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今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリですね。あんまり怖い話にはならないと思います。さて、新田義貞は、『太平記』に登場する武将の中で、楠木正成、足利尊氏と並ぶ3本の柱の一人ですが、他の2人に比べるとマイナーというか、歴史的評価もあまり高くないですよね。『太平記』は戦前、天皇に忠義をつらぬく物語として皇国史観に利用され、その反動から、戦後はあまり読まれなくなりました。中学校の古典教材に『平家物語』は出てきても、『太平記』が出てこないのは、『平家物語』のほうが文章が優れてるため
「楠木正成」(くすのきまさしげ)鎌倉時代から、南北朝時代の武将。元寇以降、鎌倉幕府は弱体化。国家運営が破綻していきます。このしわ寄せが民にきます。民の生活が厳しく悲惨になっていきました。これを見かねた後醍醐天皇は、諸国の武将や豪族に、倒幕を掲げます。そんな後醍醐天皇のもとに、義をもって駆けつけたのが、楠木正成でした。しかし、この計画は、事前に、幕府に発覚、後醍醐天皇は、島流しになりました。後醍醐天皇が島流しにあっても、楠木正成は、後醍醐天皇の本
先月、龍安寺のあとに20数年振りに等持院に行きました。足利将軍15人のうち13人の木像が納められているのは覚えていましたが、池泉回遊式の庭の記憶がすっかり飛んでいて、以前大学できて借景がだいなしになったという話を聞いたのを思い出しました。今回の目的は久し振りに将軍の木像を見ることでしたが、庭の素晴らしさに感動して帰ってきました。等持院(とうじいん)は、京都市北区等持院北町にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は萬年山。本尊は釈迦牟尼仏。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られています。等
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」5/尊氏対直義編~幕府政治の確立を遅らせた兄弟ゲンカ【再読】鎌倉は武家政権発祥の地で、坂東八十八国の要でもある。だからこそ、尊氏も鎌倉攻めには元服前の義詮を参加させ、陥落後は成人になる迄そこに留め置いて東国経営に当たらせたのである。しかし、いまや鎌倉すら直義派の上杉憲顕に押さえられている。尊氏がようやく直義撃滅を決意したのはこの時だった。武士の本場坂東を奪われては、幕府存立自体が危うくなる。尊氏が鎌倉へ出撃しようとした時、最も困ったのが南朝の存在であっ
極楽征夷大将軍Amazon(アマゾン)本の概要第169回直木三十五賞受賞作やる気なし使命感なし執着なしなぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか?動乱前夜、北条家の独裁政権が続いて、鎌倉府の信用は地に堕ちていた。足利直義は、怠惰な兄・尊氏を常に励まし、幕府の粛清から足利家を守ろうとする。やがて後醍醐天皇から北条家討伐の勅命が下り、一族を挙げて反旗を翻した。一方、足利家の重臣・高師直は倒幕後、朝廷の世が来たことに愕然とする。後醍醐天皇には、武士に政権を委ねるつもりなどなかったのだ
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」4/尊氏対直義編~幕府政治の確立を遅らせた兄弟ゲンカ【再読】文治派の直義の考えは「後醍醐天皇以前の日本は、朝廷を頭に置き、公家と武家がうまく協調して政治を行ってきた。特にこれがうまくいったのは鎌倉時代の得宗専制の時代だ。この時代に帰ることが政治の原点である」。そういう考え方からいけば、佐々木導誉や土岐頼遠が天皇家に無礼を働いたのは、許すべからずことだ。直義はこの二人を処罰した。婆裟羅者は当然不満である。直義の方にもいささか無理があった。天皇家を圧倒し武
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」3/尊氏対直義~幕府政治の確立を遅らせた兄弟ゲンカ【再読】後醍醐は、吉野の山中で無念の想いを抱いたまま死んだ。これで尊氏の勝利となり、戦争も争乱もこれで終わりになるはずだ。ところがそうはならなかった。1339年に後醍醐が死んでから、南北朝の対立が収束するのは53年後の1392年である。室町三代将軍足利義満の時代である。なぜこんなことになったのか。それがこの時代における最大の問題なのだ。もちろんその責任の一端は後醍醐にある。しかし責任の半分は勝者の尊氏に
今まで思ってきた足利と新田の関係は、太平記による、歴史史観であり、最近の歴史の考察はと言っても、ネットで調べた結果であるが。足利と新田の確執の本質は、足利尊氏の台頭(幕府を開く)を恐れた後醍醐天皇の尊氏と義貞の従属関係を巧みに利用した調略に他ならない。前編で書いた新田政義よりその後、足利一族と姻戚になり、足利一門の一つになってしまった。その証拠に政義以降、足利当主の一字、氏や義の文字の偏諱を受けていた、義貞の義は、早世した尊氏の兄、高義から受けたものである。一説として、尊氏の命をうけて関
井沢元彦「逆説の日本史7/中世王権編」2/尊氏対後醍醐編~戦乱を招いた天皇絶対国家の理想【再読】この時期、尊氏が打ち出したもう一つの政策が、武士たちの心をがっちりと掴んだ。それは「元弘没収地返付令」と呼ばれるものである。後醍醐が打ち出した政策「土地所有権について白紙に戻す。これからは綸旨を得た者が新たな所有権を持つ」。これが空前の混乱を招いた。これを「無かったこと」にして土地を旧所有者に返還することを、尊氏の名で保証したのだ。光厳天皇の院宣は、この宣言も天皇家が保証しているという観点で受け
井沢元彦「逆説の日本史7/中世王権編」1/尊氏対後醍醐編~戦乱を招いた天皇絶対国家の理想【再読】北条時行の軍勢は信濃から出撃した。公家の中では幕府と最も密接だった西園寺の当主公宗がこの反乱の首謀者であった。しかし、計画は事前に漏れ公宗らは逮捕され一斉蜂起は失敗した。しかし、それでも時行は兵を挙げた。足利尊氏にも弟がいた。直義という。この直義が、後醍醐の息子成良親王、そして尊氏の息子義詮を奉じて鎌倉に駐在していた。時行軍は鎌倉を目指した。鎌倉を奪回し、幕府復活の大号令を全国に伝える。直義らの
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」13/後醍醐天皇の新政編~権力と責任を分散させる伝統的システム【再読】足利尊氏は建武の新政の成立の大功労者であった。足利家は源氏本家が三代で滅んだ以降は、源氏の中で最も有力な名門であった。そのために北条氏は、一門の娘を尊氏に与え、いわば「同族会社の女婿」とした。尊氏は諸国に檄を飛ばし、呼びかけに応じて集まった軍勢を加え京へ進撃した。六波羅は陥落した。しかし、幕府の本拠地である鎌倉を攻撃し陥落せしめたのは尊氏ではない。後に宿命のライバルになる新田義貞だっ
・本郷氏は東大の史料編纂所の教授。よくテレビでお目にかかる。(奥さんの本郷恵子さんも日本中世史の研究者で、今は、史料編纂所の所長さんのはず。)本郷さん、普段は研究一筋だが、ある年(2022)に、教養部の学生に「日本史」を講義した時のノートを基に新書に仕立てたもの。それらの学生に、「暗記もので無い歴史」、「歴史を考える」知的訓練を提供してみようという試みで語られている。結構、面白い。・以下、目次から、おもしろそうな項目を拾って、ならべておこう。・*「あらためて問う、鎌倉幕府の成立は何年
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」12/後醍醐天皇の野望編~「河内の土豪」楠木正成を結び付けた朱子学思想【再読】鎌倉時代末期の日本は、東国を中心とした「自給自足農業経済圏」と、西国を中心とした「商業経済圏」が対立していたのである。御家人は、所領が細分化される→経営効率が落ちるが幕府への義務は果たさねばならない→借金をするが返せず土地を奪われる→無足人となる、この繰り返しであり、御家人は次々に窮乏化し、幕府は弱体化した。また、元寇の軍役負担もこれに拍車をかけた。幕府は「倒産」する運命にあ
2月の京都と言えば梅は今年はすごく遅いし、椿をGoogleるとヒットした等持院https://toujiin.jp/臨済宗天龍寺派等持院京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は萬年山。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。toujiin.jp京福電鉄北野線に乗ると一駅目なので、十分歩ける距離。出町柳から203のバスに乗り白梅から歩きました〜洛星中学校などがあり辺りは観光地っぽくないのが凄くいい外国人も全くいないしスーツケースのガラガラ
なまじ梅見の期待を抱いていましたので、「まだか…」の思いの募った山梨の清白寺。残念さのあまりうっかり書き忘れたことを補足しておきませんと、国宝の寺に失礼かと思いまして、少々続きを。撮りようによっては、咲いている然としたところを切り取れたりもする…と、そういうことはともかくも、境内の傍らに希少な種類の梅が植わっていることでも、清白寺は知られておるのだと。…仏殿の西側には夢窓疎石が自らの手で植えたと伝えられる、伝説の梅「西湖梅(せいこばい)」が現存しています。西湖梅は、当時の南宋の首都臨
歴史上で、日本三悪人と言われている人達がいます。誰だかわかりますか。道鏡平将門足利尊氏道鏡は、奈良時代の僧。孝謙天皇に仕え、寵愛を受けました。出世し、権力を手に入れ、皇位にまで就こうとしましたが、失敗しました。平将門は、平安時代の関東の豪族。関東諸国を巻き込み、東国の新皇を自称しましたが、朝敵となり、討伐されました。足利尊氏は、鎌倉時代、南北朝時代の武将。後醍醐天皇に逆らい、別の天皇を立てて、皇統を分裂させ、南北朝の動乱を発生させました。この三人
こんにちは。八椚でございます。仕事と株取り引きに忙殺される私。ブログ更新もままならず今さらながら2月のまとめです。330kmにあと一歩届かずでした。まぁ、28日しかないのに300kmいったから良し(๑•̀ㅂ•́)و✧とします。(自分に甘々。)大会は近隣の市である桐生市で開催された桐生堀マラソンのハーフ。1時間30分07秒!あと8秒くらいどうにかならなかったのか?と自分を叱責したくなりますが、それまでのベストが1時間32分だったことを考えると大健闘の口かと。😆前半は緩
こんばんは🌕大変お久しぶりでございます😇明日から3月、、なんやかんや日が経ちますね。今月初めにはキッズチアの発表会あり、子供達には悔し涙を流させてしまい・・強豪チーム複数と当たったのでとてもとてもな状況💦勝ちたい子とそうでない子の差があり、なかなかチームの力上げていくのは難しいなあ、、と、もうすぐクラスを担当して3年目になりますが壁に当たっております。基礎を徹底、今は毎回の練習でとにかく基礎力向上とストレッチの宿題を出しています!次の発表会までに成果が出れば良いですが!本日は上野
NHKのTV番組、歴史探偵で、足利尊氏、直義兄弟のことをやっていました。その続きです。足利尊氏はなぜ逆賊となってしまったのか。建武の新政で尊氏は京都で後醍醐天皇を支え、直義は鎌倉を任されました。しかし、ここで一大事が起こります。鎌倉幕府の執権の遺児、北条時行が突如攻めてきた。(中先代の乱ですね。)兄上に代わって鎌倉は私が守る!と時行の軍を迎え撃ったのが直義でした。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
皆様、こんにちはまたまたご無沙汰していて申し訳ありませんでした。皆様、お元気でお過ごしでしょうか。まだまだ朝晩は寒いですが、お昼ごろの時間帯になると、だいぶ日差しが暖かくなってきました寒暖の差が激しくなっていますので、どうかくれぐれもお体に気をつけてお過ごしくださいませ今日は、前回の続きで、『阿野廉子』について取り上げたいと思います。後醍醐天皇による、「建武の新政」が始まると、後醍醐天皇との間に3男2女をもうけた廉子は出世して、後醍醐天皇から「准三后」という皇后と同等の位を授
「三原城」から「鞆城」へ向かいます。鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地であった。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていたが、市街部に城は存在しなかった。なお、建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地であった。天正4年(1576年)には京都を追われた足利義昭が毛利氏の庇護の下、この鞆要害で亡命政権(いわゆる「鞆幕府」)を樹立した
塾長の書斎:「野望の憑依者(よりまし)(167)」をUPしました。https://fusanokuniinoujuku.vitaly.jp/book_blog/book167/#文庫#徳間文庫#伊東潤#歴史小説#時代小説#南北朝時代#高師直#足利尊氏#後醍醐天皇
NHKのTV番組、歴史探偵で、足利尊氏、直義兄弟のことをやっていました。その続きです。足利尊氏はなぜ逆賊となってしまったのか。幼い頃から鎌倉で一緒に育った2人の兄弟。足利尊氏、直義(↓)。直義は尊氏にとってかけがえのない存在だったと言います。直義が命を落とすようなことがあれば私ひとり生きていても意味がない。(梅松論で尊氏が言っている。)直義の人生は終始尊氏を立てるある種の黒子に徹している。兄がやらないような汚れ役を
2025.2.15(土)2023年12/28〜31明治座で上演されたるひまさんの毎年恒例ミュージカル。1日限りの無料配信にて観劇。これは31日の昼公演だったみたい。公演の内容は1部で、歴史を扱ったミュージカル活撃?を。2部で、ギリギリセーフな←ではない😅💦グループによるライブパート。毎度思うのだけど1部はほんと、演出的や台詞的にふざけてるとこ?もあるのだけど、内容は歴史スペクタルみたいな感じでもっと歴史を知ってると面白いんだろうなぁって思ったりも。今回は足利尊氏の、
日本三戒壇の一つ下野薬師寺で3/2瓊花園完成祝賀祈念墨絵パフォーマンス開催‼️@shimotsuke_yakushiji今回午前・午後2部に分けて開催します荒川颼墨絵グッズも販売✨3/210:30am下野薬師寺本堂内14:00pm下野薬師寺屋外六角堂前(一般公開)今回も一般の方、メディア関係、法人様とにかく色々な方々がご来席となる催しになります瓊花園(けいかえん)の方も是非ご覧ください今回も素晴らしく盛り上がる催しになります✨〜〜下野薬師寺とは〜〜
NHKのTV番組、歴史探偵で、足利尊氏、直義兄弟のことをやっていました。京都市の等持院。このお寺は足利家の菩提寺です。たくさんの像が並んでいます。こちらが室町幕府を開いた初代将軍の足利尊氏。足利尊氏の木像。(私も等持院に数回訪問したことがあります。歴代足利将軍の木像を見て感動を受けました。)御醍醐天皇に反旗を翻し、京から追放した足利尊氏。これで逆賊となった尊氏。この木像が江戸時代の終わ
かっこいいと思う苗字は?➡かっこいいと思う苗字は、私はスクウェア・エニックスの『フロントミッション3』が好きなので武村と、足利尊氏公が好きなので足利です。NOWAR!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
1月1日、嵐山にある「天龍寺」へ行きました。臨済宗天龍寺派の大本山のお寺です。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建したお寺です。室町時代には京都五山の第一位となっています。堂内参拝受付がある「庫裏」。大きな屋根と、白と黒のコントラストが特徴的です。庫裏の玄関正面に大きな「達磨図」の衝立があります。禅宗の開祖・達磨大師の姿を描いたものです。「大方丈」からの「曹源池庭園」の眺め。池泉回遊式庭園で、創建当初の姿を残しているそう
2013年11月26日今回は福井県を中心に仏塔と城跡巡りに出かけます。上野駅→越後湯沢駅→金沢駅→敦賀駅の順に電車を乗り継いできました。敦賀駅この時期はまだ北陸新幹線は開通していません。なので上野駅を7時20分くらいの特急トキに乗っても、特急はくたか、特急サンダーバードと乗り継いで敦賀駅には12時過ぎの到着となります。約5時間かかります。今では上野駅を8:17発の特急かがやきに乗ると、敦賀駅には11:29に到着できます。所要時間3時間12分です。所要時間が約2時間短縮されていま
自分は日本人だな~と思う瞬間は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようおはようございます。先祖は、足利尊氏家紋丸2です。母は番頭が2人もいる百姓です家紋は梅に剣みたいですがあるがなかなか見ないです。日本人には生粋、とそうでない人だけど日本人やさしいよね。では、バイバイにゃ~‼️