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さてさて………………【等持院(とうじいん)】京都府京都市北区等持院北町63【清漣亭(せいれんてい)】足利義政好みの茶室江戸時代初期に再建されたが、元は康正3年(1457年)に足利義政が建てたもの。【方丈と庭園】芙蓉池を中心とする庭園は、夢窓国師作とも伝えられている。この池は蓮の花を模っており、周囲には花木をあしらい草木を配して、石組も変化に富んでいる。【足利尊氏之墓所】【方丈】北の中央に足利尊氏の墓である宝筺印塔がある【足利尊氏】鎌倉幕府末期から室町時代(南北朝時代)前期
脳天大神龍王院からの階段を、月美結貴さんと共に上がって、蔵王堂までたどり着いた時には、二人ともすっかり息が上がってしまい、ゼイゼイしていました。大峯千日回峰行の阿闍梨(あじゃり)になるには、まだまだ程遠いようです。いや、絶対になれないから(笑)これから向かう予定の吉野神宮は、ここからかなり離れた所にあるのですが、バスは土日だけで、平日は通っていません。月美さんがタクシー会社に電話して調べてくれたのですが、どのタクシーも満席で出払っていて、送迎をするの
さてさて………………【龍安寺】を出発したココロは、次なる目的地へと到着した…………………はいその目的地も、前回は入口までは来たけれど時間切れで参拝は出来なかった場所だ。その時は、京都検定の過去問にも何度か出題されていた牧野省三の銅像を覚えるという目的は達成した。『京勉会金閣寺に行こう⑩〜マキノ省三先生像〜』さてさて……………【きぬかけの路】を歩き、【龍安寺】エリアからココロが目指した次の目的地は………………【等持院(とうじいん)】京都府京都市北区等持院町63臨済…ameblo.jp
2024年4月27日は曇り時々雨という天気の中、あしかがフラワーパークと足利市観光に行くことにし、出発時は雨が少し降る中、バスと地下鉄とJRに乗って移動しました。地下鉄から降りた後、あしかがフラワーパークまでは臨時特急に乗って移動したいと思いましたが、指定席が満席だったので普通列車に乗り、小山駅で両毛線に乗り換えて、12時前にあしかがフラワーパークに到着。あしかがフラワーパーク到着後に、とりあえずお土産を必要最低限購入してから入場しました。あしかがフラワーパークは藤の花等の花々が沢山咲いて
足利尊氏は後醍醐天皇を尊敬していた!それは、足利尊氏の名前に!当初、足利高氏だったが、後醍醐天皇の名前の一部をもらって、足利尊氏に!後醍醐天皇の名前、今回初めて知りました。勉強になります。↓押してくれたら嬉しいです↓にほんブログ村
男子三日会わざれば刮目して見よ!という言葉がありますね努力している人は、三日会わずにいるだけで見違えるほど成長するものであって、次に会うときは心して相対しなければなりませんよ。・・・という意味ですねこの20代の頃の私、ヴェルニー綾瀬も時を経て・・・このように最新型に成長を成し遂げたわけです(ウソ)心して私を見て下さい(笑)
今回は大楠公・楠木正成の「凄み」が十二分に発揮された回でした。思えば、楠木正成と言えば戦前の皇国史観で散々にその本質を歪められた一面がありました。「忠臣」という側面ばかりが強調され、その戦術家としての見事な軍略の天才ぶりが伝わらない。今回はフィクションも交えながら、その軍神の凄まじさ、そして新たな一面に着目した彼の凄みが十二分に発揮されています。やはりこれは南北朝のラスボス足利尊氏を倒せるのは大楠公のみという当時の人の考えを体現しているのでしょう。実際、本作を見たら、「彼なら倒せる!」と思
2024/4/13土曜日この日は中学3年生になったとんちゃんのハンドボール部の春の大会最上級生になり、新チームでの初の大会です場所は大和市の中学校会場へ行く前に近くの市役所を見学です大和市に縁のある著名人の手形が多数この人↓だけは知っていましたこの地は足利尊氏の弟、直義(ただよし)の所領だったそうです。さて、会場の大和中学校県内各地から各校の男女ハンドボールが集結しているので大層賑やかなグラウンドでした↓どこの校庭
みなさん、おはようございます!こんにちは、こんばんは♪今回の投稿も前回に引き続き、栃木県足利市に鎮座する国の史跡「鑁阿寺(ばんなじ)」をみなさんにご紹介したいと思います📓🖋️✳️蛭子(ひるこ)堂✳️(市重要文化財)「時姫堂」とも称します!足利義兼の妻「北条時子(源頼朝の妻北条政子の妹)」を祀り、時子の法名から「智願寺殿」ともいいます。✳️校舎✳️(市重要文化財)「宝庫」・「大黒堂」とも呼ばれます!建築様式は「校倉」で、元来、当山の宝物を収蔵した場所です。✳️分福観音✳️①
東寺には、国宝や重要文化財指定のものだけでも約25,000点にのぼる寺宝がある。宝物館は昭和38年に完成し、昭和40年10月から一般公開が開始された。館内1・2階が展示スペースになっている。もちろん、展示品の館内写真撮影は禁止だが、春・秋の特別公開内容はH・Pにアップされている。2024春の特別公開のテーマは「南北朝時代の東寺–争乱と東寺興隆–」だ。南北朝時代の東寺は、天皇の御座所や足利氏の陣所として使われたことから、争乱の舞台となった。建物などが損傷を受け、争乱の後に修理が行わ
ご訪問ありがとうございます皆さん、いかがお過ごしですか?仕事に家事、育児、介護などなど忙しくされているのではないかなと思います。日頃から、食事などの栄養に睡眠、そして運動これらの生活習慣を工夫して、体調を整えてくださいとお伝えしてきました。このことはもちろん大切なのですが忙しすぎて疲れていたりすると気持ちがイライラしたり、カーッとなりやすかったり反対に、気持ちが落ち込んだりすることがありますよね。上手に気分転換
『逃げ若』は大河ドラマ『太平記』を意識していているように思えてならない。今回の大楠公と後醍醐帝とのやり取りがかつての『太平記』と構成がよく似ているのですね。後醍醐帝が持つ多くの人々を惹きつける魅力とそしてその長所を台無しにしてしまう欠点が露呈する『太平記』第3話で主人公である南北朝のラスボス足利尊氏が初めて一目見て一目惚れに近い形でゾッコンとなったように、後醍醐帝という帝王は多くの人々がその魅力で惹きつけるほどの稀代のカリスマ帝王でした。実際、多くの人が「この御方なら乱れ切った世の中を変えて
極楽征夷大将軍(文春e-book)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}第169回直木賞受賞作やる気なし使命感なし執着なしなぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか?動乱前夜、北条家の独裁政権が続いて、鎌倉府の信用は地に堕ちていた足利直義は、怠惰な兄・尊氏を常に励まし幕府の粛清から足利家を守ろうとするやがて後醍醐天皇から北条家討伐の勅命が下り一族を挙げて反旗を翻した一方足利家の重臣・高師直は倒幕後、朝廷の世が来たことに愕然と
長船城(瀬戸内市長船町長船)別名:兼光屋敷城の内の築地(つんじ)と呼ばれているこの地は、南北朝代、太刀を鍛えた褒美として足利尊氏から、当時の名工兼光が賜ったと伝えられています。一町(約100m)四方の壕をめぐらし、四方に櫓を建てた城に、代々刀鍛冶が居住し、鍛刀したといわれています。文明十五年(1483)福岡合戦のとき、松田勢によってこの城のほか周辺の民家までがすべて焼き払われたことが、『備前軍記』に記されています。永年にわたって作刀の地であったことから、この辺りの田畑からカナクソと呼ばれる鉄
大河ドラマでの弓道シーンが素敵と話題に794うぐいす平安京、藤原氏の摂関政治2024「光る君へ」400年後・・・1192つくろう鎌倉幕府、武士の台頭2022「鎌倉殿の13人」(「義経」の滝沢秀明さんの弓シーンを探しましたが見つからず)150年後・・・1338(いざ都入り)足利尊氏、北条氏による執権支配の終焉1991「太平記」↑北畠顕家↓足利尊氏平安は顔が薄い
・通読二回目。・先月に『観応の擾乱』の再読(通読二回目)、先週『南朝の真実』を再読(通読三回目)していたので本書を深く理解できたと思う。日本中世史は面白い。・高師直は無血秩序回復(クーデタ)の成功例を作ってくれたのだな。・亀田氏の『高一族と南北朝内乱室町幕府草創の立役者』(戎光祥出版中世武士選書)に興味を持つ。・佐藤進一の『南北朝の動乱』を読んだ方が良いだろうか。
・『南朝の真実』を買った書店で購入する。・鎌倉時代末期~建武政権~室町時代初期についてもっと知りたいと思い読む。・亀田氏の師直への敬意に満ちた文章が良い。・機会があれば真如寺や彦部家住宅を訪れてみたい。執事施行状。これこそが、政治家としての高師直の最大の発明であった。そしてすでに述べたように、これを発給する権限を独占したことが、師直が幕閣内で強大な権勢を有した大きな理由であると考える。(中略)合戦に強い武将なら当時の室町幕府には、師直以外にもたくさん存在した。だが、彼らはそれだ
・『高師直』を読む前に3回目の通読を終える。・佐藤進一の『南北朝の動乱』を読んでみたい。『日本の中世国家』よりこちらを先に読んだ方が良いか。・平泉澄の全集は編まれるべきだと思う。・「ヴィルトゥ(力量)」はどうすれば身に付くのだろう。・平泉澄ら南朝正統史観を是とする人々は南朝の称揚=皇室(北朝・持明院統)の否定と考えなかったのだろうか。
「青葉茂れる櫻井の」作詞:落合直史作曲:奥山朝恭(奥山は江戸旗本の子で明治初年海軍鼓笛隊から軍楽隊に入り音楽取調掛奉職兵庫県立師範学校教諭となり、在職中本曲を作曲した)歌はダークダックス楠木正成(大楠公)の絵本楠木正行(小楠公)皇居前楠木正成の銅像鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を開始し、朝廷政治の復権を図ったが、不満を抱いた足利尊氏が離反し戦となった。天皇方の武将・楠木正成はこれを迎え撃ったが、迫りくる10万の大軍に死を
4月13日その1出来事710年(和銅・わどう3年3月10日)-元明天皇が藤原京から平城京へ遷都。744年(天平・てんぴょう16年2月26日)-聖武天皇が恭仁京から難波京に遷都。翌年平城京に戻す。1336年(延元・えんげん元年/建武・けんむ3年3月2日)-南北朝時代:九州に落ち延びていた足利尊氏が再び挙兵。多々良浜の戦いで南朝方の菊池武敏(きくちたけとし)を破る。誕生日1559年(永禄・えいろく2年3月6日)-松平信康。戦国時代の武将。徳川家康の長男。忌日・亡くなった日1912年
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。留守から戻って参りました。実は旅に出ていました。奈良県の吉野山へ行ってきました。以前より、桜の時期に吉野山へ行ってみたかったので、今回思い切って訪れてみました。桜も見たかったのですが、もう一つ理由があります。それは第96代の天皇である後醍醐天皇が、この吉野の地で朝廷を樹立し南朝の初代天皇として、京都で北朝の天皇を擁立していた足利尊氏の室町幕府と相対したからです。後醍醐天皇は
dアニメストアで、期間限定で無料になっていたので、松井優征さんの『逃げ上手の若君』(ジャンプコミック)の第一巻をコミックの電子版で読みました。英語の長い本を読むのに疲れたので、気分転換のために読んだのですが、鎌倉北条氏滅亡の災厄の中を逃げることで生き延びた北条時行の物語の発端を描いた一冊でした。中先代の乱の発端となった死屍累々となった惨劇を描いたコミックを読むのが気分転換になったかは、怪しいのですが、歴史を扱った物語としては面白かったと思えました。後醍醐天皇と足利尊氏という二人の妖しい
極楽征夷大将軍(文春e-book)Amazon(アマゾン)史上最も無能な征夷大将軍やる気なし使命感なし執着なしなぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか?動乱前夜、北条家の独裁政権が続いて、鎌倉府の信用は地に堕ちていた。足利直義は、怠惰な兄・尊氏を常に励まし、幕府の粛清から足利家を守ろうとする。やがて天皇から北条家討伐の勅命が下り、一族を挙げて反旗を翻した。一方、足利家の重臣・高師直は倒幕後、朝廷の世が来たことに愕然とする。後醍醐天皇には、武士に政権を委ねるつもりなど
これが見納めかなと。。。行ってきました。1番好きな桜は。。。これです。小子坊の桜🌸灌頂院の前になりますもう一度しっかり見ます。桜よ、どうか来年も咲いてください。ありがとう😊大好きな桜🌸🌸皇族が通られる門大きな菊の御紋が素晴らしい👍足利尊氏が光厳天皇を奉じて都に入った。洛中の戦いが治るまで御所としていました。残念ながら不二桜は終わっていた。あちゃー😣また来年🥹🥹🥹明日は木曜日なので朝から合唱団の練習からの夕方はフォーレレクイエムの練習で大津市へ。多忙
【食育クイズ:Vol.1612】「京都府」の「足利尊氏」おさらいクイズ!崩御後に尊氏が冥福を祈る為に天龍寺を創建した天皇とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)たねすはら無
心が広いなと思う人は?➡足利尊氏公や平将門公。部下だけでなく民のことも考え続けていたから心が広いなと思う人です。私は足利尊氏を悪く描く松井優征と『逃げ上手の若君』が嫌い。足利尊氏を悪く描くくらいなら、心が狭く冷たく、人権や命を軽んじるロシアのプーチンやイスラエルのネタニヤフを非難するほうが世のため人の為です。私は『機動戦士ガンダムUC』の作者・福井晴敏や『機動戦士ガンダムサンダーボルト』の作者・太田垣康男も嫌いです。障がい者であるマリーダ達プル姉妹やアンジェロのような人々を人間扱い
・平山優氏の『天正壬午の乱』を買った書店で購入する。・吉川弘文館の本を購入するのは初めてである。・先月、亀田氏の『観応の擾乱』(中公新書)を再読して南北朝時代(室町時代前期)をもっと知りたいと考え手に取る。・南朝が北朝と同じ位内紛が多発していた事を知る。・足利尊氏は楠木正成同様傑物であり、真の忠臣だと思う。・戦前の日本人は、楠木氏からは、現実性と合理性、そしていい意味での狡猾さをこそ本当は学ぶべきだったと筆者は考えている。その真価を正しく学び、生かしていたならば、特攻のような無謀な戦
「養宜館」(やぎやかた)という居館、分類的には「平城」があったとされているところがありました。古来より淡路の中心として栄えていた地域らしく近くには国分寺や見つかってはいないらしいが、「国衙」とつく地名が残っていると書いてあるので地図上でみてみる確かにあったし、「国衙薬師堂」があったり、その所在地は兵庫県南あわじ市神代国衙となっているので未発見ながらもこのあたりだった?「倭文」という地名があり、「しとおり」と読むそうですが、「倭」という文字を使う地名というだけで少し
日曜日の午後、都内の桜を見たあと、横須賀線を利用して鎌倉に行って来ました北鎌倉駅から歩いて海蔵寺にお参り、そこから更に歩いてミュージアム裏の入口から境内に入りました。鎌倉文華館鶴岡ミュージアム季節展「春」鎌倉文華館鶴岡ミュージアム公式ホームページ鶴岡八幡宮・鎌倉文華館鶴岡ミュージアムtsurugaokamuseum.jp2年前は大河ドラマ館に4回入館しましたハクモクレン✨3月の終わりに見られて良かったー日曜日の午後3時30分ネットでは色々、揉め事の記事が飛び交っています
今回の出張プライベートタイムでは、久々に中国語原書も読みました。紙媒体の文庫本を皮切りに小説10冊+エッセイ1冊+原書1冊トータル12冊の本に触れました。気に入った順に番号をつけて、自分なりの感想を書いてみます。①『夜が明ける』西加奈子著素晴らしい作品でした。出だしは楽しくてユーモラスでワクワクして、中盤は本当につらくて、そのネガティヴさに読み進めるのがきつくなるほどでしたが、終盤で昇華を体感しました。そして、ラスト!感動しました。