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今年のGWは美術館の連打と思っておりましたが、道路の空きっぷりに誘われて気がつけばほぼ連日バイクお出かけです。遠出だけでなくバイクで県内の美術館も2回行きました。GW明けに関西に行くのでお出かけしないでいいかなって思っていましたがやっぱり少しでも走るのは気持ちがいいですね。これは去年の・・・梅雨の合間ツーです。秩父の小ネタ拾いにきました。モーニングを珈琲館蔵。え!すごい素敵!本格的な庭園。お値段以上、とっても美味しく良い時間がすごせました秩父鉄道波久礼駅(
橋本遊郭街歩きの続きを書いていきます赤線時代が終わって旅館に転業された『石原楼』後に出てくる『辻よし楼』と共に全国女性街ガイドの中で橋本の大店として名を上げられた妓楼の一つ遊郭時代は、さぞや立派な造りの妓楼だったんじゃないでしょうか表が変わっても雰囲気残ってますもんねこのお宅の横に咲いてたモッコウバラを3年前に来た時に写真撮影させてもらっていて(過去ブログに写真残ってます)その最中に変な体験をしたんです突然男の人に「近隣住民の方ですか?」って声を
名古屋市港区港陽園産業戦士用慰安所新陽園を昭和19年11月頃南区豊田本町辺りに開業(推定)2週間で被災(東南海地震)後に南下し道徳へ大正の終わり頃から豊田道徳の三菱航空機の工員の娯楽場所とし市街地化がはしまり道徳に富士山を模造したコンクリートで作った山の造形ができその下にスケート場があり滝があり赤線を含む一大歓楽街ができあがり料理組合御浜連が結成されました。現在は痕跡を探すには時が経ち過ぎておりますが地図を見ると吉原や中村遊廓のような田の字の斜めから入るような地形になってい
松原稲荷通りは広島県三次市の歓楽街です。芸備線三次駅から北西に1.5キロメートルくらいのところにあります。赤い色をした巴橋の西詰のところにあります。三次市は広島県北部の主要都市で、馬洗川、西城川、江の川が合流するところにあり、船運の要になっていました。その後も芸備鉄道が開業し、後に福塩線、三江線が集まる鉄道交通の要にもなりました。しかし、その地形故、たびたび水害が発生し、昭和47年の大水害では江の川沿いの街とともに水没したそうです。サンパチ豪雪やたびたび起こる洪水をきっかけに、こ
「ゴールデンウイークどこか行きたいとこあるん?」「西成っ!」「は?」「え?ダメなん?」「いや、ダメとかじゃなくて・・・」GW前のダンナとの会話そんなわけで大阪入り~@動物園前パオーン大好きな新世界に背を向ける形で“動物園前一番街”を歩く動物園なんて可愛らしい単語が入ってるくせに子供要素は入口の鯉のぼりくらいにしか見当たらずふと横を見れば警察現地入りして、ものの二分で犯罪の香り・・・商店街なのに、お店は等感覚で呑み屋鴨川のカップル
****「はごろも」という、かわいい看板が目印の羽衣商店街は、西友とサミットがある広いメインストリートのほかは、寂れてひと気がなく、終わったような雰囲気が漂っていたメインストリートと直角に交わる裏道の商店街は、この薬局から先は、完全に住宅街に飲み込まれており、その先には南武線の踏切があるぐらいで、店などはなさそうだった住宅街の裏手には、なにかの工場があったが稼動しておらず、あたりは静まりかえっている裏道を
名古屋市北区は☀️昨日は城東園祭りが行われましたが残念ながら強風の為参加できずw北区のスタ〜が来るとゆう事でツイッタ〜やインスタでも騒がれたようですね!水神様ってなんだろ?オイラも名北小、若葉中出身!現在繋がっている人は1人もいません!wなんとなく思いましたが城東園って???この辺りの住所は北区杉栄町。少し離れた所に城東町はありますが適当なあなご調べによるとこの辺り昔赤線と言われた遊郭だったようです遊郭跡とマップにありますがとくに何
花の都の五条の橋で濡れて見たさにしもみればヨイトセゆれる島田に蝶が飛ぶサテチョイトよいよいどうどすえ五条楽園どうどすえどうどすえ(五条楽園音頭)♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢京の赤線五条楽園が一斉摘発されたのが2010年10月わたしが写真を撮る目的で初めて訪れたのはその年の夏頃だったのでまだ普通に赤線として営業していた頃ですこの頃、五條楽園では15軒ほどのお茶屋が残ってました唐破風屋根のある昔ながらの遊郭建築モザイクタイルやス
いつも「いいね」やコメントをありがとうございます!みなさんの旅のお役に立てたら嬉しいです。明日から鳥取、隠岐島あたりをフラフラします、お返事、ブログ巡りなど遅くなります。。貧しいのでGWで高騰する前に行く。金持ってないから6、7千円台のビジホで夕飯はAEONの割引飯だよ、料理の写真ほぼ無いでしょ?ランチをよくUPしてるのは朝昼兼用だからだよー、流石に腹減るわ。思いがけず私娼窟と鑑札まで見つけたお話。ぬる湯旅館の新館側に面している国288こんななんて事ない道なのですが、
初めて訪れた日からだいぶ月日が経ってしまいましたが京都府八幡市にある橋本遊郭跡へ行ってきました橋本は京阪の石清水八幡宮と枚方の間にある、無人の小さな駅ですが電車を降りた瞬間いきなり視界に入るこの建物のインパクトに圧倒されます駅から対岸に大山崎の見える淀川まではほんの100メートル程でその間に今も多くの妓楼跡が当時の面影のまま残されています淀川はちょうど桂川、宇治川、木津川の合流地点でもあるので川幅はだいぶ広く、今は京滋バイパスで簡単に渡れますが昔は渡し船で対岸へ渡っていたそう
栄橋の上から大谷川右側(京都方面)手前が第二高瀬楼跡その奥は過去地図に表記がないので屋号がわかりませんが窓の造りからして、ここも妓楼跡だと思います左手(大阪方面)橋を渡って階段を上がり、淀川堤防に出ました草が茂ってるので川の流れは見えませんが橋本は木津川、宇治川、桂川の合流地点ここから一気に川幅が広くなります対岸の大山崎あの山の向こうくらいに、花手水舎で有名な柳谷観音振り返って橋本遊郭側の風景淀川堤防と橋本遊郭の間を流れる大谷川は人工的に
あけましておめでとうございます。今年もこのテキトーな知識と欲望のブログをどうぞよろしくお願いいたします。有名な看板建築の「つるや」(お菓子屋)23年3月廃業しておりました・・・。なんか買いたかったなー。長いシャッター街の正面には最新のフェリーターミナルが突然現れる。調べたらかなりの航路は入っておりますが、周囲の商店街は完死です。なんかもうちょっとないかな?と、グーグルマップを開けます。ふむふむ(市役所もだが税務署の方が元私娼窟だったりを複数みた)(ハロワ周辺もある)
伊豆の夜いいねぇ、、、昔のお父様方は社員旅行とかで伊東行ってノリでこんなとこ入って盛り上がったりしてたのかな大人の貝酔欲情なんと読ませるか分かりますね?あっちの浴場🐚とかけてると分かるまで5秒位かかりましたよこちらは「大人の貝酔欲情ピンク座(ストリップ劇場)」で2015年頃に閉業しているそう。ただ2階はアパートとして現役でしたね。調べると、ここは伊東温泉の中でも猪戸(ししど)新地という赤線地帯だったんだそう。そこから少し歩いた先にあるアーケードも昭和
人のブログを見て回ると「え、ここ・・知らない」って場所が出る度に調べていけそうならマーカーして行き先リストにコピペして・・・ってブログ巡りにめっちゃ時間かかってます。返信など遅れてすみません、全部自分の欲望で遅くなっています。中国地方求ム。沼津には飲み屋や赤線街の「⚪︎⚪︎小路」がたくさん残っている。全部見てきました。静岡って地方都市のわりにソープがそこそこ残ってて「珍しいな」っていつも思います。沼津にあるのを知らず、朝10時頃なら無人の歓楽街の写真取れると思ったの
私の好きな映画の一つ『鬼龍院花子の生涯』は最初と最後のシーンに橋本遊郭がロケ地として使われています映画自体は1982年公開なので昭和56~7年に撮影されたものだと思いますが冒頭で昭和10年橋本遊郭と字幕が出ます売春防止法施行が昭和33年なので遊郭として思いっきり機能していた頃が時代背景です冒頭、松恵が淀川の堤防から遊郭に入ってくるシーンに出てくる橋と画面では見えませんが、石段と建物の間に大谷川という運河があり、橋がかけられていますラストシーンで花子が父鬼政に出したハ
今日からしばらくまた赤線ブログ書いていきます今回もかなり長くなりそうですコロナ渦中、アマゾンで赤線本を探してるとこんな本に出会いました竹栖譚洛南橋本遊郭写真・小説集肝心のメインタイトルの漢字が読めない・・・たけすたん?ちくせいたん?とにかく橋本遊郭の写真集なんて今までなかったし、即購入同じ京都の遊廓誌でも、橋本は京都市ではなく八幡市なので他の遊廓に比べて、歴史的資料が圧倒的に少ないんです届いた本のページを、興奮を抑えながらめくっていくと1989年
昔見た京都の赤線を舞台にした映画五番町夕霧楼元は三島由紀夫の『金閣寺』のアンサーとして書かれた水上勉の小説として有名ですが舞台になった五番町は昭和33年に売春防止法が施行されるまで実在した京都の遊郭の一つでした五番町は千本中立売の西陣千本商店街から南に複数の町にかけて広がる赤線地帯の総称です下級花街のイメージを払拭するために『北新地』戦後は『西陣新地』と名を改めようとしたようですが定着することなく今に至ります♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢五番
****怪しい飲み屋街があった錦町の赤線跡地は、羽衣町のものとは異なり、わずかにその面影が残っていたしかし、開発の勢いが著しい立川の町は、この赤線跡地の直前まで押し寄せており、ところどころに飲み屋が残ってはいるが、いずれ近いうちに、完全に痕跡がなくなってしまうことは、まず間違いないだろう小料理「たぬき」の奥に写っているのは、立川駅方向から押し寄せているビル群である前回記したとおり、どうせついでだから、立川
カフェーや赤線を探す目印「案内所」も地味ですね。。隣は取り壊されてるし。。元ファッションビルは熱海っぽくてかっこいい。この建物から左の路地は元赤線の通りです。添地町・・遊郭名は不明、沼津は赤青白線がひしめいておりました。銅と豆タイル。色鮮やかだった頃は緑と赤で綺麗だったでしょう。2Fの窓枠はスクラッチタイル、しかも分厚い〜瓦も綺麗な色でした、そこかしこ豪華です。窓は元はテントで目隠しされていたのね、真ん中の銅の棒が変わったデザインだわ。大型の関東のカフェ
橋本遊郭のメインストリート(目抜き通り)を多津美旅館方面に向かって歩きます3年前に歩いた時はまだあったガレージ横の建物が取り壊されてました2009年グーグルビュー(グーグルビューは現在、橋本では2009年まで記録が残ってます)橋本遊郭沿革史では、手前が化粧品店でその奥の小さい建物が飲食店フェンスの間から空き地を覗いてみたら謎に奥の一角だけ取り残されてた『和泉楼』跡その先、左が『三枡楼』跡にできたマッサージ店で右の空き地手前にあったのが竹栖譚で見
かつて、京都の千本中立売の交差点から南西に広がる一帯に五番町という赤線(色街)がありました独立した遊郭として認められ、多くの芸妓・娼妓が在籍していましたが最終的に芸妓は消え、娼妓のみになったことで昭和33年の売春防止法施行後に消滅してしまいましたその4年後の1962年、水上勉が小説『五番町夕霧楼』を発表私はこれが映画化されたものを見て五番町の存在を知ったわけですが私にとって赤線跡というのは姿が変わってしまってもずっと拭いきれない胸の痛みと、淋しさとノスタルジーがまとわりつ
****しばらく横浜の記事が続いたので、今回は東京に戻る、といっても最近激しくハマっていた東京のDEEPEASTではなく東京の西側、多摩地域である少し前に三鷹から吉祥寺まで歩く記事を上梓したそちら側は「コレ」といった目玉の物件がなかったが、今回は、目玉物件があるかつて三鷹駅の北口から歩いてすぐの場所にあった赤線……いや結局、住民運動によって赤線になる前に潰されてしまったので、正確には青線の跡地を見にゆこうというわけだ赤線とは
蒲郡には4箇所の温泉郷があります。三谷温泉と形原温泉にはそれぞれ風俗営業をするお店の組合があったようです。三谷温泉♨️は小高い山にあります。三谷歓楽荘は山に登る手前です。温泉街として栄えていた頃は山の上にプラネタリウムがありました。プラネタリウムの横からお隣の山へロープウェイ🚡もあったようです。それぞれの温泉地がお客さんを呼ぶための策略だったのでしょうか?2018年頃のブログには旅館として屋号がありました。現在は屋号も外されてひっそりしてます。ベンガラに丸窓とそのもの。
久しぶり気の向くまま彷徨ってきました。いやいや、いつも彷徨ってますけど。強風のため電車の遅延が半端なかったので無事に帰宅できるかな不安を抱き電車に乗りました。三河三谷駅みたにだとずっと思ってたらみやだった。駅から目的地までにもゆっくり見たかった光景防火建築帯国道沿いに建ち並ぶレトロなソレは何度も車で素通りをしてやっと歩いてみることができた。写真に収まるとよくある地方の商店街みたいだな。ちょっと違うのはこの建物の裏側が海なのです。しゃくり上げて撮る通路から覗く
今も唯一、宿場町だった橋本で旅館業を営んでおられる多津美旅館さんにお邪魔させてもらいました休憩3000円と書かれているので3000円払って内部写真を撮らせてもらうつもりだったのですがお金はいらないと言われましたここ多津美旅館は、遊郭時代ダンスホールだったそうです玄関扉を開けた瞬間「うわぁぁぁ・・・」って声出たすぐ右側の壁廊下を右に曲がると、客室がある二階へ続く階段があります残念ながら二階はお客さんが宿泊中だそうで、見せてもらえませんでした下から撮った建物全体の大きさから
御殿場新天地は静岡県御殿場市の歓楽街です。御殿場線御殿場駅の北西300メートルくらいのところにあります。駅から少し離れた場所にあり、商店街を通って大通りを渡って、真っ直ぐというわけではなく、少しだけ細道を通って歓楽街に到着という感じで、駅(表玄関)から見ると、奥まった、隔離されたような場所にあります。昭和5年発行の「全国遊廓案内」によると、御殿場には1軒だけ遊ぶ場所があったということですが、新天地の場所とは違うでしょう。ここは第二次世界大戦後に進駐軍(アメリカ)が御殿場に入ってきて、
橋本は、元は京街道の宿場町だったらしく(正式なものではなかったそうですが)宿泊客の多くは男山・石清水八幡宮の参拝者でした精進落としの遊里として数十件の妓楼があったそうですが明治5年に娼妓解放例が出されたことと更には明治10年に対岸に国鉄・東海道線が開通して繁栄を奪われたことで大打撃を受け、そこから一気に衰退していきますそこで再び街を復興させるために京都府の認可をもらい明治20年に正式な遊郭として登録されますこの時は娼妓9人、芸妓9人というたった18名でのスタートでしたが明治
明日のジョーのアニメが150話くらいあるんで、原作をぐぐったら20巻しかない!私はオリジナルアニメを見てるって事か〜世界観全然狂ってなくって普通に面白い。2になってからおやっさんの過保護っぷりにニヤニヤしています。ジョーを幼稚園児扱いしてる。夕方ドアを開けただけで「ジョー!こんな時間にどこいくんだぁ」「いちいちうっせーなぁ、ランニングだよ!」日常編でこれを毎回やる。これではジョー君はコンビニすら行けやしない、布団も並んで寝てる・・・おやっさん完全にママ化してる。わかるよ、ジ
この画像はアレですね、宇都宮市内の「遊郭」の廃墟ですね。昭和32年(1957年)に売春防止法が施行されるまでは、この地区一帯が「赤線」であって、そういう店が沢山あって、夜な夜な、ムラムラしたエロいオッサンたちがここに集まってきて、売春婦、すなわち、売女、バイタ、パンパン、パン助、糞ビッチとドスケベ行為💕してたんですよ、えぇ。パンパンのイメージ画像。で、そもそも、なんで、この地が赤線になったかというとですね…続く。
🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥🐥⑤房総往還を抜けて元青線地帯に入る船橋漁港の取材はとっとと切り上げ、前回の取材では軽く流してしまった住宅街にポツリと残ったソープランド方面に向かうことにしたあのとき住宅街のど真ん中なのにソープランドがあるという、相当に不自然なロケーションなのにも関わらず、先を急いでいたので、深く考えることなく、京成線の海神駅に向かってしまった今にして思うと、船橋に赤線や青線などがあったという知識はあったのに、な