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早朝、メイクさんが最後のメイクを整えに来てくれた。前日,担当者の方に棺の中に入れてあげたい物を揃えて欲しいと言われていた。渡せなかった沖縄土産のシャネルの口紅・・・棺の中に入れる事を担当者に伝えたところそれを聞きつけてくれたメイクさんが「渡せなかったと。おしゃったと担当者の者から聞きました。最後にシャネルの口紅をお嬢様に付けさせて頂きました。」お願いした訳じゃなかったのに、一度も付ける事の出来なかった口紅を娘に付けてくれた。
父は普段から絶対に怒らない人。口数は少なく子煩悩。お願い事は、出来る出来ないに関わらずとりあえずやってくれる。笑いはするけど「怒」「哀」の感情は見たことがありません。母は、「何を考えているのかわからない!」「何にも言わへんねん」「お母さんがしんどくても大丈夫かの言葉もない」など、不満爆発。私は「(いや、逆にお母さんもいたわってあげてる?)」と思ったりもしたけど…長い間家庭内別居。だけどご飯はみんなで食べる。ちょっと変な家族でした。そんな母が年明け5日に倒れ救急搬送
私がひとりで葬儀をするのを知り友達二人が(接点はほぼなし。一度友達の売場にいっただけ)連絡をとりあって葬儀場までかけつけてくれた。あたしは放心状態と怒りにあふれていて用意していたものや数珠さえ忘れてくる始末。あたしは真ん中で二人がその横から支えてくれていた友達がおとんの好きなもの全部用意してくれていて葬儀だけでなく友達二人は骨揚げまでつきそってくれておとんの骨を拾ってくれた。おとんの棺にも花をたくさんいれてくれてあたしの事は心配しないでいいから安心してください
2024/03/124回目TC療法+3回目アバスチン21日目姪の司法解剖が終わり昨夜の夜中に遺体が帰って来た夜中に主人が葬儀場に出向いて真夜中に帰ってきた京都祇園ボローニャデニッシュ食パン3斤(3斤サイズ1本でお届け)SG04Amazon(アマゾン)車を大阪へ受け取りに行った際サービスエリアで買って帰ったデニッシュパン午後には娘も神奈川から帰ってくるお昼を軽く済ませて迎えに行く食べかけで写真撮りました駅まで娘を迎えに行き新幹線内で昼食をとってないこと
本日もゆうらり日記によおおこし!姑っちが旅立って2週間‥弟の忠夫さんの事や、すでに様々なドラマがありました。そして仏事命だった姑っちにとって一大事のざわつく件も‥さてさて、なんじゃらほい???通夜の枕経を上げに来たのは爽やかイケメン僧侶‥じゃあいいじゃないのって思いますよね?しかし、しかーし!!続く②『姑っちvsイケメン僧侶!②』仏事命だった姑っち。それは、かなり前に
皆さんが会場を後にする時に、横一列になった私達が見送る。その時、一人一人、娘との関係やお悔やみの言葉、励ましの言葉をかけてくださった。旦那より娘の友達と接する事が多かった私は、懐かしさ、成長した姿を見せてくれる子供達が愛おしくて、感極まった。いつの間にか挨拶だけが、近況報告やら、ハグやら、お礼やら・・・長蛇の列、列、列・・・悲しみの中に、ほんの少しの喜びがあったり、笑いがあったり、複雑な思いで皆さんを送り出す事となった。長野
19時から始まる通夜。その数時間前に、娘の旦那の両親が葬儀会館に来た。私達や故人を思いやっているような、素振りの挨拶を済ませた。娘の旦那の父親は、喪服は着ているが、リュックサック姿だった。おい!葬儀に遠足気分で来ているのか!怒りがこみ上げた。えっ?娘の旦那は?何分待っても、何時間待っても来ない!なんで?意味わからん!まさかの・・・結局、奴は来なかった。故人と喪主の姓が違うと言う、何と
細見恭司㈱第一建設ホテルアカデミー学長さんのプロフィールページhttps://profile.ameba.jp/me演歌歌手の北島三郎(81)の次男で作曲家の大野誠(おおの・まこと)さんが東京都調布市の自宅で、3日に遺体で発見されていたことが7日、分かった。病死とみられる。51歳。東京都出身。通夜は7日、都内で営まれた。8日に近親者で葬儀・告別式を行う。喪主は北島三郎こと父、大野穣(おおの・みのる)氏。北島はこの日夜、都内で会見し「我が子が先立ってしまった」と声を詰まらせた。
姉は肝臓癌破裂で4年前いい夫婦の日に倒れ他界した救急車両で大学病院に運ばれ人工呼吸器をつけベッドによこたわっている姉頑張ってと声をかけるとかすかに首を横にふった…いままでずっとくるしかったのにもうこれ以上がんばれないよね…ごめんね医師は肝臓がん破裂手術をしても長くはもたない自分の家族だったら手術は望まないといわれる義理の兄はわたしにこれ以上苦しんでほしくない
ご訪問ありがとうございます当地は今日はシトシトと雨が降っています今日は母の命日あれから2年3回忌(法要は家族の都合で3月末に終わってます)『母の癌シーズン2静かに安らかに天に召されました』ご訪問ありがとうございます昨日の記事から数時間後↓昨日の記事『母の癌シーズン2お別れの時が近づいてきました』ご訪問ありがとうございます『母の癌…ameblo.jpこのときも小手毬を画像にしてたんですね『母の癌シーズン2通夜・告別式を終えました』ご
横になったとしても娘は同じ高さからは棺に横たわる娘を見る事はできなかった。事故の連絡後まともに食べるものが喉を通らなない。残暑厳しい今年の秋、なるべく水分は取るように心掛けたけどそれすら喉を通るのを嫌がった。更年期に入ってから暑い寒いを繰り返す女性が多いとは聞くけれど私の場合暑さだけしか感じない様な体質に変わってしまった。真夏も家族全員がクーラー効きすぎて寒いと言うなか、私一人、暑い暑いと言ってはクーラーをガンガン効かせるほどに。その私が寒いと思う
私の入院の日程が決まる前子宮平滑筋肉腫、人工膀胱になる可能性があると聞いて私も家族も色々とそれぞれ考えていたころ兄が自宅トイレで血を吐いて倒れた。集中治療受けたけど、母と私が駆けつけた時にはもう瞳孔が開いていた。11月13日月曜日夜が明ける前わたしのPET、診察の前日に。歳の離れた兄が急に消化管出血で亡くなった。とても悲しかった。お兄ちゃんも死んじゃって私も余命少ないとなったらお母さんが可哀想すぎるどうしよう。。。翌日14日ワイン先生にPETで転移がない、原発も光ってない
毒を吐かせて下さい申し訳ございませんお父さんの実兄、去年3月他界しました私は…体調も悪く、通夜、葬儀にでていません(行く気もないが)通夜には三萬包み葬儀には五萬包みました通夜、なにも持たずに帰宅葬儀、会葬御礼なし四十九日、三萬包みました満中陰志なしでした私は実のお父ちゃんの喪主、施主をつとめました私なりにネット情報等、体験談を見てするべき事はしています非常識、極まりない!義理姉からお父さんに電話があったそうです【田舎の家、田畑の草が延び、草刈りをして欲しい】
旦那の従兄弟は早くに奥様を肺がんで亡くし、男で一つで二人の子供を育ててきた奥様は私と同じ年私の息子と従兄弟の娘が同じ年私の娘と従兄弟の息子が同じ年2組、それぞれの誕生日も近い者同士の為、区切り区切りで誕生日プレゼントを贈るのを楽しみしていた私来年30歳の誕生日を迎える下の子同士に何を送るかをワクワクしながら考えていた矢先の娘の死色々思い出話をしながら、あっという間に会場に移動しなくてはいけない時間になりましたスタッフ「そろそろお時間なのでお嬢様を会場の方に移動させ
皆様お疲れ様です。今日は息子の月命日です今日一日、息子の事を思って過ごしていきたいと思ってます。あ、でも毎日思ってるからあまり変わりませんね笑…お通夜当日になりました。この日は納棺が14時からだったのですが受付の横のスペースに息子の思い出の写真や品々を展示するため朝から式場に入っていました。お通夜をやる会場は3階で受付は2階になるのですが受付横のスペース全てというかワンフロア全てを展示スペースとして使ってくださいと式場の方が仰っていただいたので広々と色々なものを
10月16日月曜日、入院中の義父が亡くなりました。前日の夕方から血中酸素飽和度が下がり、酸素を8リットル入れても90%までしか上がらないと病院から連絡が来ました(96〜99%が正常値。90%を切ると呼吸不全)。義父はとても我慢強い人なので、夜中頑張っていたようです。でも明け方、「息が苦しい。なんとかしてほしい」と訴えました。再度病院から電話がかかってきて、「苦痛を和らげるため薬を使うことができますが、そうするとずっと眠ったようになるので、もうお話しできなくなります。よろしいでしょうか?
次女のお義父様の葬儀に参列してきました…昨日の夜のお通夜家族葬でしたがけっこうな人数の弔問がありました祭壇もなく献花は、たくさんありましたが少し寂しい今風のお通夜でした突然お孫ちゃん1.2号ちゃんたちを預かることになりましたお弁当を食べお風呂に入れて寝かしつけましたお孫ちゃん2号(2歳)は、ママ〜ママ〜と大泣きで刹那かったですお通夜ではお義母様(みいちゃんと同じ年)は、とてもしっかりしていらして自分と重ねてしまいみいちゃんのほうが泣けてきてしまいました
白田さんのファンの方々やお付き合いのあった方で葬儀に参列できなかった方も大勢いらっしゃると思います。このブログを読んで頂けるかどうかはわかりませんが、そういう方のためにも書かせて頂きます。7月29日未明、脳出血のため亡くなられた白田“RUDEE”一秀さんのお通夜に参列させて頂きました。通夜式には僕が中学や高校の頃に雑誌等で拝見していたHR、HM界の大先輩方、錚々たる大勢の音楽関係者、白田さんのご友人が来られていました。式が一段落し、人が少なくなった時を見計らい写真を撮らせて頂きました。5
粗供養も100個お願いしていたが、担当者の方が追加しておいてくださった。結局100人を超える参列者の数になった。私たち家族は大会場に変更した事への安堵と同時にあまりの参列者の多さに驚いた。「あの子、幸せ者よなぁ・・・こんなに多くの方に見送られて・・・」自分を0歳児から育ててくださった皆さんから始まり、最後に勤めた病院の職員の方々。そして、バイク仲間。私達家族が会ったこともない方々もいっぱい来てくださった。娘のTwit
父が急逝。享年92歳。解離性大動脈瘤破裂(大動脈解離)。朝、倒れて、病院に救急搬送され集中治療室へ。これ以上治療の効果は期待できないとの救命医の診断で、延命治療中止とした。これまで脳梗塞などで何回か倒れたが、初期段階で治療したため、障害も残らずに命拾いをしてきたが、92歳という年齢から、次に倒れたらもう無理だろうという予感はあった。なので、母親(90歳)から倒れたという連絡を受けた時には、覚悟を決めていた。死亡以後の流れを以下にまとめておく。1日目(当日)死
交通事故で亡くなった夫は別の病院で司法解剖されることになり、遺体が戻ってくるのは翌日夜との事だった。亡くなったのは日曜日の未明。遺体が自宅に戻るのが月曜日夜。木曜日は友引。友引にお葬式は出来ないので火曜日お通夜→水曜日告別式または木曜日お通夜→金曜日告別式の選択肢。こんなコロナ渦で、人が密集しないよう通夜、葬儀は家族葬で、ということになり、別日で一般弔問を行うことに。結果、水曜日一般弔問木曜日親族のみで通夜金曜日親族のみで告別式という流れになった。なので、ゆっ
(一部、過去の投稿と被る箇所があります)義両親と私がリビングで睨み合いをしている時に、玄関のチャイムが鳴りました。エントランスからだったので、家の中からインターホンで解除しないと入ってこられません。義父がはしゃいだ声で「この操作がわからないんだよー。どうやればいい?」と聞いてきました。子に目配せをし開けてもらいました。子は義父に開け方を教えず、自分で開錠しました。葬儀社の方達でした。担当は女性でした。黒スーツではなく、暗い色のセーターにデニムでした。後ろにいる二人の男性も同
生きてるようにしか見えないけど、やっぱり母は亡くなってるんですよね。仕方ない。動かねば。主治医は居なくて当直医からの説明受ける。看護師さんに、まずは互助会とかに入ってるなら連絡を、と言われ、葬儀会社の会員になってる旨を伝える。まずはそこに連絡し、遺体を引き取りに来てもらい、実家は機能してないので直接葬儀場に運んでもらうことに。さて困った。葬儀会社の電話番号なんて覚えてねーし。いったん実家に帰って連絡先調べて痛い引き取りの時間までに戻ってくる旨を看護師さんに伝える。外
父が他界したのはちょうど1週間前だ。病院から呼び出しがあり、弟家族と車で向かった。臨終には間に合わず到着時すでに心臓は止まっていた。それからー怒涛のごとく物事は進んだ。葬儀会社の手配から打合せ、親類縁者への連絡、喪主としての通夜・葬儀のとり行い。その間仕事の手も休めず、週後半は出勤して複数の最終面接をこなした。気丈なふるまいを続け、正直さすがに疲れた、、起き抜けの体は鉛のように重い。休む間もなく、合間に区役所への連絡、手続き相談、訪問アポ、年金事務所への連絡
昨日ムスコン姑を〆たばかりですがまた思い出したことがあります。お暇な方はお付き合いください。私のフォーマルはムスコンと一緒に買いに行きました。舅の先がもう長くないと悟った姑が買いに行こうと言い出したんです。でもこの時のムスコンは「お父さんはあと半年は大丈夫なのよ」と言っていました。実際はそこから一か月半で亡くなりましたが。この時はもちろんハイエナも一緒でした。ムスコンはまずハイエナを連れて紳士服の店に行くように私に命じました。それでムスコンがこれがい
主人の父の告別式時、私達夫婦も亡くなった時の為に備えておかないとと感じ冠婚葬祭を取り仕切る会社の互助会に入っていたのでその会社に主人の通夜、告別式をお世話になる事になりました。互助会に入っていたが互助会費を3年しかまだ払いこんでいないのに利用する日が来るとは…早すぎるよ。主人が安置されている部屋で私と息子夫婦、娘は葬儀会社の人が出してくる大量の書類の説明を受けながら次から次へとすぐに決めなければいけないことが山のように押し寄せてくる。決めなければいけないのは解ってるでも気持ちが追いついて
隣の県からお坊さんが到着しました。「喪主の方ですね?」と聞かれたので「いえ、喪主は義父です」とそちらに手を向けると、義父が「いえ、喪主は嫁です」と言いました。いやいやいや、葬儀一切取り仕切ってるのはあなたでしょ。私は関係ないわ!と義父を睨みつけていると、葬儀社の担当さんが「まあまあ、施主はお父様で、喪主は奥さまということで」と取りなされ、なんとなくその場は収まりました。戸惑う御坊さんに、担当さんが小声で説明していました。通夜が始まりました。実家とは宗派が全く違うので、
おはようございます先日、私の祖父が亡くなりました。骨折で入院中の時でしたが、危篤の連絡があってわずか15分で息を引き取ったとの事。あっという間の最期に、近くに住む親戚達は急いで向かったものの、誰も間に合わなかったようです。残念だなぁ…という気持ちと、間に合ってしまうと頑張ってまた辛いかもなという気持ちです。というのも、祖父自身が「頑張るのがもうきつい」と言い続けていたのできつい時間を長くするよりは、これで良かったのかな?と思います。そんな私は大のじじっ子。90過ぎなので、もうそろそ
法事でした。お通夜とご葬儀でした。遺族席には、故人のお孫さんの姿もありました。妻の従姉妹のお子さんです。わたしも一昨年、義父が亡くなりあの遺族席に座っていました。わたしは喪主ではありませんでしだがそのたいへんさはよく理解できます。心労のうえに、慣れない通夜〜葬儀。葬儀〜お寺での初七日法要。その後の精進落としの食事会。お寺へ向かう際のこと。そのお孫さんが、大きなダンボールの箱📦を手に抱えて車まで運んでいらっしゃいます。見るからに重そう。とっさに、駆け寄ると飲
工藤勝美、10月14日胸部大動脈解離の為、55歳にて急逝致しました。生前のご厚誼を深謝し、謹んで深謝申し上げます。生前の故人の希望並びに遺族の意向として、葬儀はホールを使わず、自宅葬とし、小規模の屋内祭壇にて執り行います。住所・千葉県流山市東深井125-3坂巻方別棟1F通夜枕経23日17時開式本葬24日13時開式火葬同日15時より於柏ウイングホール上記日程となります。祭壇部屋が手狭なこと、日程に一週間の猶予があることから、弔問をご希望の方は、可能であれば通夜・