想い入れがある。梅田鉱山はか~み~が初めて水晶を採った場所でもあり、鉱山デビューした始まりの場所でもあるのだ…ッッ!!その思い出の地が無くなってしまうんだから最後に一度見ておきたかったってやつだ。過去ネタは↓から!梅田鉱山①梅田鉱山②梅田鉱山
西ノ牧鉱山と言えば鶏冠石が採れる事で有名だが何気にここに今まで来なかったのは、穴が全て塞がれているからだ!やっぱり穴マニアからするとね、穴に入れないと何かそそらないものでね!しかし!この日は久しぶりの単独探索って事で下仁田方面を攻めていたので、どんなものか見てやろうじゃないか!って事で訪れた。行き方としては探索仲間の群馬県鉱山探訪記のmog氏のホームページを参考にしたので、比較的簡単に林道入口まで到着する事が出来た。鶏冠石って何気に群馬県の鉱物って認定されてるみたいなのよね。そんなのがあ
幻の大仏鉄道①『幻の大仏鉄道跡①』11:34JR大和路線加茂駅着観光案内所に行く幻の大仏鉄道の地図パンフもらってぇ〜11:45ランプ小屋田園風景を楽しむコースを選択れんげぇ✿のどかな里山風…ameblo.jpからの13:20大仏鉄道公園静かな風の気持ちいいとこ誰もいないおにぎり🍙食べて〜トイレ休憩🚻暑くなってきて更にベストも脱ぐ(笑)14:15関西鉄道社章モニュメントこの横の階段を降りると松谷川隧道まつたにがわずいどう14:40鹿川隧道(しかがわずいどう)
昨日紹介した防府北基地の南側に航空自衛隊防府南基地が置かれていますが、この基地の前身は防府海軍通信学校でした。戦後米軍が撮影した空中写真で見るとこのような配置となっています。(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスUSA-M122-23を加工して掲載)なお、施設の名称については「甲飛防通会名簿」を参考にしています。それでは簡単に説明していきます。=============================昭和5年(1930年)、無線通信術を教育する海軍通信学校が横須賀
【5】より続く。何回出すねん?な地理院地図。行きで気になった「露天掘り的な一画」は、地形図上でも明らか。どんな場所なのかを確認すべく、スロープを登っていく。これまた伝わりにくいが、けっこうな勾配だ。ほどなく、てっぺんが見えてきた。「変な道」からは視認できなかったエリア。ああ~、そこは、おおむね円形の平場になっており、明らかに山を切り開いて造られた一画。いかにも荒涼としたその一画には、そ
これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地図を掲載します。今回紹介するのは「大嶺炭田(海軍煉炭製造所採炭部)」ですので、山口県全域の地図で場所を確認します。では簡単に概略を書いていきます。大嶺炭田は、現在の美祢市西部の大嶺町から豊田前町に至る東西10㎞、南北12㎞に及ぶ広大な炭田で、明治10年(1877年)ごろに発見されたと言われています。(諸説あり)大嶺炭田で採掘される石炭は燃焼時に煙や臭いがほとんど出ない炭化が
防府市田島には航空自衛隊防府北基地が置かれていますが、この基地の前身は陸軍の防府飛行場でした。まずは防府飛行場と駐屯した部隊について説明します。==============================大東亜戦争開戦翌年の昭和17年(1942年)、陸軍は防府市南西部の中関地区に航空隊の飛行場を建設することを決定しました。土地の買収を行い、昭和18年(1943年)9月より工事が始まりましたが、地区民を始め中学生が動員され、突貫工事にて昭和19年(1944年)5月に完成しました。飛
ここは広島県福山市加茂町岡山県の県境くらいまで来たのではないだろうか?ここまでの道はあまりにも危険過ぎた舗装されている事だけでも助かったが一時タイヤが半分谷側にはみ出た所もあった。動画もこういう撮影をすれば緊迫感が伝わるかと思ったがそれを実行していれば今頃は谷底に落ちていた可能性が高い…こんな看板があちらこちらにある。前回の旧鉱山跡から比べ辺りの雰囲気が様変わりした。かなり山奥に入ってきたという事もあり人の気配というか人工音が全くしない。耳に入るのは風音、そして
郷山砲台は浅茅湾(浅海湾)の湾口南部の尾崎半島に構築され、湾内に侵入せんとする敵艦を撃退する任務を持っていました。明治37-38年の日露戦争時に着工されましたが完成したのは戦後でしたので、結果的に戦争には間に合いませんでした。明治期の堡塁砲台は昭和初期までに廃止された所がほとんどですが、『現代本邦築城史』を読むと郷山砲台は廃止されたことが書かれていませんので、大東亜戦争時の昭和17年(1942)時点で残置されていたようです。◆起工:明治37年(1904)8月11日◆竣工:明治38年(1
何気に結構前…確か二月だったかな?奥・奥多摩鉱山を攻め終わって時間が余ったので、洞窟にでも行ってみるかって話になったんだ。場所が奥多摩だから言わずもがな洞窟がわんさかあるのはケイバーには常識である。とは言っても一般の認知度はほぼ皆無…ッッ!!何気に奥多摩で洞窟はこの日のちょうちん穴が初めてで、何となく地図にアタリをつけておいたので正直自信はなかった。現地に到着し素早く装備を整えて石灰岩がある所へと進んで行く。実は当初の目的はちょうちん穴の近くにある聖穴に行こうと思っていたのよね。それ
まずは見取図です。2番砲座南側の海軍標石がある辺りから回り込んで見に行きます。以前に探索された方々のおかげか道筋がついているので、藪を漕ぐことなく行くことができます。と言うことで到着です(・∀・)「電燈室」に繋がるトンネルが口を開けて待っています。トンネル右手、「頭部室」が置かれていた場所を見ています。壊れているし藪っているのでよく分かりませんね。右手の擁壁。たぶん「発射室」まで繋がっていたと思われます。擁壁を辿って進みたいところでしたが、この先ゲキ藪なので無理でし
【7】より続く。ささやかな支流に残る、存外に立派な橋台。短いガーダーが架けられていたのだろうが、失われていた。で、その先の路盤脇に何かが建って?いる。それと、斜面の下にも。あっちはとりあえず後回しとして、まずは、路盤脇の建物…の残骸をチェック。内部がどんなだったか、なぜか写真を撮ってない。特筆すべきものはなかったか。わたくしが気になったのは、ここ。かつてよく見たタイプの、
ここには三度程足を運んだだろうか??前に面白い場所は無いかとバイクを走らせていた時に急にコンクリートの遺構が目に飛び込んで来たのだ。この時はここがどんな鉱山かもわからなかったが、図書館なり聞き込みをしてようやく判明。多野鉱山である事がわかった。昭和12年頃に日本ニッケルによって採鉱され軍需産業の一翼を担うものだった。当時は索道を使って選鉱場へ運搬する仕組みで雲尾、大沢は賑やかだったらしい。神流川を隔てた若泉にも施設がありこの鉱山の為に専用鉄道も走っていた。通称日本ニッケル鉄道と言われ僅
昭和9年(1934年)の「要塞再整理」によって下関要塞は朝鮮海峡系要塞(鎮海湾、対馬、壱岐、下関)の一環となり、昭和10年(1935年)から昭和15年(1940年)にかけて下関要塞領域の各島嶼に砲台が築城されました。砲台の場所および火砲の種類・門数は以下の通りです。【参考リンク】昭和期の下関要塞の概略はこちら→→→この体制は昭和16年(1941年)12月8日の大東亜戦争開戦後も変わることはなく、下関要塞重砲兵連隊および第21警備大隊などの部隊をもって、関門地区ならびに周辺海域
山形県は鉱山がとにかく多い。その中でも特に鉱山密集地帯の西川町にやって来たお盆休みのウィトゥ亀!!。探索目的で目指していたのは睦合鉱山だ。その鉱山に向かうちょうど山の方へ車を走らせてると、左側に謎の穴を見つけてしまった。何故これを調べてみようと思ったかと言うと、普通なら崖崩れ防止で、コンクリート吹付を全面にやるのに…三ヶ所だけはそのままくり抜かれていたからだ。一度睦合鉱山を探索しに行ってからの後回しで良いやと思ったら、何と!途中道が自然保護の為、町民以外は通行禁止になっていたのだ!!それ
未成のスポーツ公園航空写真を見ていて気になっていた場所へ訪問することにしました。60年代後半より開発が始まったもののその後開発が頓挫されたものと思われる道やグラウンドの様なものが点在しており建物もありました。時代はレジャーブームでスポーツ公園を山を切り崩し造成していたようです。広くなっている土地は太陽光パネルが設置。廃墟が取り壊され太陽光パネルが置かれるケースが近年急増しています。石が積まれた軽トラックの廃車体。山の斜面を活用しテニスコートをいくつか作ったと思われる部分は完全
3/18横浜発のダイヤモンドプリンセスに乗船してきました。眼鏡橋からすぐ、カステラアイスのお店「ニューヨーク堂」さんで、工場稼働時限定の「カステラ生ソフト」この日はバニラ味が稼働してました。詳しくはこちら。『4日目ランチ&おやつ』3/18横浜発のダイヤモンドプリンセスに乗船してきました。4日目の長崎でのランチは、事前調べで心に決めていた「あじ盛」さん。ランチというには早すぎる10時半で…ameblo.jpニューヨーク堂の前の商店街を進んで次はアーケード街に入ります。マ
↑↑↑たくさんのクリックをいただきありがとうございます!(^^)!2021年3月27日(土)の記録です。それではこの素晴らしい遺構を後にしましょう~このあとは少しばかり、この山の尾根付近を散策しますと・・・埋もれずに砲座跡が残っておりますよ~では下山!大きな基礎が残る上部の遺構。帰りはこんなの見る余裕も・・・w遺構をゆっくり見ながら・・・帰りはこれらの上にも上ってみましたが、特にと言ってはレポ
今日は平生(ひらお)町の阿多田(あたた)半島に置かれた回天基地を取り上げます。回天は日本で最初に開発された特攻兵器で、いわゆる人間魚雷です。回天の搭乗員を養成するために、山口県下では大津島、光、平生の3か所に回天訓練基地が設けられました。平生基地の正式名称は平生突撃隊(通称:嵐部隊)です。昭和17年(1942)に竣工した海軍潜水学校柳井分校に隣接する形で、昭和20年(1945)3月1日に開設しました。回天の現物が遊就館に展示されています。(回天一型改一)平生突撃隊は呉鎮守府指