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【京都】『御所八幡宮』では神幸祭が毎年9月15日前後に行われ神輿渡御のお神輿が御池通りや周囲の町内を巡行します。普段は社務所は開いていませんがランチに行く途中、通りかかると神幸祭の準備中で御朱印をいただく事が出来ました。【御所八幡宮社御朱印】【御祭神】応神天皇神功皇后比売神御所八幡宮はもともと御池堀町西南角の御所八幡町
ライバル剥き出しの両県人このタイトルを見て、「あ~あの話か」と思われた年輩の方は多いでしょう。「お互いにライバル意識を剥き出しにする」と言う話で・・・別の言い方をすれば「仲が悪い」とも言えるし、逆に「良き競争相手」とも言える。先に申し上げておきますが、これは当時(昭和)に「そう言えば、そんな話があったな」と言う一時期の状況であり、現在(令和)の若い人は「そんな話は知らない」と言う人がほとんどだと思う。福岡の生まれ育ちの僕が、このことを意識したのは会社人生の中半だった。支店の
「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結した」という捉え方は、あまり実情を反映していないからです。つまり、北朝の天皇は、戦ってもいないし勝ってもいません、実際のところを見れば。足利尊氏や後醍醐天皇のせいで天皇家が二つに分かれちゃった訳では、ありません。天皇家は、尊氏よりずっと以前、鎌倉時代のうちから、「持明院統」と「大覚寺統」の二つに割れて、交互に天皇を出しながら反目していたんです
後醍醐天皇が吉野へ逃れて南朝を興す前に神器を返還したものの、その三種の神器は虚器、つまりニセモノだと南朝側が主張することになります。南朝の忠臣北畠親房はその著『神皇正統記』で「三種の神器」は天皇の正当性を示すものだとして、このため、南朝こそが正しく皇統を引き継いでいると主張しました。こうしたことから宮内庁の「天皇系図」も後醍醐天皇の次に「第97代後村上天皇→第98代長慶天皇→第99代後亀山天皇」と南朝の皇統を歴代天皇としてカウントしています。さらに正平四年(1349)、
舟木入道(ふなきにゅうどう、生没年不詳)は、南北朝時代の美濃国(現在の岐阜県)の武将。美濃源氏の有力一族である土岐氏の庶流・**舟木氏(船木氏)**の一族。正平5年/観応元年(1350年)に勃発した土岐一族の反乱において、反守護側の主要人物として史料に名を残す。概要清和源氏摂津源氏の流れを汲む美濃守護・土岐氏の分流である「舟木(船木)氏」の出身。名(諱)は不詳であり、頭髪を剃って出家した後の姿である「入道」の尊称で史料に記録されている。足利幕府内での内部抗争(観応の擾乱)の前夜にあたる13
そして、この『立(りっ)正(しょう)安国(あんこく)論(ろん)』に仰(おお)せの原(げん)理(り)は、ただ御(ご)在(ざい)世(せ)にその現(げん)証(しょう)を私達は拝見(はいけん)するだけではない。日蓮(にちれん)大(だい)聖(しょう)人(にん)の仏法(ぶっぽう)を立てない以上は、広宣(こうせん)流布(るふ)までの間は自(じ)界叛(かいほん)逆(ぎゃく)・他(た)国(こく)侵逼(しんぴつ)の難という事は年ごと、日ごとにこれが増大(ぞうだい)をしていくのですね。ですから、日(に)本(ほん